インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

娑婆よのう

むかしむかし、熊本の田舎に住んでいた頃、近所のおじさんが急逝したことがありました。私はその知らせを別のおじさんから聞いたのですが、その時におじさんがぼそっとつぶやいた「娑婆(しゃば)よのう……」という言葉をいまでも時々思い出します。

急逝したおじさんは「万年青(おもと:観葉植物の一種)」の栽培家でした。ところが、訃報を知らせてくれたそのおじさんによると、亡くなったその晩のうちに、庭に並んでいた万年青の鉢がごっそり誰かに盗まれてしまったのだそうです。万年青の鉢植えは高値で取引されている一種の芸術品。それをふだんから知っていて、なおかつ亡くなったその晩に盗むという行動に出られるのは、もしかしたら同じ集落の人間だったのかもしれません。

「娑婆」は仏教のことばで、現在では刑期を終えて出所したあとの「自由な世界」という意味合いのほうがポピュラーかもしれませんが、もともとは「苦しみを耐え忍ぶこの世の中」という意味なんだそうです。まるで火事場泥棒のような行為を目にして発せられた「娑婆よのう……」というおじさんの嘆息には、人間の浅ましさや貪欲さを悲しむ気持ちとやり場のない静かな怒りが込められているように思えたのです。

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https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_109.html

それから幾星霜。私はいまでも、世間における浅ましい行為や貪欲なふるまいを見聞するたびに、あのおじさんの嘆息を思い出します。政治家やビジネスパーソン汚職や横領みたいに分かりやすいものもありますけど、もっと身近なところでもこちらの心が曇ってしまうような浅ましくて貪欲で、ある意味「しょーもない」行為を目撃することがあります。このブログでも何度か書いたことがある、スーパーなどでの「棚の奥に手を突っ込んで是が非でも新しいものを買おうとするおじさん」とか、「ロール状になった薄いビニール袋を『いーとーまきまき』よろしく大量にからめとって持っていくおばさん」とか。

私はランチによく讃岐うどんの「丸亀製麺」を利用するんですけど、あそこでも無料のネギや揚げ玉を「かけうどん」にメガ盛りにしていくサラリーマンが少なからずいて心が萎えます。もうマンガみたいなてんこ盛りで、ネギがトレーにまで散らばっていて、それでも飽き足らないのか小鉢にもどっさり揚げ玉を取っていたりして。あんなにネギを載せたら辛くて逆に美味しくないんじゃないかと思いますが、細君に言ったら「それで不足しがちな野菜を補おうとしているんじゃない?」だって。なるほど、そういう視点がありましたか。でも昨日は、これも無料のおしぼり(不織布みたいなのがビニールパックに入っているやつ)を十枚ばかりごっそり持っていく初老のサラリーマンがいて、またまた萎えました。

無料なんだから、いくら持ってっても自由じゃないか、大きなお世話だと思われるでしょうか。まあそうかも知れません。スーパーでの「棚の奥から新しいものを取る」や、書店での「平積み本は上から二冊目を取る」なども、周囲の仕事仲間に聞いたら「それがなにか? 当たり前でしょ」と返されます。いや、私は別に善人ぶりたいわけじゃないんです。ただそういう浅ましい行為を目にすることで心が萎えちゃうのがとてもイヤなのです。

こういうのを華人に言ったら“管不了(人は人だ、相手にするな)”と一笑に付されるかもしれません。いや、だけど、こういう我執にまみれた、人の心を萎えさせるような行為が一定量を超えて社会に充満すると、何だかとても大きなものを毀損するような気がしているんですけどね。それこそ「娑婆」ですよね。

からだの使い方を「発散」させる

ここのところずっとご無沙汰だった腰痛に襲われてしまいました。年末年始の自堕落な生活に加えて、音声を聞きながらの長時間の採点を何日間も続けていたからじゃないかと思います。ジムのトレーナーさんがおっしゃっていましたが、デスクに向かって座り、長時間パソコンを使い続けることほどからだに悪いことはないとのこと。いつの間にか腰に負担がかかっていたようです。

腰痛予防のためにバランスボールに座り、骨盤を意識して座ってはいるのですが、ふと気がつくと腰が前方に逃げて背筋を曲げるような姿勢になっています。よく電車の中で、足を前に投げ出し、あるいは足を組んで、腰が前にずり落ちるような形で背骨を曲げて座っているお若い方を見かけますが、余計なお世話ながら「大丈夫かしら」と思います。中年以降に腰痛で苦労しなきゃいいんですけど。

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https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_8579.html

それはさておき、治療のためにいつも通っているジムでマッサージをしてもらいました。今回は左側の腰がまるで鉄板でも埋め込んだかのように固まっていたのでほぐしてもらったのですが、翌日には右側も凝り固まって腰痛が悪化してしまいました。どうやらからだの使い方が悪いため左側の腰が不調を起こし、その左側をかばうようなからだの使い方をしたおかげで右側までバランスを崩したみたいです。

体幹レーニングをしていても、からだの左右で明らかに違いが見られます。片一方では楽にできたり、楽にバランスが取れる動きが、もう片一方ではかなり危うかったり、可動域が狭かったりするのです。

先日読んで大いに触発された平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』では、シンプルな筋トレだけでは見落としがちな感覚の世界であるところの「身体知」に紙幅が大きく割かれており、その中にからだの「左右差」についてこんな記述がありました。

利き手や利き足の使いやすさに頼るのではなく、その使いやすさから出発して利き手や利き足とは反対の手足に意識を向けてその差を感じ取る。そして、使いにくさという違和感を解消すべく左右の調和を図ることで動きは洗練化されてゆく。だからアスリートは、あえて苦手な方の手足を使って投げる、蹴る、箸を使うなどして、身体感覚を深めるように努めるのである。

なるほど、しらずしらずのうちに固定化してしまうからだの使い方を、常に発散させるというか、変な癖がつかないように気を使うわけですね。これは、からだの使い方の偏りが蓄積してたびたび腰痛を発症する自分にも何らかの効果があるかもしれません。

というわけで、ふだん右手でやっている動作を意図的に左手で(あるいはその逆で)やるようにしてみました。例えば歯を磨く時、私はいつも左手に歯ブラシを持つのですが、それを右手に持ちかえてみたのです。そうしたら、びっくりするほどからだが思うように動きませんでした。かなり意識して腕や掌や指の位置を調整しないと、きちんと歯が磨けないのです。

こうした試みを続けていけば、平尾氏のおっしゃる「しなやかなからだ」に少しは近づけて、腰痛になる頻度も減るかもしれません。歯磨きだけでなく、かばんを肩にかけるとか、スマホをポケットに入れるとか……様々な動作を利き手や利き腕以外で試してみようと思います。

ユーチューバーと蔡英文氏の話し方に圧倒される

先日も記事を書いたのですが、私は人前で話すのが苦手です。語学関係の「商売」をしておきながら「話すのが苦手」もないだろうと自分で自分にツッコミを入れたくなりますが、本当に苦手。苦手なだけじゃなくて「下手」だとさえ思います。これでもアナウンス学校やボイストレーニングに通った経験さえあるというのに、いまだに滑舌は悪いし、冗語は多いし、中国語の発音だって“大舌頭(舌足らず)”なのです。謙遜でもなんでもなく、ホントに。あ、アナウンス訓練やボイトレで声量だけは大きくなりましたが。

