インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

最後の読書

ここ数週間ほど、ひどく疲れていました。にわかに蒸し暑くなった気候のせいもあるのかもしれませんが、とにかく身体が疲弊していて「しんどい」のです。それでもジムには通っていますが、ふだんよりメニューがはかどりません。しかもお昼を回って夕刻にいたる時間には疲労もピークに達していて、ちょっと書棚から資料のファイルを取り出すだけでも「よっこいしょ」「ああ疲れる」と言葉が漏れ、同僚から「心の声がダダ漏れになってるよ」と指摘される始末。

そんな中、職場の図書館で借りた津野海太郎氏の『最後の読書』を読み始めたら、冒頭に鶴見俊輔氏の『もうろく帖』、そのあとがきが紹介されていました。

七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。

これをうけて津野氏はこう書いています。

このときのかれの正確な満年齢は六十九歳と八か月ーー。
私も体験があるのでわかるのだが、この年ごろになると、体力、記憶力、集中力など、心身のおとろえがおそるべきいきおいで進行し、それまであいまいに対していた老いの到来ーー鶴見さんのいうところの「自分のもうろく」ぶりに、いやおうなしに気づかざるをえなくなる。

いやはや。私はそれよりも一回り若いですけど、最初に書いたように、すでにしてその傾向、つまり「体力、記憶力、集中力など、心身のおとろえ」が見えています。いまですらそうなのだとしたら、その「おそるべきいきおいで進行」するような年齢になったら、いったいどうなっちゃうのかしら。


最後の読書

樋口恵子氏が『老〜い、どん!』で、健康寿命と平均寿命の間を「ヨタヘロ期」と名づけておられましたが、私はすでに「ヨタ」はともかく「ヘロ」の兆しは確実に見えています。ヨタヨタするほどではないけれど、すぐにヘロヘロになっちゃう。これはもう、ますます自分のやりたいことを、できるうちにやってしまわなければと思うのです。

『最後の読書』は、私より二周りも歳上の津野氏が、私よりはるかにリアルな老いの日常に、ときに抗い、ときにためらい、ときに斜に構えながら、本やその書き手について思いを綴った一冊です。収められた各章*1をかみしめるようにして読みましたが、特に私が心を動かされたのは、あとがきに書かれているこの一節。

年齢はどうあれ、ひとは、それまでにかれが生きた過去の体験の集積をまるごとひっかかえて本を読むし、読むしかない。

なるほど、だからこの本も、単なる読書日記や書籍のレビューにとどまらず、津野氏が生きてこられた時代時代、そしてその間に交流のあった人々の思い出などが輻輳して、こんなにも深い読後感を残すのですね。この本が私に深い読後感を味わわせたのもまさに、自分が生きてきた過去の体験の集積のなせる技なのでしょう。十年前、二十年前の自分にはおそらくそこまで響かなかったのではないかと。

そう考えると、これから先の読書もいくらかは楽しみであります。もう昔のような大部の文学作品や浩瀚な専門書を読む気力も体力も失われつつありますし、もとより老眼がどんどん進行して物理的にも読むのが大変になりつつありますけど、きっといまの自分だから読める、心に響く本もあるはず。

しかしなんですね、老いにまつわるこうしたお話は、若いうちから知っておけたらいろいろと準備や心構えもできてどんなによかっただろうかと思う一方で、やっぱり若いときにはそういう話が絶望的に理解できないものなんですね。そういうものなんですね。

*1:どうでもいい感想ですけど、「八十歳寸前の読書日記」という章に、デザイナーで装丁家平野甲賀が作った「コウガグロテスク」というフォントの話が出てきまして、そこで津野氏が漢字をわざわざ「簡体字でいうと汉字」と注釈されているのを読み、ああそうか……と妙に納得しました。この世代の方々には、簡体字に特別な思いを寄せてらっしゃる方が多いんですよね。左翼系の運動に関わって来られた方は特に。私より二回りほど上の世代の方に多いような。そういう時代もあったのです。