インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

第三者返答

約一ヶ月前の新聞に、伊是名夏子氏が「第三者返答」について書かれており、今朝は同じ新聞の投稿欄にこの言葉を初めて知りましたという読者の方の声が寄せられていました。

「第三者返答(第三者話法)」とは、こちらの論文によれば「話し手が、話しかけてきた話し相手が有する外見的特徴などの言語外的条件に基づき、(話し相手との意思疎通に問題がないにも拘らず)その話し相手を無視し、話し相手と一緒にいる第三者に返答すること」とされています。

cir.nii.ac.jp

やさにちウォッチ」というサイトの『「第三者返答」に気をつけてください』で紹介されている、こちらの映像もとてもわかりやすいです。


www.youtube.com

オストハイダ・テーヤ氏が上掲の論文でこの問題を指摘されたのが2005年のこと。もちろんこの問題はそれ以前からも存在していたのでしょうが、氏の論文からもすでに16年、17年という月日が経っているのに、いまだ私たちの社会ではこうした注意喚起が必要なほど多くの人々の意識は変わっていないのです。

私の周囲でも、外国籍の配偶者がいる同僚からはしょっちゅう同様の話を聞きます。また、背景は少し異なりますが、通訳をしているときに、相手側(例えば中国語母語話者)は、みなこちらの発話者(日本語母語話者)にではなく通訳者である私に向かって話しかけてくることが多いというのも、同じようなメカニズムではないかと思います。人は自分の発話が通じていると思う人に向かって話しかけるものなんですね。

それでも通訳の場合は、実際本当に言語が異なっていて通じないわけですからまだ無理からぬところがありますけど、外国の人や障害のある人、あるいは患者さんに対してこういう態度を取るのは失礼きわまりありません。そしてこれは個々人がきちんと知識を持ち、自覚して行動することでなくしていける行為です。

こうした記事を通じて「第三者返答」についてもっと広く知られるといいなと思います。

「恋人を作る」のは語学上達の近道か

語学の、特に聞いて話す能力、まあ会話力と言ってもいいですけど、それを向上させるためには、その言語の母語話者の「恋人を作る」といい、などという説が世上流布されていますよね。私も留学しているときによく聞かされました。フィンランド語の以前の教科書にも、こんな会話が載っていました。

  • Muistatko, missä Jens asuu?
  • Kuka Jens?
  • Jes Hansen. Hän on tanskalainen opiskelija, joka opiskelee kemiaa täällä. Etkö sinä tiedä, kuka Jens Hansen on?
  • En. Miksi hän opiskelee kemiaa täällä eikä Tanskassa?
  • En tiedä. Hän asuu Helsingissä ja puhuu jo oikein hyvin suomea.
  • Ehkä hänellä on suomalainen tyttöystävä.
  • イェンスがどこに住んでるか覚えてる?
  • イェンスって誰?
  • イェンス・ハンセンだよ。デンマーク人の学生で、ここで化学を学んでるんだ。イェンス・ハンセンが誰だか知らないの?
  • うん。どうしてデンマークじゃなくてここで化学を学んでるの?
  • 知らないよ。彼はヘルシンキに住んでいて、とても上手なフィンランド語を話すんだ。
  • たぶんフィンランド人の彼女がいるんだね。

日常親しく会話をする(会話をしたくてたまらない)相手がいれば、その言語の会話力も急速に伸びそうな気がします。確かにそういう一面はあるでしょうけど、私はけっこう怪しいんじゃないかと思っています。それに「恋人を作る」っていうスタンスがそもそも相手を利用している感が強くて、ちょっと失礼な物言いだなとも思います。

私がいま担当している外国人留学生にも、日本語母語話者の恋人がいて、会話が上手だなあと思う人は何人もいます。でもよくよく聞いてみると、語学のレベルとしては(当然のことながら)千差万別です。仕事に使えるレベルだなと思える人もいれば、いつまでも「おしゃべり」レベルに甘んじている人もいる。

結局は恋人にせよ友達にせよ、その母語話者の相手とどういう会話をするかによりますよね。他愛ない短いやり取りばかりだと会話力も深まりにくいでしょうし(まあ一緒にいるだけで楽しいから、それはそれでいいんですけど)、かといって恋人同士で天下国家を論じる図ってのも想像しにくいです。

それに、こんなことを言うとミもフタもないのですが、母語話者にだってその母語のレベルというものがあります。さまざまなこと、複雑で抽象的なことまで言語化して相手に伝えることができるかどうかは、たとえ母語話者であっても、必ずしも誰もができるわけではありません。さらには、充実した会話が成立するためには、自分の中に「何を話すのか」という内実がなければなりません。自分の中に何もコンテンツがないのに、単に言語だけを「ペラペラ」と話しているという状態があったとしたら、かなりシュールです*1

結局は、恋人にとどまらず、いろいろな人と直接向き合って、いろいろな会話をするしかない。そんな平凡な結論に落ち着くんじゃないかと思います。


https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_60.html

*1:まあ、中身のない話を延々することに長けているという方もいるかもしれませんけど。

カニカマ大好き

カニカマが大好きで、手軽なタンパク源としてよく買っています。「最高級カニカマ」との位置づけでスーパーの練り物コーナーではなく鮮魚コーナーに置かれているスギヨの「香り箱」も好きですし、カネテツの「ほぼカニ」と「ほぼタラバガニ」も食卓の常連ですが、最近ハマってしまったのがセブンイレブンで売っている「おつまみカニカマ」です。

これは先日、お弁当にと朝適当に作ったサンドイッチを持参して、それだけだとなんだか寂しいのでなにかおかずでも……と思って買い求めたのでした。そしたら「やっつけ感満載」の見た目(失礼)からは想像できないほどおいしくて、その後何度も購入しています。

