インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ディクテーター

はてなブログ今週のお題は「わたしは○○ナー」だそうです。「○○ナー」ではなくても、要は「〇〇が好きな人」的なネーミングでいいそうなので、そういうことなら私は「ディクテーター」かなと思いました。

ディクテーション(Dictation)、つまり音声を聞いて書き取るのが趣味みたいなものだからです。語学の練習として、また仕事の教材づくりの一環としてディクテーションを長年続けてきました。ただ聞いているだけでは理解できていなかった深いところまで、語彙単位で精緻に聞き取って確認できるディクテーションは、語学スキルの向上にとても有効だと思って学生さんにも勧めています。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

例えば先日の、中国共産党大会閉幕直前に胡錦濤前総書記が突然退席した(させられた)件について、いや、三期目の習近平体制は恐ろしいなあなどと思いながら、中国語圏のメディアはどう報じているのかしらと、例えばこんな動画を探し出してディクテーションします。


胡錦濤"被離場"更早前畫面曝 還原關鍵經過 - YouTube

ディクテーションした後は、できれば「正解」と照らし合わせて聞き取れていたところ、聞き取れていなかったところを確認できると理想的です。上掲の動画は、報道元のウェブサイトにスクリプトが載っていたので、そこで確認することができました。スクリプトは細かい部分に若干の異同があることも多いですが、それはそれで聞き取り・聞き分けの練習になります。

news.ttv.com.tw

ただこのディクテーションは、きわめて泥臭い作業なので、学生さんにはまったく人気がありません。こうやってスクリプトがネット上に存在することがわかっているものはなおさら。くわえて現在は、たとえばGoogleドキュメントで音声入力を選べば、自動で、しかもかなりの精度で文字化してくれますから、学生さんにとってはもはやディクテーションをすることそのものが「ワケわかんない」でしょうねえ。ディクテーターとしては寂しい限りです。

……と、ここまで書いて気がつきました。ディクテーター(dictator)じゃ「独裁者」になっちゃう。ディクテーターが某超大国ディクテーターに関するニュースをディクテーションしてたんじゃ世話ねえやな。ディクテーション(dictation)する人なんだからディクテーショナーですよね(そんな英語はないでしょうけど)。

「コチコチのマインドセット」と「しなやかなマインドセット」

同僚に教えてもらったのですが、雑誌『日本語学』の2022年3月号に「マインドセットと4チャンネルモデル」という論考が掲載されていました(筆者は藤森裕治氏)。その中に出てきた、スタンフォード大学のキャロル・ドゥエック氏らによる人間のマインドセットについての研究がとても興味深いものでした。


日本語学 2022年3月号

それによれば、人間のマインドセット(その人のこれまでの生き方や環境から形成されるものの見方・考え方)には大別して2つのタイプがあるのだそうです。それは「固定化された・コチコチの」マインドセットと、「成長する・しなやかな」マインドセットです。

この論考では、前者をこう説明しています。

人間の価値や能力などはあらかじめ決められているという前提に立つ。自分に与えられた長所が最大限に活かせる環境を求め、そのために努力することが大切だと考える。

後者はこう説明されています。

人の価値や能力などは努力次第でいくらでも変化するし、成長させることができると信じている。彼らは困難や壁にぶつかることを怖れず、何事もポジティブにとらえて取り組もうとする。

もちろんすべての人間がこのどちらかにはっきりと分類されるわけはなく、この論考でも実際にはどちらかの傾向がより強いという形で現れるだろうとはしています。でもこういうマインドセットの違いは、周囲の知人や友人を見回しても、また特に私たちが日々接している留学生のみなさんを観察しても、「そういえば」と首肯する部分が確かにあるなあと思いました。

どちらのマインドセットも、努力しようという姿勢は変わらないのです。だからいずれのマインドセットにあっても、ともに真面目な学生さんであることに変わりはありません。でも、前者の「固定化された・コチコチの」マインドセットの学生さんは、あらかじめ自分に枠をはめているがゆえに、素直に学べないことが多いように思います。

つまり、これは私には向いていない、私はこれは得意ではないと、取り組む前から頑なに決めてしまっていることが多い。いっぽうで「成長する・しなやかな」マインドセットの学生さんは、向いていないかもしれないけれど、とりあえずやってみようと一歩前に進み出す。

語学に限らず、何事もそうでしょうけれど、この一歩前に進み出すかどうかというのは、のちのちまるで複利の投資みたいに大きな差となって現れてくるものです。小さな一歩、小さなチャレンジを積み重ねているうちに、気がついたら長足の成長を遂げていたということがあり得る(もちろんそうならないこともあり得ますが)。

教師という立場から本音を言えば、こうした「成長する・しなやかな」マインドセットの学生さんに接するのは楽しいです。それはたぶん学生さんの成長とともに自分にも学びがあるからではないかと思います。変化し、成長していく学生さんから教師が教わることは実に多い。逆に「固定化された・コチコチな」マインドセットの学生さんとは、教師(教えるもの)→学生(教えられるもの)という一方向のベクトルしか働いていないように感じるのです。

私はかつてこのブログで何度も「物事には向き不向きがある」と書いています。
qianchong.hatenablog.com
でも最近になって、この「向き不向き」という言葉の使い方については、より慎重であるべきと考えるようになりました。そして今回この論考を読んで、あらためて「固定化された・コチコチな」マインドセットを助長するような意味合いで「向き不向き」という言葉を使ってはいけないと思いました。

