インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

無邪気な冷笑

ジムでベンチプレスの休憩をとっているときに、トレーナーさんと「五輪は延期ですかねえ」という話になりました。新型コロナウイルスによる感染症が、WHOも「パンデミック」だと認めざるを得ないほど広がっている昨今。それでも「開催一択」といい続けている組織委員会や政府やスポーツ関係者に日々あきれている私は思わず意気込み、「どう考えても無理でしょ。いっそのこと中止にすればいいんですよ」的な一刀両断を語ってしまいました。

でも本当は分からないんですよね。新型コロナウイルスの世界規模での蔓延がどういう動向になるか、そのとき五輪の関係者はどのように反応し、対応するのか。考えてみればあまりにも複雑な問題で、ステイクホルダーも多すぎますし(それがまた五輪をいびつなものにしているわけですが)私のような素人が軽々に判断を下せるものではありません。にもかかわらず私は、まるでそうすることが自らの聡明さを証明するとでも思っているかのように、物事を極めてシンプルな結論に落とし込んでしまうのです。

いつになくこうやって内省的になっているのは、ちょうどレベッカ・ソルニット氏の『それを、真の名で呼ぶならば』(翻訳は渡辺由佳里氏)を読んだところだったからです。米国でトランプ大統領が登場してからこのかた、「危機の時代」における米国の諸問題に切り込むエッセイの数々は、まるで日本のことを語っているのではないかと思えるほど。それだけトランプ氏と安倍氏が相似形ということなのかもしれません。

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それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力

なかでも一番心に響いたのは「無邪気な冷笑家たち」と題された一篇です。さまざまな問題に直面したとき、評論家や専門家だけでなく私たちひとりひとりも「非常に強い確信を持って、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する」とレベッカ・ソルニット氏は指摘します。そうしたマインドセットを氏は「無邪気な冷笑」と呼び、「その冷笑は、人が可能性を信じる感覚や、もしかすると責任感までも萎えさせてしまう」と言うのです。

これは鋭い指摘だと思います。上述したような私の一刀両断も、つまりは複雑な問題に関心を寄せることをやめ、未来の可能性に目を閉じてひとり「してやったり」「俺は言ってやったぜ」的な自己満足にひたるようなもの。Twitterなどでもよく見かける態度ですよね(それにうんざりして、最近は読まず、書き込みもしなくなってしまいました)。でもそれはレベッカ・ソルニット氏に言わせれば「無抵抗と敗北への道を開くこと」になります。

私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒との間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。そのかわりに、人は会話を戦争のように操作するようになり、その時に多くの人が手を伸ばすのが、妥協の余地のない確信という重砲だ。

レベッカ・ソルニット氏は「わたしたち自身にとっての希望とは、将来は予測不可能なものだとわきまえることであり、何が起こるのか実際に知ることはできなくても、わたしたちの手でそれを書くことができるかもしれないと信じることである」と言います。私たちの国が空気を読むことばかりに腐心して議論を好まず、選挙においても驚くほどの低投票率を示し続けるのは、こうした希望を持ち続ける姿勢に欠けているからなのかもしれません。そしてその姿勢を損なっているのは「無邪気な冷笑」なのだと思いました。

「マンスプレイニング」という言葉があります。「男性が、女性を見下すあるいは偉そうな感じで何かを解説すること」あるいは「相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮しようともせずに解説し出すこと」(Wikipedia)ですが、これはレベッカ・ソルニット氏のエッセイがきっかけになって生まれた言葉なのだそうです。私はこの言葉を知って、自分の中にも潜んでいる同様の心性に気づきました。言ってみれば、この言葉によってある種の差別意識が前景化されたわけですね。

この本の「まえがき」には「ものごとに真の名前をつけることは、どんな蛮行や腐敗があるのか――または、何が重要で可能であるのか――を、さらけ出すことである」と書かれています。「無邪気な冷笑」もまた、自分の中にある、ある種の心性を明らかにしてくれる言葉になりました。