カニカマがほぐしてあるんですけど、適度に弾力があって食べごたえがあります。カネテツの「ほぼタラバガニ」の食感に似てる。さらにパッケージにも書いてありますけど「からしマヨネーズ」が効いていて、これはおつまみとしても最適だと思います。もっとも私は、歳をとってお酒が飲めなくなってしまいましたから、これで晩酌するということはないんですけど。

日本で発明されたカニカマは、いまや世界中で親しましれているそうです。そういやフィンランドのスーパーでも見かけたような記憶が。それにしてもこのセブンイレブンのパッケージにある“Imitation Crab(ニセモノのカニ)”ってのが直截で安っぽくていいですね。

フィンランド語ではなんと言うんだろうと辞書をあたってみたら“surimipuikko”でした。“surimi”は日本語の「すり身」ですよね。“puikko”は「棒」とか「箸」みたいな言葉だから「すり身スティック」ってことですか。

www.google.com

フィンランド語 181 …課されたタスクが怪しすぎるけど楽しい

週一回通っている(現在はオンライン)フィンランド語の教室、最初は8人ほどいた生徒さんも徐々に減ってしまい、現在は3人だけになってしまいました。私はこのクラスに途中から参加したのですが、それは前に通っていたクラスが私一人になってしまって最少催行人数を割ってしまい、他に移らざるを得なくなったためでした。

語学のクラスは、どんな言語でもたいてい入門や初中級のクラスがいちばん賑わっていて、レベルが上がるに従って生徒さんが減っていくものです。まあこれは語学に限らないかもしれませんが、長く続けていくというのはけっこう厳しいんですよね。誰にだって「もうやめようかな」と内なる囁きが聞こえてくる段階というものがあるものでして。

これも語学に限りませんが、何かの技術なりスキルなりを習得する段階というものには、必ずと言っていいほど「停滞期」が伴います。入門段階ではスタートダッシュで急速に伸びているような気がするものの、そのあと停滞期やスランプのような期間、伸び悩みの期間が一定程度続き、そんなときに内なる声がこう囁いてきます。

「自分に向いていないんじゃないか」「先生や教材が悪いんじゃないか」「クラスメートに恵まれていないんじゃないか」「最初に思ってたのと違う」などなど。そんなときにぐっと堪えてやめてしまわないことが肝心なのですが、そこでも「やめる勇気を持つことも大切じゃないか」「一度始めたらやめられないなんておかしいじゃないか」「短い人生でひとつのことに固執し続けるなんて愚かだ」など囁きは続きます。

私もかつてはそんな囁きに負けてやめてしまったものがたくさんありますけど、不思議に歳をとってから始めたものは、どれも細々とではありますけど続いています。そう、細々とでもいいから続ける、その「細々度合い」がたとえ世間的にはほとんどやっていないに等かろうと、そんなことは気にせず完全にやめてしまわないというのが、続けるためのたったひとつのコツのような気がしています。

qianchong.hatenablog.com

で、フィンランド語のクラスです。数ヶ月前から、すでに学び終えた教科書の本文を暗記するという課題が出ていて、そののちすべての文の構造を分析して口頭で説明するという課題に移行しました。そして先週からは、ひとつひとつの単語、とりわけ名詞・形容詞と動詞について、それぞれ原形(辞書形)、語幹、kptの変化、iがついたときの母音交替(名詞・形容詞は複数形になるとき、動詞は過去形になる時)を高速で言っていくという課題になりました。

先生の意図は、フィンランド語は畢竟「語尾」で話す言語なので、変化を起こすそれぞれの単語の語尾を瞬時に紡ぎ出していかなければならない、よってそうした作業がほとんど自動的に無意識的にできるようになるまで繰り返しそのパターンを身体に叩き込むための作業ということなのでしょう。先週と今週は、一時間半の授業時間すべてをこの作業に費やしました。

いまどきこんなに地味で辛気臭いことばかりやる語学講座は珍しいと思います。でもこれは、ここまでやめずに残った生徒の「本気」に応えて先生が課してくださっているタスクだと思うのです。これからも地道に取り組みたいと思います。……と、ここまで書いて、これって何かの宗教の信者みたいな口吻だなと思いました。「内なる囁き」ってのも、いま世間を騒がしているあのカルトの「サタンの試練」みたいですしね。

確かに、“Monilla vanhoilla ihmisillä on tapana puhua samoista vanhoista asioista monta kertaa huomaamatta tai muistamatta, että toiset ovat kuulleet samat jutut jo monta kertaa.”という文章を前に「moni、iで終わるフィンランド語で語幹はmone、kpt変化なし、複数のiがついたらiの前のeは消えてmoni、所格接格のllaがついてmonilla。次にvanha、そのまま語幹、kpt変化なし、複数のiがつくとaで終わる二音節の単語で最初の母音がoかu以外なのでaがoに変わってvanhoi、所格接格のllaがついてvanhoilla……」という感じで延々つぶやいているんですから、傍目にはかなり怪しい宗教感満載です。

もっとも、クラスメートはみんな嬉々としてこのタスクに取り組んでいるんですけどね。


https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_54.html

ひらやすみ4.

