インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

五輪を弔う

森喜朗氏の女性蔑視発言に端を発する五輪組織委員会のゴタゴタが尾を引いています。思い起こせばこの五輪、その招致時から賄賂疑惑や「アンダーコントロール」の吹聴など数多くの問題があり、招致が決まってからも新国立競技場の建設、エンブレムの盗作疑惑、「炎天下のタダ働き」ボランティア、酷暑への対応によるマラソンの札幌移転、コロナ禍による延期や開会式の演出変更、そして今回の会長辞任と、常に問題が起こり続けてきました。

当初の「コンパクト五輪」という目標も、実際には税金を含めて3兆円(!)以上のお金が投入され、さらに今後も増え続けて行こうとしています。福島第一原発事故の収束も全く見通せない中での「復興五輪」というフレーズも噴飯ものですし、「人類がコロナに打ち勝った証として」も、いや、全然打ち勝ってないどころか、今夏までに「打ち勝つ」見込みも見えないですから。ここまで問題が噴出し、もはや異形のなにかに成り果ててしまった東京五輪に対して、スポーツ教育学者で元ラグビー日本代表平尾剛氏が、こんなツイートをされていました。

平尾氏は以前から「過剰な勝利至上主義がスポーツの創造性やアート性を損なってしまっている」と、五輪の問題を指摘してされていました。このツイートに続くスレッド全体をぜひお読みいただきたいと思います。私は平尾氏の主張に心から同意するものです。

qianchong.hatenablog.com

特にスレッドの最後で平尾氏は、「スポーツと五輪を切り離し、肥大化した五輪を適切に弔う」必要を訴えています。「五輪を弔う」。近代五輪はすでにその役割を終えたのにも関わらず、ずるずると商業主義で延命を図った結果、まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる肥大化したカオナシみたいな存在になってしまっています。

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スタジオジブリのフリー素材からお借りしました。

私はいま、近代五輪はすでにその役割を終えたと書きました。フランスのピエール・ド・クーベルタン氏が古代ギリシャの祭典を再興したスポーツ大会開催を提唱し、1896年にギリシャアテネで第1回大会が開催されてから120年あまり。商業化に舵を切ったといわれる1984年のロサンゼルス大会で決定的に変質してしまった五輪は、2004年のアテネ大会あたりで「一巡」ってことで、きっぱりやめておけばよかったと思います。平尾氏も指摘するように、すでに五輪は「『平和の祭典』という建前で一部の人達が私腹を肥やしてきた商業イベント」になり、アスリートにとっても観客にとっても、また開催国や開催都市の住民にとっても「興醒め」の存在になっています。

しかも、私はこれを最近知って自分の不明を恥じたのですが、クーベルタン氏の提唱に始まる近代五輪の「オリンピック憲章」にある根本原則、そこに謳われている「いかなる差別をも伴うことなく」という高らかな宣言とは裏腹に、そもそもそのクーベルタン氏自身が女性蔑視思想や優生思想の持ち主であったという事実(それが当時の上流階級の通念だったとはいえ)。今回の森喜朗氏の発言は、その意味では近代五輪が根本的に抱え続けていた問題の系譜にまっすぐ連なるものだったのかもしれません。

mainichi.jp

千と千尋の神隠し』で、油屋の従業員である青蛙を飲み込んだのを契機に、大量の料理を暴飲暴食して巨大化し、次々に従業員を飲み込んで膨れ上がっていったカオナシのような五輪。私たちはいま、カオナシが飲み込んだものをすべて吐き出させ、銭婆の所に送って弔ってあげなければいけません(私はあのシーンを「鎮魂」と読み解きました)。もはや金儲けが目的の人以外には何の意義も持たなくなった五輪を弔う。きちんと弔うことは大切です。そうしないと、今後も化けて出ますから。