インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

メダルをめぐる「気持ち悪さ」

名古屋市長の河村たかし氏を五輪選手が表敬訪問してメダル獲得の報告をしたところ、河村氏がメダルにかじりついたとして問題になっていました。

news.yahoo.co.jp

私自身は五輪に何の興味もありません。それどころか近代五輪はすでにその役割を終えたので廃止すべきだと考えていますし、現在のような利権と醜聞にまみれた五輪になぜアスリートが、そして市民の多くが熱狂し崇拝するのかもまったく理解できません。というわけで、五輪でメダルを獲得した選手が出身地の自治体の首長を表敬訪問するという出来事自体にもなかなか理解が進まないのですが、まあとりあえず人の持ち物にかじりつくというのがきわめて礼を失したはしたない行為だなというくらいは分かります。

アスリート自身が自分が獲得したメダルを噛むという「風習」はけっこう昔からあったような気がします。ネットで検索してみると、日本だけの風習ではなく、海外のアスリートもやっているそう。ちょっとその「お行儀の悪い」行為がマスコミで報道される際に「映える」ということなんでしょうか。

私の記憶ではノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏が記者会見で記者からメダルをかじるよう要望され「そういうことはできません」と断ったことがあったような……ということで、検索してみたら、ありました。あと、宮崎駿監督も何かの受賞の折に同じような要望を受けて断った会見があったような記憶があるのですが、こちらは検索しても見つかりませんでした。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_364.html

それにしても、なんでしょうか、この今回のメダル騒動につきまとう一種の気持ち悪さは。いえ、河村氏の行為が気持ち悪いというより(まあ気持ち悪いけど)、氏の行為に対する広範な層からの激烈な反応がより気持ち悪いです。五輪のメダルって、そんなにも至高の、かけがえのない価値を持つ物体なのかと。どこまでメダル至上主義に染まりきっているのかと。

今回、河村氏による椿事のあとに多くのアスリートが意見表明をしていたのには少々驚きました。こういう言い方は意地悪かもしれませんが、コロナ下で強行される矛盾だらけの東京五輪には一切意見を表明しないのに、ことメダルになるととても積極的に発言されるんですね。

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▲記事切り抜きは今朝の東京新聞より。

アスリートに限らず、私たちが現在の五輪のあり方をきちんと見つめ、本当にこれがその高らかに唱えられる理念に合致した存在であるのかどうかを吟味してみれば、答えは自ずから明らかだと思います。それでもなぜ多くの人々が、そしてとりわけアスリートがここまで五輪とそのメダルを崇拝しているのか……そう考えて、ふと「そうか、これは信仰みたいなものだからか」と思い至りました。

人々は、そしてアスリートは五輪という宗教を信仰していると考えると、傍目には不可解な行動や言動のあれこれが理解……はできないまでも、その人々にとってはそういうものなのかもしれないという一応の着地点を見いだすことができます。そう思ってオリンピック憲章を読むと、その高邁な文言の一つ一つが「教義」のように読めてきます。特に「オリンピズムの根本原則」など、これはもう「お筆先」みたいなものですよ。

私は親の影響で十代の多感な時期をとある新興宗教の価値観のなかで過ごしました。その頃に毎日音読していた「教義」の本があって、その内容は何十年もたった今でも折に触れて諳んじることができる(なにせ毎日音読ですから)くらいなのですが、その文体がオリンピック界隈の物言い(オリンピック憲章しかり、今次の東京五輪における数々の「ポエム」しかり)によく似ていると改めて気づきました。

qianchong.hatenablog.com

この宗教は常にお守りのような物(「おひかり」と呼んでいました)を肌身離さず首からかけていることを求めるのですが、その扱いにはきわめて慎重かつ丁寧な作法がありました。これがまた五輪のメダルに対する人々のあまりの崇拝っぷりにオーバーラップしました。

そういえばいま思い出したんですけど、この宗教のお守りは確かそれこそ五輪のメダルよろしく三段階に分かれていて、入信時には「光」と書かれた(教祖が書いたということになっている)紙が中に入っており(中身をあばくことは固く禁じられていました)、信仰の進み具合によってそれが「光明」、さらに「大光明」へとアップグレードするのだと聞かされていました。この宗教の価値観にどっぷりと浸っていた当時の私は、子供心に「いつかはその『大光明』を」と思っていたのです。

私は大学生の時に自力でこの宗教の洗脳から逃れることができました。アスリートのみなさんもぜひ、利権にまみれ、アスリートファーストですらなく、すでに存在意義を失った五輪のメダルなどに至高の価値を置かず、スポーツ本来の創造性とダイナミズムを発揮できる次のステージに移って行っていただきたいと思います。