真造圭伍氏のマンガ『ひらやすみ』第4巻を読みました。やー、今回もよかった。二十代からアラサーの登場人物たちが、それぞれに思い悩みながらも日々の暮らしを紡いでいく物語。読んでいると、もう何十年も前の自分の二十代三十代が蘇ってくるような気がします。スマホも多用されている、いま現在の話であるのに。この作品を読んでいると「小確幸」という言葉がたびたび思い起こされます。


ひらやすみ(4)

思い返せば自分の二十代三十代も、同じようにこうして日々悩みつつその日その日を生きていました。いまから思い返せばなんであんなことに悩んでいたんだろうとか、なんであの時ああしなかったんだろうと思うこともたくさんありますけど、それらも全部ひっくるめて今の自分につながっているのだと思うと、当時は許せなかったもろものことが不思議にすべて許せてしまうような。ああ生きるしかなかったし、自分の矩を越えて「ああではない」生きかたは選べなかっただろう、たぶん。そう思うのです。

あと、個人的にこのマンガが(現代の物語にもかかわらず)やけにノスタルジーを誘うのは、舞台になっている街にかつて自分も暮らし、主人公ヒロトのいとこ・なっちゃんの通っている大学に自分も通っていたからです。もう三十年、いえ、四十年近く前のことではありますが、マンガに描かれる街や大学のたたずまいはあまり変わっていないように感じられます。校舎の建物もほとんどが当時のままですし、学生が汚れたツナギを着てキャンパス内を行き交っているのとか、油絵の具のついた筆を石鹸をつけて手のひらで円を描くように洗っているのとか、とてもリアリティがあって懐かしいです。

もっとも私は、そうした雰囲気にノスタルジーは感じるものの、じゃああの時代にもう一度戻ってみたいかといったら、実はまったくそんな気が起きません。大切な自分の思い出ではあるけれど、大学のクラスには溶け込めなかったし、どこもかしこもタバコ臭かったし、まったくもってひどい時代でした。もちろんそれは自分の精神のありようがそうさせていたんですけど。

決して戻ることはできないし、戻りたいとも思わないけれど、なぜか懐かしさで気分がほっこりとしてしまう。そして登場人物たちを応援したくなってしまう。そんな不思議な魅力をたたえた作品なのです。マンガは基本的に電子書籍で買う私ですが(でないと書棚がすぐにいっぱいになっちゃうから)、この作品だけはこれからも単行本を買い続けるつもりです。

そのうち誰も来てくれなくなっちゃう

昨日の日経新聞に『留学生 進む日本企業離れ』という記事が載っていました。来日中の外国人留学生のなかで、日系企業への就職を志望する人の割合が外資系企業志望を初めて下回ったというもの。その背景としては高度な日本語能力を求める日系企業の姿勢に加え、コロナ禍の影響があると見られると記事では分析しています。

私は仕事の現場で、こうした日本での就職を希望する外国人留学生を間近に見ていますが、確かにこの記事に載っている「日本で就職する際の不安」というグラフにあるような理由で日系企業への就職に二の足を踏んでいる人は多いように感じます。加えて、グラフには出ていませんが、日系企業のあまりの低賃金ぶりを挙げる人も多いです。

それともうひとつ、前々から申し上げていることではありますが、私がこの記事を読んであらためて感じたのは日本語母語話者の非母語話者に対する、日本語力への高すぎる要求です。記事の最後も「コミュニケーション力を過度に重視すると、多様な人材の獲得を妨げかねない」と結ばれています。

コンビニなどで働く外国人労働者に「まともな日本語を話せ」とか「日本人と代われ」などの暴言を吐く客について以前にご紹介したことがありますが、本当に有能な方を採用したいと望むのであれば、私たちの方からも歩み寄ることを考える必要があるのではないでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

日本は、ほぼ単一言語で社会を回すことができるという、世界から見ればかなり特殊で幸運な言語環境の国です(そういう国は決して多くはありません)。それが他の言語の話者に対する無理解や過度な要求につながり、あるいは逆転して外語(特に英語)に対するコンプレックスとなって社会のあちこちに現れているように感じています。

ふたつ、あるいはそれ以上の言語をスイッチしながら生活し、仕事をするとはどういうことなのか、外語を学んで使えるようになるとはどういうことなのかについて、私たち日本人(日本語母語話者)はかなり想像力に欠けているのだという自覚が必要です。そして耳に心地よい、自分にストレスがかからない日本語能力ばかりを相手に求めるのではなく、日本語能力以外のその人のスキルについても正当に評価する軸を持つべきです。

自分たちにとって聞き心地のよい日本語を操る能力ばかりに傾斜して外国人(日本語非母語話者)を採用し続けようとすれば、日系企業に来てくれる方は今後もどんどん減っていくのではないかなあ……。

さらに私たちも、もっと積極的に外語を学んで、言葉の壁を超えることがどんなに難しく、奥深く、エキサイティングなことであるのかを実感すべきです*1。そうやって自ら「仕事に使えるレベル」の外語を習得するのがいかに大変なことなのか身をもって知れば、上述したような傾向も少しは改善されていくのではないかと。

本来、外語の学習とはそういう異文化を理解し、世界の多様性を知るための教養としてまず位置づけられるべきものだと私は思います。就職に有利であるとか、単位が取りやすいとか、ペラペラ話せたらかっこいいからとか、そういう実利面に着目するのも否定はしません。でもその根底には、自分たちとは異なる世界の切り取り方をする人たちがいるのだという事実を身体に落とし込むこと、そういう世界観を携えて生きていくことの重要性が据えられていてほしい。日本の外語教育に一番欠けているのはその視点ではないでしょうか。

*1:なのに、先日同僚の先生からうかがった話では、最近中国語の人気がだだ下がりなんだそうです。ほんの少し前まではブームとか何とか言われて、大学の第二外国語などでも履修希望者が多すぎて大変という話を聞いていたのに。まあ、昨今の中国の特に政治面に対する印象の悪さ、さらには中国語がこれまで何度もブームと停滞を繰り返してきたという経緯からもそれほどの驚きはありません。ただ、もうちょっと腰を落ち着けて外語を学ぼうよ日本人、とは思います。

