インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

『遅いインターネット』を読んで

つい最近まで、SNSの「断捨離」をしていました。きっかけはカル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』を読んだことで、SNSがいかに「注意の経済」と深く結びついており、暮らしや仕事から時間と主体性を奪っていくかを痛感したからでした。

qianchong.hatenablog.com

非常に身も蓋もない言い方をしてしまうと、SNS(Social Network Service)は「注意の経済」に加えて「リア充自慢」と「マウンティング大会」と「自己承認欲求」が団子になっているような場所で、もちろんそれも「Social(社会)」の側面のひとつではあるものの、それらに一つ一つ付き合っていたら、あるいは振り回されていたら、そりゃ主体的な時間の使い方などおぼつかなくなりますよね。

社会というのはもともと複雑で多様性があって、なおかつ時に理不尽であり息苦しいところもあるものですが、SNSで人と人との関わりのインターフェース(接触面)がかつてとは比べ物にならないほど膨張した現在、その新しい社会に関わるのであれば、新しい関わり方を身につける必要があるということなのでしょう。

先日読んだ宇野常寛氏の『遅いインターネット』は、私がSNSに対して漠然と抱いていた警戒感や嫌悪感に対して、そのいくつかの原因を明示してくれるものでした。SNSにおける「注意の経済」は、SNSの域内にとどまるものではなく、そこからのリンクによってインターネット全体に広く張り巡らされています。そのインターネットの現状について宇野氏は深い憂慮を示しているのです。

今世紀初頭のある時期にGoogleによって成立していたネットサーフィンという行為は、いま過去のものになろうとしている。SEO検索エンジン最適化)の手法とインターネット広告産業の発展は、Googleの検索結果を大きく汚染した。その行き着いた先として、Google検索結果の上位に表示されるのは広告収入目的のWikipediaを引き写したような事実上無内容なブログと、扇情的な見出しをつけてクリックを誘うフェイクニュースまじりのニュースサイトばかりになった。(96ページ)

そしてまたSNS、特にTwitterに顕著で、私が心底うんざりしていた罵詈雑言の応酬とマウンティング大会についてはこのようにも述べています。

いまこの国のインターネットは、ワイドショー/Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。(20ページ)

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。かつて最も自由な発信の場として期待されていたインターネットは、いまとなっては、もっとも不自由な場となり僕たちを抑圧している。それも権力によるトップダウンの的な監視ではなく、ユーザーひとりひとりのボトムアップ同調圧力によって、インターネットは息苦しさを増している。(184ページ)

f:id:QianChong:20200503093453j:plain:w200
遅いインターネット(NewsPicks Book)

たしかにその通りだと思います。そしてあまりにも単純化した白か黒かの議論に辟易しながらも、ふと気がつくとSNSで注意を喚起される一つ一つの情報に自分も「これはマル、これはバツ」とこれまた単純な判断を下していたり、あるいは少し斜に構えて茶々やツッコミを入れていたり(宇野氏の表現を借りれば「大喜利的なゲーム」に興じるということでしょうか)。足を踏み入れれば踏み入れるほど自分が物事を深く考えないバカな人間になっていくような気がします。

この「自分の頭で考えない、バカになっていく」ことについては、宇野氏のウェブマガジン「遅いインターネット」にもこんな対談が掲載されていました。

浅生 コメント欄とかリプライって不思議で、あれは結局、誰かが発信したところを基準に書いているじゃないですか。つまり、自分発信ではなくて、他人の意見がまず存在して、そこで初めて自分の言いたいことが出てくる。でもそれは、自分で考えたことじゃないと思うんです。それって楽しいのかなって。ゼロから自分で書いてるほうがおもしろいと思うんですよ。

宇野 そういう人たちは、「ちょっと一本取ってやったぜ」みたいなことで溜飲を下げて、自分が賢くなったようになる快楽に取り憑かれてしまってるわけです。ただ、その卑しさに正面から向かって「それは安易なコミュニケーションで、むしろあなたをどんどんバカにしていますよ」って言っても、納得はしてもらえない。そうではなくて、「もっと楽しいことがある」とか、「もっとあなたにとって長期的に利益のある発信がありますよ」ってことを、肯定的な言葉で教えていくってことしかないのかなと思っています。
slowinternet.jp

そうなんですよね。頼まれもしないのに誰かの発信に乗っかって「考えたつもり」になっているのって、とても怖いことだと思います。こうやって長々と引用していることそのものも、ひょっとしたら「考えているつもり」なのかもしれませんが。ともあれ、そんなこんなを考えてSNSから距離を取っていたのでした。

ところが、今回の新型コロナウイルス感染症の拡大で在宅勤務を余儀なくされ、さらにほとんど未知の世界であるオンライン授業(遠隔授業)への対応が不可避かつ長期的なものとなるに至って、SNSへのスタンスが少し変わりました。上述したようなSNSの一種の「毒」を注意深く避けつつ目を凝らしてみると、「リア充自慢」や「マウンティング大会」や「自己承認欲求」などのダークサイドに堕ちることなく様々な発信をしている方はたくさんいらっしゃるのです。

特に今回のような事態は初めての経験で、その点でも自分のリアルな身辺の関係だけでは学びきれないことがたくさんあります。そんな時にこそSNS、ひいてはインターネットが大きな力になるのではないかと思い直しました。考えてみれば当たり前のことです。宇野氏も「これまでのやり方ではつなげなかったものたちをつなげるのが本来のインターネット」だとおっしゃっていましたが、そうした(昨日も書いた)“集思廣益”の場所としてSNSを使うのであればいいのではないかと。そして願わくば自分も、そうした人々から教えてもらうばかりでなく、何かをお返しすることができればいいなと。

そんな感じで、また恐る恐るSNSに戻ってきました。SNSの毒に侵されないために、例えば使用時間を制限するとか、「いいね」を押さないとか、上掲の対談のように一定上の過去の投稿は消すとか、いろいろな工夫をされている方がいます。私もこれまで「現実の社会で人に面と向かって言わないようなことはSNSでも言わない」というのを自分ルールにしてきましたが、さらに「極めて主体的な目的意識を持ってSNSで人とつながる」というのを足しておきましょうかね。もっとも、最初からそうやっているよという方もいると思いますけど。