インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をめぐる「10年で変わったこと・変わらなかったこと」

加藤典洋氏の評論集『村上春樹の世界』を読んだので、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読しました。確かこの前読んだのは東日本大震災の年だったと覚えているので、ちょうど10年ぶりで読み返したことになります。

この小説を最初に読んだのは大学生だった20歳のころで、所属していたサークルの友人が勧めてくれたのでした。彼はとても頭がよくかつちょっとシニカルなところがある人で、いまから思えば「ハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる「私」に雰囲気が似ていました。それから何度も再読しています。それだけ好きな作品だったわけです。ただ今回読み返してみて、前回までとは少々異なった読後感を抱きました。

心に沁みるパートが変わった

まず二つの物語が交互に平行して進む形式のこの作品のなかで、私はずっと「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうが好きでした。計算士である「私」の冒険譚、「老人」と「ピンクのスーツを着た太った娘」のギミック感たっぷりな研究施設、そこここで詳細に描写される衣食住へのこだわり、大真面目に語られるがゆえにユーモア感が醸し出される比喩、そして脳内の意識のありように関するさまざまな説明。

東京が舞台ということで、東京に住んでいる自分にとっては一層リアリティが増しましたし、インターネットもスマートフォンも出てこず、逆にまだカセットテープなどが使われているのに(1985年の作品です)それほど古びた感じもしません。30歳代で妻に出て行かれた「私」の境遇や、孤独を愛する心情なども、自分にかなり近しいものを感じていました。

でもいまもう一度読み返してみると、「世界の終わり」のほうがいちだんと心に沁みるように感じられたのです。壁に取り囲まれた街のなかで一角獣の頭骨から「古い夢」を読む「僕」が遭遇する数々の出来事、人との交わり、風景や自然の描写、そして結末の静かな、しかし決然とした「僕」の行動……。年を取り、大都市にいささか疲れ、様々な現実と折り合いをつけ、お酒を飲まなくなったからなのか、「僕」のたたずまいにより自らを重ねやすくなっている自分を発見してしまいました。10年前までは「世界の終わり」の細やかな心情描写や風景の説明などが何となく冗長に思えてさっさと読み飛ばしていたのに。

加藤典洋氏は「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」をめぐる終幕について「きっと年のせいかもしれないから、人には強く薦めない。しかし元気のないときには、これは読んで心に沁みる小説である」と書かれていました。「世界の終わり」の「僕」の終幕は、元気のないときに読むとよけいに深みにはまるかもしれませんが、今の自分にとってはやけに「心に沁みる」のです。

村上春樹氏は1949年のお生まれだそうですから、この作品を書いたときは36歳ですか。自分が36歳の時には、こういう世界はまだほとんど心に沁みていなかったと思います。

フィンランドとのつながり

ほかにも細かいところで発見がありました。私がこの10年の間に新しく始めたことのひとつにフィンランド語があるのですが、この作品にはフィンランドフィンランド語が何度か登場します。これも以前読んだときにはあまり気にも留めていませんでした。

地下世界で邪悪な存在に惑わされ、つい眠り込んでしまった「私」。そのきっかけは前を歩く「娘」のゴム底靴の響きだったのですが、それは“Efgvén - gthǒuv - bge - shpèvg - ègvele - wgevl”と聞こえてきます。これについて「私」は……

まるでフィンランド語みたいだったが、残念ながら、フィンランド語について私は何ひとつ知らなかった。ことば自体の印象からすると「農夫は道で年老いた悪魔に出会った」といったような感じがするが、それはあくまで印象にすぎない。根拠のようなものは何もない。

……と言っています。わはは、確かにフィンランド語とはまったく違いますけど*1、ここではどこか遠い国、日本の東京とはまったく違う風土をイメージされたんでしょうね。私はこのくだりをなぜか「ギリシャ語の活用」だと記憶してしまっていました。たぶんほかのところで出てくる老後は「チェロとギリシャ語を習ってのんびりと暮らす」という記述や、村上氏ご自身がギリシャに滞在されていたことなどと混同していたんでしょうね。

終幕近くで「老人」はフィンランドに新しい研究室を作ったという話が出てきます。また後年の村上作品『多崎つくると彼の巡礼の年』でもフィンランドが登場します。読んだ当時はそんなディテールにほとんど引っかかりませんでしたが、いまは当然ながらとても引きつけられます。そういう小さな変化も今回の再読における発見でした。

