インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

やっぱり中庸がいちばんなんじゃないかと

いまの職場にはいろいろな国からやってきた留学生がいて、今年度はおよそ20カ国の学生さんたちと毎日相対しています。私は以前に日本人(日本語母語話者)だけのクラスを受け持っていたこともあるのですが、当然のことながらクラスの雰囲気はかなり異なります。

留学生クラスは、やはりいろいろな国の文化背景が異なるからなのか、本当に多種多様な雰囲気の人がいます。もちろん日本人だって人によって醸し出す雰囲気は随分違いますけど、その違いっぷりの幅が留学生の場合は桁違いだなという感じがします。

そういう「違いっぷり」は、もちろん個々人の性格やこれまでの来し方によるのでしょうけれど、やはり国や地域による違いも多少は影響しているように思います。もちろん私は「○○人は✗✗」といったステロタイプな見方には与しませんが、それでもその国や地域の社会全体が醸し出しているものに多かれ少なかれ影響を受けるのではないかと。

ひとさまの国をあれこれ言うと角が立つので自分たち、つまり日本人を例に取ると、私が留学しているときには、いろいろな先生方から「日本人はおとなしい」と聞かされました。とにかく控えめで、質問してもあまり積極的には答えないし、反応が薄いと。

私自身はどちらかというと積極的に和を乱しにかかるタイプだったので、その日本人観には不服でした。でも周囲を見回してみると、確かに同調圧力が強いと言われる日本社会の影響を受けているのかなと思える場面もたくさんありました。それは後に自分が日本人の学生さんのクラスを担当するようになったときにも感じました。

こうした国や地域ごとに異なる行動様式や文化が存在するのはなぜかについて、それを「ルース」と「タイト」という立て分けで解明しようとしたミシェル・ゲルファンド氏の『ルーズな文化とタイトな文化』を読みました。氏はそうした違いが歴史的、伝統的、自然環境的に定まってきたものだと説明しています。


ルーズな文化とタイトな文化

しかも例えば北の地方であればおしなべてタイトで南の地方であれば例外なくルースとか、西洋だからこう東洋だからこうという単純な別れ方にはならず、それらがモザイク状に存在しているというのも面白い。そしてまた、例えばアメリカ合衆国ひとつとっても州によってルースとタイトの度合いがかなり違っていることなど、いろいろと興味深い事例が紹介されています。

全体として、さまざまな社会や人間の見方としてとても参考になる一冊です。が、この本の結論はある意味いたって凡庸なものでした。つまりルースとタイトのどちらかに傾きすぎるのは明らかに害があって、ほどほどの中庸を行くのがいちばんだということです。しかしその中庸を行くのが難しいからこそ、世界にはいまだ分断と反目がそこここ渦巻いているんですよね。

自分とはかなり異なるルースな人たち、あるいはタイトな人たちに遭遇したときに、この本で分析されているようなそのルースとタイトの背景について知っていれば、より寛容な心で接することもできるし、自分もより中庸に近い選択を熟慮できるようになるかもしれません。

実は、偶然その次に読んだ山口真一氏の『正義を振りかざす「極端な人」の正体』でも同じような結論に達していました。何でも閣議決定で進めちゃって国会を軽視しているどこかの国では、中庸や中道はとかく煮えきらなくてスッキリしないような印象があって不人気ですけど、やはりそここそを求めていくべきではないかとあらためて思いました。とかくまどろっこしいけれど、民主主義というものは本質的にまどろっこしいものなんです。


正義を振りかざす「極端な人」の正体