インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

渡辺京二さんのこと

けさの新聞に、在野の歴史家・渡辺京二氏の小さな訃報記事が載っていました。享年92歳。私はいま何気なく「在野の」と書きましたが、氏は熊本という場所で、その風土に深く根ざした視点から近代史を見つめ続けた方で、中央のアカデミズムとは一線を画しておられました。もちろん、ご本人はそんなカテゴライズを陳腐だと思われるでしょうし、アカデミズムとのつながりも当然ながらおありだったのでしょうけれど。

若い頃、熊本県水俣市に住んでいた私は、熊本市内の真宗寺というお寺で行われていた渡辺氏が主宰する読書会のようなものに何度か参加したことがあります。当時私が仕事をしていたのは水俣病に関するNPOのような団体で、そこの代表に「あんたも勉強してみたら」的な感じで連れて行ってもらったのです。

読書会では毎回課題図書が示され、それをそれぞれが自宅で読んだうえで、持ち回りで自分の感想や考えたことなどを発表し、その発表を踏まえて渡辺氏が講義を行う……たしかそんな形式だったと記憶しています。

あるとき私に発表の順番が回ってきて、いまとなってはもうどんな本だったのかも忘れてしまいましたが、それがまたえらく難解な内容の一冊でした。それでも必死で読み、必死で発表したところ、意外にも渡辺氏が「よく内容をつかんでいる」とかなんとか、ホメてくださったのでとても嬉しかったことを覚えています。

当時から渡辺氏は作家・石牟礼道子氏を公私にわたってサポートされていて、確か真宗寺の一角に石牟礼氏の作業場があり、そこも見せていただいたような記憶があります。若かった私はぼんやりと「渡辺氏と石牟礼氏はまるでご夫婦みたいだなあ」などとまったくもって下衆なことを考えたりしていました。上掲のものとは別の新聞の訃報記事には、渡辺氏は「『文学的同志』として、石牟礼さんの執筆を半世紀以上にわたって支えた」とありました。

そう、渡辺氏が石牟礼氏の『苦海浄土』に寄せた解説でも分かるとおり、渡辺氏は石牟礼氏の文学にその萌芽から最晩年まで寄り添い、石牟礼氏のおそらくご親族をも超えるほどの最も良き理解者でありつづけ、その作品群を世に問うための助力を最後まで続けられたのでした。

私は水俣での活動に5年間ほど関わりましたが、関わるうちに大きな疑問が自分の中に生まれ、結局自分で自分の背中を押すようにして水俣を去ることになったのは、渡辺氏の言葉に触れたからでした。氏は最初期の評論集『小さきものの死』に収められている「死民と日常」という文章で、こう述べています。

患者を背後に光輪を負った聖者に仕立て上げる心的趨性は、水俣を聖地と観じる傾向と同根であって、いずれも衰弱した知性と昂進したセンチメンタリズムの所産に他ならなかった。水俣石牟礼道子氏の作品によってうかがわれるように自然の精気ともいうべきものにあふれた美しい町であって、集積された都市機能が麻痺寸前の状態にあり、管理社会的様相が一種の極限に近づきつつある東京の住民の疲労感と疎外感が、そこにある桃源郷を夢想するのはたしかに根拠のないことではない。

私はこのくだりを読んだとき、まさに自分自身のことが書かれているのだと感じました。もちろんその発表時期から言えば、この文章は私が水俣にいたその時代よりもはるか以前の人々を念頭に書かれたものではあります。それでも私は自分もまた水俣に「桃源郷を夢想」して引き寄せられたひとりであり、「衰弱した知性と昂進したセンチメンタリズム」の系譜に連なるものであることを自覚させられたのでした。さらに渡辺氏はこう続けます。

しかし、水俣詣での知識人たちが「水俣よいとこ」風の私情を、たんに田園自然に対する趣味嗜好の問題として吐露するのならともかく、水俣を自分たちの病いに合わせて聖地のように賛美するのは、ほとほと滑稽なながめであった。のみならず、そのような水俣礼賛を、いまはやりの文明終末論的考察のはしきれや、聞きかじりのエコロジーや、ナロードニキ趣味の辺境論議で思想めかすような言辞を見聞きするたびに、私は心中、暗い嘲笑のごときものが突き上げてくるのを抑えることができなかった。

水俣病訴訟を巡って、石牟礼氏らとともに「水俣病を告発する会」を立ち上げ、患者運動を支援した渡辺氏はしかし、その風土に根ざさず、結局はいわゆる「自分探し」めいた極私的な目的で水俣水俣病事件を利用しようとする私のような存在を厳しく批判していたのでした。「水俣を自分たちの病いに合わせて聖地のように賛美する」のはよせ、と。

彼らは一度、生涯そこから脱出できない宿命を背負わされて、水俣の部落社会に叩き込まれてみたらよいのだ。その時、彼らは、なぜ部落の青年男女たちが、彼らには桃源郷と観じられる水俣を捨てて出郷するのかということを、はじめて理解するはずだ。たとえ彼ら水俣感傷旅行者が水俣に定住することになっても、その水俣定住は彼ら自身の生活によって規定された宿命ではけっしてありえないゆえに、彼らは依然として水俣への感傷的視座から脱出することはできはしないのである。

もちろん現在にいたるまで現地には、「彼ら自身の生活によって規定された宿命ではけっしてありえない」立場から水俣という場所に関わり、さまざまな模索を続けている方々がたくさんいます。ですからすべてをこの批判に収斂させて考えることはできないのですが、私は、少なくとも当時の私は、この批判に対抗できるだけの自分をまったく持ち合わせていませんでした。それを心底悟って私は水俣を離れました。それから数十年を経たいまの自分が「水俣への感傷的視座から脱出」できているかどうかは心もとないですが。

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それからも精力的に発表されていった渡辺氏の著作は折に触れて読んできました。いずれも深い読後感を残すものばかりでしたが、私にとってはあの最初期の評論集がいちばんインパクトがありました。あの頃に読めたことをいまでも感謝しています。告別式は真宗寺で行われるそうです。ほんとうは参列したいけれど、手元不如意でかないません。東京からご冥福をお祈りします。ありがとうございました。