インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「元気炉」をめぐって

かつて美術系の大学に通っていた頃、私はかなり「頭でっかち」な学生でした。だもんで、作っていたのも多分に「イデオロギッシュ」なものが多くて、でも頭はあまりよくないのでとても底の浅い作品ばかりでした。なんというか……歌に例えれば、安っぽいメッセージソングみたいなものです。講評会でも教授方に「言いたいことがそのまま出過ぎ。文章でも書けることを彫刻にしても仕方がないでしょ」みたいなことを言われていました。いま考えると、かなり恥ずかしいことをしていたと思います。

とはいえ、美術作品に政治や社会への批判や問題意識の提起が盛り込まれるのは珍しくありません。もっとも優れた美術作品におけるそれは、非常によく考えられ、かつ見る者にも深い思考を促すものになっています。文章では書けないことを、美術作品でしか伝えられないことを伝えている、そんな作品はたくさんあります。ただその見極めは非常に難しく、だからこそ現代美術はわかりにくいと言われたり、例えば「あいちトリエンナーレ2019」で話題になった「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動なども起こるのでしょう。

先日、サウナ特集に惹かれて買った雑誌『Coyote』に、「元気炉」という栗林隆氏の美術作品が紹介されていました。

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この作品は美術作品であると同時にスチームサウナでもあり、実際に人が中に入ってサウナを楽しむことができるようになっているそうです。ただ私はこの記事を読んで、少々引っかかるものを感じました。文章は語り下ろしで、構成は編集部のようですので、栗林氏ご本人の言葉そのものではない可能性がありますが、こう書かれています。

ここではサウナ体験を実際の原子炉の内部の様子に見立てています。サウナ室の温度が上がってメルトダウンしたら、サウナ室の床下に格納されている冷却水に自分がまるで制御棒になった気分で入るというユーモアを楽しんでもらいたい。

あの未曾有の被害をもたらし、いま現在もまったく収束していないどころか、今後何十年にわたって廃炉への困難な道筋が予想されている福島第一原発事故の「マークI型原子炉」をモチーフにするにしては、あまりに無邪気ではないかと思ってしまいました。栗林氏は、東日本大震災のあと福島に通い続けて被災者との対話を続けておられるそうです。ですから被災地の現状や現地の人々の気持ちについてはじゅうぶんに理解されているはず。なのになぜこんな表現になったのでしょうか。

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美術手帖4月号のインタビューで栗林氏は、「原発に対してもたんなるアンチでいるだけだと何も解決しなくて、原子力発電所やエネルギー問題を新しくとらえ直すアイデアが必要だと思いました」と語っています。それは理解できなくはないけど、「自分がまるで制御棒になった気分で」サウナを模したこの「元気炉」に入り、元気をもらって「ととのった」として、そこから原発やエネルギー政策の問題をどう新しくとらえ直せばいいのか、私にはよく分かりませんでした。

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