インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

下戸の夜

お酒を飲まなくなったので、最近は「下戸」に関する本を探しては片っ端から読んでいます。探して読んでみて初めて分かりましたが、世の中の下戸と呼ばれる方々は、「上戸」つまりお酒をたしなむ人々に対していろいろと複雑な感情をお持ちのようです。

お酒が飲めることが前提の会社でのつきあい、酔っ払いの扱いについての徒労感、飲み会におけるいわゆるソフトドリンクの選択肢の少なさ、飲食店(特に夜)における下戸の肩身の狭さ、体質的にアルコールが分解できないものの本当は飲酒に憧れている人たち……そうやっていろいろな下戸の方々のお気持ちを聞いていると、確かにこの日本社会は下戸に対してけっこう冷ややかなんだなあということが理解されてきます。

私はつい最近まで大酒飲みで、いまでも特に「お酒が飲めない」という意味での下戸ではないので、そういう下戸の方々の気持ちや感情にまったく無頓着でした。きっと私もこれまで、多くのみなさまに疎まれたり眉をひそめられたりするような行動をあまたやらかしてきたんじゃないかなあと思います。

そんなこんなの下戸の「生態」を様々な書き手によって描き出す一冊、『下戸の夜』を読みました。エッセイ以外にも、写真あり、映画評あり、ブックガイドあり、お店紹介ありで、雑誌やムックのような作りです。

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下戸の夜

いろいろな方が下戸の気持ちを代弁されています。そして、総じてここに漂うのは上述したような複雑な感情、ないしは悲哀というか、ややいじけたような態度です。下戸が世間から受ける理不尽な「肩身の狭さ」を笑い飛ばそうとしているんだけれども、どこかにちょっと哀愁が漂ってしまう、そんな感じ。そういえばマンガ『孤独のグルメ』の主人公・井之頭五郎も下戸で、ちょっとそんな哀愁なりニヒリズムなりが漂うキャラクターでした。

この本に寄稿されている書き手のお一人、ライター・作家の大竹聡氏は、下戸を三種類に分けています。ひとつは「本当の下戸」。体質的にアルコールを摂取できないタイプの方です。聞くところによると日本人はこのタイプが四割から五割ほどもいるそう。体質的に飲めないのに「アルハラ」で飲まされるというのは、すでに暴力ですね。

もうひとつは「少しは飲めるのに、飲めないと公言している人」。飲めるけど弱いのですぐに酔ってしまってそのあとが大変だから最初から飲めないと言うとか、大酒飲みに延々つきあわされるのはまっぴらだから下戸を装い、本当に飲みたいときは自分のペースで好きなように飲むとか、そういう「戦略的」に下戸をやっている(?)人だそうです。

そして最後に「サナギ」。これは昆虫がサナギから成虫へと変態するときにまったく違う姿になることになぞらえて「以前は下戸であった人が、あるときを境に大酒飲みに変身」というパターンだそうで。私はこういうタイプの人に出会ったことはありませんが、ともあれ下戸には「本物下戸・自称下戸・サナギ」の三種類があるというのです。

私はお酒を飲まなくなりましたが、この三種類のいずれにも当てはまりません。やっぱりここは下戸に四種類目を加えるべきでしょう。それはもちろん「ソバーキュリアス」です。ソバーキュリアスにも色々なタイプがあるようですが、私の場合は「お酒は飲めるけれども、あえて飲まない。飲まないでいる状態に興味がある」のです。

お酒をやめてしまったと知人や友人に言うと、以前の私の「ザルっぷり」を知っている人ほど「またどうして」と驚かれます。でも私自身はきわめて自然に、無理することなくこの状態になってしまいました。自分でも本当に不思議です。そしてその状態でいることに悲哀や緊張や、ましてや忍耐などがまったく存在していないというのも不思議なのです。

この『下戸の夜』は二年ほど前に出版された本ですが、本全体を見回してもここにはまだ「ソバーキュリアス」という言葉が出てきていません。それだけ私たちにとっては新しい言葉なんですね。でも先日も書きましたけど、この言葉が登場したことで、私のように大きな行動の変容が起こる方はこれからもたくさん出てくると思います。もしこの本の続編が作られるなら、ぜひ「ソバキュリアン」からの発言も載せてほしいなあと思います。

「すごみ」を感じる教科書

ほそぼそと続けているフィンランド語の学習は、とうとうほとんどの文法事項が出そろい、二冊目の教科書も終盤に近づきました。最終章の直前では、教科書の「本文」が教科書編纂者からのメッセージのような形になっていて、よくここまで頑張って学んできましたね、これでもうみなさんはフィンランド語の「免許皆伝」です……みたいなことは一切書いておらず、まだまだこれからもっと厳しい道程が続きますよ的な、ある意味「愛のある」メッセージが並んでいます。

先生によると、こういうふうに容赦ないというか、あけすけで包み隠さない物言いがとてもフィンランド人らしいんだそうです。でもまあそれは「おあいそ」や「お追従」みたいなことを言わないという気質でもあるようなのですが。個人的にはそういうの、好みです。……で、教科書の本文にはこんなことが書いてありました。

Täydellisen tai melko hyvän kielitaidon saavuttaminen vie uskomattoman paljon aikaa. Tämä tosiasia on hyväksyttävä ja jatkettava opiskelemista. Ei kannata luopua.
完璧な、あるいは非常に優れた語学能力へ到達するためには、信じられないくらいたくさんの時間がかかります。この事実を受け入れ、学び続けなければなりません。あきらめてはいけません。

この文章もそうですけど、その前後の文章も、これまでにこの二冊の教科書で学んできた文法事項が「これでもか」とてんこ盛りになって書かれています。これは明らかに編纂者が意図してそう書いているんでしょうね。中国語の教科書でも同じようなことを感じたことがありますが、こういうところが非常に心憎いというか、教科書編纂者の意気込みを感じるというか、そしてネイティブならではの「すごみ」を感じるところでもあります。

母語話者による教科書にも、それはそれでその言語を外語として学んできた経験が生かされているので素晴らしいものは多いですが、こういうネイティブの「すごみ」を感じさせる教科書に出会うと、私などは感動に近いものを感じてしまいます。この教科書は二冊目で終わりなので、次はどんな教材に移っていくのか分かりませんが、「優れた語学能力へ到達するため」にこれからもあきらめずに学んで行こうと思います。