アナウンサーさんや声優さんみたいな話し方に憧れますが、だからといってそれだけが上手な話し方というわけではないとも思います。話し方のテクニックより、話の内容のほうが大切。とつとつとした話し方であっても、引き込まれるようなお話をされる方はいらっしゃいます。だから「苦手」だと逃げてばかりいないで、せめて話の内容だけでも充実させたいものですが、それすらできているかどうか、心もとない……。

そんな中、先回YouTuberさんの動画を紹介してくれた台湾の友人が、また新たな動画を送ってきてくれました。先般の選挙で台湾の大統領(総統)に再選された蔡英文氏が、若い“網紅(ネット上で人気のある、いわゆる「インフルエンサー」みたいな存在)”お二人に動画配信の「心得」を教わる……という、おもしろい内容です。


【 小英做什麼 EP1 】小英原來不是想當網紅?開設頻道竟然是這個原因⋯!? ft. 魚乾、志祺七七

こうした政治家の動画には、まあ言ってみれば自分のイメージやキャラクターを形作るための「宣伝素材」という側面があります。なのに視聴してみてまず感じるのは、この動画にはそうした「政治家の宣伝」臭がまったくといっていいほどしないことです。これは私が中国語の母語話者ではない(だから話し方から受けるイメージを見極めきれていないかもしれない)ということを差し引いても、日本における同様・同目的の動画と比較してみれば、その差は一目瞭然だと思います。

もちろん、こうした動画は編集を経ていますし、台湾の大統領という立場にある蔡英文氏の公式動画ともなれば少しでもマイナスイメージになるような画面は注意深く排されていることは想像に難くありません。それでも一国のトップである蔡英文氏の話し方の、なんと闊達で親しみやすいことでしょうか。さらに驚くのは、そうした人物を前にした若いYouTuberお二人の話し方がこれまたフランクでまったく物怖じしていないことです。

それでいて、無駄な言葉や非論理的な発言、曖昧な物言いがほとんど入っていない。当意即妙の会話でありながら、これだけ会話の密度が高いというのはすごいと思うんです(しつこいようですが、編集を経ているとはいえ)。日本の政治家で、ここまでの話し方をできる方がいるでしょうか。そして政治家に対してここまでの会話を仕掛けることができるお若い方がいるでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

こうした話し方をされる人に接すると、私などいつも圧倒されて「頭いいんだなあ……」と思います。そう、冗語もなく、曖昧な物言いに堕することもなく、ロジカルに、それでいて愛嬌もある話し方ができるというのは、ひとえに頭の回転が速いんだと思います。そして自らの中にきちんとした考えが育まれており、豊かな教養の背景もあるからこそできる話し方なのではないかと。

私はさきほど「話し方のテクニックより、話の内容のほうが大切」などと逃げを打ちましたが、こうした方々は話し方のテクニックが優れている上に、話す内容も充実している……まったくもって敵わないなあと思うのです。こんな言い方は雑駁かもしれませんが、私はこうした話し方に「人間力」みたいなものを感じます。私たちはもっと、こうした「人前で話す訓練」をしなきゃいけないですね。

追記

この動画に、蔡英文氏が飼われている「わんこ」が出てくるんですが、話をしているそばから割り込んできて「邪魔」する……ってのが、何だか猫みたいで可愛いです。これらの「わんこ」たち(三匹飼ってらっしゃるとか)はお役目を終えて引退した元盲導犬なんだそうですよ。

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生ハムのしゃぶしゃぶ

週末に「家飲み」で来客があったので、おつまみにと生ハムのパーティパックを買いました。ところが思いのほかみんな手が伸びずにけっこうな量が余ってしまったので、どうしよう、これ……というわけで、ネットを検索してみましたら、「生ハムのしゃぶしゃぶ」という情報を見つけました。なるほど、生ハムだってようは豚肉の薄切りですからね。

生ハムに塩気があるので、鍋つゆは昆布と若干のコンソメだけです。サラダ用に大量にちぎってあったレタスやルッコラなど(これも余っちゃった)とミニトマト、あと適当にしいたけも入れてみました。ネットの情報によればレモンも入れるみたいですが、防腐剤を使っていないレモンが手に入らなかったのでこれは割愛しました。

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生ハムだから、そんなに火が通っていなくても食べられるよねと思いましたが、あまり早く引き上げるとハムの塩気が強すぎる感じがしました。かといって熱を通しすぎるとパサパサになっちゃう。ちょうどいい頃合いが難しかったですが、くたくたになったレタス類と一緒に食べるととても美味しかったです。

「シメ」はネット情報によるとご飯とチーズでリゾット風にするのがおすすめのようですが、年齢的にちょっと重すぎるので、ラーメンにしてみました。生ハムからいいおダシが出ていて、絶品でした。ちょっともったいないような、贅沢すぎるような気がする「背徳のお鍋」ですが、とても美味しかったです。生ハムを鍋にするなんて、いろんなことを考える人がいるものですね。

機械翻訳は便利だけれど

昨年の夏、フィンランドを旅行した際に泊まった「民泊」のおかみさんからAirbnbのサイトを通してメッセージが届きました。フィンランド語なので、じーっと見つめて「こんな意味かしら」と見当をつけてから、おもむろにGoogle翻訳へ放り込んで文意を確認します。

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ふだんから、自治体や芸能プロダクションなどの公式サイトが英語版や中国語版のコンテンツをGoogle翻訳へ丸投げして、その結果奇妙奇天烈な訳文になっちゃってるのを批判しまくっているというのに、こういうときはちゃっかり活用しちゃう。自分でもちょっと首尾一貫してないんじゃないかなとは思います。

qianchong.hatenablog.com

お返事にもGoogle翻訳を活用します。でも、いきなり日本語で書くとかなり「ハイコンテクスト」な文章になっちゃうので、簡潔な英語で、主語や目的語をくどいほど入れながら書いて、それをフィンランド語に翻訳し、未熟なフィンランド語の知識で分かる限りのチェックを入れて送信。すると、また相手からお返事が来て……。ちゃんとコミュニケーションが成立するんですね。これは楽しい。悔しいけど、楽しいです。

こうした悠長なコミュニケーションであれば、もはやGoogle翻訳をはじめとする機械翻訳は、なんとか実用に耐えるレベルにまでなりました。そしてこれから先は、もっとその精度が上がっていくことでしょう。そんな悠長なことはやってられない音声によるコミュニケーションはまだまだですが、それでも「ポケトーク」や「イリ―」などの通訳機がすでに商業ベースに乗っています。旅行でのちょっとした会話ならほぼ充分に役割を果たせるそうですし、これも精度の向上は時間の問題なのでしょう。人間の音声を認識する部分でかなり手間取っているそうですが、少しずつでも進歩向上していけば、そのうち一気にブレイクスルーが起きる時代が来るのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_6.html

