昨日は参院選が行われましたが、総務省の発表によると投票率は48.8%で史上二番目の低水準だったそうです。半分以上の有権者が投票に行かないという現実にどう向き合えばいいのか、そして特に若年層の投票率が際立って低いことについて、新聞やネットでは様々な議論が行われています。
教育の問題、マスメディアの問題、格差や貧困の末に政治に絶望しているから、いやなんだかんだ言って日本はまだまだ豊かでゆとりがあるから……。さらにはオーストラリアのように義務投票制にして投票に行かなければ罰金を科すべき、いやシンガポールのように投票に行かなければ選挙人名簿から抹消すべき……。どれも一理あるんですけど、なにかこう腑に落ちません。
なぜ投票に行かないのか
今朝は通勤電車で、このようなツイートに接しました。
選挙のことで彼女と喧嘩までしたんだけどな、どこの政党を支持するとかって話じゃないんですわ。「わからないものはわからない」って言われたんです。学校で政治や選挙のことなんか教えられてないから、選挙に行けとか言われると上から目線に聞こえる、って言われたんですわ。
— がんぺー (@gwangpee) July 21, 2019
このツイートに続くスレッドをすべて読んでみると実に興味深いです。投票の意義を教えられていない、という点ではまさしく教育の問題なのですが、それよりもっと根本的なところで、個々人の投票という小さな行動が国の政治という大きな動向と繋がっている、リンクしているという実感、あるいは信憑が持てないのかもしれない、と思いました。
これに先立つ昨日は、コピーライターの(という肩書きはもう古いですか)糸井重里氏のこんなツイートにも接しました。
投票用紙に、「好きではないけど」とか「今回限りと思ってほしい」とか、「応援してるけど、無策過ぎ」とか書く欄があったら、なんの足しにもならなくても、もうちょっと行った気になれる。ヨックモックを買って帰る。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) July 21, 2019
このツイートには膨大な数のリプライがついていて、そのほとんどは糸井氏の姿勢を批判するもののようでした。中には糸井氏が投票に行かないという宣言をしていると思った方もいるようですが、そうじゃないですよね。投票には行くんだけれども、やはりその行動が何かの大きな動きに繋がっているという実感が持てない、だからせめてその気持ちも届けたい(でもできない)という気持ちを吐露されたのでしょう。
作家の村上春樹氏は、かつて「僕は生まれてこのかた選挙の投票というものを一度もしたことがない」と公言されていて、これもTwitterなどでは繰り返し批判されています。手元にある『村上朝日堂の逆襲』に収められた「政治の季節」という文章には、こんな記述があります。
どうして選挙の投票をしないのかという彼ら(僕をふくめて)の理由はだいたい同じである。まず第一に選択肢の質があまりにも不毛なこと、第二に現在おこなわれている選挙の内容そのものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。
(中略)
もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点があって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主義の衰退だと言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケースを提供することができなかった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみに責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。
この文章はもう三十年以上も前に書かれたものですから、村上氏が今でも同じお考えなのかどうかは分かりません。特に今回の選挙のように、改憲勢力が憲法改正の発議に必要な3分の2の議席数を参院で確保できるかどうかという状況で「戦略的投票」が呼びかけられたような状況では「マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶ」のも意味のあることでしょう。当時とは時代がまるで違っているのです。
それでも、村上氏のこの文章からも、やはり自分の小さな行動が政治の大きな動きに繋がっているとはとても思えない、だから無力感を覚える(不毛だ)……という気持ちが伝わってきます。「あなたの一票が、世の中を変える」と言われたってそれを信じることができない、そのあまりにも巨大な隔靴掻痒感(?)が投票なんてしても無駄だ、不毛だという考えにつながっていくんですね。
むしろ若い方々にとっては、SNSなどで「バズる」ことのほうがよほど「自分の行動」と「世の中が変わる・動く」ことの直接的なリンクを体感できると思います。Twitterで何千何万というリツイートがつくとか、Instagramの膨大な「いいね」に自分がインフルエンサーになったかような高揚感や全能感を味わうとか、人気のユーチューバーになって実際にお金が儲かるとか……。それに比べて選挙の投票は、まるで大海に小石を一つ投げ込むようなもので、何の反応も手応えもないし、高揚感も全能感もまったくもたらさない。だから「行かないよ、そんなの」と。
かくいう私自身も、こうした隔靴掻痒感や不毛感・徒労感は常に覚えているので、その気持ちは分かるような気がします。それでも私はこれまで覚えている限り(あと、海外の辺鄙な場所に転居していてどうしてもできなかった数回を除いて)投票を棄権したことはありません。若い頃に一度、何を考えたか「白紙投票」をした覚えはありますが。
なぜ投票に行くのか
私だって若い頃があって、きょうびの選挙に行かない若い方々や『村上朝日堂の逆襲』を書かれた頃の村上春樹氏のように不毛感にとらわれたこともあったと思います。なぜそれでも棄権しないで来たのかなと改めて考えてみたのですが、どうもうまくその理由が説明できません。大学の時に受講した「一般教養科目」のおかげだとも思えるので、結局は教養・リベラルアーツの大切さってことになるのかもしれません。でも何だかもっと漠然とした、ある意味信仰に近いものなんじゃないかなとも思います。
世の中は自分ひとりでは回っていかない、世界は自分が考えているよりもはるかに巨大で複雑なものだ、誰も見ていなくてもお天道様は見ている、民主主義は人間が仮構したものだけれどその中に住んでいる以上はその仮構されたものにつきあうべきだ……それこそ村上氏から「うさん臭い」と言われそうですけど、そういうものを信じているから投票という行動に繋がるんだと思うんですね。
これって信仰と言うよりもっと卑近な「皮膚感覚」に近いものかもしれません。私は全体としては世界はよりよい方向に進んでいる、進んでいくと楽観していますし、それを積み重ねてきた先人に敬意を表しますし、その先人の努力を無駄にするような行動は何だか「気持ち悪い」んです。投票に行かないのは気持ち悪い。祟るような気がすると言ってもいいかもしれない。
なんだか締まらない結論になりました。あ、もちろん、日本ほどに豊かで恵まれていて曲がりなりにも民主的な選挙が行われている国とはまったく異なる国の友人がいて、その人たちの存在に教わることが多いというのも理由のひとつだと思いますけど。