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フィンランド語 139 …日文芬訳の練習・その57

急に寒くなってきたので、薄手のダウンジャケットを買いました。試着して購入を決めたら、店員さんに「このままのお渡しになりますが、よろしいですか」と聞かれました。「かまいません」と答えたら、店員さんはダウンジャケットをくるくると丸めてフードに押し込み、渡してくれました。私はそれをラグビーボールのように抱えて家に帰りました。環境保護のためにレジ袋の有料化が行われていますが、このお店のようにそもそも袋を使わないほうがより素敵だと思います。


Minä ostin kevyen untuvatakin, koska ilma on yhtäkkiä muuttunut kylmäksi. Sovittamisen jälkeen, kun päätin ostaa sen, myyjä kysyi minulta: “Jos Te ette välitä, antaisin sen suoraan.” Vastasin, että ei se mitään. Myyjä rullasi takin alaosan ja työnsi sen huppuun, antoi sen minulle. Pidin sitä käsivarressani kuin rugbypalloa ja palasin kotiin. On tehnyt jo nyt muoviset ostoskassit, joista tuli maksullisia ympäristönsuojelua varten. Mutta mielestäni on parempi olla käyttämättä laukkua alusta alkaenkin, kuten tämä kauppa.


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「説得的デザイン」によって「通知」されること

スマートフォンやパソコンには「通知」という機能があります。ポップアップウインドウで通知されることもありますが、私が最近気になっているのは画面上にあるアプリのアイコンに示される数字や小さな丸です。これが眼に入るや、見に行って処理しなければならない誘惑に駆られる。数字をゼロにしたい、丸をなくしたいという欲求が生まれる。こうやって「アテンション・エコノミー(注意経済・関心経済)」の虜になっていくのではないかと。

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ジェニー・オデル氏の『何もしない』ではこうした仕掛けを、デヴァンギ・ヴィヴルカー氏の論文を引用する形で「説得的デザイン(心理学の知見をもとに人の行動に変化を起こすよう意図されたデザインのこと)」と呼んでいます。

例えば「ツールバーの上の通知バッジの数字」は「やることリストのように思わせて表示させる数字を0にしたいという気持ちにさせる」、「ツールバー上の通知を知らせる赤い色」は「他人や企業のページへのクリックを誘導するために緊急性を演出する」といったぐあいです(186ページ)。

もちろんショートメッセージや電話の着信など、必要な通知もあります。でもそうした必須のもの以外、とくにSNS関係の通知をよくよく吟味してみると、そのほとんどが自分の注意や関心、そしてそれに伴う時間をどんどん奪っていく存在だということがわかります。

かつてSNSの中毒状態だった頃は、Twitterにツイートしたり、Facebookやブログに投稿したあとは、「いいね」がついていないか、リツイートされていないか気になって、ついつい見に行ってしまっていました。見に行かないまでもアイコンに数字や丸が出ていないかどうか常に気になって、何度もスマートフォンを見てしまう。

そうしてチェックした際に、タイムラインに偶然(実は偶然ではなく、かなり私自身向けにカスタマイズされているのだが)流れてきた情報に引っ張られ、ほかの記事やニュースを読み、商品に魅せられ、つい「ポチッ」と購入してしまう。こうやってアテンション・エコノミーの虜になっていたのです。

とくにSNSやニュースサイトを複数利用していると、その虜になりやすいと思いました。ローテーションを組むように、順繰りにそうしたサイトを見て回って、更新がないかを確かめずにはいられなくなるのです。なまじ複数あるだけに、何度も何度もサイト間をグルグル回ることができてしまうというわけです。

私の場合、この「更新がないかどうかつい確かめに行ってしまう」誘惑を断ち切るのは本当に容易ではありませんでした。最近になってようやくTwitterFacebookも醒めた目で見られるようになりました(ほかのSNSはすでにすべてやめてしまいました)。このブログも投稿したあと、コメントやアクセス数など一切気にしないようにしています。

「通知」の数字や丸は、それがなまじほんの小さな画面上の変化であるだけに、かえってそこに注意が引きつけられる……この「説得的デザイン」の巧妙さには、今後ますます格段の警戒が必要になるのではないでしょうか。

追記

こんなふうに「アテンション・エコノミー」の罠について書いておきながら、実は私もこの投稿でその一端を担っています。おわかりになりましたでしょうか。ひとつは、こうしてブログ記事を書くことで、記事を読んでくださる読者の方の画面に「通知」が行くであろう(その機能を利用されていれば)こと。そしてもうひとつは上掲の『何もしない』という書籍の題名に「Amazonアソシエイト」のリンクが張られていることです*1

ネットを利用している以上、結局私たちはこうして、お互いにアテンションを送り合う関係の中に生きざるを得ません。その利弊をじゅうぶんに見極めてネットとつきあう……これは現代に生きる私たちに必須のリテラシーのようなものではないかと考えています。

*1:この記事を投稿したことをTwitterのタイムラインに書き込めば、それも。だから私は最近、ブログ記事のリンクをツイートすることはやめました。

フィンランド語 138 …欠格

基本的に書き言葉にしか現れない(文章を音読している時などを除いて)「具格」「共格」と学んできて、新たに「欠格」を学びました。これで15種類(単複合わせて30種類)の格がすべて出てきたことになります。

欠格はその名の通り「~なしで」を表す格ですが、これまでに学んだ“ilman + 分格”でも同じ意味を表せるため、ほとんど使われることはないそうです。格語尾は“tta / ttä”で、これを語幹につけて作ります。

raha(お金):rahatta(お金なしに)= ilman rahaa
lupa(許可):luvatta(許可なしに)= ilman lupaa
osoite(住所):osoitteetta(住所なしに)= ilman osoitetta

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Tulin keskustaan ilman sateenvarjotta.

