インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

中国には恩がある

私、中国は「大好きだけれど大嫌い」です。「愛憎相半ばする」という言葉がありますけど、中国に留学していた当時から今に至るまで、ずっとそんな感情を抱いて過ごしてきました。中国に留学する前は単に「大好き♥」だったので、やはりこれはかの地に長く暮らしてみてはじめて芽生えた感情です。

Wikipediaの「憎悪」の項には「愛憎相半ばする」について「人は、子供のころは、ある対象に対して愛ばかりを感じたり、反対に憎しみばかりを感じるが(心理学用語で言う「スプリッティング」な状態)、大人になると成長してアンビバレントになり、同じ対象Aに対して、愛情を感じつつも、同時に憎しみを感じる、という状態にもなる」と書かれていました。なるほど、私は中国で多少は「大人」になったわけですね。

しかし「中国が好き」あるいは「中国が嫌い」という言い方は、あまりにも粗雑であるかもしれません。そこで用いられる「中国」は中国という国のことなのか、中国政府のことなのか(それもいつの時代の)、中国文明なのか、中国人なのか、あるいは中国的な世界観なのか、あるいはそれらの具体的にどういった部分についての思いなのか……それを明らかにしないまま中国が好き、あるいは嫌いと言っても、そして人と議論をしてもあまり意味がないように思います。

たまに実家に帰省などすると、家族や親戚の一部から「中国関係の仕事をしているんだって?」に続いて中国への批判的な言葉を聞かされることがあります。それは例えば、現在の香港情勢に絡んでであったり、ウイグル族チベット族への弾圧に憤ってであったり、あるいはもっとプリミティブな予断と偏見であったりするのですが、そんなときにどう返したり対応したりすればいいものかと、いつも戸惑います。

語ろうと思えば、そして予断や偏見や誤解を正そうとすればできるし、やればいいんですけど、いつも徒労感が先に立って苦笑いしながら「いや、中国といっても色々あるからね……」とお茶を濁してしまう。そんな不甲斐ない自分にも腹が立つというか、割り切れない思いを抱いてしまうのです。

今朝の東京新聞に、中国出身の文学者・劉燕子氏へのインタビュー記事が掲載されていました。全文、背筋を正される思いで読みましたが、日本人へ伝えたいこととして「民主主義の貴重さ、一票の尊さ」を考えてほしいということ、そしてこんなことを話されています。

日中は一衣帯水で友好といいますが、本当の友人なら困った人を助けてほしい。前の戦争の贖罪意識に陥って物が言えない人が多いのは知っています。でも不正義に黙っていたら、この罪がさらに加わるのではないでしょうか。

これは痛烈な批判だと思いました。特に私の年代より上の世代の一部には、こうした思考停止に陥っている方は多いようにも感じます。私自身は「友好」だの「一衣帯水」だのという言葉に酔う心性はもうありませんけど、だからといってプリミティブなヘイトにも当然くみしません。私は私の「持ち場」でできることがないかといつも考えています。

私は中国政府の奨学金をいただいて留学の夢をかなえました。それは現在の仕事や暮らしにも深く結びついています。だから中国には恩があります。その恩をどうやって返すか。そのひとつとして、奉職しているいくつかの学校の授業では、教材に様々な立場の華人が発言している実際の音声や映像を使うことを続けてきました。

教室には中国大陸(中華人民共和国)出身・台湾(中華民国)出身の人、さらに中国にルーツを持つ東南アジア出身の人など、様々な華人がいます。せっかくそうした華人圏から離れたいわば「第三者的」な位置にある日本にいるのですから、様々な立場からの発言や主張に接して、よりフラットで公正な視線で自他共に見つめ直してもらえたらいいなと(僭越ながらも)思っているのです。私の「持ち場」ではそういうことができるのではないかと。

政治的な発言もありますし、時には自分が教えられてきた歴史観や価値観とは異なる発言もある。時には学生さんから「センセは台湾が好きなんでしょ」と言われたり、「中国のこうした主張はちょっと……」といった反発や忌避を引き起こすこともあります。そう、これだけネットが発達した現代でも、人間が取捨選択して取り込む情報にはけっこう偏りがあるんですね。そこを意図的に撹拌しようと思っているのです。

それがはたして恩返しになるかどうかは分かりませんが、よりフラットな視線を獲得した華人が増えて、その結果まっとうな批判精神が広まっていったらいいなと思っています。それは長い目で見れば中国にとってもよいことなのではないかと。少なくとも批判、それも善意の批判は、単なるヘイトや悪口とは違って、相手のことをより深く考えるからですよね。

それからもうひとつ。私には知り合いの中国人がたくさんいます。いくら政治や社会の現状が深刻でも、私が単細胞的な「嫌中・反中」あるいはヘイトスピーカーにならないでいられるのは、そうしたひとりひとりの知り合いの顔が浮かぶからです。実際に知らないから、人と人とのつきあいがないから、頭の悪すぎる行動につながっちゃう。私たちはもっと「かの国」を知り、そこの人々とつきあってみるべきだと思います。

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いまからもううんざり

予想はしていましたが、年が明けたらことさらに「オリンピック」を盛り上げようとする声喧しくて、もう本当にうんざりです。ふだんからテレビはあまり見ないのですが、その少ない視聴時間でも「多いな」と感じるんですから、これから先、「本番」が近づくにつれて、もっとやかましくなっていくんでしょうか。

先日は職場の新年挨拶会なるものがあった(賀詞交換会みたいなものです)のですが、立食パーティーのテーブルに並んでいたビール瓶にまで「2020」とか「Olympic」とか、大会のロゴマークなんかがついていて、またまたうんざり。こうやって耳からも目からもお祭り騒ぎの言葉を注ぎ込まれていくことになるんでしょう。他の都市にお住まいの方はまだマシかもしれませんが、東京に住み、都心に通勤している者としては暗然たる気持ちに襲われます。

