インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

語学における近道

マーカス・デュ・ソートイ氏の『数学が見つける近道』を読みました。ソートイ氏といえば同じ新潮クレスト・ブックスから出ている『素数の音楽』が大好きな一冊なのですが、この本も同様の知的好奇心を刺激される、とても面白い内容でした。


数学が見つける近道

コンピュータがその圧倒的な能力で力ずくの「総当たり的計算」を行うのに対して、人間が深い思考の末によりよい「近道」を見つけ出すという対比がとても印象的で、この本ではそうした人間が発見してきたさまざまな数学的近道ーー幾何学微積分や確率などなどーーが紹介されています。

コンピュータも人間が作り出してきたもので、それは人間の労苦を大幅に軽減することに貢献しました。その人間はと言えば、常により良い近道はないかと思考を続けている……そう言ってしまうと人間は常に楽な方法を探し続けている怠惰な存在であるかのように響きます。

でも著者によれば、そうした近道を見つけるためにはたくさんの困難な課題をクリアする必要があり、そのパラドックスこそが人間を創意工夫に向かわせ、結果として人類を進歩させることにつながってきたということになるのです。

結局のところ、この身を近道の学問分野に捧げているのは怠惰だからではない、ということにわたしは気がついた。ほとんどその逆で、近道を見つけるのがたいへんだからこそ、大きな満足が得られる。(356ページ)

筆者は、同じような「道理」を語っている登山家やチェリストの話も紹介しています。ヘリに乗って山の頂上に行くこともできるけれど、それは登山家にとっては何の意味もなく、自分の足で上りきったという満足感が得られるからこそ登山に挑むのだと。あるいは、もしチェロを演奏する近道があったらおそらく演奏は魅力的ではなくなり、演奏中に「心理的フローのなかで恍惚ともいえる瞬間に達するには、技量と困難な課題が組み合わさっていなくては」ならないのだと。この話を自分のフィールドに引き寄せて考えてみるに、語学も同じようなものではないかと思いました。

先日タクシーに乗っていたら、前の座席の背もたれに設置してあるタブレットから動画広告が流れていて、そのうちのひとつが「ポケトーク for BUSINESS」の広告でした。海外旅行などで簡単な会話を訳してくれる手軽な「通訳機」だったポケトークがどんどんその機能を高めて、ビジネスシーンでも使えるレベルになっているのだとか。

www.watch.impress.co.jp

なるほど、こうした技術はこれからも日進月歩で進化・発展していくでしょうから、今後は通訳者や翻訳者の活躍するフィールドがますます狭くなっていくのかもしれません。さらには一部ですでに囁かれているように、外語そのものすら学ばなくてよいという時代がやってくるのかもしれません。それはそれで、ほぼモノリンガルで社会をまわしていけるがゆえに長年外語コンプレックスに苛まされてきた私たちにとって、そのぶんほかの事柄に人生の貴重な時間を割くことができるようになるという意味でも福音となるのかもしれないと思います。

もとより私は、外語学習は必要になった人が必要になってから(しかしそうなったら、まさに寝食を惜しんで、石に齧りついても……の勢いで)でよく、みんながみんな幼少時から外語(とりわけ英語)に狂奔するのはやめたほうがよいのでは、という考えです。それでも外語学習をひとつの「知的挑戦」として捉えるならば、これほど魅力的かつ長きにわたる努力と時間をかけて取り組むに足るものはないとも思っています。

思うに、外語に取り組んで、その外語がある程度自在に操れるようになる段階というのは、一種の「近道」を手に入れることと似ています。自分の母語においては「これが言いたい→言える」という極めてスムーズかつ気持ちのいい近道を、母語とはまったく違う仕方で世界を切り取っている外語でも行うことができるようになると意味で。

しかしながら登山やチェロと同じで、それが仮に外から「ぽん」と与えられた近道であったなら、語学は途端にその魅力をなくしてしまうように思えるのです。いわゆる「一週間でペラペラ」的な語学教材の惹句が、実際問題として不可能であるというのに加えて人生にとっても味気ないものに思えるのも同じ理由からです。

わたしが追い求めている近道は、本の巻末に載っている答えを見ることとはまったく関係ない。それでは満足のいく近道にならない。最良の近道は、問題と必死に取っ組み合った末に出現するのであって、ついに緊張感が解消された瞬間の音楽のようなものだ。(357ページ)

ポケトークに通訳や翻訳を任せるというのは、もちろんビジネスを前に進めるという意味では省力化に大いに貢献すると思います。上掲の記事でも「ビジネスシーンではグローバル化が進む一方、通訳のコストが高く、来日や講演の機会を諦めるといったことが起こって」おり、ポケトークを使えば「通訳コストを大幅に削減でき、コミュニケーションを活性化できる」と謳われています。

それでも私は、自分で外語を話してビジネスを前に進めるほうが数千倍楽しいだろうなと思います。「心理的フローのなかで恍惚ともいえる瞬間に達する」ことがままあるからです。そんな恍惚、仕事に求めてなんかいないよとお叱りを受けそうですが。