オンラインの会議や授業がつらい

私がいまメインで勤めている学校は、系列の大学や専門学校などがひとつのキャンパスにまとまったているところです。その大学では最近、感染状況が落ち着いてきたことを受けて、学生さんはもちろん、学生さんの親御さんからのクレームが急増しているという話を聞きました。「いつまでオンライン授業をやっているんだ」というクレームだそうです。

大学や専門学校はオンライン授業をやらざるを得ない

コロナ禍に突入してからこちら、私たちの学校でもすでに一年半以上もオンライン授業や、オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド授業が続けられています。公立の小中学校など、主に地域の児童や生徒が集まってくる環境とは違い、大学や専門学校は様々な場所から教職員が日々集まり、また散っていきます。授業もコマごとに教室を移動し、そのたびに不特定多数の人々との新たな接触が繰り返されるので、感染のリスクはかなり大きいと考えられます。

加えて大学や専門学校は、キャンパス周辺の地域社会との関係にも極めて気を使っています。成人している学生も多いので、飲酒や喫煙などのマナーに加え、「サークル活動の音がうるさい」とか「歩道でスケボーをしている」など、規模の大きい学校組織ほど日々様々なクレームが入ります。そんな中、不用意に対面授業を全面再開して万一クラスターでも発生させたら、目も当てられません。というわけで現時点ではオンライン授業も相当の割合で利用せざるを得ないのです。

一方で学生やそのご家族からすれば、高い授業料を払っているのにどう贔屓目に見ても「目減り感」が否めないオンライン授業でお茶を濁され続けるのは納得がいかない、というのもよくわかります。本来的に実習を多く伴う学科ではよりその不満は大きいでしょう。

それでも私が所属している部門は、学生の全員が外国人留学生なので、親御さんやご家族から強烈なクレームが寄せられるということはまずありません。いわゆる「モンスター○○」というような存在に頭を悩ませることは極めて少ないのです。以前勤めていた学校ではこの「モンスター」への対応に苦慮した経験もたくさんあって、だからこの点では(他部門の同僚には申し訳ないけれど)ちょっと安堵しています。

オンライン授業は苦手だと正直に言おう

ただ、私自身もこの一年半あまり、かなりの時間をオンライン授業の開発と実践に費やしてきましたが、もうそろそろ自分の限界かなと感じ始めています。これまでは、こうした新しい世の中の動きや試みに対応できなくなったら、それこそ「老害」の始まりではないかと自分を叱咤してきたのですが……もう正直に言いましょう。

私はオンライン授業が苦手です。オンラインでも変わらぬ教育の質を提供できないのは怠慢なのかもしれません。でも自分の授業でオンラインをこれ以上続ければ、自分の心を病むと感じています。それでもやれと言われたら……そのときはもう辞職するしかないかなと、そこまで煮詰まってきています。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_9196.html

オンライン授業の何がそんなに苦手なのか。通勤通学の時間が省けるし、全員が資料やスライドを平等に見られるし、音声や映像も平等に届きます(教室だと見えやすい見えにくい、聞きやすい聞きにくいなどいろいろと「濃淡」が生まれます)。遠隔地からも参加できて、これまで受講のチャンスがなかった人にとっては福音です。そして何より、オンライン授業のためのソフト・ハードも急速に充実してきている。コロナ禍を奇貨として、新しい教育のあり方を模索する絶好の機会ではないか。私もそう思っていました。つい最近までは。

オンラインに欠けている「空気感」

でも、最近になって、そういうポジティブかつ意識の高い肯定論にかき消されてしまいがちな、様々な欠点がどうしても気になり、なおかつそれがどんどん膨らんで来るような気がしています。学生全員がミュートにしている中で、反応のない虚空に声を投げかけ続けるような孤絶感と徒労感については、すでにブログで何度も書きましたから繰り返しません。それは私の側の問題ですから、仕事である以上なんとか我慢する必要はあります。

しかし学生側にもデメリットがあります。それは通常の教室での授業が持っている「空気感」です。教室での「多くの学生」対「教師」という構図はオンラインでも変わらないのですが、そこにはリアルな空気感、あるいはともに同じ空間を共有しているという一体感のようなものが欠けています。私はこれがかなり授業の質に影響するように感じています。

一方的に講義を拝聴するような授業ならまだしも、私が担当しているような通訳実習系の授業では、やはりその場に身をおいて、周りの人々の存在感や息遣いの中で自らのスキルを向上させていく必要があると思うのです。オンラインでも他人の存在を感じることはできますが、いつでもボタン一つでその場から退出できるという留保を有している(実際にそれをする人はいないにせよ)ことそのものが、パフォーマンスに大きな影響を与えているように思えるのです。

こういう言い方をすると身も蓋もないのですが、リアルな教室の授業であれば、教室に足を運んで来ているという段階で最低限のモチベーションは確保されています。実際には「だるいなあ」と思って登校してきていても、そこに身に置いているだけでなにかの学びを起動させるベースはある。でも自宅の自室からのオンライン授業では、そのベースすら常に心もとない状態にあります。身も心も学びモードに完全に切り替わることができないように思えるのです(これは自分が学生として参加しているオンライン授業でも感じます)。

また教室では「学生←→教師」というインタラクションの他に、「学生←→学生」という横のインタラクションも不断に生まれます。これが案外学びに大きな役割を果たしていることを実感してきました。教師とのインタラクションとともに、教師に内緒で「これってどういう意味?」とか「こういうこと?」「そうじゃない?」「ちょっと静かにしなさいよ」「センセは○○って聞いたんだよ」みたいな小さなやり取りが有機的に広がっている……こういうのが、特に実習系では授業に厚みや温かみをもたらす大きなファクターになっているように思うのです。

いずれも私が個人的に感じているだけで、何の証拠もありません。でも先日、外国人留学生の通訳クラスの対面授業で、私が概略上述のような話を簡単にしたところ、留学生のみなさんがこれまで見せてくれたことがないような「やれやれ」というか「うんざり」といった顔つきをして、ちょっと苦笑いしながら「そうですね、オンライン授業は本当に嫌です」と口々に言っていました。

私はちょっと意外でした。学生はオンライン授業のほうが楽だと思っている、と思い込んでいたからです。でもよく考えてみれば、その国やその国の言葉が好きでわざわざ現地に留学したのに、授業の大半がオンラインだったら「一体私は何をしにここへ来たのか」と思いますよね。