もちろん、すべての人間にあらゆる可能性が全方向にあって、だからあらゆる努力や取り組みは一切否定されてはならない……みたいな極端な理想論はかえって危険だとも思います。ご本人も気づいていないと思われるオーバーキャパシティや虻蜂取らずの危険性などを客観的な視点から指摘して、「思い込みの桎梏」みたいなものから解放してあげるのも、ある程度まで私たちの役割でしょう。

だからことはそう単純ではありません。それでも、学生さんの様子を仔細に観察しながら、より多くのコミュニケーションを重ねて、より深い学びへつなげていくためにはどうすればよいのか。それを考えるベースのひとつとしてこうしたマインドセットの違い(あるいは傾向)という切り口は、おおいに参考になるのではないかと思ったのでした。そしてまた、自分自身の学びのためにも。

カバーは備品なので回収します

先日帰宅途中に電車を乗り換える際、駅のコンコースにある書店でよしながふみ氏の『きのう何食べた?』第20巻を買い求めました。書籍はだいたいAmazonで買ってしまう私ですが、街の本屋さんがなくなってしまうのはかなりマズイのではないかと思っていて、応援の意味でもなるべく立ち寄るようにしています。

ネット環境で見つける本は、多かれ少なかれ自分の興味の及ぶ範囲に近いものが多いので、こうやってリアルな書店で「思いがけない出会い」を求めるのは大切じゃないかと思っています。また今回のように発売されて間もない人気マンガの新刊などは、店頭で平積みになっていることが多く、探す間もなくかんたんに買い求められます。というわけで今回も店頭で購入したわけです。

ご案内の通り、多くの書店では立ち読み防止のためか透明なフィルムでマンガ本がくるまれています。昨今はビニールバッグも有料になっていますし、紙のカバーを掛けてもらうのももったいないのでレジでは「そのままで」と言うことが多いです。

ただ、あの透明なフィルムにくるまれたまま渡してもらえたら、デイパックの中に放り込んでおいてもページがよれたりしないので、今回も「そのままで」と言おうとしたら、レジの女性がすばやくフィルムをはぎ取ってしまいました。それで思わず私が「ああ〜」と声を上げたところ、その女性はピシリとした口調でこうおっしゃいました。

これは当店の備品ですから回収します。

ええ〜そうなの? 備品ということはまた使い回すということ? それにしてはフィルムをぽいっと箱の中に捨ててましたけど? なんだか気持ちがモヤモヤして、いっそのこと「じゃあ要りません」と言って立ち去ろうかとも思ったのですが、深呼吸してSuicaで支払いをして書店を後にしました。


https://www.irasutoya.com/2020/05/blog-post_35.html

真相はわかりませんけど、あの店員さんは、素早くフィルムをはぎ取ったところで私は不満げに「ああ〜」と声を漏らしたので、とっさに自分の行為を正当化したのかもしれません。フィルムをはぎ取ってしまった以上、売ってしまわなければと。……う〜ん、多分考えすぎですね。というか、ちっせえな、私*1

リアルな街の書店を応援したいと思っていても、こういうことがあると私のような「コミュ障」の気がある人間は、だからネット書店が気楽で便利なんだよなあと思っちゃいます。最近はコンビニも、セルフレジがあるところばかり選んで行くようになっちゃってますし。

ああでも、あのときレジで中高年男性にありがちな居丈高な態度を取らなくて本当に良かった。モヤモヤした気持ちのまま電車を乗り換えて、また電車に揺られているうちに気持ちはすっかり落ち着いて、うちに帰って『きのう何食べた』第20巻を堪能しました。

*1:しかし、私はあのレジの女性のピシリとした口調に少しムッとしてしまったわけですが、これが日本以外の場所だったらおそらく「そういうもの」だってんで、全然気にならなかったはずです。

悪い天気なんてない

ヘルシンキ 生活の練習』を読んでいたら、筆者である朴沙羅氏の、同僚である台湾人のお連れ合い(スウェーデンフィンランド人)が言ったという、こんな言葉が紹介されていました。「悪い天気などない。不適切な服装があるだけだ」。

フィンランドでは子どもを保育園に預ける際、通常の着替えに加えて雨や雪が降っているときのためのさまざまな「装備」をあれこれと用意しなければならないそうです。なぜならフィンランドの保育園では、雨や雪が降っていても、あるいは氷点下で地面が凍っていても、子どもたちは「ほぼ必ず外で遊ぶ」からなんだとか。

そのあとに上述の「悪い天気などない。不適切な服装があるだけだ」が出てきて、朴氏は「どうもこの言い回しは人口に膾炙している気がする」とおっしゃっています。

なるほど、私たちは何かにつけ「悪い天気」を心配します。ただ災害級の悪天候はさておくとしても、ふだんの晴雨や寒暖についてあれこれ心配しても、しょせん人の力でどうにかなるものではなく、だったら人間のほうが服装で対応すればいいだけーーこれはなかなかに味わい深い諦念だと思いました。


https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_663.html

ネットで検索してみると、この言葉はフィンランドだけでなく、欧州全体でよく使われる言い回しのようです。フィンランド語ではどう言うのかなと思ってそれらしい表現を考えながら検索していたら、この文にたどり着きました。

Ei ole huonoa säätä, on vain huonoja varusteita.

