インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

自壊する帝国

マルクス経済学のとある研究者が、夏休みに数週間ほど離島でバカンスを過ごしていたら、その間にソ連が崩壊してしまっていた――。若い頃、知人に聞かされた笑い話です。スマホでインターネットに常時接続してニュースに接するなんて、まだ誰も想像すらしなかった牧歌的な時代。そういうこともありえたでしょうねえ。

ソ連のいわゆる「8月クーデター」が起きたのが1991年8月19日。新連邦条約締結に反対するソ連共産党の中央委員会が起こしたこの「クーデター」は失敗し、共産党が事実上解体されるまでが1991年8月下旬のわずかな期間。結局これがソ連の崩壊につながりました。ただソ連の崩壊自体は同年の12月なので、あの笑い話は創作だったのかもしれません。それほどあっけなくソ連が崩壊しちゃったという意味合いの。

モスクワ駐在の日本大使館員としてこの時期を経験した佐藤優氏の『自壊する帝国』を読みました。ニュースで接していた当時の一連の様子は私もおぼろげながら覚えていて、特に1993年になって、エリツィン氏がホワイトハウスとよばれる「ベールイ・ドーム」に砲撃を命じたのモスクワ騒乱事件がテレビで放映されていたのは強い記憶に残っています。ビルに向けて砲撃しちゃうなんてスゴイなと思って。

でも印象に残っているのはそれくらい。ソ連が崩壊するなんて歴史の一大事件なのに、どこか遠い国の出来事としてぼんやり眺めていたんだなあと思います。でもこの本では事態の真っ只中に身をおいていた佐藤氏の硬質な筆致で、当時のモスクワにおける緊張感や街の空気の「ただならなさ」が伝わってきます。特にバルト三国の独立に絡む部分は、主要な登場人物が深く関係しているだけあって、とりわけ臨場感がありました。

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自壊する帝国 (新潮文庫)

私が日々接している留学生のみなさんは、そのほとんどがソ連崩壊のあとに生まれた方なので、ソ連自体を知りません。いや、歴史の知識としては知っているでしょうけど、ソ連が存在した時代の空気はなかなか伝えにくい。それに、ソビエト社会主義共和国連邦が「共和国」なのに「帝国」だったというのも、場合によっては少々説明が必要です。

辞書を引けば「帝国」は第一義的には「皇帝の統治する国家」ですが、その他に「自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家」という意味合いもあります。そうそう、実際に「帝」を戴いていなくても、政治的経済的軍事的に強大なプレゼンスを発揮する国は「帝国」と呼ばれますよね。しかも現代ではかなりネガティブな呼称として。「悪の帝国」なんて言い方もありますし、古くは「日帝」とか「米帝」という言い方もありました。

『自壊する帝国』を読んで、自ずと連想してしまうのはもうひとつの「赤い帝国」は今後どうなっちゃうのかしら、という点です。こちらに関してはもはや「赤い」とか「紅い」などはどっかに吹っ飛んじゃって、かつてなかったくらい帝国資本主義的なことに加えて、内政的にも外交的にもかなり異形の国になりつつありますが。私が接している留学生のうちの華人留学生にしても、もはや社会主義国家としての「かの国」は身体の感覚からしてもあまりリアリティがないご様子。ソ連どころか、自分の国のかつての空気だって、むしろ私のような外国人から聞かされて「へえ、そうなんだ」と面白がるくらいです。

かつてかの国に留学していた時、たまたま知り合った同年代の自治体職員の男性と「交換学習」をしていたことがありました。彼が中国語を教え、私が日本語を教えるのです。とても仲良くなってご自宅にもお招きいただきましたし、私が入院したときには花を持って駆けつけてくださった優しい方なのですが、あるとき私が「かつて毛沢東さんも連邦制を目指していたことがあったそうですね」と言ったらにわかに表情がかき曇り、「それは“反動”だから、ちょっと……」と話題を変えたのが印象に残っています。

ひとさまの国のことはその国の人に任せておけばいいので、私などが外野からあれこれいうべきではないでしょうけど、個人的には将来かの国が連邦制に移行するのはアリじゃないかなと空想(妄想?)しています。あれだけ人の多い国が中央集権で一色に染まろうとするから歪みも大きいわけで。緩やかな連邦としての華人ネットワークが存在できたら、そしてそれぞれの強みや魅力が発揮できたら、これはもう日本はおろかEUだってとても敵わないくらいの経済圏になると思うんですけど。

いやいや、これはまさに妄想で、かつ“反動”ですねえ。でもかの国がこの本に描かれているような歴史の轍を踏みまくって「自壊」でもしたら、これはかなりな大波が周囲に波及すると思います。それは旧ソ連の比ではないでしょうね。

それと、これは蛇足ですけど、この本に出てきたモスクワの料理店の描写がなんだかとっても懐かしかったです。留学していたときに、スターリン様式の北京展覧館に入っている“莫斯科餐厅(モスクワレストラン)”に行って、ニシンとかキャベツの酢漬けとかペリメニみたいなのを食べたことがあるんですが、あんな感じだったのかなと、これまた一人空想にふけりました。

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北京莫斯科餐厅 - 维基百科,自由的百科全书