こうした現状を背景に「もはや外語学習の意義は失われた」とする主張も、時々目にするようになりました。機械通訳や機械翻訳が高度に発達した未来(それも自分たちが生きているうちの近未来)では、誰もが自分の母語を話すだけで、様々な外語となってアウトプットされるような、そう、『ドラえもん』に出てくる「ほんやくコンニャク」のようなシチュエーションが現実のものになるのだと。

でも私個人は、そうなったあかつきには、つまり誰もが自分の母語の内輪内でしか話さない・話せないようになった世界では、逆に人類の知はもうそこから深まっていかないのではないかと思います。外語を学ぶということは、自分の母語ではできない「森羅万象の切り取り方」を身につけるということであり、その差異を乗り越える営みにこそ知は宿るのではないかと思っているからです。科学的な根拠はなにもないんですけど。

冒頭でご紹介したフィンランドの、民泊のおかみさんとのメールのやりとりは、楽しいけれどもどこか隔靴掻痒感が伴います。当たり前ですよね。Google翻訳という一種のブラックボックスを通してやりとりをしているんですから。外語学習をしたことがある方ならお分かりかと思いますが、実際に自分の身体を駆使して発せられた外語が相手に届き、すぐその反応が帰ってきたときのあの一種の高揚感は、機械翻訳では味わいにくいものです。今後技術が飛躍的に進化して、現在の通訳機がもっと体感的に(例えばウェアラブル端末になって、タイムラグも極限まで短縮されるなど)なったら、そうした高揚感も味わえるようになるのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

分かりません。もしかしたらそうなって、ここに「バベルの塔の神話」以来の、人類の言語問題は集結を迎えるのかも知れません。ただ、外語を学んだものとしては、外語を話している際に特有な「もう一人の自分になった感」が失われるのは残念な気がします。私は中国語や英語を話しているときは、自分の性格が変わってしまうのをとても感じます。また日本語とはかなり異なる語順の中国語や英語で言葉を紡いでいくときのあのダイナミズムにいつも興奮します。

人間は誰しも意識の流れに沿って言葉を紡いでいくはずですが、それが日本語と中国語・英語とではかなり違う「流れ」になる。なのに意識している自分はもちろん同じです。同じ自分が、違う意識の流れで自分を表現するーーそこに外語を自分で操る魅力のほとんどすべてが詰まっているような気がします。そうして体感された「違う意識の流れ」がまた母語に還流して母語を質的に変え、豊かにしていく……そんな気がしているのです。

Google翻訳を通したやりとりは便利だけれど、なぜか空虚に思える部分が残るのは、それぞれがそれぞれの母語の内側に籠もっていて、こうした営みが欠けているからなのかもしれません。

脱・筋トレ思考

先日、通っているジムでたまたま休息時間が重なったお一人から声をかけられました。「ずいぶん筋肉がついてきましたね」。この方はよくジムでお見かけするので私も見知ってはいましたが、お話ししたことはありませんでした。「あ、あの方、またいらしてる」とは思うけれど、それだけ。そう、ジムという場所は基本的に自分一人で自分に向き合う場所ですから、パーソナルトレーニングでトレーナーさんと話す場合を除けば、どなたかとお話しすることはほとんどないんですよね。

その方からは「ベンチプレスなんかも、最初の頃に比べてずいぶんウェイトが上がったんじゃないですか?」とも言われました。私はともかく非力なので、もとより人と比べてどうこうとは思わないようにしようと思ってきたんですけど、見ている方は見ているんですね。素直にうれしかったです。筋トレは、やればやっただけ動かせるウェイトの数値が上がっていきます。つまり成果が目に見える。いままでできていたあれこれが徐々にできなくなっていく私のような中高年にとって、これはこたえられない魅力です。

そんななかで読んだ、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』には、ご自身もラグビー選手として筋トレに取り組んでこられた経験を踏まえてこんなことが書かれていました。

スポーツ界において非科学的で根性論的な指導が当たり前だった時代に、突如として筋トレという鍛錬法が導入された。私がそうだったように、努力が可視化できるこの方法におそらく幾多の選手が飛びついたのは想像に難くない。これまで曖昧にしか捉えられなかった上達の軌跡が目に見えるかたちで示されるのだから、楽しくないわけがない。

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脱・筋トレ思考

たしかにそうなのです。筋トレは数値が上がる、見た目にも筋肉がつくという非常に分かりやすいレベルアップの指標がもたらされるので「ハマる」んですね。と同時に筋トレは、一朝一夕には効果があらわれないというストイックさをも兼ね備えています。長期間にわたる自己抑制も必要……。というわけで昨今では筋トレを運動選手のみならずビジネスパーソンにまで結びつけて、「エリートは筋トレをやっている」的な書籍まで多数出版されています。

私自身は、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴と腰痛に悩まされた末に「少しは身体をうごかさなきゃ」と始めた筋トレなので、運動選手が行うそれとはずいぶん違うのですが、それでも多少なりとも筋肉がつき、身体の不調が大幅に改善され、さらに数値が上がる楽しさにハマって今日にいたります。ところが、平尾氏のこの本はそんな筋トレに大きな疑問を投げかけているのです。

その理由は多岐にわたるのですが、ごくごく簡単にまとめると、身体を様々なパーツに分け、そのパーツを単純に鍛えて筋肉をつける筋トレは「全身協調性」や「感覚世界への想像力」をないがしろにする、あるいは損なう可能性があり、身体パフォーマンスの向上にはむしろ弊害があるということ。この本ではそうした人間の身体を単純に捉える思考を「筋トレ思考」と名づけ、そこからの脱却という理路をできるだけ明確に言語化しようと努力されています。

複雑性がその本質であるからだをしなやかに練り上げていくためには、その方法もまた複雑になる。筋トレというシンプルなトレーニングだけでは、しなやかなからだはけっして手に入らない。むしろしなやかさを損なう方向に働くことはすでにみた通りである。感覚世界における適切なふるまい方ができなくなるというこの落とし穴は、今一度声を大にして言っておきたい。

終章で発せられているこの警鐘は傾聴に値すると思います。と同時に、この本で警鐘が発せられているその主たる対象は運動選手・アスリートであって、私のような「へたりかけ」の中高年ではないのだろうなという感想も残りました。

本書の後半で大きく紙幅を費やされている「身体知」というテーマについても、その多くは競技や試合におけるアスリートのパフォーマンス向上に主眼が注がれています。その例えとして繰り返し用いられるのは「人混みで人にぶつからずに歩く」という私たちにも身近な場面での身体知なのですが、その先はかなり専門的なアスリート向けの理論が中心です。もう少しスポーツから離れたところでの、アスリートではない私たちのようなものにも具体的なアドバイスがあったらいいなと思いました。

とはいえ、この本の前半には、どうしても筋トレを免れない人に向けての提案がいくつかなされています。

・メニューごとに設定された正しいフォームにこだわらず「ラクに」持ち上げる
・短期的に成果を求めない
・筋トレ後は、その種目における専門的な動きを取り入れる
・筋トレによる筋肉増量中は練習でも試合でも全力でプレーしない(怪我をしやすいから)
・からだの内側から聴こえる「声」に耳を傾ける