そんな中、雑誌『世界』の2020年2月号では「オリンピックへの抵抗」という特集が組まれていました。バルセロナ五輪への出場経験がある元サッカー選手で政治学者・社会学者のジュールズ・ボイコフ氏は、五輪を推進する人々は社会的強者の立場からオリンピックを捉えているのに対し、自分は「その負の影響を受ける社会的弱者の立場から理解しようと試みるもの」とした上で、そも今回の東京五輪は開催する必要があったのかとシンプルにこう問います。

IOC会長の)バッハは、オリンピックが日本に結束をもたらすと言いました。でも、彼に訊きたい。日本にはいま、結束力が欠如しているのか、オリンピックで結束感を生まねばならない分断があるのか、と。

本当に、そうですよね。安倍首相は「復興五輪」という言い方を使い、「東日本大震災の被災地の復興を後押しするとともに、復興を成し遂げつつある被災地の姿を世界に向けて発信する」としていますが、五輪で結束を目指すことに巨額の予算をつぎ込むより、大震災や原発事故からの復興と事後処理にこそお金を使うべきです。

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世界 2020年 02 月号 [雑誌]

『ブラックボランティア』や『電通大利権〜東京五輪で搾取される国民』などで以前から今回の五輪に関する問題を指摘し続けてこられた著述家の本間龍氏は、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の無責任ぶりを、公開質問状とその回答を紹介する形で告発しています。その内容は、これまでの著書で明らかにされてきた体質とまったく変わっておらず、むしろその「変わらなさ」がより鮮明になっています。

特に、殺人的な酷暑の中でボランティアや観客が熱中症にかかった場合の責任の所在、つまり具体的に誰がどのように責任を取るのかについては、繰り返し質しても一向に明確にならないという点が本当に度し難いと思いました。マラソン競歩は酷暑を理由に札幌に(IOCの決定を受けてしぶしぶ)移した、つまり危ないということは組織委員会も重々承知しているはずなのね。

これだけ酷暑問題が叫ばれているのに、その対応責任者の名前を出さないのは、万一の場合の責任を不明確にしようとしているとしか考えられない。組織委は五輪終了後、残務処理が終われば解散してしまうのだ。組織が解散すれば、当然責任追及は困難になる。今回の回答で、組織委側はまさにその「逃げ切り」を狙っていることが、一層明確になったのではないか。

この無責任な「逃げ切り」は五輪のみならず、「桜を見る会」でも「モリカケ」でも原発事故でも同じように繰り返されてきたこの国の常套手段です。本当に腹立たしい。なのに私の周囲でも無邪気に「チケットの抽選、当たった?」とか「○○のチケット、取れちゃった」と喜んでいる方や、「ボランティアに参加します。語学枠で使ってもらえるといいんだけど」と言う外国籍の講師がいたりして、何とも複雑な気分になります。

平尾剛氏と尾崎正峰氏の対談も読み応えがありました。平尾氏は元ラグビー日本代表で、以前から「五輪がスポーツをダメにする」と主張されてきた方で、特に五輪にまつわる商業主義や勝利至上主義を批判されています。

スポーツと競争は切り離せませんが、全員が一つの頂きを目指して競い合う状態は異常です。(中略)目先の勝利に振り回されて、スポーツの本質にあるクリエイティビティが喪われている。

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これは運動選手・アスリートこそ率先して考えなければならない問題だと思います。なのに、メディアに登場するトップアスリートたちは「金メダルを目指して」とか「金しか考えていません」みたいなことばかりおっしゃる。さらには「日本を背負って」「日の丸を胸に」のようなことも。

対談では「アスリートの社会的な意味が問われる」と問題提起されています。身体の可能性を極限まで追求したアスリートだからこそ、社会に貢献できるという考え方はとても新鮮です。「ニッポンスゴイ」的な国威発揚ではないところで、ましてや個人的な栄誉のためではないところで社会に関わるのが本当のアスリートのあるべき姿ではないかと。私は「なでしこジャパン」とか「侍ジャパン」などといった物言いが大嫌いなのですが、そうやってアスリートを国威発揚・国民統合的なシンボルとしてひとまとめに持ち上げるのは、アスリートにも、そしてスポーツ文化に対しても失礼ではないでしょうか。

事ここに至って、今回の五輪が中止になることはないでしょうけど、といって、この特集でも指摘されている「もはや回避できないのであれば、よりマシなものにしよう」という気持ちにもなれません。尾崎氏はこう語っています。

今から中止というのは政治的に困難でしょう。といって「どうせやるなら」派にもなりたくない私たちにできることは、ここまで起こったこと、これから起こることを、記憶し、記録して、後で検証できる形で残すことだと思います。

「これから起こること」については、私も東京都内に住み、都心に通勤している当事者ですから、これからも注視していきたいと思います。尾崎氏はこうも語っています。

(五輪招致への立候補を取り下げた都市に)対して東京では、メリットが誇大に強調され、開催による自分たちの生活への影響などの情報が明示されないまま、また、開催費用が際限なく膨れ上がることなど海外で問題視されていた点が広く問われることもなく、何となく話が進んでしまった。

五輪開催にともなう混乱、特に公共交通機関のそれや都心の人混みについては、私もかなり心配です。今だって都心の繁華街は尋常じゃないほどの混雑ぶりを呈しているというのに。今年の夏、私はどこかへ「避難」しようと今から計画しているのですが、都民としてちょっとその混乱っぷりを目に焼きつけておきたいとも思います。……ああ、私もどこか五輪に変な期待をしちゃってる。

サ道とサ旅

タナカカツキ氏のマンガ『サ道』の第三巻を読みました。今回も「サウナ大使」のサウナ愛が炸裂して面白かったですが、日本のサウナに多いドライサウナ、なおかつ騒がしくて明るすぎるサウナが苦手とおっしゃる部分、私も同感です。

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マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(3)

