政府が前のめりになっている外国人労働者受け入れの拡大政策について、作家の室井佑月氏が『週刊朝日』に寄稿されています。
差別がいかに恥ずかしいかという教育がなされないまま外国人労働者を呼んでしまうことは、この国の逆広報にならないか。
う~ん、確かに。現状でさえ「現代の奴隷制度」として批判されている外国人技能実習生制度の実態把握や改善もなされないまま、拙速に外国人労働者の受け入れを拡大すれば、新たな、そしてより規模の大きい差別や格差を生み出すことになるのではないでしょうか。
昨日、『クローズアップ現代+』の「どう乗り切る?英会話時代」という、英会話学習熱の高まりを取材した番組について書きました。私の念頭にあったのは、英語を話せるようになってグローバルな世界に飛び込みたいと熱に浮かされるかのように狂奔している一方で、その根底にあるべき異文化や異民族への理解、そうした理解を支えるリテラシー教育に目が向けられていないのではないかという疑問でした。
室井佑月氏の懸念は、そのまたさらに根底にあるべき、差別がいかに恥ずかしいか、違いや多様性を認めるとはどういうことか、言語も風習も習慣も違う「隣人」とどうつきあっていくのか……についての教育が手薄なのではないかという指摘です。教育を受けている子供たちのみならず、すでに教育を受ける段階を終えたにもかかわらず現代の世界と向き合うにふさわしい教養を備えていない人間が多すぎるのではないか、まずはそこをただすべきではないかと。
https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_666.html
先日はこんな記事にも接しました。
日本に住む多くの外国人は、電車やバスに乗るとき、あるいは、カフェや公共の場にいるあいだ、多くの日本人が自分のそばに座らないという空席問題をある程度経験しているだろう。
異文化や異民族に対するリテラシーが、私たちの中にいかに涵養されていないかを如実に物語る指摘ですが、この記事に寄せられたコメント欄を見るとさらに心が重くなります。多くの方がこの記事に対して否定的なコメントを寄せ、なおかつその理由も「外人は臭い、身体が大きくて窮屈、声が大きすぎる」などの、なんというか素朴で、ナイーブで、プリミティブ過ぎるものが目立つのです。
日常的に外国人と接する環境にこの四半世紀ほど身を置いてきた私も、正直に申し上げて、時に街で見かける外国人の「自分の肌感覚とは相容れないふるまい」に心ざわめくことはあります。というか、異文化や異民族と接するということは、大なり小なりの「そうしたこと」の連続だといってもいいと思います。
でも私は「そうしたこと」に遭遇する中で、そしてまた外語を学んで母語と往還する中で、自分のものの見方考え方が変わってきましたし、自分の奥深くに執拗に居残っていた根拠の薄い差別意識や非寛容さなどが解きほぐされてきたという実感もまたあります。
少子高齢化と急激な人口減少が併走していく日本社会の今後のあり方は、好むと好まざるとにに関わらず外国人との共生に向かって進んでいくでしょう。そんな状況を目の前にして、もっと根本的な、しかも今とこれからの時代に即した「異文化リテラシー」をはぐくむ教育を長いスパンで考えるような政策が必要だと思います。
「夫婦は仲良くしようね、周りのみんなとも仲良くしようね」という趣旨があるから「教育勅語」の復活だ、みたいな超弩級にプリミティブな政策なんかではなくてですね。