もともと苦肉の策だった

余談ですが、オンライン授業やオンラインミーティングの普及に伴って、そのデメリットを補うための様々な「活性化」Tipsをよくネットで見かけます。昨日拝見したのはこちら。

note.com

いろいろな方が「活性化」のために努力されていて、困難な状況でも何とか物事をよい方向に進めようとするその努力には本当に頭が下がります。そして自分も曲がりなりにもそういう努力をしてきたつもりでした。でも最近、こうした気遣い・気配り自体にとても疲れている自分を隠せなくなってきてしまったのです。たった一年半あまりの実践でもう音を上げているなんて情けないぞと言われるかもしれませんが。

最近では、オンラインミーティングの、全員の顔が縦横のグリッド状に並んでいて、みんながこちらを見ているというあの不自然な画面にもひどく違和感を覚えるようになりました。「新しい日常」においては、もやは普通の風景になりましたけど、アレってよくよく考えてみたら、かなり異様な光景です。……やはりずいぶんメンタルを病んでいるのだと思います。

オンラインでの会議や授業は、当初こそ働き方改革や教育改革の切り札としてずいぶんもてはやされましたけど、そして分野や部門によってはそれは今でも正しいのでしょうけど、すべてがそれで解決するわけでもないという、考えてみれば当たり前の結論にようやくたどり着きました。もとはといえばオンライン会議やオンライン授業は、コロナ禍への対応で考え出された苦肉の策だったのです。実践を経て、向き不向きが明らかになりつついま、元の姿へ回帰する動きもこれから活発になってくるのではないかと思っています。

袋がまったくなくて清々しい

買い物をするとき、とくにスーパーのレジであの「薄いビニール袋」との戦いをえんえん繰り広げてきた私。最近はいずこのスーパーでも白いレジバッグこそ有料になりましたが、あの薄いビニール袋はあいかわらず大量に消費されています。野菜も生鮮品のパックも、へたをするときちんとパックしてある冷蔵品も(豆腐とか漬物とかね)片っ端から薄いビニール袋に放り込まれてしまうので油断なりません。

さらにあの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い - インタプリタかなくぎ流
あの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い - インタプリタかなくぎ流
ふたたびあの「薄いビニール袋」について - インタプリタかなくぎ流
あの「薄いビニール袋」を何とか避けたい - インタプリタかなくぎ流

レジではいつも「その袋、要りません」というタイミングを計りながら会計を待っていて緊張しているのですが、先日それとは真逆の買い物体験をしました。アウトドア用品の「パタゴニア」のお店でのことです。

www.patagonia.jp

昨年、冬服を大幅に断捨離して、まだ着られそうなものは地域のコミュニティに寄付したのですが、うっかり断捨離しすぎてこの時期に着ていた薄手のダウンジャケットまで寄付してしまいました。寄付した覚えはなかったのですが、どこを探しても見つからないのです。断捨離って、勢いがつくと大胆になりすぎるんですよね、私の場合は。

それでたまたま通りかかった渋谷のパタゴニアで一枚買い求めました。こうやって何度も買い直しているようでは結局は大量消費につながって、ちっとも環境負荷を減らせていませんが。それはともあれ、かねてより仄聞していた環境への意識の高い同社の直営店、買い物をしている最中から店員さんが「このままのお渡しになりますが、よろしいですか」と何度もたずねられ、実際レジで会計したあとは、店員さんが手慣れた手つきでダウンジャケットをくるくるっと丸めて、こんな形で手渡してくれました。

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というわけで、このラグビーボールみたいな物体を抱えて、家に帰りました。まあこれはこれで「こういうものだ」と思ってしまえばなんということもないですね。いっそ清々しいとさえ言えます。

言葉を発見したからこそ続く

ふっつりとお酒を飲まなくなってから、きょうで90日になります。3ヶ月もお酒を飲まなかったのは、もちろん初めて。そして、あんなにお酒が好きだったのに、いまでは不思議なほど「飲みたい」と思わなくなりました。

ここ10年ほど血圧が高くなってきたので、もう長いあいだ休肝日を設けなきゃとか節酒しなきゃなどとあれこれ試してきたのに、一度も続きませんでした。なのにどうして今回に限ってあっさり成功できたのかがいまだに謎なのですが、ひとつだけ思い当たることがあります。

それは「ソバーキュリアス(Sober Curious)」という言葉に出会ったことです。これは「しらふでいることへの興味」、つまりお酒を飲んでいる状態よりも飲んでいない状態の方により積極的な価値を見出すというものですが、「あえて」しらふでいるというのがポイントです。私はこの言葉に『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』で出会いました。

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体質的にお酒が飲めない人がいますが、私はそうではなく、いまでも飲もうと思えばそこそこ飲めます(歳をとって量は減りましたが)。それでもあえて飲まないことを選ぶ、というプラスの動きを持つ心の持ちようなんですね。禁酒とか節酒が「〜しない」というマイナスの動きであるのと対照的です。

しかも、例えば誕生日とかなにか大切な記念日とか、そういうときには飲むのもオーケーじゃないかというスタンスです。これから一生飲まない・飲めないとなると、なかなかそれに踏みきり、かつ習慣化するのは難しいですが、「いつでも飲もうと思えば好きなだけ飲める、ただ、いまは飲まないでいる状態に興味があるだけ」というスタンス、そういうソバーキュリアスだからこんなに「するっ」と習慣化することができたのだと思います。

だから今後なにかの折にはまた飲んでみたいと思っています。そのときに果たしてお酒がどんな味がするか、実はけっこう楽しみです。もうその頃にはすっかりお酒を飲まない状態の身体になじんでしまっていて、ひょっとすると「なんだ、お酒って全然おいしくない」と思うとか、ことによると体調を崩すなどということもあるかもしれません。でもそうなったらそうなったで、今度はもう一生飲まないほうにシフトすればいいのです。

飲んでもいいし飲まなくてもいい。そういう気楽なスタンスの「ソバーキュリアス」だからこそ成功したのだと思います。でもこの言葉を知る前と知る後はいずれも同じ私です。ただこの新しい言葉を付しただけで、ここまで行動の変容が起こってしまう。レベッカ・ソルニット氏は『それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力』のまえがきで「ものごとに名前をつけるのは、解放の過程の第一歩だ」と言っています。

課題が深刻なものである場合、それを名付ける行為は「診断」だと私は考える。診断名がついた病のすべてが治癒可能というわけではないが、何に立ち向かっているのかをいったん理解できれば、それにどう対処するべきかがはるかにわかりやすくなる。