通っているジムにもサウナがあって、ほぼ毎日利用しているんですけど、ここもかなり乾いた感じのサウナで、かつテレビが大音量で流されています。蒸気の感じられないサウナって、頭髪がかなり熱くなるんですが、これって髪や頭皮に影響ないのかしら。サウナハットを持っていくのは面倒なので私は濡らしたタオルを頭に巻いていますが、周りの人はほとんど何もしてらっしゃいません。

テレビの音量ももう少し小さいといい、というか、せっかくサウナに入っているんだからテレビなんかいらないんですけど、これも要望が多いのかな。先日はスピーカーの調子が悪いとのことでかなり小さな音になっており「おわび」の張り紙がしてありましたけど、あれくらいがちょうどいいです。もっとも数日のうちに修理されちゃって元の大音量に戻ってしまいましたが。

Kindle版の『サ旅』も一緒に買って読みました。なぜか紙の本は売られていなかったので仕方なくKindle版にしましたが、これ、見開きページが別れて表示されるなど、読みにくいです。

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サ旅 ルカ・ヘルシンキ編

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サ旅 ハパランダ編

フィンランドスウェーデンのサウナをめぐるツアーや国際会議のレポートマンガですが、日本のサウナとは随分違う(というか日本のサウナが独自の進化を遂げているらしいのですが)サウナ文化を感じることができます。特に薄暗く静かなサウナに立ち込める蒸気と熱気の描写がとてもリアルで、昨年の夏に入ったフィンランド各地のサウナの、その「におい」がよみがえってきました。

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「ルカ・ヘルシンキ編」の最終章で、ヘルシンキ市内の公衆サウナ「Kotiharjun Sauna」について、こんな描写が出てきます。

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あああ、残念……ご縁がなかったですね。私が行ったときは、お店の方もお客さんもとても親切でした。また訪れてみたいです。

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プラスチックマトリョーシカ

ネットで検索していて「プラスチックマトリョーシカ」という言葉を見つけました。日本におけるプラスチックやビニールなどによる過剰包装を形容した言葉です。うまいことおっしゃるなあ。記事を書かれているのは、現在フィンランドに留学されている日本の大学生さんだそうです。

たしかに、日本では包装に何重ものプラスチックやビニールなどが使われていますよね。現代では日本に限らず、いえ、フィンランドだってスーパーに行けばプラスチック包装があふれていますけど、日本のそれはちょっと異様なほどだと思います。

このブログでも何度か書いてきた、あの「薄いビニール袋」との戦い(その①その②その③その④)などまだマシなほうで、スーパーによっては(特にデパ地下のそれなど)もともと発泡スチロールとプラスチックフィルムに包まれているパックを「薄いビニール袋」に入れ、さらに保冷剤を入れるためのビニールをくれ、レジ袋を避けようと思って紙袋を所望したらたまたま雨天だったので「雨除け用のビニール袋」まで付けてくれようとしたり……まさにマトリョーシカ状態。で、それらを全部断ると怪訝な視線を返されたり……異様です。

私は夕飯の支度が面倒なときは、たいてい鍋か手巻き寿司にしちゃいます。作りながら食べるぶん支度が楽になるからですけど、安い切り落としの刺身でさえ立派なプラスチックのパックに入っていて、毎回それがゴミとなってしまうのに心が痛みます。こういうのを「使い回し」して、例えばパックを持参してそこに詰めてもらうみたいなことができればいいんですけど、魚屋さんならともかくスーパーでは現実的ではないですよね。昔は鍋を持って豆腐屋さんへ出かけたなんての、私くらいの年代でも経験がある方はいると思いますけど、ああいう買い方はもうほとんど姿を消してしまいました。

昨日ご紹介した劉永龍氏の講演でも、私たちができることのひとつとして「Refill(詰め替え)」を提唱していて、「私たちが子供の頃は“打醬油”してましたよね」とおっしゃっています。“打醬油”というのは、瓶を持ってお店に行き、醤油を詰めてもらう買い方です。NHKの『世界ふれあい街歩き』で、たしかイタリアの街角だったか、大きなボトル(これはプラスチックでしたけど)を持ってワインを買いに行くシーンがありました。日本にも上陸したフランスのオーガニックスーパー「ビオセボン」などでは量り売りをやっていますし、他にも東京ではいろいろな量り売り店が登場しつつありますけど、まだまだほんの一部の動きです。それに、少々お高い、お高すぎる……。

www.timeout.jp

結局、大量のプラスチックやビニールを使うほうがコスト面からは合理的ということになっちゃうんですね。でもそれも遠い将来までを見据えたスパンで考えてみれば、環境破壊のツケは膨大なコストとなって私たちに跳ね返ってくるはずです。ともあれ、マイバッグや「お出かけセット」を持参するとか、ペットボトルを買わないなどの行動からひとつひとつ始めて行くしかありません。そして日本のこの「プラスチックマトリョーシカ」については、これはいますぐにでもまずレジ袋の有料化(それもけっこう高額に)から改善を始めるべきだと思います。もう随分前から言われていることですけど。

あと、上掲の記事にも書かれていた、フィンランドにおける缶や瓶のデポジット。これもとりあえずすぐに取り組める方策ではないかと。……とはいえ、これも私が学生だった大昔からずっと提唱されていながら、なかなか大規模な形で普及・実現しないんですよね。下の写真は、フィンランドの地方都市・クオピオのスーパーで撮影したリサイクルコーナーです。この機械に瓶や缶やペットボトルを入れると、自動で計算されてレシートが出てきて、それはスーパーの金券として使えるのです。

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海洋ゴミに関する通訳教材

留学生の通訳クラスで、こんな映像を教材に使ってみました。いま大きな問題になりつつある「海洋ゴミ」をテーマにした講演です。


【一席】劉永龍:海洋垃圾為什麼是個問題

いま現在わたしたちが直面している、待ったなしの課題を扱っています。こうした内容を教材にするのは、事前に配布する資料の準備も含めてかなり骨が折れるのですが、新しい内容だけに自分も勉強しなければならず、その点では約得かなとも思います。エラそうに教えるだけじゃなくて、自分にもなにか新しい発見がないと、仕事が面白くないです。

