インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

Twitterをやめてよかった

Twitterをやめて、というか「降りて」ふた月ほど経ちました。最初のうちはなんとなく喪失感みたいなものがあり、手持ち無沙汰にも思ったりして、多少の後悔みたいなものも感じていたのですが、ふた月経ってみて、ほぼ完全に毒が抜けました。

「ほぼ」というのは、いまでも時々、暮らしの中で何かのニュースに接するや、つい一家言ぶちたくなるという自分でも面倒な瞬間があるからです。そんなとき、あ、もうTwitterやめたんだっけと思ってその気持ちを抑える。そんなことが何度かありました。本当に私は、マウンティング欲とマンスプレイニング癖の塊のような人間なんでしょう。

かつてはそうやって一家言ぶちに行ったのち、「オレはバッチリ言ってやったぜ」的な謎の全能感にひたり、その後もリプライやリツイートが気になって何度も見に行き、ついでにそのときに飛び込んできた情報から芋づる式に色々なツイートに飛び、本や物を売るサイトに誘導されてついつい浪費を呼んでしまう……そんなことを繰り返していたのです。愚かです。愚かとしか言いようがありません。

実はTwitterを降りたとはいえ、フィンランド語の学習用に、フィンランド語だけでつぶやくという自己ルールを課した別のアカウントは残っています。同じ轍は踏みたくないので、投稿したらすぐにTwitterから離れ、何度も見に行かない(行っても、幸いなことにめったにリプライはつきません)ようにしています。

……が、先日つい右側にあるトレンド欄から他の日本語ツイートを見に行ってしまったことがありました。そして、そのあまりにも既視感のある「オレはバッチリ言ってやったぜ」感の氾濫に、なんとも言えない居心地の悪いものを覚えました。この居心地の悪さ、違和感は何なのでしょうか。

遠い遠い昔、パソコン通信というものがありました。NIFTY-Serveとかですね。私はいくつかの「フォーラム」(懐かしい!)に入っていましたが、そのときにひとりネットの虚空に向かって発言するのがとても奇妙に感じられたことを覚えています。ほどなく違和感は消えてヘビーユーザーになっていくのですが、その後ブログが登場し、SNSが登場して使いはじめたときにも、その都度似たような(しかしすぐに消えた)違和感を覚えました。

それは、ひとり語りを不特定多数の人々に向けて孤独に発信することそのものが持っている不自然さなのかもしれません。リアルタイムの会話や対話や議論であれば、言葉を発している最中から相手の反応が読み取れて、双方向の気持ちの流れの中で自らの発言が紡ぎ出されていきます。一方的に喋っているときでさえ、リアルタイムで相手側の存在が表情や相槌や場の雰囲気などでこちらに流れ込んできて、それが常に自分の発言に微調整をかけてくる。それが謎の全能感をある程度抑制してくれているように思います。ネットにおけるひとり語りにはそれが決定的に欠けているのです。

そこまで感じているのに、まだフィンランド語のTwitterアカウントを残しているのは矛盾も甚だしいです。これも近いうちに降りてしまおうかなと考えています。

f:id:QianChong:20220206145837p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_791.html