一般的な状況だから主語なしの三人称で否定辞“ei ole”、否定文なので“huono(悪い)”と“sää(天気)”はいずれも単数分格の“huonoa säätä”、後半はこれも一般的な状況で主語なし三人称の肯定文で、人それぞれにさまざまな服装がありうるから“huono(悪い)”と“varuste(装備)”はいずれも複数分格。文法通りです。

こちらのページによれば、もともとこの言葉は英国のAlfred Wainwright氏が『A Coast to Coast Walk』という本の中で使ったもののようです。なるほど、何となくいつも天気が悪そうなイメージ(失礼!)の英国ならではの格言なのかもしれません。

www.goodreads.com

ヘルシンキ 生活の練習

かつてTwitterを利用していたころ、偶然目にしたタイムラインのツイートにやや気持ちが淀んでしまったことがありました。それはフィンランド在住の日本人と思しき方々数名による、他のツイートへの批判ツイートでした。

「幸福度が高い」とされる北欧諸国、なかでもフィンランドを持ち上げ、理想化するようなツイートに対して、実際にフィンランドに住んでいる方々が「現実はそうじゃない」「何もわかっていない」とばかりに皮肉たっぷりのツイートを繰り返されていたのです。

ただ私はそうしたツイートに、ご自身が現地で予想外に苦労してきた(つまりはご自身も最初は多かれ少なかれフィンランドを理想化されていたのかもしれません)ことに対する恨みつらみも盛り込まれているようなニュアンスを感じました。それで気持ちが淀んでしまったというわけです。

私自身にも経験がありますが、「隣の芝生」に対しては誰でも最初は無条件に憧れ、理想化して近づき、その後現実とのギャップに驚き、徐々に客観視できるようになっていくものです。だから、後から来たものに、それは甘いよと過度なマウンティングをする必要はないのではないかと思いました。かつては自分も通った道なのですから。

趣味で、というかほとんど「ボケ防止」のためにフィンランド語を学び始めて数年。この間、フィンランドに関する本は目につく限り片っ端から読んできました。たしかにそれらの本の多くは、かの国を理想的に描いているものが多かったです。いや、理想的に描いているというのは言いすぎですか。双方を比較して、私たちに欠けているものをかの国に見出し、それを学ぼうというスタンスとでも言いましょうか。


ヘルシンキ 生活の練習

そんな流れで手に取ったこの本はしかし、冒頭の「はじめに」で、隣の芝生の青さに憧れる行為も、逆にその青さの裏にあるネガティブな面を言挙げする行為も、いずれもその芝生を有するよその家(この場合はよその国ですか)自体にはあんまり興味がないのではないかと指摘します。興味があるのは常に自分たちについてであって、その意味で視線は内向きなのではないかと。

私はいわゆる「北欧推し」のような言説も、その「逆張り」も、好ましいとは思えない。(中略)相手は、こちらと比較して優れているわけでも劣っているわけでもなく、単に違うだけではないか。その違いは、ときに腹立たしく、ときに面白いものではないか。(11〜13ページ)

この本は、転職を期に二人のお子さんとともに渡芬*1した社会学者の朴沙羅氏が、おもに現地での教育現場における気づきをもとに、かの地の社会のありようを考察したものです。まさに彼我の違いに戸惑いながらも面白がって(関西の方らしく、たびたびツッコミが入ります)おられる様子が伝わってきます。

人の耳目を引きやすいさまざまな情報を注意深くはぎ取ってみれば、そこには市井の人々の普通の暮らしが淡々と営まれている様子が見えてきます。日々の暮らしに「ハレ」の瞬間はそうたくさん登場するわけではなく、「ケ」の営みがベースであるというのは、世界中どこでも同じでしょう。

書名に「生活の練習」とあるとおり、これは日本とはずいぶん異なる「ケ」の営みを徐々に学んでいくプロセスの記録です。そこから私たちはなにがしかを学ぶことができる。持ち上げるのでもなく、けなすのでもなく、単にその違いに新鮮な驚きを保ちつつ。

フィンランドは理想郷でもないし、とんでもなくひどいところでもない。単に違うだけだ。その違いに驚くたびに、私は、自分たちが抱いている思い込みに気がつく。それに気がつくのが、今のところは楽しい。(128ページ)

フィンランドの暮らしについてだけではなく、筆者ご自身の政治的信条にも多少踏み込んで書かれているので、その意味では若干読み手を選ぶかもしれません。それでも私は、日本とフィンランドの違いについて多くのことを学び、考えることができました。

やはり異文化や異言語を学ぶのって、大切だし楽しい。それは自らを相対化し、自らを客観視できるようになるからです。冒頭にご紹介したような、皮肉たっぷりのツイートを投じておられた方々も、現地に住まれて彼我の違いやギャップをご存知なのであれば、Twitterで「何もわかっていない」と罵倒して溜飲を下げるより、この本のような考察にこそその力を割くべきではないかなと思いました。

FIREを「ねほりんぱほりん」

先日NHKEテレで、『ねほりんぱほりん』という番組をやっていました。私は初めて見たのですが、もうシーズン7に突入した、以前からある番組だそうです。

www.nhk.jp

司会の山里亮太氏とYOU氏がモグラの人形で出演していて、顔出しNGのゲストがこれまた人形の姿で登場し、根掘り葉掘りインタビューをするという「人形劇赤裸々トークショー」ということで、さすがNHKというべきか、かなりお金のかかった人形劇が繰り広げられます。ゲストはブタのキャラクターとして登場するのですが、動きや喋り方が『セサミストリート』に出てくるパペットの雰囲気に似ています。