学校側からは別に、常に新しい教材で授業をするように言われているわけではありません。単に「ありもの」の教材でお茶を濁しておいても授業にはなりますし、「ありもの」だって中国語であることには変わりないんですから、訳すという作業自体は意味があるんです。でも、とにかく中国語圏の社会の変化、人々の意識の変化は凄まじい勢いで進んでいるので、数年前に作った教材がやけに古臭く感じられてしまう。生徒さんはどうかわからないけど、私自身が古臭く感じてしまって、教材として使っていても面白くないんです。

なんだか生徒さんのためでなく自分のために授業をしているようなもので、給料をもらっておきながら申し訳ないような気もしてきますが、でも教師自身に学びがあるというのは、けっこう大切なことではないかとおもっています。

この講演では、海洋ゴミの現状と今後の展望、そして私たちひとりひとりができることについて語られています。特に海洋ゴミが存在する三つの場所、つまり海底・海面・海岸に加えて「第四の場所」がある――それは動物の体内だ(しかも人間もその例外ではない)というくだりはとても印象に残ります。これについては、この講演でも紹介されているドキュメンタリー映画『Midway』(トレイラーはこちら)が有名ですが、CNNのこちらの番組でも概要を知ることができます(英語)。


Midway, a plastic island

冒頭の動画で講演を行っている劉永龍氏は、「私たちは地球を救うのではない、自分自身を救うのだ」とおっしゃっています。とても考えさせられる内容です。中国語が分かる方はぜひご覧いただきたいと思います。

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雪が「hi-la-ha-la」と降ってくる

なにかの外語を学んで「達人」の域に達した方が、自分の母語と比較してその外語を語っている文章を読むのが好きです。どうやって外語を学ぶのかというヒントが見つかるのもさることながら、そうした方、例えばそれが日本語母語話者であれば、その視点は母語である日本語のありようにも深い眼差しが注がれているからです。そう、外語を学ぶということは、すぐれて自らの母語を見つめ直す営みでもあるんですよね。

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先日は、昭和28年に文部省から出版された吉川幸次郎氏の『国語のために』という小冊子を読んでいたら、「かなづかい論」という一章に「日本語の表記法が、発音をそのままに表記しうることを特徴とする」点を説明するための対照として、中国語のこんな例が引かれていました。

たとえば、雪のふるのを形容する中国語として、hi-la-ha-la とききとれることばがある。こどもでも、しょっちゅういうことばである。しかしそれに対する漢字はまだできていない。したがって、それが中国の記載に現れることはまれである。むりに記載しようとすれば、むりなあて字をしなければならない。こうした擬態語(オノマトペイア)で、中国の口頭語としては活発に使われながらも、表記すべき文字がないために、記載に現れないものは、無数にあると思われる。

なるほど、吉川氏がこの言葉を聞き取っておられたのは北京だそうですが、北京の土着の言葉に音だけがあって漢字がないというものはたくさんある(あった)ということですね。これは他の地方における土着の言葉もそうで、例えば台湾語にも漢字で表記できない言葉がたくさんあるそうです。漢字を当てたり、新たな漢字を作ったり、アルファベットと交ぜ書きしたりといった様々な試みが行われているそうですが、いわゆる正書法というものがまだ確立されていない言語なんですね(参照:台湾語 - Wikipedia)。

それはさておき、この「hi-la-ha-la」というオノマトペが面白いなと思いました。現代のピンインに「hi」という音はなく、ピンイン以前に広く使われたウェード式の表記にもないようです。もとより表記するすべがない言葉なんですから仕方がないですが、この北京語(北京土語)は現在でも使われているのでしょうか。現在では漢字のあて字が存在するのかもしれませんが、どのように表記するのでしょうか。ちょっとネットで検索してみたんですけど、結局分かりませんでした。今度、北京出身の方に聞いてみようと思います。

中国語のオノマトペでは、似たものに“劈里啪啦(pīlipālā)”というのがあって、これは「パチパチ」とか「パラパラ」にあたります。爆竹がはぜる音とか、そろばんを弾く音とか、そんな感じ。「hi-la-ha-la」の「hi」は、もしかしたら現在のピンインでんの「xi」かもしれません。“细啦哈啦”とか書きそう(検索してみたけど、当然見つかりませんでした)。“唏哩哗啦(xīlihuālā)”という言葉はありますけど、これはどちらかというと雨がザーザー降る感じで、雪が静かにしんしんと降る感じはないような気がします。まあこれも私個人の語感なので、ネイティブスピーカーに確かめてみましょう。

いま雪が「しんしん」と降る、と書きましたけど、日本語における降雪のオノマトペは「しんしん」以外に何がありますかね。思いつくところでは「ひらひら」「さらさら」「ちらほら」くらいですけど、いずれも軽い感じ。東京ではあんまり雪は降らないですし。でも豪雪地帯の方言にはもっと豊かな表現があるかもしれません。さっき検索してみたら「ぱやぱや」「もすもす」が見つかりました。なるほど、なんとなくどんな雪が降っているのかが分かります。これは母語だから分かるんですよね。中国語にも“沙沙(shāshā)”とか“簌簌(sùsù)”とか“窸窸窣窣(xīxīsūsū)”とか“淅淅沥沥(xīxīlìlì)”といった雪が降る音のオノマトペがありますけど、その語感の軽重を断定できる自信はありません(いずれも軽い感じはしますけど)。

吉川幸次郎氏がききとった「hi-la-ha-la」は、「ひらはら」と書けばなんとなく日本語のオノマトペみたいな感じもあります。「雪がひらはらと降ってきた」。うん、けっこう通じそうです。