本当は中庸の人が多いのにネットでは「分断されている」と思ってしまう

ブログ『シロクマの屑籠』の熊代亨氏(id:p_shirokuma)が、自分の頭で考えないほうがよいのでは、というご意見を書かれていました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。

もちろん熊代氏はそういった新聞やNHKニュースなど、つまりマスメディアだって間違えることはあり、ときに何らかの世論操作やプロパガンダの可能性だって皆無ではないけれども、極めて怪しげなSNSなどの情報に引っ張られてしまうよりは随分マシだとおっしゃいます。私もそのご意見に同感です。

私はすでにTwitterなどのSNSから「降りて」しまいましたが、それはSNSで情報を得ていると世の中の多数意見があたかも集約されているような錯覚に陥り、ひいては世の中全体の流れを見誤る危険性に気づいたからです。……などと堅苦しい書き方をせずとも、要するにネット世論なるものがかなり胡散臭いなと思ったから。

私見では、Twitterは「保育園落ちた、日本死ね」が国会で取り上げられ、その後の行政是正に一役買ったというあの「成功体験」から逃れられず、その実態と世論形成力の乖離に気づかないままここまで来てしまったと思います。

私は語学の作文用に(日本語では一切つぶやかず、リプライせず、リツイートもしません)もうひとつTwitterアカウントを残してあって、そこでたまに時事問題に関する日本語ツイートを眺めることがあります。自らは降りてしまってやや遠くからタイムラインを俯瞰していると、世論が極端に二分しているなと感じます。そこに共通理解や相互理解を求めることはほぼ不可能なほどの分断が進んでいるなあという一種の絶望感を覚えるのです。

でも世の中に広く目を転じてみれば、実際にそこまで分断が進んでいるのかどうか。世の中にはもっと多様な人々が多様な意見を持ちながら暮らしていて、ことはそう単純ではないのではないか。

qianchong.hatenablog.com

そんなことを考えていたら、先日『報道1930』で自民党の岩盤支持層に関する分析をやっていて、いわゆる「サイレントマジョリティー」の存在が指摘されていました。すかさず写真を撮ったのがこれで、ここでは憲法改正に対する意見としてネット上では賛否が極端に分かれるのに(つまり分断が激しいように見えるのに)、一般の世論調査では中庸な意見が最も多い。つまりネット上では極端な意見の人が積極的に発信しているために、あたかも世論全体が二極化しているように錯覚してしまうということでした。


www.youtube.com

なるほど。ネットの情報は玉石混交だとよく言われますけど、SNSでは「石」がとりわけ巨大に見えてしまうんですね。プロとしてきちんとお金をかけて取材や検証や文章執筆や校閲などを経て発信されるマスメディアに一定の信を置くべきではないか、フェイクの巧妙化が飛躍的に進むなどネット環境がここまで変質してきた今にあっては、誰もが発信できるというネット、なかんずくSNSの特性はむしろ弊害のほうが大きいのではないかという熊代氏の主張には首肯せざるを得ません。

マスメディアも完全には信頼できないけれど、SNSよりは千倍マシ。だからこそ新聞を取り、NHKの受信料を払って「中の人」を応援する意義もあるのだなと改めて思いました*1。もっともその信頼を寄せるべきマスメディアがここのところSNSをはじめとするネット世論にすり寄りすぎている(よくTwitterのツイートなどを引用していますよね)のが気になるところではありますが。

とりあえず以下の本を読んでみようと思っています。

*1:私は一時期、テレビニュースを見るよりもポッドキャストを聞いたほうが勉強になるなと思っていた時期があったのですが、最近はジャーナリストとして訓練されていない発信者によるポッドキャストの薄っぺらさに気づいて、揺り戻しが来ているところです。

Mac版Google日本語入力で記号類の入力ができなくなる問題への対処

私は公私ともにMacBookを使っていて、日本語の入力は長年ATOKを使ってきたのですが、カスタマーサービスの対応などいろいろと思うところがあって、現在はGoogle 日本語入力を使っています。

インプットメソッドはなんでもそうですけど、使っていくうちに使い勝手がどんどん良くなっていくもの。いまではGoogle日本語入力でもほとんど物足りなさを感じることはなくなりました(ホントは国産IMを応援したいところなんですけど)。

ところが最近、このGoogle日本語入力で問題が発生しました。記号類の入力がおかしいのです。まず「ー」(長音・音引き)が打てません。「グーグル」と打っても「ぐ+ぐる」になってしまいます。

またカギカッコも打てなくなりました。「」と打とうとしても、 ’(半角スペース+半角アポストロフィ)になります。疑問符?もアンダーバーになっちゃう。これは困りました。

いろいろ調べて、ようやく原因を見つけました。「Google日本語入力環境設定」の「入力補助」タブ、「日本語入力では常に日本語キー配列を使う」のチェックが外れていたのです。特に外した記憶はないのですが、ひょっとするとmacOS Catalinaがマイナーバージョンアップした際になんらかの影響があったのかもしれません。

ともあれ、よかったよかった。

未払い残業代

昨日夕飯を作りながらBS-TBSの『報道1930』を見ていたら、日本ではいまだに労働法制を守らない企業が多すぎるという話をしていました。残業代の未払いが現在でも当たり前に見られるなどという状況は、いわゆる先進国では到底ありえないことだと。

ご多分に漏れず、実はうちの職場でも過去の残業代についての見直し、というか検証がありました。

コロナ禍に突入してからのこの数年間、勤務形態が劇的に変化しました。うちの職場は典型的な「9時5時」の8時間勤務が基本ですが、コロナ禍以降は在宅勤務や時差出勤、それに何よりオンライン授業への対応等で残業や早出が増えました。