これは本当にすごいことですし、言葉の力というものを改めて実感しているところです。

発表会の非日常

きょうは一年に一回のお能の発表会です。今年は五月に国立能楽堂で大きな会が催される予定だったのですが、ちょうどコロナ禍の緊急事態宣言が発令されたところで、直前で中止になってしまいました。その日のためにお稽古していた舞囃子『邯鄲』は来年以降に「お預け」となって、きょうはその後からお稽古を始めた仕舞『船弁慶』のキリです。初めての薙刀ですが、まあ楽しんでこようと思っています。

ところで今日は会のはじめに連吟で『松虫』を謡ったので、早朝から能楽堂の控室で黒紋付に袴で控えていました。そして謡い終わったら夕方の自分の出番までずいぶん時間が空いてしまうので、他の人の発表をみたり、こうしてお昼を食べがてらカフェでブログを書いたり、ちょっとした残り仕事をしたりしています。最近はなぜだか本当に忙しかったので、こうやって気ままに時間を過ごすのは久しぶりです。

素人の発表会ですが、仕舞の地謡舞囃子のお囃子はほとんどが玄人の先生方なので、お師匠方はきょうは朝から晩までお忙しそうです。お仕事だからそんなに苦にもされていないと思いますが、それでもあまたいるお弟子さんの一つ一つの演目に気を配って一日を過ごすのは大変だと思います。こちらはこうやって呑気な一日をすごしていますが。

お昼も食べたので、もうそろそろ能楽堂に戻ろうと思います。そして再び紋服を着て、気持ちを本番に向けて高めていくのです。カフェでソイラテを飲んでいるいまから数時間後には能楽堂薙刀振り回しているというのも、考えてみればかなり非日常な体験です。年に一回か二回こうした機会を持つのは、日常に飽いた自分にとってはとても大切なのではないかと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

フィンランド語 137 …日文芬訳の練習・その56

とある日本語学校の先生と話をしていて「中国人留学生がよく舌打ちするんだけど」という話題になりました。日本人にとって舌打ちは「不満」や「不快」を表すサインですから、かなりインパクトがあります。でも中国人にとっては、ほとんど言葉の息継ぎや句読点みたいなものです。さらに相手を賞賛するときや、何かに感嘆したときなどに連続して舌打ちするなど、私たちとはかなり異なる「文化」を持っています。個人的にはこれは中国人に対する誤解や偏見の大きな原因になっているのではないかと思っています。


Keskustellessani erään japaninkielikoulun opettajan kanssa tuli aiheen, jonka mukaan kiinan opiskelijat napsauttaisivat usein kieltään. Japanilaisten mielestä kielen napsauttaminen näyttäisi jollekulle valituksia tai mielipahoja, joten niillä on liian tehokas. Kun taas kiinalaisten mielestä ne ovat vain pieniä henkäyksiä tai välimerkkejä. Lisäksi heillä on “kulttuuri”, joka on hyvin erilainen kuin meidän. He napsauttaisivat peräkkäin kieltään heidän ihaillessaan ihmisiä tai ihmetellessään jotain. Mielestäni ne lienevät olleet suuria väärinkäsityksiämme ja ennakkoluulojamme kiinalaisille.


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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_820.html

村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をめぐる「10年で変わったこと・変わらなかったこと」

加藤典洋氏の評論集『村上春樹の世界』を読んだので、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読しました。確かこの前読んだのは東日本大震災の年だったと覚えているので、ちょうど10年ぶりで読み返したことになります。

この小説を最初に読んだのは大学生だった20歳のころで、所属していたサークルの友人が勧めてくれたのでした。彼はとても頭がよくかつちょっとシニカルなところがある人で、いまから思えば「ハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる「私」に雰囲気が似ていました。それから何度も再読しています。それだけ好きな作品だったわけです。ただ今回読み返してみて、前回までとは少々異なった読後感を抱きました。

心に沁みるパートが変わった

まず二つの物語が交互に平行して進む形式のこの作品のなかで、私はずっと「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうが好きでした。計算士である「私」の冒険譚、「老人」と「ピンクのスーツを着た太った娘」のギミック感たっぷりな研究施設、そこここで詳細に描写される衣食住へのこだわり、大真面目に語られるがゆえにユーモア感が醸し出される比喩、そして脳内の意識のありように関するさまざまな説明。

東京が舞台ということで、東京に住んでいる自分にとっては一層リアリティが増しましたし、インターネットもスマートフォンも出てこず、逆にまだカセットテープなどが使われているのに(1985年の作品です)それほど古びた感じもしません。30歳代で妻に出て行かれた「私」の境遇や、孤独を愛する心情なども、自分にかなり近しいものを感じていました。

でもいまもう一度読み返してみると、「世界の終わり」のほうがいちだんと心に沁みるように感じられたのです。壁に取り囲まれた街のなかで一角獣の頭骨から「古い夢」を読む「僕」が遭遇する数々の出来事、人との交わり、風景や自然の描写、そして結末の静かな、しかし決然とした「僕」の行動……。年を取り、大都市にいささか疲れ、様々な現実と折り合いをつけ、お酒を飲まなくなったからなのか、「僕」のたたずまいにより自らを重ねやすくなっている自分を発見してしまいました。10年前までは「世界の終わり」の細やかな心情描写や風景の説明などが何となく冗長に思えてさっさと読み飛ばしていたのに。

加藤典洋氏は「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」をめぐる終幕について「きっと年のせいかもしれないから、人には強く薦めない。しかし元気のないときには、これは読んで心に沁みる小説である」と書かれていました。「世界の終わり」の「僕」の終幕は、元気のないときに読むとよけいに深みにはまるかもしれませんが、今の自分にとってはやけに「心に沁みる」のです。

村上春樹氏は1949年のお生まれだそうですから、この作品を書いたときは36歳ですか。自分が36歳の時には、こういう世界はまだほとんど心に沁みていなかったと思います。

フィンランドとのつながり

ほかにも細かいところで発見がありました。私がこの10年の間に新しく始めたことのひとつにフィンランド語があるのですが、この作品にはフィンランドフィンランド語が何度か登場します。これも以前読んだときにはあまり気にも留めていませんでした。