3つ目と4つ目の項目からも分かるように、これも基本的にはアスリートに向けての提案ではあるものの、アスリートではない私たちにもある種の示唆を与えてくれます。私はここのところ、ウェイトの数字が上がるというその単純な一面だけに着目しすぎていたような気がします。もっとからだ全体を俯瞰したところからジムでのトレーニングを見直してみようと思いました。

「式」が苦手です

昨日は成人式が全国各地で行われたんですって? 私は成人式というものに出たことがないので実感としてよくわからないのですが、二十歳を迎える方々にとってはけっこう大切なイベントなんですね。私の実家がある北九州市は「ド派手」な衣装に身を包む方々がどっと現れる成人式で有名だそうで、毎年ニュースになっています。

rocketnews24.com

私個人の感覚からすると、正直に申し上げて悪趣味の極みですけど、家族から伝え聞いたところによるとみなさんこの日のために頑張ってお金をためるんだそうです。そしてこういうパフォーマンスで盛り上がりはするけれど、会場で行われている成人式を妨害したりは絶対にしないんだとか。外見とはうらはらに、みなさん心優しい人たちみたい。まあ好きなことに自分のお金と情熱を注ぎ込んでるんですから、周りがとやかく言わなくてもいいですよね。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_305.html

北九州市に実家はありますが、私自身は彼の地で育ったわけではないのでもちろんこの成人式を体験していません。というか、冒頭にも書いたように、成人式自体に参加したことがないんです。二十歳のときは確か大学一年生だったと思いますけど、当時住んでいた自治体からは何もお知らせがなかったように思います。成人式自体をやっていない自治体だったのか、お知らせは来たけれど無視したのか、いまとなっては思い出せません。

でもたぶん後者だと思います。私は「式」と名のつくイベントがとても苦手で、成人式はもちろん、大学の卒業式にも出ていませんし、友人知人の結婚式に出たのも数えるほどしかなく、自分の結婚式さえやっていません。苦手というだけで、特になにかイデオロギーがあるわけでもないんですけど、ああいう堅苦しい儀式はどうにも馴染めません。つまらない挨拶を聞くのも(自分が話すのも)、何度も立ったり座ったりお辞儀したりするのも……。

そういえば「式次第」って、すべての項目に「一、」とついていますよね。あれは序数ではなく、「ひとつ、なになに」「ひとつ、なになに」といずれの項目も重要だよという意味が込められているからだそうですが、私はこれもなんだか一斉に唱和させられる「社訓」みたいで気持ち悪いです。……と、けさネットを検索していたら、こんなツイートを見つけました。

共感するとともに、ちょっと驚きました。私は成人式に参加しないことに何の心理的葛藤もありませんでしたが、現在ではここまで同調圧力が高まっているんですね。私もお若い方に申し上げたいです。イヤな式には参加しなくてもいいんですよ、何の問題もないですよと。

優れたユーチューバーの話し方

語学講師や通訳者といった「人前で話す職業」に長年就いているというのに、いまだに人前で話すのが苦手です。そう言うと周囲の方からは「またまた〜」と突っ込まれるのですが、いや、これは謙遜とかそういうものではなくて、本当に苦手ですし、授業や会議などの「本番前」はいつも緊張します。

それでも長年やってきたことですから、いったん始まってしまえば落ち着きますし、決められた時間内でなんとかまとめる「勘」のようなものも備わって来たようには思います。でも、たまに自分が話しているところを撮影して見返してみると、とにかく「なっちゃいない」。滑舌は悪いし、冗語(「えー」とか「あの」などの不必要な言葉)は多いし、視線が泳いでいるし、頭を掻いたりしているし、そも話自体がロジカルでもないし……人前で話すのは本当に難しいなといつも思うのです。

私はYouTubeなど動画サイトが大好きで、語学の教材探しも兼ねてよく視聴するのですが、いわゆる「ユーチューバー」と呼ばれる方々の中には、ほれぼれとするような話し方をされている方がいます。日本語母語話者にはあまりお見かけしないのですが、中国語母語話者には上手な方が多いなと思います。もっともこれは、日本語が自分の母語だから日本語母語話者への評価が辛くなっているのかもしれませんし、そもそも私は中国語の動画を渉猟していることが多いのでサンプル数が少なすぎるからかもしれません。

ただ、中国語圏の“公眾人物(有名人・著名人)”には、人前でよどみなく堂々と話す方がけっこう多く、ああ、私もあんなふうに中国語が話せたらいいなといつも思っています。私は台湾の芸能人の発言を字幕にしたり通訳したりといったお仕事が多かったのですが、たとえそれが若いアイドルさんであっても、インタビューなどでの話し方が堂々としているのにいつも驚嘆していました。「若いアイドル」というカテゴライズで語っちゃうのもちょっと失礼ではありますけど。

先日は台湾の友人がこんな動画を紹介してくれました。“阿滴英文”という英語学習チャンネルの動画です。


三點就放學! 回家都在玩? 芬蘭學生怎麼看台灣的教育制度?

ネットで調べてみましたら、この“阿滴”さんは都省瑞氏で、台湾生まれですが幼い頃シンガポールで暮らしていたそうです。英語と中国語でこうした動画を配信する人気のユーチューバーなのですが、ヘルシンキの街頭で話しながらインタビューしていくだけのこの映像、「だけ」とはいえ、お上手だなあと思います。比べるのもおこがましいですが、もし自分が同じことをやったとして、果たしてこんなふうに話せるだろうかと。

カメラ目線のアイコンタクトを取りながらも自然に話していますし、この動画は「自撮り棒」を使って撮っているのかな? それにしてはあまりブレたり揺れたりしていませんよね。英語も中国語も当然流暢ですけど、無駄な言葉がほとんどありません。だけど原稿を読み上げているわけでもない。この方に限らず、中国語圏の話上手な方はおしなべてこうした「立て板に水」のスタイルが多いです。立て板に水ではありますけど、聞き手を置いてけぼりにするような事務的な話し方でもありません。とてもロジカルで、かつユーモアもあって、聞いていて心地いい。どうやったらこんな話し方ができるようになるんでしょうね。

こうした動画は、よく観察してみると結構手が込んでいます。背景に小さくBGMが流れていますし、もちろん映像も編集してテンポよくつないでいます。字幕やテロップも入っていますし、街頭での撮影なのに会話がきちんと聞こえるように音声面にもこだわってる。単に撮って流すだけじゃないんですよね。YouTubeなどの動画サイトにはこうした自撮りの映像がごまんとあふれていますけど、人気のある映像は、コンテンツそのものが優れているだけではなく、それを下支えしている話し方や撮影の技術がしっかりしているのだなと気づかされます。細かいところに気を配り、動画の後ろで人には見えない努力を重ねているんですね。

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中国には恩がある

私、中国は「大好きだけれど大嫌い」です。「愛憎相半ばする」という言葉がありますけど、中国に留学していた当時から今に至るまで、ずっとそんな感情を抱いて過ごしてきました。中国に留学する前は単に「大好き♥」だったので、やはりこれはかの地に長く暮らしてみてはじめて芽生えた感情です。

Wikipediaの「憎悪」の項には「愛憎相半ばする」について「人は、子供のころは、ある対象に対して愛ばかりを感じたり、反対に憎しみばかりを感じるが(心理学用語で言う「スプリッティング」な状態)、大人になると成長してアンビバレントになり、同じ対象Aに対して、愛情を感じつつも、同時に憎しみを感じる、という状態にもなる」と書かれていました。なるほど、私は中国で多少は「大人」になったわけですね。

