インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

共話と会話どろぼう

ドミニク・チェン氏の『未来をつくる言葉』を読んでいたら、「共話と対話」と題された一節にこんな興味ぶかい文章がありました。

共話とは、次の例のように、話者同士が互いのフレーズの完成を助けながら進める会話形式を指す。
A:「今日の天気さぁ」
B:「うん、本当に気持ちいいねぇ」
(中略)
水谷の観察によれば*1、どれだけ日本語の文法や語彙をマスターしていても、共話が行えない学生は日本人とスムーズに会話できないそうだ。(178ページ)

ここで言及されている共話が行えない「学生」は、日本語を学習中の外国人留学生を指しています。私は日々外国人留学生に教える仕事をしているので興味を持ったわけですが、なるほど、こうした助け合いながらの会話進行とでも言うべき「共話」は、他の言語でももちろんあり得るでしょうけど、日本語の大きな特徴とも言えるのではないかと思ったのです。


未来をつくる言葉

確かに私たちは、主語をちょくちょく省略し、「みなまで言うな」を良しとし、半疑問形で相手の反応をうかがいつつ「〜みたいな」とか「〜的な」を多用して断定を避けつつ会話を進める……といったようなスタイルが好き、あるいはそういうスタイルに馴染んでいるかもしれません。最後まできっちりはっきり、文法的にも完璧な文章で最後まで言い切ると、お堅くて押しが強すぎる印象になってしまったり(この「たり」も、言い切らないためのひとつのテクニックかな)。

能と共話

ドミニク・チェン氏はこの「共話」に関して、能楽の謡本にも言及しています。能の詞章(台詞と謡)には、例えばシテとワキが一つの文章を交互につなぎながら「共話」を進めて行き、なおかつその文章をコーラス隊たる地謡が引き取るようにして情景説明に移っていくという形式が多く見られます。なるほど、あれもまた日本語に特徴的な会話の様式なのかもしれません。

さらに「共話」には、片方が話している間に他方も声を重ねるという、同時並行的な会話の進み方があり、こうした協働によって互いの主体性が交わりやすいという側面があると、水谷氏の論文を引きつつドミニク・チェン氏が紹介しています。私はこの部分を読みながら、いわゆる「会話どろぼう」のことを思い出しました。

なぜ「どろぼう」するのか

「会話どろぼう」とは、複数の人が話しているときに、誰かの話題を途中で奪って自分の話題にすり替えてしまうことです。例えば誰かが「週末に温泉に行ってきたんだけど……」と話し始めたところで「私も温泉大好きです。いままでで一番良かったのは……」と自分の話に持っていってしまうような。また何を問いかけても「はい」とか「知りません」など短い返事ばかりで、会話が続かないというパターンもこの「会話どろぼう」に含めることもあるようです。

私は昔からこの「会話どろぼう」がとても苦手で、雑談などの他愛ない会話のときには黙って看過していますが、若い頃は会議などでこれをやられて「最後まで話を聞いてください!」と声を荒げてしまったことが何度かあります。その後はたいがいとても嫌な雰囲気になって後悔しましたが。

最近は歳をとって少しは丸く(鈍く?)なってきたのか、「会話どろぼう」をする人を観察する余裕が出てきました。なぜこの人は「どろぼう」しちゃうんだろうかと。上掲の、ドミニク・チェンの本を読みながら、ひょっとしてこれは「共話」の亜種なのかしらとも考えました。少なくとも人の話題を奪ったその瞬間は、相手の発言を引き取って話題を発展させているつもりなのではないかと。

しかし「会話どろぼう」においては、相手の発言を引き取るのではなく、相手の発言を無視していますよね。主題が共通している(例えば「温泉に行った話」)とはいえ、相手に寄り添い、協働によって互いの主体性を交わらせるつもりはなく、ひたすら自己主張に閉じこもっていく。上掲の本では「共話」についてこう書かれています。

相互の発話内容が共有の素材となり、互いの発話の最中で反省が働いていく。そこでは、話者同士が互いの知覚の一端を担い合うように、それぞれの知識と記憶を喚起し合う。(185ページ)

なるほど。「共話」がうまく発現した場合には、互いの喚起によって会話がより高みへ、あるいはそれまで一人で考えていた範囲内では思いもよらなかった方向へ発展しそうです。そういう会話は双方に深い感銘と余韻を残すでしょうね。それに比べて「会話どろぼう」は、相手の発話をシャットダウンしてしまうんですね。

私見では、「会話どろぼう」をしてしまう背景には、その人の不安が介在しているような気がしています。つまり、自分がその話題についてあまりよく知らない、あるいはついていけないという場合に、そんな自分を曝け出すのが怖いので自分を防御しようとするのではないでしょうか。

会話に取り残されてしまうことが不安で、是が非でも自分がハンドリングできる範囲に会話の主題を置いておきたい……そんな心理が「会話どろぼう」の背景にあるのではないかと思いました。本来なら自分が知らない話題に接したら、新しい学びだと思って聞く側にまわればいい。でもそれができない人もいるのではないかと。

これ、職場において、例えばベテランや古参の社員と新入社員の間のコミュニケーションなどにおいても留意しておくべき事柄かもしれません。新人の頃はまだ仕事の全体像が見えていなくて、ともすれば不安になりがちです。その不安からいきおい「会話どろぼう」になっていないかどうか周りがよく観察し、必要とあればそれを諭してあげる、そういうケアが必要なんだなと思います。「最後まで聞いてください!」ではなく。

*1:この一節は、言語教育学者の水谷信子氏が、日本に留学に来ている学生たちの日本語習得プロセスについて考察した論文が下敷きになっています。