地下世界で邪悪な存在に惑わされ、つい眠り込んでしまった「私」。そのきっかけは前を歩く「娘」のゴム底靴の響きだったのですが、それは“Efgvén - gthǒuv - bge - shpèvg - ègvele - wgevl”と聞こえてきます。これについて「私」は……

まるでフィンランド語みたいだったが、残念ながら、フィンランド語について私は何ひとつ知らなかった。ことば自体の印象からすると「農夫は道で年老いた悪魔に出会った」といったような感じがするが、それはあくまで印象にすぎない。根拠のようなものは何もない。

……と言っています。わはは、確かにフィンランド語とはまったく違いますけど*1、ここではどこか遠い国、日本の東京とはまったく違う風土をイメージされたんでしょうね。私はこのくだりをなぜか「ギリシャ語の活用」だと記憶してしまっていました。たぶんほかのところで出てくる老後は「チェロとギリシャ語を習ってのんびりと暮らす」という記述や、村上氏ご自身がギリシャに滞在されていたことなどと混同していたんでしょうね。

終幕近くで「老人」はフィンランドに新しい研究室を作ったという話が出てきます。また後年の村上作品『多崎つくると彼の巡礼の年』でもフィンランドが登場します。読んだ当時はそんなディテールにほとんど引っかかりませんでしたが、いまは当然ながらとても引きつけられます。そういう小さな変化も今回の再読における発見でした。

女性に関する記述

それからもうひとつ、今回読んで大いに引っかかったのは、女性に対する記述です。これは多くの方が論じておられますが、私も大変遅まきながら、かなり抵抗を覚えました。村上氏の作品には特徴的な傾向だとはいえ。学生時代にアルバイト先で知り合った津田塾の学生が村上作品をとても嫌っていて、その学生は「自分がカッコよくてセックスがうまいことばかりひけらかしている」とにべもない酷評をしていました。当時の私は「またなんと表面的な受け止め方だろうか」と思いましたが、いまになってみるとその憤りは分かります。この十年で、ようやく私もそういう認識に達したのかと思うと、やはり自分の中にあるバイアスの大きさに愕然とせざるをえません。

とはいえ、個人的には、この作品ほど再読を重ねた小説はありません。作品的には終末でかなり都合よく世界が完結し、この点村上氏ののちの作品よりも分かりやすいですし、ある意味「若作り」な感じがしないでもない。でも私は、ある種の静謐感と叙情性を持つこの作品は、村上氏ご自身にとっても今後必ずしも超えることが容易ではない高みを示した不世出の傑作ではないかと思います。たぶんまたいつか読み直すことでしょう。そしてその時にはまた新しい発見があるのかもしれません。

各言語版

ちなみに私、旅行したときにその国の書店に寄ってこの作品の翻訳版を探して買い求めるのがささやかな趣味です。予めネットで調べるなどとつまらないことはせず、大きな書店の外国文学コーナーに行ってあるのかどうかもわからない状態で(大抵ない)探すのです。いままで見つけて買ったのはこの写真にあるだけ。すべて現地の書店で見つけて買いました。

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タイトルの異同が面白いです。左上から時計回りにイタリア語版 “La fine del mondo e il paese delle meraviglie” 、直訳すると「世界の終わりと不思議の国」ですか。

英語版は“Hard-boiled wonderland and the end of the world”で、日本語と順番が逆になっています。原作は確かにこの順番で交互に物語が展開しますから正しいといえば正しいです。なぜ村上氏は「世界の終わり」を先にしたのでしょう。もっとも私は最後に「ハードボイルド・ワンダーランド」と脚韻が畳み掛けるようなこの語感が好きですが、それは単になじんでいるからだけなのかもしれません。

デンマーク語版は“Hardboiled wonderland og verdens ende”「ハードボイルド・ワンダーランドと世界の終わり」※順番は英語版と同じで、何故か前半だけ英語をそのまま使っています。「ハードボイルド」と「ワンダーランド」の組み合わせがあまりに和製英語っぽくてデンマーク語にあえて寄せなかったのかしら。

中国語の簡体字版は北京の書店で買いました。“世界尽头与冷酷仙境” ですけど、“尽头”は「行き止まり」とか「さいはて」とか、そんな漢字の言葉。それから、なるほど「ハードボイルド」は冷酷なイメージですか。でも中国語の“酷”は「クール」な感じもあるので合っています。“仙境”は、なんだか山水画の中に白いひげのおじいさんでも出てきそう。

台湾の台北で買い求めた中国語の繁体字版は“世界末日與冷酷異境”と、簡体字版とほぼ同じ。個人的な語感に過ぎませんが、この繁体字版のほうがいくぶんそっけなくて詩情や湿っぽさみたいなものが少なく、原作の雰囲気にはかえって親しいように思います。

フランス語版は“La fin des temps” ですから「時の終わり」。たったそれだけ? この独善感! でも表紙は一角獣とエレベーターでいいところをおさえています。

フィンランド語版は“Maailman-loppu ja ihmemaa”「世界の終わりと不思議の国」。でも「不思議の国」というと、私などどうしても“Alice in the wonderland”を思い浮かべてしまうので、実際この作品で展開される東京地下の「ワンダーランド」とはかなりイメージが違うようにも思えます。その意味では台湾の“異境”が近いでしょうけど、そうすると今度はちょっと原作の冒険小説っぽいところやスタイリッシュなところが消え失せてしまいます。結局英語版(はまあ当然として)デンマーク語版のようにそのまま和製英語を拝借しちゃうのが一番無難なのかもしれません。

今後も海外で、初めて訪れる国があったら、このささやかな趣味を継続したいです。

※この記事は、はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」への投稿です。

*1:Viljelijä tapasi vanhan paholaisen tiellä.

はてなブロガーに10の質問

はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

インタプリタ」は「通訳者」です。私は通訳者としてはデビューが40歳代になってからと遅く、偉大な先達を仰ぎ見ながら常に三流であることを痛感していたので、粗野な筆跡になぞらえて「かなくぎ流」と自虐的なブログ名をつけました。

はてなブログを始めたきっかけは?