今回のテーマは「ギリギリFIRE」でした。経済的自立+早期リタイアを意味するFIRE(Financial Independence, Retire Early)、なかでも「リーンFIRE」と呼ばれる、FIREを目指すプロセスとFIRE実現後の生活において、いずれも出費を最小限度に抑えるタイプの暮らし方を実践しているゲストのおふたりが出演していました。

このおふたりはそれぞれ20代と30代で、いずれも会社勤めにとことん嫌気が差して(あるいは馴染めず)早期退職して節約生活を送ることでFIREを実現しているそうです。それぞれの実現方法は若干異なりますが、いずれもある程度の資産を貯め、その上で家賃や食費などの出費を極限まで抑え、そのぶん自分の好きなことをして過ごす(嫌なことをしない)人生を選んだのだそう。

おふたりとも、会社勤めをしていたときは、上司からやりたくもない仕事をさせられ、精神的な自由がなく、そこにとことん耐えられなくなったとおっしゃっていました。逆に現在は、暮らしとしてはカツカツだけれども、誰にも縛られない精神的な自由は何物にも代えがたいと。

私も大学を卒業するときに、とにかく会社組織で働きたくなくて、そのために5年間ほどモラトリアムのような暮らしを送ったので、そのお気持ちはとてもよく分かります。しかもその後、あんなに忌避していた会社勤めになり、しばらくはやりたくもない仕事をしつつ、精神的な自由を渇望しつつ、結局我慢して働き続けていましたから、なおさら。でも当時はFIREなんて言葉もなく、自分にも投資や資産形成に関する知識もなく……結構ブラックな会社も多かった(何度も転職しています)ので、今から考えるとよく精神を病まなかったなあと思います。

ただ、他人の生き方に口を出すのはまったくもって失礼であることはわかっていながらも、個人的な感想としては、おふたりの選択はちょっと「頭でっかち」なんじゃないかなと思いました。

まず、私のような中高年の人間からみれば、20代や30代の方々の目の前に広がる可能性・方向性の数は桁違いに多いです。おふたりは会社勤めがとことん自分に合っていなかったそうですが、世の中すべての会社が自分に合わないとは限りません。世界は自分が想像しているよりもはるかに広く、世の中には自分の知らない仕事が無数に存在しています。

さらに、FIREを実現するにあたっての金銭的な計算上ではこのまま死ぬまで生きていけるとしても、人生はそうした収支だけにおさまるほど単純じゃないと思うのです。そしてさまざまな人間が生きる社会もまた複雑で、人は好むと好まざるとにかかわらずそうした社会とのインタラクションのなかに生き、生かされていくもの。ハイジのおじいさんだって、ときどきデルフリ村まで下りてきて、ヤギのチーズとパンを交換していました。

早期に働くことをやめてミニマルな生活に自分の人生を収斂させてしまうと、生きていくための生活知や世間知みたいなものが醸成されないまま歳をとっていってしまうのではないかと思いました。そして自分では気づかなかった自分の才能や長所を発見できなくなる(それらは往々にして人から、あるいは状況から「見いだされる」ものです)おそれがあるかもしれないと。自分の頭で完璧に収支計算できていたとしても、そこにはおさまらないハプニングが人生にはつきものであり、しかしそのハプニングこそが実は人生を豊かにしてくれるのではないか。

qianchong.hatenablog.com

なかなかうまく言語化できませんが、番組を見て概略そんなことを考えました。ともあれ、20代や30代というだけで、私から見れば羨ましすぎるほど羨ましいポジションにいると思います。ミニマリズムにも通底することですが、あまり理詰めで考えすぎるのも、なにか大きなものを見失っているような気がしてなりません。

筋トレしてます?

「筋トレしてます?」診察室に入るなり、皮膚科の先生からそう聞かれました。先日、セカンドオピニオンを求めて受診した際、念のためにと行った血液検査の結果が出ていたのです。

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先生によれば、γ-GTP値はじゅうぶんに低いのに、LD値とCPK値がかなり高い*1。これでγ-GTP値も高ければ肝機能障害を疑うところだけれど、そうでないとすれば筋トレで筋組織が破壊されたためではないかと。はい先生、そのとおりです。当たり前だけれど、専門家ってすごいです。



こちらの先生の治療と、処方してくださった薬のおかげで、左足先の炎症はかなり軽快しました。まだふつうのスニーカーや革靴は履けないのでサンダルで通勤していますが、たぶん来週にはほとんど完治するんじゃないかと。

この一週間ほど炎症のおかげでジムに行けていなかったので、腰痛がぶり返すような予感がしますし、何よりウェイトを挙げていないので爽快感がありません。先生からは「しばらく激しい運動はしないように」と言われたので「じゃあ、当然筋トレも?」と聞いたら、ちょっと苦笑して「やめておいたほうがいいですね」と言われました。

やれやれ、これだから筋トレフリークは……というニュアンスが、その苦笑からは感じられました。わはは。

*1:Googleで検索してみたら、こう書かれていました。CPK(CK、クレアチンキナーゼ)は骨格筋や心筋、平滑筋などの筋肉や脳に多量に存在する酵素で、筋肉細胞のエネルギー代謝に重要な役割を果たしています。 筋肉に障害があるとCPKが血液中に出現して高値となり、中でも代表的な筋肉の病気である急性心筋梗塞筋ジストロフィーでは著しく上昇します。 血液検査のLD異常値は? 1リットルの血液のなかに115~245単位が基準。 激しい運動や妊娠によっても数値が高くなる場合があります。 基準値より高い場合には、心筋梗塞、急性肝炎、慢性肝炎、肝硬変、肝癌、骨髄性白血病、悪性腫瘍、腎臓疾患、筋ジストロフィー、容血性貧血などの疑いがあります。

