インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

これが「教養」だ

清水真木氏の『これが「教養」だ』を読みました。帯の惹句に「知的興奮の書!」と感嘆符つきで書かれてありましたが、いや本当にその通り。面白くて一気に読み終えてしまいました。なにせ「教養」という概念は本来「古典」とも「読書」とも「博学」とも関係ないものなのだということを、ヨーロッパ精神史の様々な知見とともに解き明かし、なおかつ現代に生きる私たちにも通じる一種の「処世術」(ご本人はそう呼ばれるのをあるいは忌避されるかもしれませんが)にまで落とし込んで語り尽くすのです。

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これが「教養」だ (新潮新書)

じゃあ何が「教養」と呼ばれるべきなのかについて、清水氏のおっしゃることを昨日ブログに書いた『教養の書』の戸田山和久氏がこう敷衍されています。「公共圏と私生活圏との折り合いをうまくつけながら、人格が分裂しないようにいつつ、それぞれの圏にふさわしい行動に切り替えて行きていくための仕掛け(118ページ)」と。清水氏自身は最終章でこんなことを書かれています。

意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力、これは、楽しい生活を送るためには、欠かすことができないものであるはずであります。なぜなら、これは私の想像ですが、自分の行動や判断について、その理由を説明することができず、説明する努力を放棄してしまったような生活は、大変に不快なものでなのではないかと思うからであります。(217ページ)

そうした努力を放棄しないと心に決めて日々を生きている人こそ「教養ある人間」と呼ぶにふさわしいというわけですね。私は昨日、極めて卑近な例として「教養ある人はポイ捨てをしない(はず)」などと書きましたが、ひょっとするとあながち外れてもいなかったのかなと思いました。個としての行動の周りに、自分を遥かに超える(想像することすらかなわない)世界が広がっていることを体感できていれば、自分がすべきことはおのずから定まってくるはずです。

そうなれば、例えば普段の暮らしで実際には面と向かって人に言わないようなことをSNSではいとも簡単にぶちまける(しかも匿名で!)とか、行政に常に不満を抱えていながら投票日に天気が良いとつい遊びに出かけてしまって棄権しちゃうとか、某国の政府が独裁で非人道的な政策を次々に行っているからといきおいその国の人々全てに憎悪を向けるとか、謎の全能感に駆られて等身大の自分でいられずにすぐ全地球大に自己を膨張させて語ってしまうとか、そんな「理由を説明することができず、説明する努力を放棄してしまったような生活」を送ることはないんじゃないかと。

この本には「教養」と注意深く切り分けて扱われる「古典」や「文学」などについてもとても知的興奮を覚える記述がたくさんあります。それらは本書にあたっていただくとして、もう一つこの本で面白いと思ったのは、筆者のその「言文一致ふう」な語り口です。読みながら私は「まるで講談か、落語みたい」と思っていたのですが、はたして「あとがき」にその背景についても書かれていました。清水氏は「ソフトで知的な年寄り」になりたいとの願いがあるそうですが、私も同感です。ソフトで知的で、できればカワイイ年寄りになりたいです。