はてなブログの前身の「はてなダイアリー」がスタートでした。当時台湾に長期派遣で赴任していてとても緊張を強いられる(でも楽しい)毎日だったので、日々のあれこれを日記的に書こうと思って始めました。最初の頃のきわめてプライベートなエントリは消してしまいましたが、始めたのはたしか2003年だったと思います。

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

qianchong.hatenablog.com
書いたときには「こんなことを考えているのは私だけかも」と思いましたが、その後同じようなことを書かれている方がけっこういらっしゃることに気づきました。だからあまり独自性もないですし、ましてや学術性など皆無ですが、書いた時点では徹頭徹尾自分の体験のみから抽出した「ヒント」だったので、とても思い出深いです。

ブログを書きたくなるのはどんなとき?

ここ数年は「ボケ防止」も兼ねて、必ず毎日書くようにしています。今日で連続1410日目になりました。

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

仕事が語学関係なので、語学や語学教育に関して考えたことを下書きしています。……が、ほとんど論旨がまとまらなくて「ボツ」にしています。最近はアウトライナーでささっと書いて、編集画面にコピー&ペーストし、「はてな記法」で整えることがほとんどになりました。

自分の記事を読み返すことはある?

めったにないですけど、どなたかがSNSやブログなどで引用してくださったときに読み返します。「こんなこと書いていたかな」と思うことも多いです。

好きなはてなブロガーは?

購読リストに入っていて、更新数が多いので定期的に拝読しているのは「脇見運転」さんと「愉快的陳家@倫敦」さんで、このお二方は「はてなダイアリー」の頃から読んでいます。あと最近は沖縄の、特に離島に興味があるので「さんぺいの沖縄そば食べ歩き」さんも毎回楽しく拝見しています。

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

記事を書きやすいインターフェースをありがとうございます。ブログのデザインや設定の部分はいまとなっては分かりにくい・使いにくい部分がありますけど、そのぶんさまざまなデザインを楽しみたい各ブロガーの個性を尊重されているのだと理解しています。

10年前は何してた?

いまとは別の職場で、かなり仕事に煮詰まっていました。周囲からも徹底的に批判され、とてもつらい時期でした。10年経ったいまは、とても幸せです。身体の衰えは、それはもうとんでもないくらいに進行していますが。

この10年を一言でまとめると?

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」かな。30歳前で失業したときに言われた言葉ですが、その時はよく分かりませんでした。この10年ほどで、やっと実感を伴って「こういうことかな」と理解できるようになりました。

退職後のことを考える

私と同い年の知人はパートナーがアメリカ人で、日本の大学で英語を教える仕事をしてこられたのですが、今年度いっぱいで完全に退職することにしたそうです。もともと歳を取ったらもうあまり働きたくないというお考えだったようですが、それ以上に英語が必要ない、あるいは英語に興味がない日本人に英語を教えるのに疲れてしまったのだとか。

確かに、学ぶ気のあまりない人に教え続けるというのは、こちらの心を蝕むんですよね。特にコロナ禍になってからこちら、オンライン授業の比重が増してからはその「蝕まれ」ぐあいがさらに高まったように感じています。わざわざ学校の教室までやってきて授業を受けるのであれば、最低限のモチベーションはまだ発揮されています。でもオンライン授業においては、やる気のない人のオーラはさらに高まりますから。そんな方々に向かってアプローチし続けるのは(たとえそれが自分の任務であり、お給料をもらっている仕事だとはいえ)なかなかにつらいものがあります。

もちろん逆にやる気のある人も少なからずいるのが、少なくとも私にとっては救いですが、それでもどの母語話者に限らず(私が担当しているのは主に通訳や翻訳なので、日本語母語話者と中国語母語話者が中心ですが)、以前に比べてみなさん「足るを知っている」というのか、ハングリーに「石にかじりついても」という感じで学ぶ方はほとんどいなくなりました。私自身の人生観からいくと、そこそこのところでいいというスタンスも決して悪くはないとは思いますが。


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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_82.html

そんな私もあと数年で「定年」を迎えます。というわけで、最近はよく退職後の暮らしを考えます。妻はもっともっと働くつもりらしいけど、私はできればいまの業界から完全にリタイアして、まったく違うことがしてみたいです。定年後もいくつか非常勤を掛け持ちでほそぼそと仕事を続けることはできるかもしれませんが、本音としては知人のパートナー同様に「疲れた」ので、もうそろそろ身を引きたいのです。だいたい「疲れた」と思いながら教え続けるのは学生さんに対しても学校に対しても申し訳ないですし、お若い方々にどんどんバトンタッチしていく必要もありますし。

でも私がいま勤めている複数の学校はいずれも、後継のことはあまり考えていないようです。私はもう数年前から言っていますがなかなか本腰を入れてくれません。でも何度も転職や失業してきた私の実感としては、別に私がそんなことを心配しなくても、いくらでも代わりの人はいるから、機が熟したら辞めちゃっていいんですよね。加えて、今後も中国語圏からの留学生や在日華人がコンスタントに学生さんとして入学してくるだろうかという問題もあります。世界の中における日本の地位もどんどん変わっていますから。

もちろん経済的なバックグラウンドなしで後先考えずにすべて辞めてしまうのは危険でしょう。年金を受給できるのはまだもう少し先ですし、そもそも私の年金月額は「ねんきん定期便」によればかなり低いですし、その間も食べていかなければなりません。妻は生活困窮者向けの就労支援をしていて、まさに私たちの世代やもっと上の世代の人々がなかなか仕事がなくて苦労していると言っています。でもその年になるまで何も準備や積み重ねをしてきていないというのも痛いところだと。私も定年までの間に何らかの準備をしようと思っています。

それで地域のコミュニティにも参加してみようと、自宅近くのコミュニティスペースに出入りしたりしているのですが、退職後のおじさんたちのマウンティングの場所みたいになってて、なかなか思い通りにはいかないなあ……と。でもまあ、あれこれ模索してみようと思っています。それにこういうのは自分の頭の中で考えているだけでは何も進展しないものなんですよね。自分以外のファクター、私はそれを「縁」と呼びたいと思いますが、そういうものが必ず介在しているものですから。これからも毎日をていねいに生きていれば、何かの縁に恵まれるかもしれません。

qianchong.hatenablog.com
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ベンチプレスでの気づき

