昨日の日経新聞に『留学生 進む日本企業離れ』という記事が載っていました。来日中の外国人留学生のなかで、日系企業への就職を志望する人の割合が外資系企業志望を初めて下回ったというもの。その背景としては高度な日本語能力を求める日系企業の姿勢に加え、コロナ禍の影響があると見られると記事では分析しています。
私は仕事の現場で、こうした日本での就職を希望する外国人留学生を間近に見ていますが、確かにこの記事に載っている「日本で就職する際の不安」というグラフにあるような理由で日系企業への就職に二の足を踏んでいる人は多いように感じます。加えて、グラフには出ていませんが、日系企業のあまりの低賃金ぶりを挙げる人も多いです。
それともうひとつ、前々から申し上げていることではありますが、私がこの記事を読んであらためて感じたのは日本語母語話者の非母語話者に対する、日本語力への高すぎる要求です。記事の最後も「コミュニケーション力を過度に重視すると、多様な人材の獲得を妨げかねない」と結ばれています。
コンビニなどで働く外国人労働者に「まともな日本語を話せ」とか「日本人と代われ」などの暴言を吐く客について以前にご紹介したことがありますが、本当に有能な方を採用したいと望むのであれば、私たちの方からも歩み寄ることを考える必要があるのではないでしょうか。
日本は、ほぼ単一言語で社会を回すことができるという、世界から見ればかなり特殊で幸運な言語環境の国です(そういう国は決して多くはありません)。それが他の言語の話者に対する無理解や過度な要求につながり、あるいは逆転して外語(特に英語)に対するコンプレックスとなって社会のあちこちに現れているように感じています。
ふたつ、あるいはそれ以上の言語をスイッチしながら生活し、仕事をするとはどういうことなのか、外語を学んで使えるようになるとはどういうことなのかについて、私たち日本人(日本語母語話者)はかなり想像力に欠けているのだという自覚が必要です。そして耳に心地よい、自分にストレスがかからない日本語能力ばかりを相手に求めるのではなく、日本語能力以外のその人のスキルについても正当に評価する軸を持つべきです。
自分たちにとって聞き心地のよい日本語を操る能力ばかりに傾斜して外国人(日本語非母語話者)を採用し続けようとすれば、日系企業に来てくれる方は今後もどんどん減っていくのではないかなあ……。
さらに私たちも、もっと積極的に外語を学んで、言葉の壁を超えることがどんなに難しく、奥深く、エキサイティングなことであるのかを実感すべきです*1。そうやって自ら「仕事に使えるレベル」の外語を習得するのがいかに大変なことなのか身をもって知れば、上述したような傾向も少しは改善されていくのではないかと。
本来、外語の学習とはそういう異文化を理解し、世界の多様性を知るための教養としてまず位置づけられるべきものだと私は思います。就職に有利であるとか、単位が取りやすいとか、ペラペラ話せたらかっこいいからとか、そういう実利面に着目するのも否定はしません。でもその根底には、自分たちとは異なる世界の切り取り方をする人たちがいるのだという事実を身体に落とし込むこと、そういう世界観を携えて生きていくことの重要性が据えられていてほしい。日本の外語教育に一番欠けているのはその視点ではないでしょうか。