女性に関する記述

それからもうひとつ、今回読んで大いに引っかかったのは、女性に対する記述です。これは多くの方が論じておられますが、私も大変遅まきながら、かなり抵抗を覚えました。村上氏の作品には特徴的な傾向だとはいえ。学生時代にアルバイト先で知り合った津田塾の学生が村上作品をとても嫌っていて、その学生は「自分がカッコよくてセックスがうまいことばかりひけらかしている」とにべもない酷評をしていました。当時の私は「またなんと表面的な受け止め方だろうか」と思いましたが、いまになってみるとその憤りは分かります。この十年で、ようやく私もそういう認識に達したのかと思うと、やはり自分の中にあるバイアスの大きさに愕然とせざるをえません。

とはいえ、個人的には、この作品ほど再読を重ねた小説はありません。作品的には終末でかなり都合よく世界が完結し、この点村上氏ののちの作品よりも分かりやすいですし、ある意味「若作り」な感じがしないでもない。でも私は、ある種の静謐感と叙情性を持つこの作品は、村上氏ご自身にとっても今後必ずしも超えることが容易ではない高みを示した不世出の傑作ではないかと思います。たぶんまたいつか読み直すことでしょう。そしてその時にはまた新しい発見があるのかもしれません。

各言語版

ちなみに私、旅行したときにその国の書店に寄ってこの作品の翻訳版を探して買い求めるのがささやかな趣味です。予めネットで調べるなどとつまらないことはせず、大きな書店の外国文学コーナーに行ってあるのかどうかもわからない状態で(大抵ない)探すのです。いままで見つけて買ったのはこの写真にあるだけ。すべて現地の書店で見つけて買いました。

f:id:QianChong:20211111204207j:plain

タイトルの異同が面白いです。左上から時計回りにイタリア語版 “La fine del mondo e il paese delle meraviglie” 、直訳すると「世界の終わりと不思議の国」ですか。

英語版は“Hard-boiled wonderland and the end of the world”で、日本語と順番が逆になっています。原作は確かにこの順番で交互に物語が展開しますから正しいといえば正しいです。なぜ村上氏は「世界の終わり」を先にしたのでしょう。もっとも私は最後に「ハードボイルド・ワンダーランド」と脚韻が畳み掛けるようなこの語感が好きですが、それは単になじんでいるからだけなのかもしれません。

デンマーク語版は“Hardboiled wonderland og verdens ende”「ハードボイルド・ワンダーランドと世界の終わり」※順番は英語版と同じで、何故か前半だけ英語をそのまま使っています。「ハードボイルド」と「ワンダーランド」の組み合わせがあまりに和製英語っぽくてデンマーク語にあえて寄せなかったのかしら。

中国語の簡体字版は北京の書店で買いました。“世界尽头与冷酷仙境” ですけど、“尽头”は「行き止まり」とか「さいはて」とか、そんな漢字の言葉。それから、なるほど「ハードボイルド」は冷酷なイメージですか。でも中国語の“酷”は「クール」な感じもあるので合っています。“仙境”は、なんだか山水画の中に白いひげのおじいさんでも出てきそう。

台湾の台北で買い求めた中国語の繁体字版は“世界末日與冷酷異境”と、簡体字版とほぼ同じ。個人的な語感に過ぎませんが、この繁体字版のほうがいくぶんそっけなくて詩情や湿っぽさみたいなものが少なく、原作の雰囲気にはかえって親しいように思います。

フランス語版は“La fin des temps” ですから「時の終わり」。たったそれだけ? この独善感! でも表紙は一角獣とエレベーターでいいところをおさえています。

フィンランド語版は“Maailman-loppu ja ihmemaa”「世界の終わりと不思議の国」。でも「不思議の国」というと、私などどうしても“Alice in the wonderland”を思い浮かべてしまうので、実際この作品で展開される東京地下の「ワンダーランド」とはかなりイメージが違うようにも思えます。その意味では台湾の“異境”が近いでしょうけど、そうすると今度はちょっと原作の冒険小説っぽいところやスタイリッシュなところが消え失せてしまいます。結局英語版(はまあ当然として)デンマーク語版のようにそのまま和製英語を拝借しちゃうのが一番無難なのかもしれません。

今後も海外で、初めて訪れる国があったら、このささやかな趣味を継続したいです。

※この記事は、はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」への投稿です。

*1:Viljelijä tapasi vanhan paholaisen tiellä.