しかし「中国が好き」あるいは「中国が嫌い」という言い方は、あまりにも粗雑であるかもしれません。そこで用いられる「中国」は中国という国のことなのか、中国政府のことなのか(それもいつの時代の)、中国文明なのか、中国人なのか、あるいは中国的な世界観なのか、あるいはそれらの具体的にどういった部分についての思いなのか……それを明らかにしないまま中国が好き、あるいは嫌いと言っても、そして人と議論をしてもあまり意味がないように思います。

たまに実家に帰省などすると、家族や親戚の一部から「中国関係の仕事をしているんだって?」に続いて中国への批判的な言葉を聞かされることがあります。それは例えば、現在の香港情勢に絡んでであったり、ウイグル族チベット族への弾圧に憤ってであったり、あるいはもっとプリミティブな予断と偏見であったりするのですが、そんなときにどう返したり対応したりすればいいものかと、いつも戸惑います。

語ろうと思えば、そして予断や偏見や誤解を正そうとすればできるし、やればいいんですけど、いつも徒労感が先に立って苦笑いしながら「いや、中国といっても色々あるからね……」とお茶を濁してしまう。そんな不甲斐ない自分にも腹が立つというか、割り切れない思いを抱いてしまうのです。

今朝の東京新聞に、中国出身の文学者・劉燕子氏へのインタビュー記事が掲載されていました。全文、背筋を正される思いで読みましたが、日本人へ伝えたいこととして「民主主義の貴重さ、一票の尊さ」を考えてほしいということ、そしてこんなことを話されています。

日中は一衣帯水で友好といいますが、本当の友人なら困った人を助けてほしい。前の戦争の贖罪意識に陥って物が言えない人が多いのは知っています。でも不正義に黙っていたら、この罪がさらに加わるのではないでしょうか。

これは痛烈な批判だと思いました。特に私の年代より上の世代の一部には、こうした思考停止に陥っている方は多いようにも感じます。私自身は「友好」だの「一衣帯水」だのという言葉に酔う心性はもうありませんけど、だからといってプリミティブなヘイトにも当然くみしません。私は私の「持ち場」でできることがないかといつも考えています。

私は中国政府の奨学金をいただいて留学の夢をかなえました。それは現在の仕事や暮らしにも深く結びついています。だから中国には恩があります。その恩をどうやって返すか。そのひとつとして、奉職しているいくつかの学校の授業では、教材に様々な立場の華人が発言している実際の音声や映像を使うことを続けてきました。

教室には中国大陸(中華人民共和国)出身・台湾(中華民国)出身の人、さらに中国にルーツを持つ東南アジア出身の人など、様々な華人がいます。せっかくそうした華人圏から離れたいわば「第三者的」な位置にある日本にいるのですから、様々な立場からの発言や主張に接して、よりフラットで公正な視線で自他共に見つめ直してもらえたらいいなと(僭越ながらも)思っているのです。私の「持ち場」ではそういうことができるのではないかと。

政治的な発言もありますし、時には自分が教えられてきた歴史観や価値観とは異なる発言もある。時には学生さんから「センセは台湾が好きなんでしょ」と言われたり、「中国のこうした主張はちょっと……」といった反発や忌避を引き起こすこともあります。そう、これだけネットが発達した現代でも、人間が取捨選択して取り込む情報にはけっこう偏りがあるんですね。そこを意図的に撹拌しようと思っているのです。

それがはたして恩返しになるかどうかは分かりませんが、よりフラットな視線を獲得した華人が増えて、その結果まっとうな批判精神が広まっていったらいいなと思っています。それは長い目で見れば中国にとってもよいことなのではないかと。少なくとも批判、それも善意の批判は、単なるヘイトや悪口とは違って、相手のことをより深く考えるからですよね。

それからもうひとつ。私には知り合いの中国人がたくさんいます。いくら政治や社会の現状が深刻でも、私が単細胞的な「嫌中・反中」あるいはヘイトスピーカーにならないでいられるのは、そうしたひとりひとりの知り合いの顔が浮かぶからです。実際に知らないから、人と人とのつきあいがないから、頭の悪すぎる行動につながっちゃう。私たちはもっと「かの国」を知り、そこの人々とつきあってみるべきだと思います。

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いまからもううんざり

予想はしていましたが、年が明けたらことさらに「オリンピック」を盛り上げようとする声喧しくて、もう本当にうんざりです。ふだんからテレビはあまり見ないのですが、その少ない視聴時間でも「多いな」と感じるんですから、これから先、「本番」が近づくにつれて、もっとやかましくなっていくんでしょうか。

先日は職場の新年挨拶会なるものがあった(賀詞交換会みたいなものです)のですが、立食パーティーのテーブルに並んでいたビール瓶にまで「2020」とか「Olympic」とか、大会のロゴマークなんかがついていて、またまたうんざり。こうやって耳からも目からもお祭り騒ぎの言葉を注ぎ込まれていくことになるんでしょう。他の都市にお住まいの方はまだマシかもしれませんが、東京に住み、都心に通勤している者としては暗然たる気持ちに襲われます。

そんな中、雑誌『世界』の2020年2月号では「オリンピックへの抵抗」という特集が組まれていました。バルセロナ五輪への出場経験がある元サッカー選手で政治学者・社会学者のジュールズ・ボイコフ氏は、五輪を推進する人々は社会的強者の立場からオリンピックを捉えているのに対し、自分は「その負の影響を受ける社会的弱者の立場から理解しようと試みるもの」とした上で、そも今回の東京五輪は開催する必要があったのかとシンプルにこう問います。

IOC会長の)バッハは、オリンピックが日本に結束をもたらすと言いました。でも、彼に訊きたい。日本にはいま、結束力が欠如しているのか、オリンピックで結束感を生まねばならない分断があるのか、と。

本当に、そうですよね。安倍首相は「復興五輪」という言い方を使い、「東日本大震災の被災地の復興を後押しするとともに、復興を成し遂げつつある被災地の姿を世界に向けて発信する」としていますが、五輪で結束を目指すことに巨額の予算をつぎ込むより、大震災や原発事故からの復興と事後処理にこそお金を使うべきです。

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世界 2020年 02 月号 [雑誌]

『ブラックボランティア』や『電通大利権〜東京五輪で搾取される国民』などで以前から今回の五輪に関する問題を指摘し続けてこられた著述家の本間龍氏は、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の無責任ぶりを、公開質問状とその回答を紹介する形で告発しています。その内容は、これまでの著書で明らかにされてきた体質とまったく変わっておらず、むしろその「変わらなさ」がより鮮明になっています。

特に、殺人的な酷暑の中でボランティアや観客が熱中症にかかった場合の責任の所在、つまり具体的に誰がどのように責任を取るのかについては、繰り返し質しても一向に明確にならないという点が本当に度し難いと思いました。マラソン競歩は酷暑を理由に札幌に(IOCの決定を受けてしぶしぶ)移した、つまり危ないということは組織委員会も重々承知しているはずなのね。