恐らくは、然るべき方面からそうした勤務に対して残業代なり超過勤務手当なりが出ていないのは問題ではないかという指摘があったのでしょう。数ヶ月前、職場の人事厚生部門から突然「過去の残業代を精算します」という通知が来ました。

人事厚生部門からは過去のおよそ3年半分にわたる全日程のエクセルファイル(月別に組まれたシートがおよそ40枚、入力すべきセルがおよそ4000以上という膨大なものです)が送られてきて、そこにすべての出勤日の出勤時間と退勤時間を書くように求められました。それに従って過去の残業代を精算しますと。


https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_205.html

ちょっと意地悪な見方をすれば、これだけの煩雑な作業を課すことで未払い残業代をあきらめさせようという意図なのではないかと勘ぐりたくなるほどです。実際、同僚の中には、過ぎたことについてはもうこだわっていないし、それでなくてもいま現在の仕事が忙しいし、そんな煩雑な作業はできない、よって、全日程そのまま「9時5時」のコピペで出すという人もいました。

でも私は悔しいので、人事厚生部門にこれまでの自分の勤務状況についてのデータを照会し、それと自分のGoogle Calendarや過去の仕事の記録や同僚の記憶や……それらすべてを突き合わせるという膨大な作業をやって、エクセルに入力し、提出しました。それはもう、ぐったりと疲れました。

それから数ヶ月。先日人事厚生部門から残業代の精算時期を延期させてほしいというメールが来ました。おそらくは私のように「悔しい」と考えて一所懸命に過去の自分の勤務記録を調べて膨大な入力を行い、提出した人が予想外に多かったのでしょう。処理や精査にあたる現場の人はてんてこまいなのではないかとお察しします。

労働法制を遵守しようという姿勢にはもちろん大賛成です。でも今回のようなやり方が、いかに職員の業務に対する熱意を削ぐかということを経営陣は想像してほしいと思います。そしてまた、これだけの煩雑な作業を少なからぬ職員に課したことで、本来の業務にどれだけ支障が出たのかについても。

アグネス吉井

中国語の通訳教材を探してYouTubeの動画チャンネル《一席 YiXi》を見ていたら、日本人のコンテンポラリーダンスユニット「アグネス吉井(Aguyoshi)」のお二人が登壇されていました(映像での登壇という形式だったそうです)。


www.youtube.com

ユニット名は「アグネス吉井」だけれども、お二人はそれぞれ白井愛咲とKEKEと名乗っておられて「アグネスみ」も「吉井み」もありません(わずかに「井」がかぶってるだけ)。不思議なネーミングですが、お二人のダンスはそれ以上に不思議です。最初はこれをダンスと呼んでいいのかとさえ思いましたもの。

aguyoshi.net

街中で面白い空間を見つけたときに「その場所の特性を際立たせるために自分の身体を使う」というのがお二人のダンスのコンセプトです。つまりダンスをしている本人が主役というよりも、場所や空間が主役になっているダンスなのです。場所の醸し出す面白さにフォーカスしている点で、ちょっと赤瀬川原平氏の「超芸術トマソン」を彷彿とさせるところがあります。

そして、ふたたびそれをダンスと呼べるのかという問いが立ち上がるのですが、そうした場所や空間の魅力はお二人の身体が介在しなければ私たちに発見されなかったわけで、その点でこれはやはりまごうかたなきダンス、というかパフォーマンス、というか芸術なのだと思いました。オフィシャルサイトには「私たちは場所の特性によって振り付けられています」という印象的な一文がありました。ともあれ、これを私が文章で説明して何かにカテゴライズすること自体が陳腐なので、ぜひ映像を見ていただきたいと思います。

個人的にとても興味深かったのは、上掲の動画でお二人がダンスの最中に「笑わないこと」をポイントとして挙げておられた点です。笑わないほうが魅力的な映像になるとだけその理由を述べておられますが、これはダンサー自身の恣意的な自己主張を抑えることで、より場所や空間の魅力が際立ち、その場の特性に依るダンスとして充実するということなんでしょうね。

能の仕舞を稽古しているときに師匠から、あまり表情で演じようとしてはいけないと注意されることがあるのですが、あれもおそらくそのほうが型が効くーー舞が充実して見えるからなのでしょう。

ともあれ、とても面白いなと思ったので“Buy Me a Coffee”で「投げ銭」をしてきました。

www.buymeacoffee.com

簡単料理は簡単か?

料理研究家の有元葉子氏が「簡単な料理を教えてください」という依頼に端を発して、料理とはなにか、料理を含む暮らしとはなにか、とりわけ気持ちよく暮らすとはどういうことかを語った本。料理のヒントや簡単なレシピも載っていますが、これは料理本というよりは随筆と呼ぶべき一冊です。


簡単料理は簡単か?

出汁をひく、胡麻をする、鰹節をけずる、辛子をかく、調味料を手作りする……手軽さや安さに任せて既製品を使うのではなく、昔ながらのシンプルだけれどていねいな手仕事を復活させようという氏の主張には、ひとつひとつうなずけます。

忙しい暮らしの中でそこまでできない、結局は裕福な人たちのみが追求できること……そういう批判も聞こえてきそうですが、ひとつでもふたつでもできることから取り入れていくと、たしかに気持ちよく暮らせそう。

暮らしからプラスチック類を取り除いてみるという提案も、「原理主義」に陥るとかえって暮らしが窮屈になりそうですが、現在のような野放図なプラスチック依存の環境にあっては傾聴に値すると思うのです*1

