新聞の訃報欄で、コラムニスト・小田嶋隆氏が亡くなったことを知りました。氏のご本はこれまでに数多く読んできましたし、日経ビジネスオンラインのコラムも毎回読んでいました。それにTwitterから「降りる」前は氏のツイートも毎日のように読みに行っていたので、少なからず驚きました。
近年、緊急入院されて、その後ずいぶん痩せた姿をTwitterに見せておられました。おそらく具合はあまりよろしくないのだろうなと思っていましたが、こんなに早く亡くなられるとは。でも、氏はその執筆スタイルからしても、ありきたりな追悼の言葉やありきたりの感傷的なものいいは好まれない、というかお嫌いでしょうから、私は私でひとつだけ氏の思い出を書きます。
私は何度か、小田嶋隆氏に直接お目にかかったことがあります。いや、お目にかかったというのは「盛りすぎ」で、氏が開いておられた文章講座に通ったことがあるだけですが。現在、日経ビジネスオンラインが追悼記事とともに2021年11月のコラム『晩年は誰のものでもない』を再掲しています。そこにこんな記述があります。
以前、いくつかアマチュアの人たちの書いた文章を添削する機会に恵まれたことがあるのだが、毎度毎度、趣味でものを書いている人たちの筆力の向上ぶりに驚かされたものだ。
私が参加していたのは「添削」までしてくださる形式ではなく、毎回小田嶋隆氏が短いコメントを寄せてくださるというものでしたが、とにかく何度か氏から直接コメントをいただきました。氏の短いコメントから私が毎回痛感していたのは、いかに自分の書いた文章が箸にも棒にもかからないものであるかということでした。
当時私は、自分の文章に対してなぜか大きな自負というか過大な自信を持っていて、あわよくばこれを仕事にできたらいいななどと夢想していました。でもそれも、小田嶋隆氏のコメントで雲散霧消、そんな気持ちはみごとに吹き飛んでしまいました。たったひとりのプロの文筆家に認められなかったからといって、あきらめる必要などないのかもしれません。でも、うまく書けないのですが(なにしろ文才に乏しいんですから)、それほど氏のコメントは的確無比だったのです。
その講座では毎回、さまざまな書き手をゲストに招いての対談が行われていて、ある回で氏がとても印象的な話を語っていました。それは「書いている自分は、普段よりちょっと頭がいい」というものです*1。氏いわく、書く前にはあれこれ考えていてもなかなか自分の思考がまとまらないのに、書き出してみるとその言葉が呼び水となるような形でどんどん自分の思考が湧き出してくる。普段思いつきもしなかったような思考が書けることもある。だから、とにかく書きはじめ、書き継いでいくべき……概略、そのようなお話でした。
これは本当にそのとおりで、実際私も、頭の中だけであれこれ考えを巡らせていても、にっちもさっちも行かずに苦しくもどかしいところ、とにかくパソコンに向かって書き出してみるとするすると言葉が紡ぎ出されてくるのに自分でも驚くことがよくあります。予想もしていなかったところに思考が着地することもよくある(よくあるというか、私は毎日こうしてブログをブログを書いているので、日々それを感じています)。
そしてこれは、ひとり文章だけに言えることではないんですよね。なにかの行動を起こすときにも、それは仕事の大きなプロジェクトでもいいし、ジムでのトレーニングでもいいし、なんなら食事の後の気鬱な後片付けでもいいんですけど、とにかく始める前は何かと思考が堂々巡りしてなかなか手がつけられないのに、とにかく一歩前に踏み出し、手を動かしはじめてみると、するすると事が運んでいつの間にか終わっていたりする。あるいは予想もしなかった成果が残せていたりするんです。
これが小田嶋隆氏から教わったとても大切な人生の教訓です。それに心から感謝して、この文章を「ありがとうございました」とか「ご恩は生涯忘れません」などと書いて締めたいけれど、それも氏はあまり好まれないでしょうからやめておきます。
*1:これはこの講座だけではなく、他の場面でも語られていたようです。以前そのことをブログにも書きました。 qianchong.hatenablog.com