かつてTwitterを利用していたころ、偶然目にしたタイムラインのツイートにやや気持ちが淀んでしまったことがありました。それはフィンランド在住の日本人と思しき方々数名による、他のツイートへの批判ツイートでした。
「幸福度が高い」とされる北欧諸国、なかでもフィンランドを持ち上げ、理想化するようなツイートに対して、実際にフィンランドに住んでいる方々が「現実はそうじゃない」「何もわかっていない」とばかりに皮肉たっぷりのツイートを繰り返されていたのです。
ただ私はそうしたツイートに、ご自身が現地で予想外に苦労してきた(つまりはご自身も最初は多かれ少なかれフィンランドを理想化されていたのかもしれません)ことに対する恨みつらみも盛り込まれているようなニュアンスを感じました。それで気持ちが淀んでしまったというわけです。
私自身にも経験がありますが、「隣の芝生」に対しては誰でも最初は無条件に憧れ、理想化して近づき、その後現実とのギャップに驚き、徐々に客観視できるようになっていくものです。だから、後から来たものに、それは甘いよと過度なマウンティングをする必要はないのではないかと思いました。かつては自分も通った道なのですから。
趣味で、というかほとんど「ボケ防止」のためにフィンランド語を学び始めて数年。この間、フィンランドに関する本は目につく限り片っ端から読んできました。たしかにそれらの本の多くは、かの国を理想的に描いているものが多かったです。いや、理想的に描いているというのは言いすぎですか。双方を比較して、私たちに欠けているものをかの国に見出し、それを学ぼうというスタンスとでも言いましょうか。
そんな流れで手に取ったこの本はしかし、冒頭の「はじめに」で、隣の芝生の青さに憧れる行為も、逆にその青さの裏にあるネガティブな面を言挙げする行為も、いずれもその芝生を有するよその家(この場合はよその国ですか)自体にはあんまり興味がないのではないかと指摘します。興味があるのは常に自分たちについてであって、その意味で視線は内向きなのではないかと。
私はいわゆる「北欧推し」のような言説も、その「逆張り」も、好ましいとは思えない。(中略)相手は、こちらと比較して優れているわけでも劣っているわけでもなく、単に違うだけではないか。その違いは、ときに腹立たしく、ときに面白いものではないか。(11〜13ページ)
この本は、転職を期に二人のお子さんとともに渡芬*1した社会学者の朴沙羅氏が、おもに現地での教育現場における気づきをもとに、かの地の社会のありようを考察したものです。まさに彼我の違いに戸惑いながらも面白がって(関西の方らしく、たびたびツッコミが入ります)おられる様子が伝わってきます。
人の耳目を引きやすいさまざまな情報を注意深くはぎ取ってみれば、そこには市井の人々の普通の暮らしが淡々と営まれている様子が見えてきます。日々の暮らしに「ハレ」の瞬間はそうたくさん登場するわけではなく、「ケ」の営みがベースであるというのは、世界中どこでも同じでしょう。
書名に「生活の練習」とあるとおり、これは日本とはずいぶん異なる「ケ」の営みを徐々に学んでいくプロセスの記録です。そこから私たちはなにがしかを学ぶことができる。持ち上げるのでもなく、けなすのでもなく、単にその違いに新鮮な驚きを保ちつつ。
フィンランドは理想郷でもないし、とんでもなくひどいところでもない。単に違うだけだ。その違いに驚くたびに、私は、自分たちが抱いている思い込みに気がつく。それに気がつくのが、今のところは楽しい。(128ページ)
フィンランドの暮らしについてだけではなく、筆者ご自身の政治的信条にも多少踏み込んで書かれているので、その意味では若干読み手を選ぶかもしれません。それでも私は、日本とフィンランドの違いについて多くのことを学び、考えることができました。
やはり異文化や異言語を学ぶのって、大切だし楽しい。それは自らを相対化し、自らを客観視できるようになるからです。冒頭にご紹介したような、皮肉たっぷりのツイートを投じておられた方々も、現地に住まれて彼我の違いやギャップをご存知なのであれば、Twitterで「何もわかっていない」と罵倒して溜飲を下げるより、この本のような考察にこそその力を割くべきではないかなと思いました。