私がこの本で一番共鳴したのは、「整理・整頓」を語るくだりで「どんな場所にも空間が欲しい」とおっしゃっているこの部分です。

人間もそうではないでしょうか。人混みの中になるべく入らない、みんなが行く方向へあえて行かない。伝染病がはやる前から、私は意識的にそうしています。そうしないと、自分の感覚で生きる力が弱まってしまうような気がする。(21ページ)

自分の周りに十分な空間があって、常に空気が淀まないようにしておかないと生きる力が弱まっていく。私は自分が中高年と呼ばれる年齢になって、これを強く自覚するようになりました。若いときはにぎやかな人混みが大好きだったのに、いまではほんの少しの人混みでもたちまち元気が失われていくのを感じるのです。

たぶん若いときはそれなりに体力があって、失われる元気と相殺できるだけの力を内側から出せるんでしょうね。それが歳とともに弱ってきたのではないかと。

私はもういまでは満員電車に乗れないし(それでかなり早朝から都心に出るようにしています)、旅行するにしても観光地や観光名所にはあまり行きたいと思わなくなりました。たぶん多くの人から発せられるリズムの複雑さに酔って、自分の感覚が麻痺してしまい、極端に疲れることがわかってきたからだろうと思います。有元氏のこの本を読んで、あらためてそんなことを考えました。

*1:そういう有元氏だって以前はラップフィルムやジップロックのたぐいを多用し推奨していたじゃないかというような批判をAmazonのレビューで読みましたが、人は時とともに考え方を変え、深めていくもの。そういう「変節」はあっていいと思います(変節したことを認めつつならば、ですが)。

次を育てる

私はあと二年あまりで今の職場を雇い止めになります。その後も嘱託や非常勤という形で多少は勤め続けることができますし、職場からもそういう希望を伝えられてはいますが、それでも収入ががくんと落ち、先細りになっていくことは確実です。

老後の数十年を(そこまで生きたとしてですが)悠々自適で暮らせるほどの蓄えはありませんし、持ち家などの資産もありませんから、現実的に考えればお寒い未来予想しか浮かび上がってきません。

それで、セカンドキャリアについてもう何年も前から考えてはいるのですが、まだ具体的な構想は何も描けていません。もともと行き当りばったりであれこれと手を出して転職や転業を繰り返してきたので、今度もまた何かの「ご縁」が導く先に行くだけ……そんなふうに考えているところがあります。年齢的にも体力的にもこれまでとは全く違うステージだということはわかっているのですが。

中高年層のセカンドキャリア相談や生活困窮者向けの自立支援などを仕事にしている妻によれば「仕事はね、あるよ。選ばなければね」とのこと。なるほど。次にどういう仕事をして暮らしを立てていくか、次の自分を育てる営みを始めて行かなければならないですね。


https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_8450.html

次を育てるといえば、私が雇い止めになったあとの仕事を引き継いでくれる人も考えなければなりません。うちの職場はこれまでこの点についてはあまり本腰をいれていなかったので、先日私の直属の上司と一緒に学校側と相談の場を持ちました。

私が担当しているメインの仕事は中国語と日本語の間の通訳と翻訳に関する教育です。教育の対象は外国人留学生(華人留学生)。できれば企業などでの通訳や翻訳の実務経験があれば理想的ですが、中国語通訳翻訳業界で稼働されている方は圧倒的に中国語母語話者が多く、私のような日本語母語話者は比較的少ないです。日本国内の通訳翻訳業界なのに。これは英語の通訳翻訳業界とかなり異なる状況です。だから、ちょっと傲慢な言い方ではありますが、なかなかいい方が見つからないのです。

というわけで学校側との話し合いでは、通訳や翻訳の実務はあとから学んでいただくとして、まずは日本語と中国語の基礎がしっかりされている方を公募しようということになりました。具体的には大学や大学院、あるいは関連学会などに対して公募を出すということです。

日本語母語話者でありながら、中国語母語話者の学生を前に中国語の解釈や表現についてあれこれ指摘するという、ちょっと「無理筋」の業務内容ですが、アカデミズムの世界できちんと学んでこられた方なら多分大丈夫だと思います。つまり学校側としては、実務経験や社会経験よりも、基礎的な知識や教養を重視したいということですね。私もそれに賛成です。

公募でいい方が見つかるといいんですけど。まあこれも「ご縁」ですから、事前にあれこれ考えても仕方がないですよね。いいご縁に恵まれますように。

もう別れてもいいですか

「この本、おもしろいから読んでみて」と妻からおすすめされた、垣谷美雨氏の『もう別れてもいいですか』を読みました。われわれと同年代の主人公・澄子が「早く逝ってほしい」と願い、ほんの少し身体が触れただけでも鳥肌が立つほど嫌悪している夫と「熟年離婚」を決意する物語。あっという間に読み終えましたが、読後感は正直に申し上げてすこぶる悪いです。


もう別れてもいいですか

読後感が悪いのは、この小説における中高年男性に対しての「disり」かたがあまりにも強烈だったからではありません。逆に、そんなどうしようもない中高年男性たちと決別しようとする主人公を始めとする女性たちに共鳴したからで、さらにはここに登場する男性たちのふるまいが決してフィクション世界だけの誇張されたものではないのだろうな、という想像がついたからです。

厚生労働省の「離婚に関する統計の概況」によると、同居期間別にみた「離婚の年次推移」では、同居期間が20年以上で離婚した夫妻の割合はほぼ上昇傾向にあり、直近の統計(2020年)では21.5%となっています(5ページの図6)。つまり結婚して20年以上同居した末に「熟年離婚」した人が全離婚夫妻の約1/5を占め、さらに増加中ということですよね。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/rikon22/dl/suii.pdf

どういう理由で「熟年離婚」に至ったのかまではこの統計には盛り込まれていませんが、おそらくこの小説に描かれているような中高年男性たちの無体なふるまいがそのベースにあるんじゃないかと想像します。

