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イスラエル 人類史上最もやっかいな問題

パレスチナガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがミサイル攻撃を行い、その報復としてイスラエル軍ガザ地区への軍事作戦を開始したのが10月7日。あれからちょうど1ヶ月、悲惨な戦争の報道に接し続けてほんとうに胸ふたぐ思いの日々が続いています。

これまでにも同様の戦争が繰り返されてきたことはなんとなく知っていても、そのより詳細な背景については心もとないことと、ウクライナ戦争でも感じてきた当事者のどちらか一方に極端に偏った政府の対応やマスコミの報道などに違和感を覚えて、この問題を理解するための入門書を読みました。ダニエル・ソカッチ氏の『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』です。


イスラエル 人類史上最もやっかいな問題

氏はアメリカで生まれ育ったユダヤ人で、書名も『イスラエル(原題は“Can we talk about ISRAEL?”)』となってはいますが、この本はイスラエルパレスチナの双方に対して可能な限り中立かつ歴史的事実に基づいて記述しようという意志にあふれています。

本書の3分の2ほどは、かの地における歴史の流れを追いながら、なぜいま事ここに至っているのかがよく分かるように解説されています。読んでみれば分かりますが、イスラエルパレスチナの二国家共存による和平を目指した1993年のオスロ合意がいかに重要な局面であったのか、その後のラビン首相暗殺がいかに残念なできごとであったのかを知ることができました。

もうひとつ、本書では主に歴史的経緯としてだけ触れられている、20世紀初頭の英国によるいわゆる「三枚舌外交(1915年のフセイン・マクマホン協定、1916年のサイクス・ピコ協定、1917年のバルフォア宣言)」についても、改めてその罪深さを認識することができました。

先日、ネットの勉強会で「功利主義」について学ぶ機会がありました。功利主義は利己主義と同義ではありませんが、当事者すべてが現在のように一切の妥協を許さない姿勢で自らの幸福と利益を最大限追求しつづけたら、この本の副題にもあるように「人類史上最もやっかいな問題」として二進も三進もいかなくなります。

フランスの社会学者アラン・カイエ氏は功利主義を批判して、人間はなにがしかを「受ける」だけでなく「与える」こと、さらには「創造する」ことや「生み出す」ことにも喜びを見出すことができると述べているそうです(これも勉強会で学びました)。私はこれを「減らす、小さくする、引き下がる、降りる……」ことにも価値を見出すことができる智慧のようなものがいまこそ必要だという文脈で受け止めました。

何を言っているんだ、それは「すでにじゅうぶんに持てる者」の戯言ではないかと切り捨てられそうですが、かのオスロ合意はそうした智慧を人類が発揮し得た貴重な機会だったのだなと思うのです。

またこれも本書で知ったことですが、建国の父と呼ばれるベン=グリオン初代イスラエル首相は、イスラエル国家のアイデンティティとして、①イスラエルユダヤ人が多数を占める国家である、②イスラエルは民主主義国家である、③イスラエルは新しい占領地をすべて保有する(ダニエル・ソカッチ氏は「ベングリオンの三角形」と呼んでいます)を挙げ、イスラエルはそのうち2つを選ぶことはできるが3つ全部を選ぶことはできないと語ったそうです。これも上述したような智慧のひとつではなかったかと思いました。

この本は今次の紛争・戦争が起きる直前に日本語版が上梓されており、解説を寄せている元外交官でイスラエルパレスチナに長年関わってこられた中川浩一氏はこう書かれています。

先述の「ベングリオンの三角形」に戻ると、これからイスラエルを再び舵取りするネタニヤフ首相は、第二のイスラエルは民主主義国家であるというスローガンにはあまり関心がなさそうである。重視するのは第一のユダヤ人国家と第三の占領地支配の徹底のようだ。しかし、それはパレスチナ人の積年の憎悪を激しく燃え上がらせることにもつながる。残念ながら二〇二三年は、イスラエルパレスチナの憎しみと恐怖の連鎖がさらに激しさを増す年になるかもしれない。(367ページ)

まさにその予想通りの事態に立ち至ってしまったわけです。つい絶望的な気持ちになりますが、この本の最後に収められた、イスラエルに住む立場の違う3人の一般市民の声が希望を繋いでくれます。巻末には紛争に関する用語集もついていて、これもこの問題の正しい理解を助けてくれます。