インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

さよならSNS

先日、ながらく放置状態だったソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)から退会しました。フェイスブックFacebook)とピンタレストPinterest)のアカウントです。

SNSに分類されるものとしてはあとユーチューブ(Youtube)とライン(LINE)を引き続き使っていますが、前者は語学関係の動画を見るだけ、後者は家族との連絡+いくつかの商業サービス(ジムの会員証とか)に使っているだけ。シェアやらコメントやら「いいね」やらリポスト(リツイート)やらといった「いかにもSNS」的な使い方をするものは、これで皆無となりました。

思い返せば、これまでにもSNSの種類に位置づけられるものはあらかた手をつけては退会してきました。ツイッターTwitter/現X)も、インスタグラム(Instagram)も、タンブラー(Tumblr)も、ノート(note)も……SNSという言葉がまだ人口に膾炙していなかった頃にはミクシィmixi)、さらにその前にはパソコン通信ニフティサーブNIFTY-Serve)というのもありましたね。

中国語圏のSNS、QQ(騰訊QQ)とかウェイボー(微博)とかウィーチャット微信)などもそれぞれ一度は試してみましたが、現在はすべてアカウントを抹消しています。ティックトック(TikTok)は最初から「これはついていけなさそう……」と思ったのでやっていません。

私がこうしたSNSの諸サービスを日常的に使うようになったのは、確か2010年ごろではなかったかと記憶しています。いや、パソコン通信まで含めれば、さらに10数年溯るかもしれません。つまりはほぼ四半世紀ほどの時をへて、ようやくこうした「つねにつながる」という文化から降りることができたわけです。

こうしてSNSから降り続けてきた理由のうち、一番大きかったのは自分の時間がどんどん吸い取られていくことへの危機感でした。畢竟、ほとんどのSNSが無料で使うことができるその背景には、アテンション・エコノミー(注意経済)と呼ばれる、人を消費行動に駆り立てる仕組みがそのベースとしてあるんですよね。自分のブログを振り返ってみたら、もうずいぶん前からこの点に関する違和感を書き込んでいました。

qianchong.hatenablog.com

ここまで気づいていたんならすぐにSNSから降りることもできたはずなのに、これほど時間がかかってしまったというのは、ひとつは自分の意志の弱さのせいでしょうけど、もうひとつはそれだけSNSの注意経済が巧妙に作り込まれているからなんでしょうね。じっさい私はつい最近まで、ピンタレストのショート動画を見始めてふと気づいたら何十分も過ごしているということが時々ありました。あとから考えれば不要なものを買ってしまったことも一度や二度ではありません。

SNSのみならず、私はここ数年でそれまで参加していたネット上のいくつかのコミュニティからも退会しました。さらにリアルなおつきあいのあったいくつかのサークルや教室へも休会を申し出ています。この「はてなブログ」も、かつては毎日書いていて連続2000日以上になっていたのですが、去年の夏にそれをやめ、気が向いたときだけ書くことにしました。

かつては仕事以外にも世の中とのつながりがないと、ゆくゆく寂しい人生になるような気がしていたのですが、それは幻想だったのかもしれないといまにして思います。無理をして自分と世の中とのインターフェイス(境界面)を広げなくてもいい、広げすぎるとどんどん自分の暮らしが忙しくなっていくと思うようになったのです。

インターネットがインフラとも言えるくらいに普及したいまとこれからにおいては、より主体的で抑制的な利用とそのための工夫が大切になってくるのではないか。少なくとも私は、自分が想像しているよりもはるかに抑制的に利用するのが身の丈にあっているのではないかと考えるようになり、SNSから降りてきました。そしてこれからはまた、インターネットの抑制的な利用で取り戻した時間を使ってもっと本を(とくに古典を!)読むのです。


▲左下の伸ばされている腕と手がちょっと気持ち悪いです。