中国語の日本人化

中国語母語話者の中日通訳クラスで、中国・台湾・香港の留学生と訓練をしていると、ときどきおもしろい現象に出くわします。「中国語の日本人化」もそのひとつです。

中国語の日本人化というのは、私が勝手にそう呼んでいるだけですが、要するに母語(あるいは準母語)である中国語が、まるで日本語母語話者の操りがちなそれに近くなってしまうことです*1。特に来日して三年、四年と比較的長期間日本社会で暮らしている留学生によく見られます。

中国語は語順が大切な言語で、英語と同じように動詞が文の最初の方に来ることが多いです。日本語は逆に動詞が文の後ろの方になって出てくることが多い。だから私のような日本語母語話者が中国語を学んでいるとき、ついつい日本語の語順が干渉してきて、先に目的語を言い、それから動詞を足そうとしがちです。

それが日本語→中国語の通訳訓練をしていると、中国人母語話者の留学生もまるで日本語母語話者みたいに目的語を先に言い、それから主語や動詞を足そうとして、結果的に「まるで日本人が喋っているみたい」な中国語になることがあるのです。


https://www.irasutoya.com/2015/12/blog-post_39.html

昨日も入国制限の緩和でインバウンドが復活しつつあるという日本語ニュースを教材に使って練習していたところ、イタリア人の親子が秋葉原で「爆買い」というくだりで、こんな一節がありました。

日本のアニメやマンガを愛する、息子のアンドレアさん。

ところがこれを通訳するときに“日本的動畫和漫畫”から話し始めて文の組み立てが危うくなり、でもそこはそれ母語話者なので色々と補って訳し終えはしたものの、全体としてはとてもくどくどしい中国語になってしまいました。

もちろんみなさん、ふだん中国語で話しているときは、当たり前ですけど自然に主語と動詞を先に出して、例えば“兒子安德烈熱愛日本的動漫”などと簡潔な中国語が出てくるはずです。

ところが日本語をベースにして中国語を出力しようとすると、日本語の語順にひきずられて、いきおい日本語的・日本人的語順になっちゃう。そして日本に長く暮らして日本語も上手になっているので、その語順でもそれほど違和感を覚えなくなっている。そんな感じの訳出がたくさん出てきました。

同時通訳では、入ってきた情報の順にどんどん訳を出していく、いわゆる「順送り訳」という練習もあるので、一概に悪いとも言えませんが、純然たる中国語母語話者の留学生のみなさんがまるで日本人がむりくり紡ぎ出したような中国語を話すので、それを私が指摘しつつ、クラス中で大笑いになりました。

*1:語彙レベルでも例えば“電話番號”とか“銀行口座”など日本語の語彙に引きずられた中国語になっちゃってることがあります。通常は“電話號碼”や“銀行帳戶”なのですが。

セカンドオピニオンって大切だ

左足先の炎症がいっこうに治まらず、むしろ悪化しているようにも思え、なおかつ痛みで夜も安眠できないくらいになってきたので、先日の皮膚科とは別の皮膚科に行って、セカンドオピニオンを求めてみました。

結論から言うと大正解でした。医師によってこんなに違うのかと驚くくらいです。最初の医師はちらっと見ただけで「水虫薬にかぶれたんでしょうね」と診断され、塗り薬を処方されておしまいだったのですが、今回は全く違っていました。

まず炎症部分の写真を何枚も撮り、症状から可能性のある既往症をあれこれ尋ねられたり、水虫などがうつる場所としてジムや銭湯みたい裸足で歩く可能性のある場所に行ったか聞かれたり、念のために表皮を取って顕微鏡で確かめたり、採血をしたり。そのうえで塗り薬だけでなく炎症や痛みに対応する内服薬も処方してくれました。

さらに、まず目下の生活の質を下げている苦痛を取り除くための治療を先行させ、クリティカルでない症状についてはその後に時間をかけて治療していきましょうといったような、先を見据えた治療計画も立ててくれました。

もちろん、とかく大量に薬を処方したり、やたら治療期間を長く取る(小出しに治療する?)医師も世の中にはいて、それはそれで医療費の増大を招くなど問題ではあります。でもこちらの苦痛の訴えにきちんと耳を傾けてくれて、その上で治療の方針を示してくれるというのは本当にありがたかったです。

最初に訪れた皮膚科は、ネットの口コミではまあまあ星の数が多かったんですけど、やっぱりああいうのは当てにならないですね。食べログやアマゾンなどでも経験済みだったのに、本当に私が愚かでした。


https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_931.html

部分最適だけれども上から見たら福笑い

時事通信世論調査で、岸田内閣の支持率が三割を切り27.4%になったと報じられていました。確かに、岸田首相自身にはそれほど大きな不祥事や醜聞はないものの、円安、物価高、統一教会問題、安倍氏国葬東京五輪にまつわる贈収賄、敵基地攻撃能力の是非と軍事費増強、マイナンバーカードの取得強制化などなど、政権浮揚の材料には乏しいかもしれません。あ、岸田首相の長男氏を首相秘書官に起用というのもありましたね。

