インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「犠牲」を美化しないでほしい

東京新聞の一面に毎朝載っている「筆洗」というコラムがあります。朝日新聞の「天声人語」や日本経済新聞の「春秋」と同じような、論説委員の持ち回りによるコラムですが、昨日の「筆洗」はラグビーワールドカップの日本代表チーム敗退を受けての内容でした。

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「われわれが胸を打たれるのは犠牲をいとわず、血を流し傷つきながらも同じ方向へ進んでいく無骨な姿なのだろう」……う~ん、そこに胸を打たれるか、と違和感を覚えました。私はそもそも個人ではなく国家の名を掲げて競い合うスポーツの大会が苦手ですが、それはまさにこのコラムの言葉に現れているような、全員を同じ方向に向けようとするファナティック(熱狂的・狂信的)な精神が垣間見えるからです。

私だって、アスリート個々人の努力や研鑽には感動しますし、称賛も惜しみません。でもそれを膨張させて「誰もが自分のことで精いっぱい。考え方もそろわぬ。そんな時代にあって」犠牲が尊いなどと粗雑な一般化をしないでほしい、それが社会全体のありようとしての模範的な姿だと美化しないでほしいと思います。文中では犠牲が「今の時代には古めかしくさえ聞こえるキーワード」と一応の留保がつけられていますが、スポーツの戦術を社会全体の精神にまで敷衍するのは危ういのではないでしょうか。

今回のラグビーワールドカップでは、他にもいろいろと気になることがありました(まだ終わっていませんが)。そもそもラグビーワールドカップは国籍主義をとらず、日本代表チームも様々な出自やルーツを持つ選手が集まって結成されているというのに、合宿では日本刀と鎧兜を飾って(ユニフォームも鎧をイメージしたデザインです)武士道を強調し、「君が代」に歌われている「さざれ石」を見学するために宮崎県日向市の大御神社に出向くなど、自国中心主義、あるいは自民族中心主義があまりにも前面に押し出されていました。

mainichi.jp

いっぽうで日本へ観戦に訪れた外国人への「おもてなし」として、その国の国歌をみんなで歌うという「スクラムニゾン」なる活動もありました。これも、国歌が往々にして国威発揚のために用いられ、人々のファナティックな感情を焚きつけるために使われてきた負の側面を踏まえれば、無邪気にすぎるのではないかと思いました。特に「君が代」を歌うことに関して、私たちはもっと内省が必要ではないかとも。その点に関してはすでにこのブログに書きました。

qianchong.hatenablog.com

またこちらの報道にあるように、日本代表選手のお一人が百田尚樹氏の『日本国紀』を読んで「日本人はどういう種族なのか、どうして日本人の勤勉さや真面目さ、礼儀正しさが生まれたのか、どういう歴史が背景にあるのか。(中略)日本人は昔から続く育ち方や文化があるから、今の強さに繋がっていると思うと、すごく誇らしく思うし、もっと強くなった気がしますね」などと語っているのを見ると、ここにも自民族中心主義や「日本スゴイ」がにょきにょきと頭をもたげているなあと心ざわめくのです。

the-ans.jp

私は、こうやって人々の心を一方向に集約していこうとする動きに、とても危険なものを感じます。そしてスポーツの大会というのは、それも国際大会というものは、そんな危険な動きを容易に起こさせてしまうものだという点について、私たちはもっと敏感であっていいと思います。

折しも、あの無謀な「インパール作戦」にもなぞらえられる東京五輪2020が進行中です。今回のラグビーワールドカップでさえこうなんですから、来年の夏はどれだけ自民族中心主義や「日本スゴイ」や「犠牲」や「結束」や「みんなの心をひとつに」などが強調されることか。今からうんざりですが、知らず識らずのうちに乗せられて熱くなっていく心に対して、きちんとクールダウンできるような回路を自らに残しておかなければと思っています。