インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

体育がきらい

語学と演劇

私が奉職している語学学校では、通訳訓練に演劇を取り入れています。年に一度だけですが、秋の文化祭に向けて二ヶ月間ほど「語劇」の練習を行い、一般のお客様も含めた多くの観客に見てもらうというものです。

「語劇(ごげき)」というのは聞き慣れない言葉でしょうか。でも外語大学や語学学校などに通われたことがある方なら比較的なじみがあるかもしれません。つまりは「英語劇」「中国語劇」「スペイン語劇」……などなどを総称して語劇。自分が学んでいる外語でお芝居を上演するという取り組みないしはカリキュラムは、試みにネットで検索してみるとかなりたくさん見つかります。それも日本国内だけでなく海外のそうした学校においても。

これはつまり語学が、なかんずく「聞いて・話す」語学のスキルが身体表現と密接に結びついている(と考えられている)からでしょう。語学業界ではよく「言語の肉体化」などという言葉を使いますが、頭の中で母語から翻訳しつつ話す、あるいは丸暗記したフレーズを前後の脈絡に関係なく繰り返すといったような段階から一段上がって、自分の感情や気持ちに沿った自然な表現としての外語を習得する手段の一環として、演劇のような身体表現が多く語学に持ち込まれているのです。

一番ポピュラーなところでは、ロールプレイと呼ばれる会話練習があります。あれも演劇的な、つまり役を演じることで外語を肉体化しようとする試みのひとつと捉えることができます。畢竟言語を「聞き・話す」というのは一種の身体表現です。特に外語学習においては、母語とはちがう喉や舌や唇や歯などの使い方を覚え、息の吐き方、声の強弱や緩急をコントロールし、ときに表情や身振り手振りなども駆使して(ボディランゲージ)他人と関わる……その意味で外語を聞き・話すことは、スポーツや楽器の演奏などにかなり近いスキルだと考えてもいいかもしれません。

というわけで語学と演劇には親和性がある(と少なくとも私は考えています。通訳などまさに他の人に成り代わって話す作業なんですから、演じることそのものと言ってもいいかもしれません)のですが、学生さんの中にはこの演劇的な練習が苦手、あるいはそもそもこんな練習が必要なのかとこうしたタスクそのものを忌避する方がたまにいます。上述したような、語学と演劇的要素が密接に結びついている事情を縷々説明し、その意義を説いても、どうしてもロールプレイや演劇訓練ができない・やりたくないという人がいるのです。

私自身はロールプレイや演劇が大好きなので、そうした練習を忌避されるとどうしたものかと悩んでしまい、また一方では語学にこうしたスキルが必要なことをなぜ分かってもらえないのかと訝しみ、さらには学校のカリキュラム上ときに学生に「強制」しなければならないことを「これはパワハラに近いのかもしれない」と不安になるなど(実際、以前にはパワハラではないかと「告発」されたこともあります)、なんとも言えないモヤモヤとしたものを抱えながら今に至っています。

体育がきらい

そんななか、書店で偶然見つけた坂本拓弥氏の『体育がきらい』を読みました。この本は主に小中学校、あるいは高校における「体育嫌い」の児童や生徒に焦点を当てて、学校現場における体育の授業、教員、さらには部活動やスポーツそのもののありようについて考察したものです。ですから語学とは違う分野の一冊のように思えるのですが、実は語学の、それも上述したようなロールプレイや演劇のありようについても示唆を与えてくれる内容でした。


体育がきらい

この本では、児童や生徒が「体育嫌い」になる要因のひとつとして、体育の授業で行われるさまざまなタスクが、そうしたものが不得意な児童や生徒にとっては不快で圧力を感じるものであり、「恥ずかしさ」を感じさせるものであり、ときに「公開処刑」のような残酷さをも含んでいるものであるからという分析がなされます。実のところかつての私はこの本で述べられているような典型的な「体育嫌い」の子供でしたから、この分析を大いに共感を持って読みました。

運動が苦手な人にとっては、クラスメイトの前でなにかの技や演技をやらされることが、地獄のような苦しみであるということは容易に想像できます。(中略)他者の前で技や演技を行うことには、どうしても「恥ずかしさ」が付きまとってしまいます。(60〜61ページ)

坂本氏はこうした「恥ずかしさ」について、サルトルの羞恥に関する議論を援用しながら、恥ずかしさが他者との関係において生じること、つまり恥ずかしさは人間が他者とともに生きる「社会性」の獲得に深く関わっているものであること、それがゆえに個々人が感じる恥ずかしさを乗り越えることはかなり難しいことなのだと言います。それは体育や語学に有用だから程度の説明では、ましてやそうした感情の否定やそうした感情の克服を強制するようなやり方では容易に乗り越えることができない、根源的なものなのだと。

それではどうすればよいのかについて坂本氏は、恥ずかしさが他者との関係において生じるものである以上、「他者との関係次第では、恥ずかしさの意味もガラッと変わる可能性がある」と言っています。本人が感じている恥ずかしさに対して、周囲が落胆や嘲笑などではなく、労いや励ましといったポジティブなフィードバックをくれたとしたら。つまりは良好な社会性の中に恥ずかしさを感じている主体(児童や生徒や学生さんたち)を位置づけることができたら、と*1

恥ずかしさが人間存在の根源に関わるものであるとすれば、それを消し去ることはできないけれど、他者との関係の中でそれを中和し、昇華する方向へ持っていくことはできる……ということでしょうか。なんとなく隔靴掻痒感が否めないような気もしますが、でもこの本では終章で、運動によって身体が変わることが自分を変え、自分を取り巻く世界を変えていくことになるという結論に導かれていきます。

一見抽象的ではありますが、これは私にとっては大いに納得できる考え方でした。私自身あんなに「体育嫌い」だったのに、いまではジムのトレーニングなどで身体を動かしたり鍛えたりすることが大好きになりました。それによってあきらかに自分の生き方が変わったという実感を持っています。体育の授業が、単に運動やスポーツが得意な人にとっての天国・苦手な人にとっての地獄というプリミティブな状態から、ひとりひとりがより良く社会性を身につけ、活き活きとした人生を送ることができる、そうしたスキルを育む場へとアップデートされたら、それによって救われる子供はたくさんいるのではないかと思いました。

ひるがえって自分がいま携わっている語学訓練におけるロールプレイや演劇は、果たしてそんなプリミティブな状態に留まっていないか。そう考えると非常に心もとないです。この視点を元に同僚とももう一度とことん話し合ってみたいと思っています。

追記

余談ですが、この本で驚いたのはこの部分でした。

中学校におけるダンス(と武道)は二〇一二年から必修になりました。これは裏を返せば、それ以前はダンスは必修ではなく、主に女子が行うものであり、その代わりに男子は武道を行う、という暗黙の区別があったことを意味しています。そのため、ダンスを必修にするというこの変更は、体育の先生にとっても決して小さくないインパクトを持ちました。(69ページ)

確かに私が中高生のころは、柔道やら剣道やらをやらされてそれこそ地獄の時間だったわけですが、それにしてもダンス必修……。女子は◯◯、男子は◯◯といったような決めつけが消えたのはまあ進歩といえば進歩ですけど、私がやっている留学生への演劇指導などよりもっともっと先生方の苦闘や心労が忍ばれて、ちょっといたたまれない気持ちになります。

*1:ネットで検索中に偶然見つけたこちらの教室のご紹介は、「語学における演劇性」がまさに「良好な社会性」の中で開花している一例ではないかと思いました。『「演じる感覚」磨きとリードアラウド:子ども編