私は、岸田首相は「聞く力」などといいながら何も聞いていないじゃないか、何もやってないじゃないか……などと雑駁なことを言って溜飲を下げたいとは思いません。たぶん政治家も官僚も、それぞれの「現場」でそれなりに考えて奮闘してはいるんでしょう。もともと政治や行政の仕事は地道で辛気臭く粘り腰が必要なもので、むしろなにかスパーンと胸のすくような政策が次々に、などという方がよほど危ないと思っています。

ただ、例えば統一教会問題など、右だの左だのといった政治思想やイデオロギーを越えて果断に取り組めそうなものに対しても明らかに腰が引けているのはちょっと不思議です。まあこれは自民党内の「現場」で、お家事情との調整に腐心しているからなんでしょう。

先日あるニュース番組で、解説者のお一人が岸田内閣の現状を評して「部分最適だけれども、上から見たら福笑い」と言っていました。うまい言い方だなあと思わず笑ってしまいました。なるほど、それぞれの「現場」ではみんなそれなりに最適を目指して奮闘しているけれども、それを全体的に統括して目配りなり指示なり調整なりをする能力がトップに、つまり岸田氏に欠けていると。


https://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_3192.html

これ、ひょっとすると岸田内閣に限らず、いまの日本のあちこちで見られる現象なのかもしれません。そういうリーダーが育たなかったというか、あえて育ててこなかったというか。同じニュース番組では別の解説者が「日本はエリート教育を否定し、いろんな政治家が思いつきで政治をしている」というようなことも言っていました。

う〜ん、超エリートが政治を引っ張って、次々にスパーン、スパーンと政策を繰り出す、いまちょうど五年ぶりの重要会議をやってるどこかの国みたいになるのも困るけど、かといって目と口が上下逆になっているような福笑いではこれも困ります。エリート、というか専門家が多く閣僚になっている台湾みたいな形は、与党の国会議員が年功序列的に持ち回りみたいな日本よりはいいなあと思いますが、こちらの記事によると、それはそれでリスクがあるんだそう。

mainichi.jp

野党がもう少し強くなって、与党と拮抗するようになるのがせめてもの良策なのかな。もちろんそのためには私たち有権者がもう少し「おバカさん」から脱して賢くならなきゃいけませんけど。

足の痛みに悶える

先日から左足の指にできている発疹というか傷がだんだん悪化して、痛みのため歩行すら困難になってきました。傷自体が痛むこともさることながら、傷が靴の中に当たることでも痛みが走ります。傷自体は小さいものなのに、これだけ日常生活に支障が出るのかと驚くくらいです。

そういえば、歩いていて靴の中にほんの小さな小石が入っただけでも、たとえそれが直径一ミリ以下の小さな小さな欠片であっても、すごく痛くて気になって歩きにくいです。いまさらながらに、全体重を支えている足の大切さを理解したのでした。

とにかく痛くてたまらないので、季節外れではありますけどサンダルを買いました。足の甲と足首と踵の三か所がマジックテープ(ベルクロテープ)で固定できるタイプのものです。これで少しは楽になりましたが、それでもかなりゆっくりしか歩けません。

幸か不幸かオンライン授業はなくなったので、毎日出勤するしかありません。というわけで、毎朝かなり早く家を出て時間をかけて職場に向かっています。朝のルーティンだったジム通いはしばらくお休みです。

傘を杖代わりに新宿の地下道を、タイルの一枚一枚を数えるようにしてゆっくり歩いていると、ビジネスパーソンのみなさんが足早に追い越していきます。つぎつぎ現れる階段や段差に難儀しながら、歳をとって身体の機能が衰えてくると誰でもこういう境地になるのだろうな、などと思いました。ゆっくり歩いているお年寄りの気持ちに寄り添ってみようと、自分がこういう状態になって初めて(情けないことに)思いました。

しかし、先日受診した皮膚科のお医者さんは「薬にかぶれただけ」とおっしゃっていましたが、どうもそんな雲行きではありません。なにせ、夕方から深夜にかけては思わず声が漏れるほどの痛みで呻吟しているのですから。明日、別のお医者さんを受診してみようと思っています。


https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_507.html

やっぱり中庸がいちばんなんじゃないかと

いまの職場にはいろいろな国からやってきた留学生がいて、今年度はおよそ20カ国の学生さんたちと毎日相対しています。私は以前に日本人(日本語母語話者)だけのクラスを受け持っていたこともあるのですが、当然のことながらクラスの雰囲気はかなり異なります。

留学生クラスは、やはりいろいろな国の文化背景が異なるからなのか、本当に多種多様な雰囲気の人がいます。もちろん日本人だって人によって醸し出す雰囲気は随分違いますけど、その違いっぷりの幅が留学生の場合は桁違いだなという感じがします。

そういう「違いっぷり」は、もちろん個々人の性格やこれまでの来し方によるのでしょうけれど、やはり国や地域による違いも多少は影響しているように思います。もちろん私は「○○人は✗✗」といったステロタイプな見方には与しませんが、それでもその国や地域の社会全体が醸し出しているものに多かれ少なかれ影響を受けるのではないかと。

ひとさまの国をあれこれ言うと角が立つので自分たち、つまり日本人を例に取ると、私が留学しているときには、いろいろな先生方から「日本人はおとなしい」と聞かされました。とにかく控えめで、質問してもあまり積極的には答えないし、反応が薄いと。

私自身はどちらかというと積極的に和を乱しにかかるタイプだったので、その日本人観には不服でした。でも周囲を見回してみると、確かに同調圧力が強いと言われる日本社会の影響を受けているのかなと思える場面もたくさんありました。それは後に自分が日本人の学生さんのクラスを担当するようになったときにも感じました。