これだけ酷暑問題が叫ばれているのに、その対応責任者の名前を出さないのは、万一の場合の責任を不明確にしようとしているとしか考えられない。組織委は五輪終了後、残務処理が終われば解散してしまうのだ。組織が解散すれば、当然責任追及は困難になる。今回の回答で、組織委側はまさにその「逃げ切り」を狙っていることが、一層明確になったのではないか。

この無責任な「逃げ切り」は五輪のみならず、「桜を見る会」でも「モリカケ」でも原発事故でも同じように繰り返されてきたこの国の常套手段です。本当に腹立たしい。なのに私の周囲でも無邪気に「チケットの抽選、当たった?」とか「○○のチケット、取れちゃった」と喜んでいる方や、「ボランティアに参加します。語学枠で使ってもらえるといいんだけど」と言う外国籍の講師がいたりして、何とも複雑な気分になります。

平尾剛氏と尾崎正峰氏の対談も読み応えがありました。平尾氏は元ラグビー日本代表で、以前から「五輪がスポーツをダメにする」と主張されてきた方で、特に五輪にまつわる商業主義や勝利至上主義を批判されています。

スポーツと競争は切り離せませんが、全員が一つの頂きを目指して競い合う状態は異常です。(中略)目先の勝利に振り回されて、スポーツの本質にあるクリエイティビティが喪われている。

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これは運動選手・アスリートこそ率先して考えなければならない問題だと思います。なのに、メディアに登場するトップアスリートたちは「金メダルを目指して」とか「金しか考えていません」みたいなことばかりおっしゃる。さらには「日本を背負って」「日の丸を胸に」のようなことも。

対談では「アスリートの社会的な意味が問われる」と問題提起されています。身体の可能性を極限まで追求したアスリートだからこそ、社会に貢献できるという考え方はとても新鮮です。「ニッポンスゴイ」的な国威発揚ではないところで、ましてや個人的な栄誉のためではないところで社会に関わるのが本当のアスリートのあるべき姿ではないかと。私は「なでしこジャパン」とか「侍ジャパン」などといった物言いが大嫌いなのですが、そうやってアスリートを国威発揚・国民統合的なシンボルとしてひとまとめに持ち上げるのは、アスリートにも、そしてスポーツ文化に対しても失礼ではないでしょうか。

事ここに至って、今回の五輪が中止になることはないでしょうけど、といって、この特集でも指摘されている「もはや回避できないのであれば、よりマシなものにしよう」という気持ちにもなれません。尾崎氏はこう語っています。

今から中止というのは政治的に困難でしょう。といって「どうせやるなら」派にもなりたくない私たちにできることは、ここまで起こったこと、これから起こることを、記憶し、記録して、後で検証できる形で残すことだと思います。

「これから起こること」については、私も東京都内に住み、都心に通勤している当事者ですから、これからも注視していきたいと思います。尾崎氏はこうも語っています。

(五輪招致への立候補を取り下げた都市に)対して東京では、メリットが誇大に強調され、開催による自分たちの生活への影響などの情報が明示されないまま、また、開催費用が際限なく膨れ上がることなど海外で問題視されていた点が広く問われることもなく、何となく話が進んでしまった。

五輪開催にともなう混乱、特に公共交通機関のそれや都心の人混みについては、私もかなり心配です。今だって都心の繁華街は尋常じゃないほどの混雑ぶりを呈しているというのに。今年の夏、私はどこかへ「避難」しようと今から計画しているのですが、都民としてちょっとその混乱っぷりを目に焼きつけておきたいとも思います。……ああ、私もどこか五輪に変な期待をしちゃってる。

サ道とサ旅

タナカカツキ氏のマンガ『サ道』の第三巻を読みました。今回も「サウナ大使」のサウナ愛が炸裂して面白かったですが、日本のサウナに多いドライサウナ、なおかつ騒がしくて明るすぎるサウナが苦手とおっしゃる部分、私も同感です。

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マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(3)

通っているジムにもサウナがあって、ほぼ毎日利用しているんですけど、ここもかなり乾いた感じのサウナで、かつテレビが大音量で流されています。蒸気の感じられないサウナって、頭髪がかなり熱くなるんですが、これって髪や頭皮に影響ないのかしら。サウナハットを持っていくのは面倒なので私は濡らしたタオルを頭に巻いていますが、周りの人はほとんど何もしてらっしゃいません。

テレビの音量ももう少し小さいといい、というか、せっかくサウナに入っているんだからテレビなんかいらないんですけど、これも要望が多いのかな。先日はスピーカーの調子が悪いとのことでかなり小さな音になっており「おわび」の張り紙がしてありましたけど、あれくらいがちょうどいいです。もっとも数日のうちに修理されちゃって元の大音量に戻ってしまいましたが。

Kindle版の『サ旅』も一緒に買って読みました。なぜか紙の本は売られていなかったので仕方なくKindle版にしましたが、これ、見開きページが別れて表示されるなど、読みにくいです。

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サ旅 ルカ・ヘルシンキ編

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サ旅 ハパランダ編

フィンランドスウェーデンのサウナをめぐるツアーや国際会議のレポートマンガですが、日本のサウナとは随分違う(というか日本のサウナが独自の進化を遂げているらしいのですが)サウナ文化を感じることができます。特に薄暗く静かなサウナに立ち込める蒸気と熱気の描写がとてもリアルで、昨年の夏に入ったフィンランド各地のサウナの、その「におい」がよみがえってきました。

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「ルカ・ヘルシンキ編」の最終章で、ヘルシンキ市内の公衆サウナ「Kotiharjun Sauna」について、こんな描写が出てきます。

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あああ、残念……ご縁がなかったですね。私が行ったときは、お店の方もお客さんもとても親切でした。また訪れてみたいです。

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プラスチックマトリョーシカ

ネットで検索していて「プラスチックマトリョーシカ」という言葉を見つけました。日本におけるプラスチックやビニールなどによる過剰包装を形容した言葉です。うまいことおっしゃるなあ。記事を書かれているのは、現在フィンランドに留学されている日本の大学生さんだそうです。

たしかに、日本では包装に何重ものプラスチックやビニールなどが使われていますよね。現代では日本に限らず、いえ、フィンランドだってスーパーに行けばプラスチック包装があふれていますけど、日本のそれはちょっと異様なほどだと思います。

このブログでも何度か書いてきた、あの「薄いビニール袋」との戦い(その①その②その③その④)などまだマシなほうで、スーパーによっては(特にデパ地下のそれなど)もともと発泡スチロールとプラスチックフィルムに包まれているパックを「薄いビニール袋」に入れ、さらに保冷剤を入れるためのビニールをくれ、レジ袋を避けようと思って紙袋を所望したらたまたま雨天だったので「雨除け用のビニール袋」まで付けてくれようとしたり……まさにマトリョーシカ状態。で、それらを全部断ると怪訝な視線を返されたり……異様です。