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追記

上述したオノマトペのくだりに続いて、こんなことも書かれています。

ひとりそうした擬態語ばかりではない。日常に使われる動詞にも、そうしたものは、だいぶあるらしい。たとえば、ひっぱる to pull という意味のことばとして、dai の去声にききとれることばがある。また居住する to stay という意味のことばとして、やはり dai、そうしてこれは平声の dai にきこえることばがある。いずれも北京では日常のことばである。しかしそれが記載に現れることは、ほとんどまったくない。それらの概念に呼応しつつ、これらの音声の表記となるべき文字が、まだできていないからである。

これも面白いですね。後者の「居住する」をあらわす「dai」は現代中国語で“呆(dāi)”もしくは“待(dāi)”があります。吉川氏がききとった当時は当て字がなかったものの、その後これらに落ち着いたのでしょうか。前者の「ひっぱる」をあらわす「dai」は思いつきません。ネットで検索してみたら北京の方言で“扥(dèn)”というのがあって、これが「ひっぱる」の意味なんだそうですけど、ちょっと音が違いますよね。これもネイティブスピーカーに確かめてみたいと思います。

「次の時代に生きていける」スキルって?

いつも拝見している、ちきりん氏のブログで、昨年末にこんな記事が公開されていました。

chikirin.hatenablog.com

中高年が大量にリストラされる時代がやってきたというのがお話の前提で、中高年の私には切実な話題です。ちきりん氏によれば、それは世界全体で構造的な「仕事の変化」が起こりつつあるからであり、ホワイトカラーに代表される「会社や上司から言われたこと=指示されたことを(できるだけ正確に、かつ素早く)やる」スキルが求められる時代から、「何をやるべきか=何をやれば価値があるのか? 市場は何を求めているのか?」を自分で考える必要のある時代へ移行しつつあるからだとして、こう結論づけておられます。

なぜなら次の時代に生きていけるのは、
・研究レベルの探究心を注ぎ込める専門性(博士号が最低限)を持てる人か、
・時代の波を見極めて、新しい価値を人に先駆けて認知していける人
のどっちかだと思ってるから。

確かに、コンピュータやIT技術の発展・進化がオフィスワークをどんどん変えつつあり、その意味でこれまでのようなホワイトカラーが必要なくなりつつある。だからリストラも大規模に行われつつあり、その動きは今後拡大・加速していくかも知れない……という懸念はよく分かります。要するに、これまでの歴史の中で何度か起こってきた働き方のパラダイムシフトがまた起こる、というお話です。

記憶がおぼろげなのですが、子供の頃好きだったアニメ『母を訪ねて三千里』に確かこんなシーンがありました。主人公マルコが家計を助けようと酒瓶を洗うアルバイトをしていたのですが、ある日突然その仕事がなくなってしまうんです。理由は「瓶を洗う機械」が発明されたからでした(YouTubeで検索してみたら、ありました)。産業革命の波がイタリアのジェノバにも容赦なく押し寄せていたんですね。

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https://www.youtube.com/watch?v=fWUGob48cA4

私自身も、かつて存在した写植や版下作成という仕事がDTPの登場で驚くほど短期間のうちになくなってしまったのを目の当たりにしました。ですから、今後多くの人々の働き方が従来の常識とはまったく違ったものになっていくかもしれないという危機感はよくわかるのですが、ただ、ちきりん氏のこの結論はやや大雑把にすぎるのではないかとも思います。

なぜなら、みんながみんなそういう選択を迫られる立場にあるわけではないし、またその必要もないのではないかと思うからです。これは「グローバル化」への対応とか、グローバル化に伴う英語習得の必要性を強調する論調にもよく認められるものいいなのですが、「バスに乗り遅れるな」とばかりに煽るこうした論調のほとんどは、広く多様なこの社会の状況をかなり単純化して捉えているように思います。

みんながみんな「時代の波を見極めて、新しい価値を人に先駆けて認知してい」こうとしたら、たぶん社会は機能不全に陥ります。「人に先駆ける」ということは、必然的に「先駆けられない人」をも生む。要するに「勝ち組・負け組」を生むということで、これは全員がゼロサムゲームのギャンブルに参加するようなものなんですよね。でも現実の社会には、私たちの暮らしを持続可能ならしめるための様々なルーチンワークが存在します。それらはまさに「会社や上司から言われたこと、指示されたことを、できるだけ正確に素早くやろう」と努力する多くの人々によって担われているのです。

グローバル化や英語学習についても同じで、この国ではもうかなり前から、まるでここ数年から十数年のうちに社会全体がグローバル化し(……って、どんな社会? 意味が曖昧すぎますが)、誰もが英語を駆使して仕事をしなければならないと思っているかのように、それらに対応すべく幼児期からのスキルアップに躍起になっています。確かにそういう人もある程度は必要でしょう。でもそれの何倍、何十倍という人々にも、これからも英語は使わないながらも担うべきたくさんの仕事があるのです。

広範な社会の現場には様々な人材が必要です。まして人には向き不向きも、好き嫌いもある。社会の隅々で、様々な役割を果たせるような多様な人材を育てていくことこそ教育の目的だと思います。その意味で、幼児期から英語だ投資だプログラミングだと、豊かな教養や情操の涵養そっちのけで教育をいじりまくることに私は強い懸念を覚えます。多様な人材はそうした個別具体的な目的一辺倒の教育からは生まれてこないと思うからです。

qianchong.hatenablog.com

みんながみんな、新しい価値を人に先駆けて認知し、英語を駆使して世界中を飛び回らなくていい……というか、そんなことは不可能だし不必要でもあります。もちろん一部の成功者だけが「総取り」をするような仕組みに歯止めをかけ、格差を是正することは必要です。だからといって「次の時代に生きていける」スキルはこれとこれだけ! と断じるだけでは、大きなものを見落とすのではないでしょうか。冒頭に載せた記事を読んで、そんなことを感じました。

フィンランド語 53 …子音の重なり

調べ物をしていて偶然ウィキペディアの「フィンランド語」という項目を読んだのですが、フィンランド語の発音について今更ながらではあるものの興味深いことが書かれていました。

