インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

ポエムになじめない

通勤電車内の広告画面で、よくこの動画が流れています。プロサッカークラブ・FC東京のプロモーションビデオです。車内では音は流れず、字幕だけが出るのですが、この動画を見るたびに「ああ、この感覚が、私にはないんだなあ、なじめないなあ」と思って、なんだか寂しいような、腹立たたしいような、とても複雑な気持ちになります。

勝ち負けに本気になる、大人になって忘れてたこと。
離れていても、この思いはきっと届く。
ゴールのたびに大騒ぎできる。スポーツなんてやったことがなくても。
本名も年齢も職業も知らない。でも、仲間だって言える。
どんなときも、どこにいても、東京は寄り添ってくれる。
勝った日は、胸を張って帰る。
夢中で追いかける先に、夢がある。
泣くくらい好きなものって、他にない。
一緒に戦い抜いたから、この一体感を味わえる。
(*一部を抜粋しています)


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「寂しい」というのは、私にはこうやって他人と何の隔たりも感じずにスポーツに一喜一憂するという感覚が備わっておらず、ちょっと羨ましいような気持ちになるからです。「腹立たしい」というのは、こうしたスポーツ、とくに勝ち負けに対して無邪気に感情を発散させる、そしてそれを人と共有するのが尊いといった感動の押しつけみたいなものを感じて「そうじゃない人もいるんだけどな」と思うからです。

いえいえ、誰が何に感動してもいいんです。私だって優れたアスリートの努力に感服することはよくあって、だからこういう気持ちの表明はほとんど「いちゃもん」みたいなものだと思います。人の好みはそれぞれで、イヤなら見なきゃいいんです。

でも、どうしてもこの動画に引っかかってしまうのは、やはりこうしてやたら人心を鼓舞し、一体感や感動を、さらには勝ち負けまでをも強調するメンタリティが(いまふうに言えば同調圧力ですか)、私たちの国にはやたらに多いなと日頃から感じているからです。特にいま「ゴリ押し」されようとしている東京五輪にも、それはふんだんに表れているように思います。

「人類がコロナに打ち勝った証しに」もそうですし、「絆を取り戻す」や「逆境に耐え抜く力を」もそうです。ちょっと前には、「五輪ポエム」とまで揶揄された、JOCの「がんばれ!ニッポン!全員団結プロジェクト」ウェブサイト(現在は閉鎖中のようです)みたいなのもありましたね。

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先日の記者会見で、「何のために五輪を開催するのか」という記者からの質問に対して、丸川珠代五輪相は「スポーツの持つ力というものを信じて今までやってきた」、東京五輪組織委委員会の橋本聖子会長は「(一丸となってコロナ感染症を抑え込み、乗り越えて)東京大会が開催されることによって、次にしっかりとしたものをレガシーとして残していく」と答えています。いずれも過半数が中止か延期を主張している世論の背景にある不安には答えることなく、勇気や根性で何とかなる・するのだというメンタリティーーいや、悪い意味でのポエティカリティ(poeticality:詩性)ですかーーに溢れています。それが上掲の動画にも共通していると私は思うのです。


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人が感動するコンテンツには多種多様なものがあるのに、なぜひとりスポーツだけが別格の扱いを受けているのでしょうか。国民の命や健康よりも五輪優先という為政者たちの行動をみるにつけ、そして五輪だけは隔離や行動制限などの対策も、ワクチン接種も別枠で特例扱いになっているおかしな状況を見るにつけ、そんな思いを抑えられません。それで、電車内でもくだんの動画を見るたびに、なんとも言えない複雑な気持ちになるのです。この動画自体は五輪と直接関係はないんですから、FC東京のファンのみなさんには大変申し訳ないんですけれども。

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