こうした国や地域ごとに異なる行動様式や文化が存在するのはなぜかについて、それを「ルース」と「タイト」という立て分けで解明しようとしたミシェル・ゲルファンド氏の『ルーズな文化とタイトな文化』を読みました。氏はそうした違いが歴史的、伝統的、自然環境的に定まってきたものだと説明しています。


ルーズな文化とタイトな文化

しかも例えば北の地方であればおしなべてタイトで南の地方であれば例外なくルースとか、西洋だからこう東洋だからこうという単純な別れ方にはならず、それらがモザイク状に存在しているというのも面白い。そしてまた、例えばアメリカ合衆国ひとつとっても州によってルースとタイトの度合いがかなり違っていることなど、いろいろと興味深い事例が紹介されています。

全体として、さまざまな社会や人間の見方としてとても参考になる一冊です。が、この本の結論はある意味いたって凡庸なものでした。つまりルースとタイトのどちらかに傾きすぎるのは明らかに害があって、ほどほどの中庸を行くのがいちばんだということです。しかしその中庸を行くのが難しいからこそ、世界にはいまだ分断と反目がそこここ渦巻いているんですよね。

自分とはかなり異なるルースな人たち、あるいはタイトな人たちに遭遇したときに、この本で分析されているようなそのルースとタイトの背景について知っていれば、より寛容な心で接することもできるし、自分もより中庸に近い選択を熟慮できるようになるかもしれません。

実は、偶然その次に読んだ山口真一氏の『正義を振りかざす「極端な人」の正体』でも同じような結論に達していました。何でも閣議決定で進めちゃって国会を軽視しているどこかの国では、中庸や中道はとかく煮えきらなくてスッキリしないような印象があって不人気ですけど、やはりそここそを求めていくべきではないかとあらためて思いました。とかくまどろっこしいけれど、民主主義というものは本質的にまどろっこしいものなんです。


正義を振りかざす「極端な人」の正体

だいたいいつもスピード診療

この歳になるまでありがたいことにおおむね健康で、歯科以外には病院のお世話になったことはほとんどありません。それでも何年かに一度は身体の不調やちょっとした怪我などで病院を訪れることがあります。

いわゆる「かかりつけ医」みたいな方は私にはいないので、そのつどインターネットで検索して、自宅か職場に近いところ、あるいは仕事のない時間に通えるところ、さらには「口コミ」で良さそうなところを探して受診しています。

きょうは近所の皮膚科に行きました。一週間ほど前から足の指に炎症ができて、最初は水虫のようなものだと思って市販の治療薬でごまかしていたのですが、だんだん他の指にも広がるとともに足の甲全体に痛みを覚えるようになり、歩くことすら苦痛になりつつあったので急いで受診したのです。

ポツポツとした発疹が増えていくような感じだったので、素人考えながらこれは「とびひ」みたいなものじゃないかと思いました。「とびひ」ってふつうは子供のときにかかるものですが、検索してみると大人でもまれに見られるそうです。

でも受診した皮膚科の先生は、私の発疹をちらっと見て「ま、水虫薬にかぶれたんでしょう」とだけおっしゃいました。そして「薬を出しときますね」と助手の先生に指示して、塗り薬を塗ってガーゼを巻いておしまい。あとは調剤薬局で薬を買うようにと。

私はもう少し自分の症状を、つまり炎症だけでなく痛みなども説明してより詳しいところを聞きたかったのですが、雰囲気的には「ハイおしまい、お大事にね」という感じで、ほんの数分で診療は終わってしまいました。先生は症状を見ている時間よりも、パソコンのカルテに記入している時間のほうが長かったです。それでも食い下がって、ガーゼは毎日変えたほうがいいのか、お風呂に入ってもいいのかなど聞き出しましたが(そういう説明すら向こうからはありませんでした)。

たまにお医者さんにかかるだけなので、これだけを持って今の医療は〜などと大言壮語を吐くつもりはありません。でもたまさか受診すると、いつも診療はそこそこに、カルテの記入と「お薬出しときます」で「ハイ次の方」となることが多いです。


https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_278.html

お医者さんも、できるだけたくさんの患者さんを診なければ、つまり回転を良くしなければ稼げないという背景もあるのだと思います。でも……これが標準的な診療なんでしょうか。それとも幸いにも私の症状が軽すぎて受信するほどのものでもないということなのでしょうか。あるいは、もう少し探せば、もっと親身になって診てくださるお医者さんが見つかるのでしょうか。

とりあえず、処方してもらった薬で改善が見られないようなら、他の皮膚科を探してセカンドオピニオンを求めてみようと思います。

余談ですが、身体の不調を感じたときにインターネットの情報を検索しまくるのは逆に身体によくないですね。たいてい怖い話ばかり読んでしまって、本当に落ち込むから。先日読んだ真造圭伍氏の短編集『センチメンタル無反応』にも、そんな話が載っていました。

トリッパをめぐって

「ハチノス」という内蔵肉があります。一般的には牛の第二胃のことで、これは牛のように反芻する性質がある動物に特徴的な器官なんだそうです。私はこのハチノスが大好きで、中国や台湾でおつまみ的に食べられている煮込み(“滷味”のような)も好みですが、いちばん目がないのはイタリア料理のお惣菜「トリッパ」です。

ハチノスは内蔵肉独特の臭みを上手に抜くのに技術がいるためか、“滷味”に使われている八角のような、あるいは花椒のような、比較的香りの強い香辛料と合わせるのが常道のようです。