フィンランド語においては子音が重なっているか否かで異なる意味になることがかなり多く、きちんと区別して発音しなければならない。kuka(誰)- kukka (花)、pula(欠乏)- pulla (菓子パン)、kisa(競技)- kissa(猫)など。-rr-, -ll- を除けば日本語には慣れた発音である(綿[wata] - 割った[watta]、未開[mikai] - 密会[mikkai]、加盟[kamei] - 感銘[kammei])が、日本語以外の言語ではこの類の発音や聞き取りの区別はかなり難しく、フィンランド語習得における難所の1つといわれることが多い。
フィンランド語 - Wikipedia

なるほど。フィンランド語を学び始めたときに「同じ文字の連続が多い言語だなあ」という印象を持ちました。その一方で発音は中国語などに比べれば比較的容易だなとも感じました。もちろんウムラウトがついた「Ä」や「Ö」、さらに日本人には苦手とされる「R」の音など少々練習が必要な部分はあるのですが、総じていわゆる「ローマ字読み」でなんとかなることが多く、発音するのも綴るのも私たち日本語母語話者にとってはそれほどの困難を感じません。というわけで教室での発音練習は最初の一、二回のみでした。

そののちフィンランドに行って現地の方にフィンランド語を使ってみたら、何人かの方に「発音がいいね」と褒められました。もちろん外国人に対するこうした褒め言葉は「お愛想」ですし、発音がいいね上手だねと言われているうちは外語もまだまだなのですが、そうか、日本語母語話者にとっては容易に発音し分けることができる子音の重なり(日本語で言うところの促音)が「いいね上手だね」と言われる一因なのかなと思いました。

確かに私が日々接している外国人留学生、特に中国語母語話者はこうした促音を苦手とする方が多いです。子音の重なりを苦手とする話者は存外多いものなのだなと改めて認識した次第です。

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ひつじのにおい

先日帰省した際に門司港駅周辺を散策していたら、レトロなビルの一階に洋服屋さんがあったので冷やかしに入ってみました。そこで見つけたのがこのセーターです。試着してみたらちょうどいいサイズだったので、衝動買いしてしまいました。

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いいなと思った理由は、ハンドメイドっぽいザックリとした風合いもさることながら、このセーターにほんのりと「羊臭」がしたことでした。ついていたタグには「James Charlotte」と書かれていて、調べてみたらイギリスのニットメーカーみたい。主に英国産の羊毛を使っているみたいですが、こういう、毛を刈って、洗って、紡いで、編んだだけ、みたいな素朴な感じがいいなと思いました。

James Charlotte

以前購入して冬に重宝している「Silkeborg Uldspinderi」というデンマークのメーカーのブランケットがあるのですが、これも「羊臭」がします。羊小屋の藁屑がくっついているんじゃないかと思うくらい。羊臭というと、ジンギスカンなどでおなじみのラム肉を思い出して「アレは苦手」とおっしゃる方もいると思いますが、決して悪臭ではないんですよね。むしろほんわかと温かみを感じるにおいで。

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Silkeborg Uldspinderi | Officielle Online Shop og Brandsite – silkeborg-uld-dk

若い頃、田舎で農業の真似事をしていた時には山羊が日常生活の中にいました。中国にいたときには羊肉の洗礼を受けてすっかりその虜になり、台湾にいたときは山羊料理で有名な岡山という町に住んでいました。そのせいか羊や山羊にご縁があるというか、親近感を覚えるのです。そのにおいも含めて。だからウールの「羊臭」に接すると、どこか懐かしい温かみを感じるのだと思います。ブランケットを使いながら時々「羊臭」を嗅いで悦に入っていると、細君が冷ややかな視線を飛ばしてきます。

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ケンジとシロさん

元日はどこにも行かず、一日中家にこもっていました。外へ出たのは郵便ポストに入っている年賀状を取りに行ったときだけ。でも年賀状はここ数年出すのをやめてしまっているので、届く枚数も年々減り続け、ついに今年は数枚にまでなりました。毎年不義理を働いていますが、もう虚礼は一切廃することにしたのです。そんな没義道な私に年賀状をくださったみなさま本当にすみません。

年賀状と一緒に「プライバシー配送」として送り主の住所氏名が伏せられた薄いダンボール包装の荷物も届いていました。年末にヤフオクで落札した同人誌です。購入したのはマンガ『きのう何食べた?』の二次創作本『ケンジとシロさん』①〜③です。同人誌を買ったの、何年ぶりでしょう。定価よりはずいぶんお高い落札価格でしたけど、コミケのあの人混みの中「出撃」して走り、並び、ゲットする苦労を考えたら、その手間賃としてじゅうぶんに納得できようというものです。

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折しも元日には、昨年放映されたドラマ『きのう何食べた?』の全十話が再放送されており、このマンガを同時代的にずっと読んできた私はもう一度全話を楽しんで見ました。さらにその後放映された「お正月スペシャル」まで。このブログでも何度も書いていますけど、このマンガは、主人公の筧史朗氏と矢吹賢二氏が自分とほぼ同年代で、かつその二人が連載とともに現実の時間に合わせて年をとっていくという設定、さらにはその年代の中高年が直面する家族や仕事上の様々な問題がとてもリアルに感じられ、なおかつ買い出しや炊事の描写が自分の日常と重なるという点で、とても共感できるのです。

それでマンガは新刊が出るたびに買って読んできましたし、ドラマも全話見たわけですが、こうなったら二次創作も読もうと思ってヤフオクで手に入れた次第。しかもこの二次創作、原作者であるよしながふみ氏自らが描いているというのが素晴らしい。そうそう、よしながふみ氏はもともとこうした二次創作から出発してBL(ボーイズラブ)の諸作品でプロとして頭角を現し、数々の名作を世に送り出してきた作家さんなのでありました。