私は夕飯の支度が面倒なときは、たいてい鍋か手巻き寿司にしちゃいます。作りながら食べるぶん支度が楽になるからですけど、安い切り落としの刺身でさえ立派なプラスチックのパックに入っていて、毎回それがゴミとなってしまうのに心が痛みます。こういうのを「使い回し」して、例えばパックを持参してそこに詰めてもらうみたいなことができればいいんですけど、魚屋さんならともかくスーパーでは現実的ではないですよね。昔は鍋を持って豆腐屋さんへ出かけたなんての、私くらいの年代でも経験がある方はいると思いますけど、ああいう買い方はもうほとんど姿を消してしまいました。

昨日ご紹介した劉永龍氏の講演でも、私たちができることのひとつとして「Refill(詰め替え)」を提唱していて、「私たちが子供の頃は“打醬油”してましたよね」とおっしゃっています。“打醬油”というのは、瓶を持ってお店に行き、醤油を詰めてもらう買い方です。NHKの『世界ふれあい街歩き』で、たしかイタリアの街角だったか、大きなボトル(これはプラスチックでしたけど)を持ってワインを買いに行くシーンがありました。日本にも上陸したフランスのオーガニックスーパー「ビオセボン」などでは量り売りをやっていますし、他にも東京ではいろいろな量り売り店が登場しつつありますけど、まだまだほんの一部の動きです。それに、少々お高い、お高すぎる……。

www.timeout.jp

結局、大量のプラスチックやビニールを使うほうがコスト面からは合理的ということになっちゃうんですね。でもそれも遠い将来までを見据えたスパンで考えてみれば、環境破壊のツケは膨大なコストとなって私たちに跳ね返ってくるはずです。ともあれ、マイバッグや「お出かけセット」を持参するとか、ペットボトルを買わないなどの行動からひとつひとつ始めて行くしかありません。そして日本のこの「プラスチックマトリョーシカ」については、これはいますぐにでもまずレジ袋の有料化(それもけっこう高額に)から改善を始めるべきだと思います。もう随分前から言われていることですけど。

あと、上掲の記事にも書かれていた、フィンランドにおける缶や瓶のデポジット。これもとりあえずすぐに取り組める方策ではないかと。……とはいえ、これも私が学生だった大昔からずっと提唱されていながら、なかなか大規模な形で普及・実現しないんですよね。下の写真は、フィンランドの地方都市・クオピオのスーパーで撮影したリサイクルコーナーです。この機械に瓶や缶やペットボトルを入れると、自動で計算されてレシートが出てきて、それはスーパーの金券として使えるのです。

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海洋ゴミに関する通訳教材

留学生の通訳クラスで、こんな映像を教材に使ってみました。いま大きな問題になりつつある「海洋ゴミ」をテーマにした講演です。


【一席】劉永龍:海洋垃圾為什麼是個問題

いま現在わたしたちが直面している、待ったなしの課題を扱っています。こうした内容を教材にするのは、事前に配布する資料の準備も含めてかなり骨が折れるのですが、新しい内容だけに自分も勉強しなければならず、その点では約得かなとも思います。エラそうに教えるだけじゃなくて、自分にもなにか新しい発見がないと、仕事が面白くないです。

学校側からは別に、常に新しい教材で授業をするように言われているわけではありません。単に「ありもの」の教材でお茶を濁しておいても授業にはなりますし、「ありもの」だって中国語であることには変わりないんですから、訳すという作業自体は意味があるんです。でも、とにかく中国語圏の社会の変化、人々の意識の変化は凄まじい勢いで進んでいるので、数年前に作った教材がやけに古臭く感じられてしまう。生徒さんはどうかわからないけど、私自身が古臭く感じてしまって、教材として使っていても面白くないんです。

なんだか生徒さんのためでなく自分のために授業をしているようなもので、給料をもらっておきながら申し訳ないような気もしてきますが、でも教師自身に学びがあるというのは、けっこう大切なことではないかとおもっています。

この講演では、海洋ゴミの現状と今後の展望、そして私たちひとりひとりができることについて語られています。特に海洋ゴミが存在する三つの場所、つまり海底・海面・海岸に加えて「第四の場所」がある――それは動物の体内だ(しかも人間もその例外ではない)というくだりはとても印象に残ります。これについては、この講演でも紹介されているドキュメンタリー映画『Midway』(トレイラーはこちら)が有名ですが、CNNのこちらの番組でも概要を知ることができます(英語)。


Midway, a plastic island

冒頭の動画で講演を行っている劉永龍氏は、「私たちは地球を救うのではない、自分自身を救うのだ」とおっしゃっています。とても考えさせられる内容です。中国語が分かる方はぜひご覧いただきたいと思います。

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雪が「hi-la-ha-la」と降ってくる

なにかの外語を学んで「達人」の域に達した方が、自分の母語と比較してその外語を語っている文章を読むのが好きです。どうやって外語を学ぶのかというヒントが見つかるのもさることながら、そうした方、例えばそれが日本語母語話者であれば、その視点は母語である日本語のありようにも深い眼差しが注がれているからです。そう、外語を学ぶということは、すぐれて自らの母語を見つめ直す営みでもあるんですよね。

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先日は、昭和28年に文部省から出版された吉川幸次郎氏の『国語のために』という小冊子を読んでいたら、「かなづかい論」という一章に「日本語の表記法が、発音をそのままに表記しうることを特徴とする」点を説明するための対照として、中国語のこんな例が引かれていました。

たとえば、雪のふるのを形容する中国語として、hi-la-ha-la とききとれることばがある。こどもでも、しょっちゅういうことばである。しかしそれに対する漢字はまだできていない。したがって、それが中国の記載に現れることはまれである。むりに記載しようとすれば、むりなあて字をしなければならない。こうした擬態語(オノマトペイア)で、中国の口頭語としては活発に使われながらも、表記すべき文字がないために、記載に現れないものは、無数にあると思われる。

なるほど、吉川氏がこの言葉を聞き取っておられたのは北京だそうですが、北京の土着の言葉に音だけがあって漢字がないというものはたくさんある(あった)ということですね。これは他の地方における土着の言葉もそうで、例えば台湾語にも漢字で表記できない言葉がたくさんあるそうです。漢字を当てたり、新たな漢字を作ったり、アルファベットと交ぜ書きしたりといった様々な試みが行われているそうですが、いわゆる正書法というものがまだ確立されていない言語なんですね(参照:台湾語 - Wikipedia)。

それはさておき、この「hi-la-ha-la」というオノマトペが面白いなと思いました。現代のピンインに「hi」という音はなく、ピンイン以前に広く使われたウェード式の表記にもないようです。もとより表記するすべがない言葉なんですから仕方がないですが、この北京語(北京土語)は現在でも使われているのでしょうか。現在では漢字のあて字が存在するのかもしれませんが、どのように表記するのでしょうか。ちょっとネットで検索してみたんですけど、結局分かりませんでした。今度、北京出身の方に聞いてみようと思います。

中国語のオノマトペでは、似たものに“劈里啪啦(pīlipālā)”というのがあって、これは「パチパチ」とか「パラパラ」にあたります。爆竹がはぜる音とか、そろばんを弾く音とか、そんな感じ。「hi-la-ha-la」の「hi」は、もしかしたら現在のピンインでんの「xi」かもしれません。“细啦哈啦”とか書きそう(検索してみたけど、当然見つかりませんでした)。“唏哩哗啦(xīlihuālā)”という言葉はありますけど、これはどちらかというと雨がザーザー降る感じで、雪が静かにしんしんと降る感じはないような気がします。まあこれも私個人の語感なので、ネイティブスピーカーに確かめてみましょう。