私が直接見聞きした知人や友人の範囲でも、妻が風邪で寝込んでいるのに「オレの夕飯は?」と聞いてくる夫とか、来ている服をあちこちに脱ぎ捨てて脱衣所の洗濯かごや洗濯機に入れることさえ習慣づけられない夫とか、妻がパートから帰ってきて疲れてウトウトしていたら、夫が肩をたたいて洗い物山積みのシンクを指差して「洗ってないよ」とか、個人的にはちょっと信じられないようなふるまいの男性たちがいます。そしてこの小説が広く共感を読んでいるということは、それが決して特殊な例ではないということなのでしょう。

妻はこの本を、われわれより一回り年上の親戚のおばさんからおすすめされたそうです。おばさん夫妻はとても仲のよいカップルで、あちこち旅行に出かけたり仲間と一緒にバンドを組んだりしている人たちなのですが、おばさんはこの小説にどんなカタルシスを感じたのでしょうね。そして私の妻も。

それはさておき先日、東京は青山のおしゃれ〜なお店でドーナツとコーヒーを買って、そばの公園のベンチに座って食べていたんですね。そしたら、目の前をいかにもセレブリティでファッショナブルな若いご夫婦が手をつないで、あるいはベビーカーを押しながら行き交ってる。私はそれを眺めながらふと「でもこのうちの約1/5は熟年離婚しちゃうんだよな、それもたぶん夫が原因で……」などと思ってしまいました。ひどい人間です。ごめんなさいごめんなさい。

日本人と話すのが億劫?

職場の学校では、今年の4月に入学してきた留学生クラスの前期カリキュラムが終わり、期末試験が行われました。私が担当しているのは主に中国語母語話者の留学生で、中国語から日本語への通訳試験などを行いました。

試験はさまざまな語彙のクイックレスポンス(ある単語を聞いたら即座にその訳語を言う、極めて短い逐次通訳のようなもの)と、短文逐次通訳です。語彙は授業で練習した上にQuizletの教材も配って練習できるようにしたので概ね良好な出来栄えでしたが、短文逐次通訳は全員が合格ラインすれすれでした。まだまだ日本語の流暢さが足りないのと、通訳という作業そのものに慣れていないからです。

一部の学生は、普段はけっこうペラペラっと日本語でのおしゃべりに興じることができるくらい日本語がうまい(とご自身は自負している)のに、短文逐次通訳の成績が低いことにショックを受けていました。でも、ご自分でも出来が悪かったことはわかっているのです。自分が喋りたいことを喋りたいように喋るのとは違って、通訳という作業は他人が喋っていることをその人に成り代わって喋る営みだからです。

試験のあと、何人かの学生が真剣な面持ちで私のところに来ました。「日本語がもっとうまくなるためにはどうしたらいいですか」って。私は「率直に申し上げて、日本語のアウトプットがあまりにも足りないと思います」と伝えました。

そうなのです。このブログでももう何度も書いていますが、中国語母語話者の学生さんたちは、せっかく日本に留学に来て、日本語の大海原に身を投じているというのに、教室ではつねに中国語で喋り倒しているのです。もちろん中国語が通じない日本の先生方や中国語母語話者ではない留学生と話すときは何とか日本語で話そうとしますが、それにはあまり積極的ではなく、クラスでもとにかく中国語母語話者だけで固まって、中国語ばかり話している。

私は自分が留学したときの経験も紹介しながら、中国語母語話者同士でもあえて中国語を封じて日本語で話すように勧めています。でも、まだまだ日本語の力が弱いのでもどかしいのか、ついつい中国語に戻っちゃう。加えて、お互いに母語が通じるのにあえて日本語で話すという、ある種の「演劇性」を恥ずかしがっているという側面もあります。

qianchong.hatenablog.com

語学は、特にその「話す」技能の習得段階では、ある程度恥を捨てて演じるような気持ちでアウトプットし続けることが必要です。それは彼らもわかっているのだけれども、なかなか実行に移せないんですね。まあ義務教育でもないので、あとは本人次第と突き放してもいいのですが、それも教師として責任放棄かなと思って色々とアドバイスしています。

日本に住んでいて、日本人と話すことはないんですか?
ーーないです。
日本人の友だちは?
ーーいないです。
アルバイトは?
ーーしてません。どうやって日本人の友達をみつけたらいいですか。
キャンパスにいっぱいいるじゃないですか。学生食堂に行って「留学生なんですけど、日本語で話してくれませんか」って頼んでみるとか。人から聞いた話ですけど、ある日本人留学生は留学先で公園に行って、日向ぼっこしているお年寄りとお話しして語学を磨いたそうですよ。お年寄りも話し相手ができてとても嬉しそうだったって。そういうのやればいいじゃないですか。
ーーでも……。

確かに勇気がいります。私も中国で、公園に行って見知らぬ人に話しかけたことがありますが、十人中八人くらいは怪訝な顔をされて断られますから。それでも、アウトプットし続けないとね。

あとはもう本人次第ですが、私は私の責任として、授業の中で彼らに日本語のアウトプットをできるだけさせるよう工夫はしています。でもそれがまだまだ足りなかった。来月から始まる後期の授業では、日本語のアウトプットと小テストを組み合わせ、それを学期全体の成績とリンクさせようと思っています。