ベンチプレスは長い間「壁」だった75kgが毎回挙げられるようになり、77.5kgも何度か成功するまでになりました。もっか目標は80kgです。死ぬまでに一度100kgを挙げてみたいものですねえ。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

先日77.5kgを挙げたときに、ある「気づき」がありました。それはバーベルをラックから外してホールドした瞬間に、挙げられるか挙げられないかは分かってしまうという点です。つまりホールドするときすでに成否は決まっている、ホールドの仕方によって成否が決まるということです。

トレーナーさんによると、正しくホールドできているときは肩甲骨が正しい位置に入っている。そうすれば力を効率よく伝えることができて挙がるのだと。肩甲骨が正しい位置に入っていなければ、背中も全身もうまく使えず、結果として挙がらなくなるのです。そして今回の気づきは、肩甲骨を正しい位置に入れながらホールドするコツようなものがあるという点でした。

安全で効率的な筋トレにはさまざまな身体の使い方が関わっていて、プロの優れたトレーナーさんはそれらをひとつひとつ腑分けして、生徒の現時点での身体の状態に合わせて改善を指示してくれます。私の場合もこれまでに、お腹の使い方、背中の使い方、下半身の踏ん張り方、バーベルを握る手のひらの形、脇の締め方……などなど、実にたくさんのディテールにわたって指導を受けてきました。

そうやって「ベンチプレス」という一つの種目について、さまざまな角度からアプローチして効果的な身体の使い方を促してくれるわけです。しかもこのアプローチは私個人だけに有効です。他の人には他の人の身体的な癖や特徴があり、同じような教え方でみんながみんな上達するわけではないのです。

パーソナルトレーニングを選ぶ意味はここにあって、だから本やビデオなどで万人向けにポイントを解説したものは、もちろん役に立たないわけではないけれど、効果は薄いのだろうなということになります。

……とここまで考えて、これって語学とほとんど同じじゃないかと思いました。語学も、特に聴けて話せることを目指す語学には、身体能力の開発と改善の繰り返しみたいなところが多分にあります。そしてよいトレーナー(=語学教師)とは、そういう個々人の癖や特徴を把握したうえで、それらに対して有効なアプローチを考えることができる人、ということになるんでしょう。

もっともこれを言い出すと、究極的に語学訓練はマンツーマンしか成立しなくなっちゃいますから、現実には難しいところもたくさんあるのですが。

退屈とポストトゥルース

アテンション・エコノミー(注意経済/関心経済)への問題意識から、いろいろと読んだ中の一冊です。退屈、ポストトゥルース、インターフェース、コンテクストなどをキーワードに、私たちがいかにSNSなどのネット産業に取り込まれ、自分の核をなくしつつあるかが論じられます。

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退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学 (集英社新書)

その点でとても興味がある一冊だったのですが、三分の一ほどまで読み進めて、ちょっと読む気力が削がれてくるのを感じました。さまざまな評論や文学や映画や音楽などを例示しながら語るその語り口はとても魅力的なのですが、文体が込み入っていてなかなか頭に入ってこないのです。

私はこの本を、ネットなどのレビューなど一切見ずに読み始めましたが、「これはひょっとして翻訳の問題では?」と、自分の理解力の乏しさを棚上げしたある意味卑怯な逃げの一手で、その先は気になる言葉のある段落だけを読み飛ばすようにして読了しました。読了後にネットの書評を読んでみると、はたして翻訳の問題を指摘されている方が何人かいらっしゃいました。私にはこの本の原書を英語で読むほどの力はありませんから翻訳書に頼らざるを得ないのですが、少々残念でした。

気に入って付箋を貼った箇所をいくつか。

ソーシャル・プラットフォームのデザインの批評家たちは、そのデザインに埋め込まれている「サイトから離れがたくなってしまう」特徴を、「ホテル・カリフォルニア」効果という適切な命名をして批判する。(中略)我々は自分たちが使っているデバイスに騙されて、インターフェースにはまり込んでしまうのである。(13ページ)

これはマシュー・ハインドマン氏の『デジタルエコノミーの罠』に出てきた、インターネット上のサイトにおける「粘着性」と同じ指摘ですね。実際、TwitterFacebookなどSNSのデザインは、「通知」のシステムと相まって私たちの注意や関心を絶えず引きつけ、サイトから離れがたくするためのさまざまな工夫がされています。これは最近意識してSNSに近づかないようにしている中で、改めて実感しました。

結局のところ、経済学入門講義で学んだ者たちにとって、ユーザーから料金を取らずに数十億ドルのビジネスが維持できるというのは驚くべきことだ。その理由は、それぞれのユーザーがユーザー料をドルで支払うのではなく、時間、心的エネルギー、そして人格を犠牲にすることで支払っているからである。(28ページ)

これもまた身も蓋もないほどの正論です。私自身は、以前はそうした時間や心的エネルギーを差し出す代わりにこちらもSNSから大きな恩恵を受けている(あるいは将来受けるだろう)という、よく考えてみれば何の根拠もない信憑を持っていましたが、今ではすっかりその熱が冷めてしまいました。

あともうひとつ、SNSのみならず、ゲームやニュースサイトやその他の注意経済へ不断に誘うデバイスとしてのスマートフォンについて、その「禁断症状」を治療するための道具として考案されたという「Substitute Phone(サブスティテュート・フォーン)にちょっとした衝撃を受けました。

この役に立つ「デバイス」は、記事によれば、「五つのモデルがあり、見た目も感触も、標準的電話のようである」。しかし「スクリーンの代わりに石のビーズがさまざまな角度で埋め込まれている。このビーズをユーザーはスワイプし、つまみ、スクロールして、スマートフォンを取り出したいという欲求を宥めることができるのだ」。(203ページ)

https://www.klemensschillinger.com/projects/substitute-phone


www.youtube.com

いやすごい。キングウェル氏は「おしゃぶり」と形容していますし、私自身これは一種のパロディ商品みたいなものだとも思いましたが、ここまで私たちの心は蝕まれつつあるのだなと感じました。

とにもかくにも、私は私なりの方法でSNSスマートフォンが作り出す「アテンション・エコノミー」からなんとか身をよじるようにして抜け出したいと模索しています。さいわいお酒をやめて本を読む時間が「激増」したので、読書に活路を見いだします(もちろん電子書籍ではなく紙の書籍で)。