インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「英会話時代」という狂奔を前にして

見逃していた『クローズアップ現代+』の「どう乗り切る?英会話時代」を、NHKオンデマンドで見ました。

www.nhk-ondemand.jp

外国人観光客や労働者の急増を見据えて、社会の各層で英会話熱が盛んになっているという話題。メイドカフェ外食チェーン、観光タクシー業での英会話研修をはじめとして、マンツーマン特訓やフィリピン留学、オンライン学習による個人の英会話学習、さらには小学校低学年から大学入試までにおよぶ英語教育改革など多岐にわたる現状が紹介されていました。

30分という短い時間、それもテレビ番組ということで、全体としては情報量はそれほど多くなかったのですが、それでもロバート・キャンベル氏が英語教育格差の問題やスピーキングだけを切り出すような大学入試改革に懸念を述べたり、鳥飼久美子氏がコミュニケーション重視の一方で文法軽視が進めば薄っぺらな英会話にしか帰着しない(英会話にすらならない)と警鐘を鳴らしたり、英会話熱の光と影をまんべんなく伝えてはいた、という印象でした。

ただ、あまりにも「まんべんなさすぎる」のと、NHKならではの問題提起のソフトさ(忖度?)とが相まって、そも我々がどうしてここまで英語学習、なかんずく英会話に「狂奔」しなければならないのか、する必要があるのかについてはほとんど斬り込まれておらず、最後は武田真一アナウンサーが「私も……(英会話学習を)やんなきゃいけないな、と思いました」という自分への叱咤(?)でうまいことまとめちゃって、どうにも隔靴掻痒感が否めませんでした。

とはいえ、その直前にロバート・キャンベル氏が、「国民等しく(英会話が)ペラペラになる必要はそもそもない」とおっしゃっていて、そこに救いを感じました。でもこれも、その深い意味が広範に届くことはなく、むしろ英語格差をなくすためにはこれまで以上に英語教育を、それも英会話を中心としたスピーキング・アウトプット重視の教育を全世代で……という声にかき消されてしまうのかもしれません。

そうした声はたとえばこの番組でも、吉田研作氏が述べられていた「英語を恥ずかしがらずに、上手い下手の問題じゃなくて、とにかく使ってコミュニケーションする。(中略)単にインプットしただけで終わっているんじゃなくて、そのインプットしたものを使うことによって検証しているわけですよね。検証することによって定着がはかれるんですよね」という素朴な外語観にも表れています。とにかく外語は「使ってナンボ」であり、コミュニケーションが至上だと。

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私も外語は「使ってナンボ」のもんだと思いますけど、だからといって外語を使ってのコミュニケーションだけが外語学習の最重要課題だとは思いません。外語を学ぶとは、外語と自らの母語との往還を通して母語を、ひいては母語で切り取っているこの世界すべて・森羅万象すべての見方や感じ方・考え方を豊かにし、深化させていくことです。

そして母語とは違う世界の切り取り方をする外語の世界観を知ることで、異文化とは・異民族とは何かを知ることです。それはその人の人生観や価値観、さらには過去の歴史に対する考え方や、未来の人類に対する展望などにも関わってくるはず。こちらのほうが、ひとりひとりの日本人にとって英会話が「ペラペラ」になることよりも千倍重要なことだと思います。しかもその際に学ぶ外語は英語でなくてもいい。いやむしろ英語だけであってはいけないと思います。

世界がグローバル化しつつあり、日本人が外国人と接触する機会も激増するとはいえ、数年のうちに日本がグローバルに溶け込む・溶け込めるわけではないのです。これからも長くこの国の多くの人々は日本語という母語で暮らしを成り立たせていかなければならず、グローバル化しつつあるからこそ逆に日本語という母語を使っていまここに生きている私たちは何者であるのかというその「よってたつところ」をひとりひとりが確かな形でその手につかまなければなりません。

その意味では外語学習の究極の目標は母語の深化でなければなりません。そういった、ひとりの人格を陶冶するための手段としてこそ外語学習は――特に小中学校におけるそれは――位置づけられるべきではないでしょうか。考えてみれば当たり前のような気もしますけど、なんだか現在の早期英語教育をめぐる騒動を眺めていると、どうもそういう視点がすっぽり抜け落ちているような気がします。

異文化とは何か、異民族とはどんな人々か、言葉の壁を越えるとはどういうことか、言葉の異なる人々とどうつきあい、どう共生していくのか……。そんな「異文化・異言語リテラシー」とでも呼ぶべきスキル、格差や非寛容やヘイトの暗雲が立ちこめつつある現代に生きる私たちに必須のスキルを身につけるための外語学習であってほしい。

そのうえで、学問や仕事のためにツールとしての外語が必要になった人は、それが必要になった段階から、じゅうぶんにコミュニケーションのツールたり得る外語を習得するべく寝食を忘れて・死にもの狂いで学ぶべきです。

ご自身も長い時間をかけて日本語を学んでこられたロバート・キャンベル氏の「国民等しくペラペラになる必要はない」という言葉は、このような脈絡でもって捉えるべき言葉だと私には感じられましたが、朝野をあげての英会話熱という「狂奔」の前でこんな七面倒くさいことを言っても、それこそ珍獣でも見るような目線で遇されちゃうでしょうね。

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