いま雪が「しんしん」と降る、と書きましたけど、日本語における降雪のオノマトペは「しんしん」以外に何がありますかね。思いつくところでは「ひらひら」「さらさら」「ちらほら」くらいですけど、いずれも軽い感じ。東京ではあんまり雪は降らないですし。でも豪雪地帯の方言にはもっと豊かな表現があるかもしれません。さっき検索してみたら「ぱやぱや」「もすもす」が見つかりました。なるほど、なんとなくどんな雪が降っているのかが分かります。これは母語だから分かるんですよね。中国語にも“沙沙(shāshā)”とか“簌簌(sùsù)”とか“窸窸窣窣(xīxīsūsū)”とか“淅淅沥沥(xīxīlìlì)”といった雪が降る音のオノマトペがありますけど、その語感の軽重を断定できる自信はありません(いずれも軽い感じはしますけど)。

吉川幸次郎氏がききとった「hi-la-ha-la」は、「ひらはら」と書けばなんとなく日本語のオノマトペみたいな感じもあります。「雪がひらはらと降ってきた」。うん、けっこう通じそうです。

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追記

上述したオノマトペのくだりに続いて、こんなことも書かれています。

ひとりそうした擬態語ばかりではない。日常に使われる動詞にも、そうしたものは、だいぶあるらしい。たとえば、ひっぱる to pull という意味のことばとして、dai の去声にききとれることばがある。また居住する to stay という意味のことばとして、やはり dai、そうしてこれは平声の dai にきこえることばがある。いずれも北京では日常のことばである。しかしそれが記載に現れることは、ほとんどまったくない。それらの概念に呼応しつつ、これらの音声の表記となるべき文字が、まだできていないからである。

これも面白いですね。後者の「居住する」をあらわす「dai」は現代中国語で“呆(dāi)”もしくは“待(dāi)”があります。吉川氏がききとった当時は当て字がなかったものの、その後これらに落ち着いたのでしょうか。前者の「ひっぱる」をあらわす「dai」は思いつきません。ネットで検索してみたら北京の方言で“扥(dèn)”というのがあって、これが「ひっぱる」の意味なんだそうですけど、ちょっと音が違いますよね。これもネイティブスピーカーに確かめてみたいと思います。

「次の時代に生きていける」スキルって?

いつも拝見している、ちきりん氏のブログで、昨年末にこんな記事が公開されていました。

chikirin.hatenablog.com

中高年が大量にリストラされる時代がやってきたというのがお話の前提で、中高年の私には切実な話題です。ちきりん氏によれば、それは世界全体で構造的な「仕事の変化」が起こりつつあるからであり、ホワイトカラーに代表される「会社や上司から言われたこと=指示されたことを(できるだけ正確に、かつ素早く)やる」スキルが求められる時代から、「何をやるべきか=何をやれば価値があるのか? 市場は何を求めているのか?」を自分で考える必要のある時代へ移行しつつあるからだとして、こう結論づけておられます。

なぜなら次の時代に生きていけるのは、
・研究レベルの探究心を注ぎ込める専門性(博士号が最低限)を持てる人か、
・時代の波を見極めて、新しい価値を人に先駆けて認知していける人
のどっちかだと思ってるから。

確かに、コンピュータやIT技術の発展・進化がオフィスワークをどんどん変えつつあり、その意味でこれまでのようなホワイトカラーが必要なくなりつつある。だからリストラも大規模に行われつつあり、その動きは今後拡大・加速していくかも知れない……という懸念はよく分かります。要するに、これまでの歴史の中で何度か起こってきた働き方のパラダイムシフトがまた起こる、というお話です。

記憶がおぼろげなのですが、子供の頃好きだったアニメ『母を訪ねて三千里』に確かこんなシーンがありました。主人公マルコが家計を助けようと酒瓶を洗うアルバイトをしていたのですが、ある日突然その仕事がなくなってしまうんです。理由は「瓶を洗う機械」が発明されたからでした(YouTubeで検索してみたら、ありました)。産業革命の波がイタリアのジェノバにも容赦なく押し寄せていたんですね。

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https://www.youtube.com/watch?v=fWUGob48cA4

私自身も、かつて存在した写植や版下作成という仕事がDTPの登場で驚くほど短期間のうちになくなってしまったのを目の当たりにしました。ですから、今後多くの人々の働き方が従来の常識とはまったく違ったものになっていくかもしれないという危機感はよくわかるのですが、ただ、ちきりん氏のこの結論はやや大雑把にすぎるのではないかとも思います。

なぜなら、みんながみんなそういう選択を迫られる立場にあるわけではないし、またその必要もないのではないかと思うからです。これは「グローバル化」への対応とか、グローバル化に伴う英語習得の必要性を強調する論調にもよく認められるものいいなのですが、「バスに乗り遅れるな」とばかりに煽るこうした論調のほとんどは、広く多様なこの社会の状況をかなり単純化して捉えているように思います。

みんながみんな「時代の波を見極めて、新しい価値を人に先駆けて認知してい」こうとしたら、たぶん社会は機能不全に陥ります。「人に先駆ける」ということは、必然的に「先駆けられない人」をも生む。要するに「勝ち組・負け組」を生むということで、これは全員がゼロサムゲームのギャンブルに参加するようなものなんですよね。でも現実の社会には、私たちの暮らしを持続可能ならしめるための様々なルーチンワークが存在します。それらはまさに「会社や上司から言われたこと、指示されたことを、できるだけ正確に素早くやろう」と努力する多くの人々によって担われているのです。

グローバル化や英語学習についても同じで、この国ではもうかなり前から、まるでここ数年から十数年のうちに社会全体がグローバル化し(……って、どんな社会? 意味が曖昧すぎますが)、誰もが英語を駆使して仕事をしなければならないと思っているかのように、それらに対応すべく幼児期からのスキルアップに躍起になっています。確かにそういう人もある程度は必要でしょう。でもそれの何倍、何十倍という人々にも、これからも英語は使わないながらも担うべきたくさんの仕事があるのです。

広範な社会の現場には様々な人材が必要です。まして人には向き不向きも、好き嫌いもある。社会の隅々で、様々な役割を果たせるような多様な人材を育てていくことこそ教育の目的だと思います。その意味で、幼児期から英語だ投資だプログラミングだと、豊かな教養や情操の涵養そっちのけで教育をいじりまくることに私は強い懸念を覚えます。多様な人材はそうした個別具体的な目的一辺倒の教育からは生まれてこないと思うからです。

qianchong.hatenablog.com

みんながみんな、新しい価値を人に先駆けて認知し、英語を駆使して世界中を飛び回らなくていい……というか、そんなことは不可能だし不必要でもあります。もちろん一部の成功者だけが「総取り」をするような仕組みに歯止めをかけ、格差を是正することは必要です。だからといって「次の時代に生きていける」スキルはこれとこれだけ! と断じるだけでは、大きなものを見落とすのではないでしょうか。冒頭に載せた記事を読んで、そんなことを感じました。