そこへいくとトリッパは通常トマトソース、あるいはワイン風味で作られているので、強烈な香辛料でカバーできるわけでもなく、さらに調理に技術が要りそう。そのためなのか、デパ地下などのイタリアン系お惣菜屋さんでもあまり売られていません。

たまに見つけるとうれしくて買って帰るのですが、これがけっこうお高いです。それにハチノス独特の「食べごたえ」にも少々欠けるものが多いように思います。ハチノスは、あの独特の蜂の巣状のヒダヒダ食感を楽しみつつ「わしわし」と食べたいところ。でもデパ地下のそれは私にはちょっとお上品すぎるかなあと。

そうしたら二月ほど前、仕事のついでに立ち寄ったカフェ・パスクッチの麹町店で理想のトリッパに遭遇しました。ランチのセットメニューになっていて思わず注文したのですが、こちらのトリッパは基本トマト味ベースながら、トマトソースは使われていません(おそらく)。サン・マルツァーノみたいな調理用トマトで控えめなトマト味にまとめられていて、とてもシンプルな味つけ。しかもハチノスがかなり大ぶりに刻まれていて、臭みも上手に抜いてあって、とてもおいしかったのです。添えてあるピアディーナ(トルティーヤみたいな薄いパン)もうれしいです。

しかもいちばんうれしかったのは、全体的にとても薄味だったことです。外食、ことに東京での外食は、私にはまず味が濃すぎて閉口することがほとんどなのですが、このトリッパはかなり「淡麗」な味つけでした。うれしさのあまり、イタリア人と思しき店員さんに感想を伝えたくらいでした。

それから二ヶ月ほど経って、また所用で麹町のカフェ・パスクッチの近くまで来たので、ランチにこのトリッパを食べに行きました。そうしたら、お皿の外観はまったく同じでしたが、味が極端に塩辛くなっていました。私にとっては頭痛を催すくらい塩辛いです。

あの薄味に対して他のお客さんから苦情が来たのかしら。とても残念な思いで、でも全部食べ終えて店をあとにしました。お会計のときにいちおう「今日は塩がやけに強かったですね、ははは」とできるだけ穏やかに(クレーマーっぽくならないように)店員さんに伝えました。店員さんは「シェフに伝えますね」とおっしゃってくださいました。

さて、次回訪れたとき、トリッパの味はどうなっているでしょうか。あの淡麗でいて、ハチノスの食感を存分に堪能できる元の味に戻っているといいなあ。

どうしてあんなにしっかりと話せるんだろう

職場の学校では三年ぶりに文化祭というものが復活しまして、私が担当している留学生クラスも恒例の日本語劇を上演するため、ただいま練習の真っ最中です。台本は私が「容赦のない日本語」で書きました。留学生による日本語劇といえば、とかく「易しめ」の、例えば日本昔ばなしみたいなのを選びがちなのですが、大人の留学生諸君にはそれでは物足りないと思うのです。

とはいえ、台詞の抑揚やニュアンスについては、少々難しいところもあります。たとえば「外国語を学ぶってのは、いうなれば自分の母語とは違うものの見方を身につけるということですから」という台詞があって、この「〜とは違うものの見方を」の部分など、「〜とは違うものの/見方を」というふうに発話しちゃったり。「ものの見方」でひとまとまりですよね。

というわけで、私がそういう間合いや感情を盛り込んで録音を吹き込み、参考にしてもらうこととしました。……が、自分の声を聞いて、いまさらながらに幻滅します。


https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_70.html

いや、もちろん、録音した自分の声は、普段自分が認識している自分の声とは異なって聞こえるので、それはまあ良しとします。ただ滑舌が悪すぎるのです。かつてアナウンス教室やボイストレーニングなどにも通ったというのに、それでいてこの体たらく。

台本の台詞を読むならまだいいのです。私は会議などで自分が話している録音を聞くこともありますが、そのときはかなり落ち込みます。滑舌の悪さに加えて、冗語が多く、話の組み立てもわかりにくい。中国語でいうところの“邏輯性(ロジカル性)”や“層次性(階層性)”に著しく欠けています。

マツコの知らない世界』というテレビ番組がありますよね。あれが好きでよく見ているのですが、いつも驚嘆するのが、登場する様々な方(その多くは一般の方です)の話し方がとてもしっかりしていることです。滑舌がよく、冗語が少なく、そして何より話そのものに、さらには話し方の雰囲気に魅力がある方が多い。

先日は「デコトラ」ならぬ「デコチャリ」の世界ということで、12歳の少年が語っておられました。その時も、その話しぶりと話の内容に引き込まれました。比べるのもおこがましいけれど、自分が12歳のときにあんな話し方ができていたでしょうか。

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そういう人ばかりを選りに選っているのでしょうか、それとも一つの世界に秀でた人はみんなあんな話し方に到達するものなのでしょうか。確かにご自分の大好きなこと、よくご存知のことを話しているから弁が立ついう側面もあるでしょう。でもそれだけではない何かこう、頭の回転の速さというか、物事の認識の解像度の高さというか、うまく言語化できませんがそういう要素が介在しているような気がします。そういえば以前、『ブラタモリ』に登場する一般の方の話しぶりについても同じようなことを感じました。

qianchong.hatenablog.com

通訳学校の生徒さんにも、すばらしい話し方をする人が時折います。本当に聞き惚れてしまいます。才能という側面もあるのでしょうけど、自分は話すことについてまだまだ修行が足りないと思うのです。