二次創作は、著作権の観点から見ればグレーな部分が多々ありますが、「ファンアート」という言葉もある通り、原作へのある種のリスペクトであるという側面、また著作権者が告訴して初めて罪に問われるという親告罪であること(一部を除き)などから、独自の発展を遂げてきました。そんな状況を背景に活躍してきたよしながふみ氏は、ここにきて本編と二次創作のどちらも手掛けることができる作家さんになっているわけですよね。私は最近の「この界隈」の状況にはあまり詳しくないですが、これは稀なケースなのではないでしょうか。

原作の『きのう何食べた?』にはゲイである二人の暮らしが描かれているものの、性的な要素はほとんど、というか一切出てきません。当然ですけど、いわば優等生的な作りです。そのぶん(?)二次創作の『ケンジとシロさん』はエロ全開です。それでも原作の前日譚であったり、後日談であったり、原作と巧みにつながる作りになっていて、さすが原作者の手掛ける二次創作。内容の詳細はネタバレになるので控えますが、基本エロだけれども、笑いの要素もあるし、なにより原作者がノリノリで原作の「優等生感」をぶち壊しにかかっているところに清々しささえ覚えました。

自己主張と自分自慢

先日の日経新聞人生相談欄に、脚本家の大石静氏がこんな「回答」を寄せておられました(会員限定記事ですが、こちらアーカイブを読むことができます)。

www.nikkei.com
「回答」とカッコ書きにしたのは、大石氏のそれがとても辛辣かつ手厳しいものだったからです。でも読みながら私は、まるで自分のことを見透かされているような感覚に襲われました。と同時に何か深い爽快感にも包まれたのです。60代後半の女性の「相談」は、上記のリンクに表示されているような短い内容です。あ、「相談」とカッコ書きにしたのは、大石氏がこう返していたからです。

これは相談というよりも「私ってステキでしょ」という自己主張に近いと感じました。

人は誰しも、他人によく思われたい、自分のことを「ステキ」だと思ってもらいたい、私のやっていることに「いいね」と言ってもらいたい……という欲求を持っています。こうした自己承認欲求は、SNSの登場でお手軽かつ最大限に可視化されることになりました。今やTwitterでもInstagramでもFacebookでも、そうした欲求が充満して息苦しいほどの空間になっています。

いや、私は、後者二つのSNSをとうにやめてしまいましたから、いま確認できるのはTwitterだけですが、身も蓋もないことを言っちゃえば、タイムラインに流れる「つぶやき」はそのかなりの部分が誰にも聞かれたり問われたりしていないのに発せられている自己主張です。往来で脈絡もなく独り声高に主張を始めたら周囲からは怪訝な目で見られること必定ですが、SNSの空間ではそれが常態なのです。

特に断定調で「〜すべき」とか体言止め(字数制限もあって、けっこう使われています)でつぶやかれるツイートは、タイムラインの中にいると分かりませんが、ひとたび引いて眺めてみると、かなりイタいものが多い。タイムラインに接しているだけで自己主張の息苦しさでむせ返りそうな気分になります……ってこれ、過去の自分のツイートを眺めていてそう思うのですが。

というわけで私は、昨年の途中から、Twitterのタイムラインという川の流れから足を洗い、自分から、それも突然つぶやくことはやめてしまいました。それでもこのブログを毎日書いて、その投稿を「#はてなブログ」のハッシュタグつきで放流しているのですからエラそうなことは言えないのですが。……もうこれも今年からはやめようと思います。大石静氏は、こう語っています。

年を重ねるということは、自分を知るということではないかと、私は思っています。自分の心の奥底を認識することによって、人間に対する理解も深くなり、周りの人間の気持ちがわかるようになり、思いやりを持てるようになる。風貌は衰えますし、記憶力も集中力も体力も衰えますが、そこだけは冴えてくる。それが年配の人間のステキなところなのではないでしょうか。

自己主張も時には必要でしょう。よいものにはよいと言い、おかしいことにはおかしいと言わなければならない時もあります。でもそこには大石氏がおっしゃるように、ひょっとして自分は何かが不満で、何かが満たされないからそういう自己主張をしているのではないかという自己洞察が欠かせないのかもしれません。それを怠っていると、つい「どや顔」で自分自慢になってしまうかもしれない。主張すべき主張と自分自慢は紙一重なんだな、というのを気づかせてくれた人生相談欄でありました。


https://www.irasutoya.com/2017/12/blog-post_882.html

カーテンの向こうに

年始の帰省ラッシュを避けて、年越し前に実家がある北九州市から東京に戻りました。スターフライヤーの座席も空席が目立っていました。機内のビデオサービスを適当に選んで見ていたら、10分弱ほどのショートショートフィルムが二作品流れていて、一本はイタリア語、もう一本は“Joulupuu(クリスマスツリー)”という単語が聞こえたので「あれっ?」と思ったら、案の定フィンランド語の映画『カーテンの向こうに(Verhon takaa)』(Teemu Nikki 監督)でした。

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Watch Behind the Curtain/ Verhon Takaa by Teemu Nikki Online | Vimeo On Demand on Vimeo

作中に登場する二人の少年がクリスマスソングを歌っていたので、帰ってから調べてみたら、フィンランドではとてもよく知られている童謡だそうです。

Joulupuu on rakennettu – Wikipedia

Joulupuu on rakennettu(Christmas tree has been built)
Joulu on jo ovella(Christmas is already here)
Namusia ripustettu(Sweeties are hanging)
Ompi kuusen oksilla(In spruce's branch)
https://lyricstranslate.com/ja/joulupuu-rakennettu-christmas-tree-has-been-built.html

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エンドロールにこんなCDのジャケットが出てきて、おじさんの声でこの童謡が歌われているんですけど、これは人前で歌えないほどシャイだった主人公の Mikko 少年が後年歌手になってCDを出したという設定なのかしら。そしてこのジャケットに写っているおじさんは Teemu Nikki 監督なのかな。エンドロールには“Laulu, käsikirjoitus ja ohjaus(歌、脚本、演出)”として監督の名前が出てくるから、たぶんそうなんでしょう。

