雑誌『現代思想』9月号の巻頭に、情報学研究者のドミニク・チェン氏と能楽師の安田登氏による対談が掲載されていて、その中に興味深い一節がありました。
チェン 例えば『羽衣』の冒頭に「虚空に花降り、音楽聞え……」という一節があって、そこでcluster*1内に花びらを舞わせたり笙の音を響かせたりすることはもちろんできるのですが、それは『羽衣』という作品にとって、あるいはそれを体験する人間にとって良いことなのかというと、能の価値観とは対極にあるような気もする。表象されるとイメージが固定化されてそっちに引きずられてしまうというか、表現をリッチにすることによる逆転した貧しさというものがあるように思うんです。
安田 それは非常に面白い問題ですね。例えばARグラスを付けて鑑賞する「AR能」で『船弁慶』という能を上演するとき、義経たちが船出したところ海が急に荒れはじめて亡霊が現れる場面で本当に波を映したり風を吹かせたりしようとするのは違うだろうと。ARにせよVRにせよ、一番つまらないのは全員が同じものを見ることですよね。
そうなんですよね。演劇の舞台装置や舞台の設定としてはシンプル極まりない能がなぜおもしろいかと言えば、それは見る側それぞれが想像を羽ばたかせて舞台を感じることができるからだと私は思っています。
しかもそれは見る側に留まらず、演ずる側もおそらくそれぞれが最大限に想像力を羽ばたかせて舞台に「在る」からなのだろうと。能は伝統芸能であり、過去から寸分違わぬ形を踏襲していて何の変化も新陳代謝も行われないものだという誤解がありますが、そうではないのです。
以前にもブログに書いたことがありますが、何から何まで型で縛られているように見える能は実は、その演者がその時限りしか舞台上に現出し得ない(そしてまた、どれだけ手練れの能楽師であっても、ふたたびその達成を再現させることが必ずしも容易ではない)という、一回性・現場性・ライブ性をその最大の特徴とする演劇です。
そんな能であってみれば、個々人の想像が羽ばたくのを許さず、たった一通りのイメージを押しつける(しかもAR:拡張現実やVR:仮想現実といった高度な技術を使って否応なしに)というのは、確かに本末転倒もはなはだしいですよね。
私は現実世界に生きる身体だけでは体験し得ないものを与えてくれる可能性があるARやVRといった技術に興味はありますが(インターネットが自分と世界との界面ーーインターフェースを飛躍的に広げてくれたように)、現時点では言葉は悪いですがむしろ現実の「劣化版」に留まっていると思います。
この三年あまり、コロナ禍でオンライン授業やオンラインミーティングを続けてくるなかでも、この現実の空間における生身の身体どうしのインタラクションと、ネット空間における「劣化版インタラクション」との齟齬の大きさに、ほとんど精神を病みそうになった時期がありました。
能を未来につなげるために、能楽師のみなさんを始めさまざまな方が能の新しいありようを模索してさまざまな試みに挑戦されています。それは心から応援したいと思う一方で、「はたしてそれでいいんだろうか」という一抹の不安も感じてしまう。一介のシロウトが言うのも僭越至極ですが、そんなことを対談を読みながら考えました。
https://www.irasutoya.com/2016/03/ar.html
*1:スマートフォンやPC、VR機器など様々な環境からバーチャル空間に集って遊べるメタバースプラットフォーム。https://cluster.mu/