私は本来的には試験をしたり評価をしたりするのは好きじゃないのですが(だって大人の学校ですから、学ぶのは本人次第ですよね)、なぜか留学生諸君は試験をします、成績をつけますとなると俄然目の色が変わるんですよね。だったらその仕組みを利用して彼らにもっと日本語のアウトプットをさせればいいのではないかと考えを改めました。


https://www.irasutoya.com/2015/03/blog-post_295.html

共話と会話どろぼう

ドミニク・チェン氏の『未来をつくる言葉』を読んでいたら、「共話と対話」と題された一節にこんな興味ぶかい文章がありました。

共話とは、次の例のように、話者同士が互いのフレーズの完成を助けながら進める会話形式を指す。
A:「今日の天気さぁ」
B:「うん、本当に気持ちいいねぇ」
(中略)
水谷の観察によれば*1、どれだけ日本語の文法や語彙をマスターしていても、共話が行えない学生は日本人とスムーズに会話できないそうだ。(178ページ)

ここで言及されている共話が行えない「学生」は、日本語を学習中の外国人留学生を指しています。私は日々外国人留学生に教える仕事をしているので興味を持ったわけですが、なるほど、こうした助け合いながらの会話進行とでも言うべき「共話」は、他の言語でももちろんあり得るでしょうけど、日本語の大きな特徴とも言えるのではないかと思ったのです。


未来をつくる言葉

確かに私たちは、主語をちょくちょく省略し、「みなまで言うな」を良しとし、半疑問形で相手の反応をうかがいつつ「〜みたいな」とか「〜的な」を多用して断定を避けつつ会話を進める……といったようなスタイルが好き、あるいはそういうスタイルに馴染んでいるかもしれません。最後まできっちりはっきり、文法的にも完璧な文章で最後まで言い切ると、お堅くて押しが強すぎる印象になってしまったり(この「たり」も、言い切らないためのひとつのテクニックかな)。

能と共話

ドミニク・チェン氏はこの「共話」に関して、能楽の謡本にも言及しています。能の詞章(台詞と謡)には、例えばシテとワキが一つの文章を交互につなぎながら「共話」を進めて行き、なおかつその文章をコーラス隊たる地謡が引き取るようにして情景説明に移っていくという形式が多く見られます。なるほど、あれもまた日本語に特徴的な会話の様式なのかもしれません。

さらに「共話」には、片方が話している間に他方も声を重ねるという、同時並行的な会話の進み方があり、こうした協働によって互いの主体性が交わりやすいという側面があると、水谷氏の論文を引きつつドミニク・チェン氏が紹介しています。私はこの部分を読みながら、いわゆる「会話どろぼう」のことを思い出しました。

なぜ「どろぼう」するのか

「会話どろぼう」とは、複数の人が話しているときに、誰かの話題を途中で奪って自分の話題にすり替えてしまうことです。例えば誰かが「週末に温泉に行ってきたんだけど……」と話し始めたところで「私も温泉大好きです。いままでで一番良かったのは……」と自分の話に持っていってしまうような。また何を問いかけても「はい」とか「知りません」など短い返事ばかりで、会話が続かないというパターンもこの「会話どろぼう」に含めることもあるようです。

私は昔からこの「会話どろぼう」がとても苦手で、雑談などの他愛ない会話のときには黙って看過していますが、若い頃は会議などでこれをやられて「最後まで話を聞いてください!」と声を荒げてしまったことが何度かあります。その後はたいがいとても嫌な雰囲気になって後悔しましたが。

最近は歳をとって少しは丸く(鈍く?)なってきたのか、「会話どろぼう」をする人を観察する余裕が出てきました。なぜこの人は「どろぼう」しちゃうんだろうかと。上掲の、ドミニク・チェンの本を読みながら、ひょっとしてこれは「共話」の亜種なのかしらとも考えました。少なくとも人の話題を奪ったその瞬間は、相手の発言を引き取って話題を発展させているつもりなのではないかと。

しかし「会話どろぼう」においては、相手の発言を引き取るのではなく、相手の発言を無視していますよね。主題が共通している(例えば「温泉に行った話」)とはいえ、相手に寄り添い、協働によって互いの主体性を交わらせるつもりはなく、ひたすら自己主張に閉じこもっていく。上掲の本では「共話」についてこう書かれています。

相互の発話内容が共有の素材となり、互いの発話の最中で反省が働いていく。そこでは、話者同士が互いの知覚の一端を担い合うように、それぞれの知識と記憶を喚起し合う。(185ページ)

なるほど。「共話」がうまく発現した場合には、互いの喚起によって会話がより高みへ、あるいはそれまで一人で考えていた範囲内では思いもよらなかった方向へ発展しそうです。そういう会話は双方に深い感銘と余韻を残すでしょうね。それに比べて「会話どろぼう」は、相手の発話をシャットダウンしてしまうんですね。

私見では、「会話どろぼう」をしてしまう背景には、その人の不安が介在しているような気がしています。つまり、自分がその話題についてあまりよく知らない、あるいはついていけないという場合に、そんな自分を曝け出すのが怖いので自分を防御しようとするのではないでしょうか。

会話に取り残されてしまうことが不安で、是が非でも自分がハンドリングできる範囲に会話の主題を置いておきたい……そんな心理が「会話どろぼう」の背景にあるのではないかと思いました。本来なら自分が知らない話題に接したら、新しい学びだと思って聞く側にまわればいい。でもそれができない人もいるのではないかと。

これ、職場において、例えばベテランや古参の社員と新入社員の間のコミュニケーションなどにおいても留意しておくべき事柄かもしれません。新人の頃はまだ仕事の全体像が見えていなくて、ともすれば不安になりがちです。その不安からいきおい「会話どろぼう」になっていないかどうか周りがよく観察し、必要とあればそれを諭してあげる、そういうケアが必要なんだなと思います。「最後まで聞いてください!」ではなく。

*1:この一節は、言語教育学者の水谷信子氏が、日本に留学に来ている学生たちの日本語習得プロセスについて考察した論文が下敷きになっています。