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ちょっと寂しげな歌ですし、クリスマスソングですから時期的にはもう過ぎちゃってるんですけど、歌を聞いているうちになんだかしみじみとした年の暮れになりました。

しまじまの旅 たびたびの旅 109 ……「ポエムになっちゃった」看板のその後

門司港駅周辺を散策してきました。以前来たときは門司港駅の修復工事中だったのですが、すっかりきれいになっていました。構内の改札口にこんな看板があって「これは!」と思い出しました。確か今年の夏頃にブログの記事を書いたことがあったはずです。


そうそう、この「門司駅小倉駅には全て停車します」という日本語に主語が抜けているため、それを訳した英語や中国語がちょいと奇妙な文章になっちゃっているというハナシでした。

qianchong.hatenablog.com

よく見ると、英語はブログの記事を書いた当時と変わりませんが、中国語の部分だけ上から新しく文字を貼ったみたいです。そして“列车从门司港站到小仓站,每站都停”と、主語を補って以前より分かりやすい表記になっていました。北九州にも華人のみなさんは多く住んだり訪れたりしていますから、「もっと分かりやすくしては?」と指摘をした方がたくさんいて、それで変えたのでしょうね。めでたしめでたし。

しまじまの旅 たびたびの旅 108 ……大声の店主さんと常連びいき

北九州に来たからにはおいしいとんこつラーメンを食べなければなりません。ということで、地元の老舗、東洋軒に行ってきました。このお店に来るのは多分十年ぶりくらいです。お昼時で、店内は超満員でした。ほとんどが近所の常連さんや家族連れという感じ。せっかくだから、どーんとワンタンチャーシュー麺を食べようと思ったのですが「すみません、チャーシューできないんです」。年末までの仕込み分が足りなくなりそうだからとのこと。

ラーメンには白飯のおにぎりをつけました。少しちぎって、レンゲにのせて、スープにひたして食べるとおいしいんですよね。店内はずっとごった返していて、オヤジさん(以前は貫禄ある老店主でしたけど、その二代目さんかな)がちょいとキレ気味に指示を飛ばしていました。注文がきちんと通らないと「はい三番さんは大盛り? ワンタン?」みたいな確認を大声でしたり、「ラーメンです」とお客さんに出した店員さんには「硬めです!」と訂正の声が後ろから飛んだり。

う〜ん、毎度申し上げていることですが、そういう叱責はバックヤードでやってほしいですね。せっかくのおいしいとんこつラーメンが心なしか色あせて感じられました。忙しいからなのか、麺もちょっと茹で過ぎな感じ(硬さも聞かれませんでした)。でもまあここのラーメンは伝統的と言っていいほどの懐かしい味がします。

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気を取り直して、東洋軒から歩いて十分ほどの路地裏にある日本茶カフェに行きました。本当に路地裏のそのまた奥にあるので、案内の看板がなければ絶対に見つけられないような場所にあります。

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ここでは、ほうじ茶とミニパフェのセットを注文しました。古民家を改装した渋い作りの店内で、お茶もお菓子もおいしかったのですが、店主とおぼしき方が常連とおぼしき方と大声で会話していて、ちょっとこの渋い雰囲気とはアンバランスでした。今日は店主の大声&常連びいきによく接するなあと思いました。そういえば東洋軒では「チャーシューできないんです」と言いながら、常連さんとおぼしき方には店主がカウンター越しに直接「これ、おまけ」とチャーシューを追加してあげていました。

……まあこういうのも、旅情といえば旅情ですかね。

しまじまの旅 たびたびの旅 107 ……リノベーション系ホテル

冬休みに入って、北九州市の実家に帰省しました。実家に帰省といっても、うちの家は昭和のはじめに建てたという「歴史的建造物(歴史的価値はないけど)」で、泊まるのも不便かつ年老いた両親が寝具などを用意するのも困難なので、いつも市内のホテルに泊まっています。

いつもは市内にあるいくつかのビジネスホテルや観光用ホテルから安いところを選んでいたのですが、今回は見慣れぬ新しいホテルをBooking.comがおすすめしてくれました。実家の家族も「そんなホテルがあったかねえ?」というこのホテル、以前はなにかのオフィスビルだったのではないかと思われる建物をリノベーションしたような作りです。一階ホールのこの感じは……たぶんもともとパチンコ店だったんじゃないかな。

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カジュアルなカフェがあって、フロントのスタッフはみんな若い方ばかりで、海外からの観光客も重宝しそうなランドリーがあって、リーズナブルな宿泊料金で……この雰囲気、台湾でもよく選んで泊まっています。部屋の設備はそれほど豪華ではありませんし、アメニティなんかも必要最低限のものしかありませんが、Wi-Fiは館内どこでも使えるし、リノベーションしたてでとてもきれいだし、私はこういうホテルが一番使いやすいです。

台北でよく泊まるのは、大安駅近くの「Folio Hotel(富邦藝旅台北大安)」です。ここはもともと銀行の社宅だった建物をリノベーションしたそうで、すごく快適です。スタッフも若い方ばかりで、一階のホールにはギャラリーなんかもあって、デザインホテルが好きな方にもおすすめ。無料のランドリーもあって助かります。

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以前台東で泊まった「Norden Ruder Hostel(路得行旅國際青年旅館)」も、多分以前は集合住宅だったとおぼしきリノベーション系ホテルでした。ほとんどベッドしかない狭い部屋でしたが、部屋内にバスルームもあってとても便利かつリーズナブル。ここも若いスタッフさんばかりでとても親切でした。

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実家の家族によると、今回泊まったこのリノベーション系ホテル界隈は、新しくて面白いお店がぽつぽつと登場しているエリアなんだそうです。若い人たちが頑張っている(……って、単なる想像ですけど)こういうホテルを応援したいですね。