インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

アスリートもそろそろ声を上げるべきではないか

「一体何を見せられているの?」というフレーズがありますね。直視するのがはばかられるような、こちらが恥ずかしくなってしまうような他人の行為(その多くは恋愛にまつわるもの)なんですけど、つい見ちゃう、というか見られてうれしいというニュアンスも含んだ「高等表現」(?)です。ドラマの感想などをリアルタイムでTwitterなどに書き込んでらっしゃる方がよく使っているような印象があります。

そういう「お楽しみ」なら他愛なくていいんですけど、昨今の東京五輪に関するあれこれには「一体何を見せられているの?」という怒りばかりが湧いてきます。例えば今日現在、緊急事態宣言や蔓延防止等充填措置(「まん延」なんて恥ずかしい表記はしません)がいくつかの都府県で発出される一方で聖火リレーなんてものが行われています。先日沖縄県で行われたそれは、無観客で、かつ周りを囲って見えなくした駐車場で、ほんの少しの距離を走るというものだったそう。何が「聖」火ですか。無意味の極みですよ。

mainichi.jp

それでも日本の大手メディア(全国紙や全国ネットのテレビなど)は、自らもスポンサーになっているため、この期に及んでも正面から五輪の批判を行っていません。スポンサーになっていない東京新聞は最近になって五輪に批判的な特集記事を連続で組んだりしていますが、それでも社説ではまだ旗幟鮮明にしていませんし、スポーツ欄などは無邪気なほどの五輪讃歌であふれています。

それに対して海外のメディアには、かなり辛辣かつ真っ当な「五輪中止論」が繰り返し出るようになりました。それを日本の大手メディアが「海外ではこんな批判が出ました〜」的に紹介するのがまた腹立たしい。ジャーナリズムのかけらもありません。ここまで大政翼賛会的な報道を続けてきてしまったという負の「レガシー」は、今後長期に渡って日本の大手メディアに重くのしかかる「原罪」(常に罪を背負っているような気持ちになる、という意味で)になると思いますよ。

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https://www.irasutoya.com/2017/02/blog-post_177.html

先日は、東スポWebがこんな記事をネットに載せていました。

news.yahoo.co.jp

記事の中でニュージーランドマイケル・ベイカー公衆衛生学教授は、「五輪はグローバルな一体感とフェアプレー精神によって祝福されることを目的としている。低所得国はパンデミックによって荒廃している。そこにフェアプレー精神はない」と述べています。その通りだと思います。

よく「選手がかわいそうだ」とか「アスリートは五輪のために何年も努力し続けきたんだ」とその精神を称える文脈で五輪をなんとしても開催へという主張が見られますが、私はアスリートをそういう努力の方向へむかわせることそのものが間違っていると思います。

そしてまたアスリート自身も、そろそろ「これではフェアではない」と声を上げるべきです。世界規模でパンデミックがまったく収まっていない今の段階で、ましてや日本国内でも圧倒的多数の国民がコロナ禍にあえいでいる中で、自らは五輪の晴れ舞台に立って世界中のアスリートと競い、メダルを獲ったとして、それで嬉しいのでしょうか。誇らしく感じられるのでしょうか。

大手紙のスポーツ欄を見ると、毎日のようになにかの競技の誰々選手が五輪代表に内定という記事が載っており、選手ご自身の喜びの声や決意表明みたいなものも添えられています。が、私は、厳しい言い方になりますが、そういう五輪に出場できるほどのトップアスリートであればこそ、現今の社会状況に鑑みた、責任のある発言と行動が求められると思います。ましてや少なからぬ私たちの税金が注ぎ込まれている国際大会であれば、なおさらのことです。

アスリートが最大のパフォーンスを発揮する要素としてよく「心・技・体」ということが言われますよね。私はその「心」には、現代に生きる一社会人として、あたう限りフラットで公正公平な社会感・世界観を持とうとすることが含まれていると思います。人々に影響力のあるトップアスリートであれば、なおさら。競技業界の同調圧力に屈せず、声を上げてほしいと願っています。