インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

能楽と劇団四季

先日、夕飯を作りながらテレビをつけていたら、NHKで『サンドのお風呂いただきます』という番組をやっていました。お笑いコンビのサンドイッチマンが様々な家庭のお風呂を体験に行くというこの番組、今回は「特別編」ということで、あの劇団四季の舞台裏に潜入! という企画でした。

私がこの番組をちらちら(夕飯作りながらですからね)見ていて改めて思ったのは「ああ、劇団四季って、故・浅利慶太氏が作り上げた一種の新興宗教なんだな」ということでした。劇団四季のファンのみなさま、ごめんなさい。でも私は今日のような劇団四季の公演思想、あるいは理念とでもいうべきものを聞く限り、これは教祖としての浅利氏を崇拝する宗教としか思えませんでした。

番組でも紹介されていましたが、劇団四季では「作品主義」を取っており、作品が八割を占めると教えられているそうです。個々の役者が個性を発揮することは厳に禁じられており、もちろんアドリブなども御法度。厳しい競争の中を上り詰めた高い技術を持つ俳優たちによって、毎日毎公演寸分違わぬ舞台を実現することに命をかけているのです。

そういう公演のあり方もあってよいのでしょう。というか、これだけ広範な観衆の指示を得て、記録的なロングラン公演を次々に成功させているのですから、むしろ快挙として褒め称えられるべきものなのかもしれません。でもそもそもの話、果たしてこれは演劇なのでしょうか。いやまあ演劇であることは確かですが、継続的に利益を出し続ける一種のビジネスモデルとでもいったほうが実態に即しています。そして個人的に、このビジネスモデルは「信じるものは救われる」という新興宗教に近いのではないかと思ってしまったのです。


https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_75.html

芸術は魂を救うものですから、このビジネスモデルで圧倒的多数の人々が救われている限り、私がとやかく言うことはないのかもしれません。実は私はかつて、何度か劇団四季の公演を観に行っていました。そしてそのたびに「これははたして演劇なのだろうか、芸術なのだろうか」という思いがどんどん高まってきて、ついに観るのをやめてしまいました。公演によっては浅利慶太氏の言葉が白い大きな紙にまるで「お筆先」のように恭しく書かれて配られるのにも一種の違和感を覚えていました(いまはもうそんなことはされていないのかな)。

また、一番高いS席であっても舞台の一部が見えないことがあり、それを当然のことのように観客に告げていることも疑問でした。作品主義が嵩じるあまり、俳優はもちろん、観客にまでプレッシャーをかけるのは、どこか奇妙なものを感じます。でもそれも宗教であれば違う解釈が可能です。これは自らに課された試練と考えればよいのですから。

かつて私が新興宗教の価値観に染まっていた頃、それでも教団や信者の理不尽さを感じることがあり、疑問を呈したことがありました。そんなときに決まって言われたのは「周りを見ず、教祖と自らをまっすぐに結びつけなさい」というようなことでした。教祖に絶対的に帰依していれば、身辺的な理不尽などどうでもよくなるのだと。一心に信じていればすべての矛盾は消えて安楽が訪れるのだと。

作品主義と称して俳優の個性を完全に消し、たったひとつの純粋なる正解を舞台上に再現することに並々ならぬ努力を重ねる劇団四季は、まさにそういう宗教団体とそっくりだなと思いました。もしくはディズニーランドのアトラクションみたいなものかな。毎回毎回、寸分違わずまったく同じ。だけど圧倒的多数の方々が感動されている……(あ、劇団四季のレパートリーにはディズニーものが多いんでしたね)。

qianchong.hatenablog.com

でも……。

考えてみれば私が好きな能楽だって、作品主義といえばこれ以上の作品主義はありません。伝統芸能は、はるか昔から延々と継承されてきた作品をそのまま次の世代に伝え続けていくことに価値を置いています。能楽における演技も、すべては「型」によって継承され、型から外れた演技や、ましてやアドリブなどは基本的にあり得ません。歌舞伎などでは時に時事を盛り込んだアドリブみたいな演出もありますが、能楽では皆無です。

能楽は舞も謡も囃子もすべて決められたことを決められたとおりに舞台上で再現しています。もちろん流儀によって違いはありますけれども。劇団四季をそこまで「disる」のならば、じゃあお前の好きな能楽はどうなんだと問われそうです。だいたい能楽そのものがもともと神様に奉納されるという宗教行事的な色彩を持っているものですし、宗教というなら劇団四季以上に宗教的じゃないかと。

でも私は能楽劇団四季には明らかに異なっている部分があると思っています。ひとつだけ確かなことは、能楽には型があるけれど、その型を演じる能楽師によって毎回まったく違う様相が舞台に現れるということです。型があるのに千変万化する。そこに能楽の底知れない魅力があるのです。

以前このブログに書きましたが、ピーター・ブルック氏の『なにもない空間』には「退廃演劇」という項があって、そこにこんな記述があります。

わたしはまえにコメディ・フランセーズ一座の稽古を見たことがある。とても若い俳優がとても年をとった俳優のまんまえに立って、まるで鏡に映った影よろしく台詞としぐさを真似ていた。これは、たとえば、日本の能の役者が父から子へ奥義を口伝してゆくあの偉大な伝統とはまったく別のもので、それとこれとを混同してはならない。能の場合は、口伝されるのは「意味」である――そして「意味」とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。だが演技の外面を真似ることは、固着したスタイルを受けつぐことにすぎない。そんなスタイルは他のなにものにも関係づけることはできないだろう。(文中の括弧は、原文では傍点)

何から何まで型で縛られているように見える能楽は実は、その演者がその時限りしか舞台上に現出し得ない(そしてまた、どれだけ手練れの能楽師であっても、ふたたびその達成を再現させることが必ずしも容易ではない)という、一回性・現場性・ライブ性をその最大の特徴とする演劇です。極めて似ているように見えて、劇団四季との違いは歴然としています。それを今回たまたま見たNHKの番組で再確認しました。

ここまで啖呵を切っちゃった以上、それをもっときちんと言語化することが私には求められるでしょう。引き続き考えたいと思っています。
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