インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

下戸の夜

お酒を飲まなくなったので、最近は「下戸」に関する本を探しては片っ端から読んでいます。探して読んでみて初めて分かりましたが、世の中の下戸と呼ばれる方々は、「上戸」つまりお酒をたしなむ人々に対していろいろと複雑な感情をお持ちのようです。

お酒が飲めることが前提の会社でのつきあい、酔っ払いの扱いについての徒労感、飲み会におけるいわゆるソフトドリンクの選択肢の少なさ、飲食店(特に夜)における下戸の肩身の狭さ、体質的にアルコールが分解できないものの本当は飲酒に憧れている人たち……そうやっていろいろな下戸の方々のお気持ちを聞いていると、確かにこの日本社会は下戸に対してけっこう冷ややかなんだなあということが理解されてきます。

私はつい最近まで大酒飲みで、いまでも特に「お酒が飲めない」という意味での下戸ではないので、そういう下戸の方々の気持ちや感情にまったく無頓着でした。きっと私もこれまで、多くのみなさまに疎まれたり眉をひそめられたりするような行動をあまたやらかしてきたんじゃないかなあと思います。

そんなこんなの下戸の「生態」を様々な書き手によって描き出す一冊、『下戸の夜』を読みました。エッセイ以外にも、写真あり、映画評あり、ブックガイドあり、お店紹介ありで、雑誌やムックのような作りです。

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下戸の夜

いろいろな方が下戸の気持ちを代弁されています。そして、総じてここに漂うのは上述したような複雑な感情、ないしは悲哀というか、ややいじけたような態度です。下戸が世間から受ける理不尽な「肩身の狭さ」を笑い飛ばそうとしているんだけれども、どこかにちょっと哀愁が漂ってしまう、そんな感じ。そういえばマンガ『孤独のグルメ』の主人公・井之頭五郎も下戸で、ちょっとそんな哀愁なりニヒリズムなりが漂うキャラクターでした。

この本に寄稿されている書き手のお一人、ライター・作家の大竹聡氏は、下戸を三種類に分けています。ひとつは「本当の下戸」。体質的にアルコールを摂取できないタイプの方です。聞くところによると日本人はこのタイプが四割から五割ほどもいるそう。体質的に飲めないのに「アルハラ」で飲まされるというのは、すでに暴力ですね。

もうひとつは「少しは飲めるのに、飲めないと公言している人」。飲めるけど弱いのですぐに酔ってしまってそのあとが大変だから最初から飲めないと言うとか、大酒飲みに延々つきあわされるのはまっぴらだから下戸を装い、本当に飲みたいときは自分のペースで好きなように飲むとか、そういう「戦略的」に下戸をやっている(?)人だそうです。

そして最後に「サナギ」。これは昆虫がサナギから成虫へと変態するときにまったく違う姿になることになぞらえて「以前は下戸であった人が、あるときを境に大酒飲みに変身」というパターンだそうで。私はこういうタイプの人に出会ったことはありませんが、ともあれ下戸には「本物下戸・自称下戸・サナギ」の三種類があるというのです。

私はお酒を飲まなくなりましたが、この三種類のいずれにも当てはまりません。やっぱりここは下戸に四種類目を加えるべきでしょう。それはもちろん「ソバーキュリアス」です。ソバーキュリアスにも色々なタイプがあるようですが、私の場合は「お酒は飲めるけれども、あえて飲まない。飲まないでいる状態に興味がある」のです。

お酒をやめてしまったと知人や友人に言うと、以前の私の「ザルっぷり」を知っている人ほど「またどうして」と驚かれます。でも私自身はきわめて自然に、無理することなくこの状態になってしまいました。自分でも本当に不思議です。そしてその状態でいることに悲哀や緊張や、ましてや忍耐などがまったく存在していないというのも不思議なのです。

この『下戸の夜』は二年ほど前に出版された本ですが、本全体を見回してもここにはまだ「ソバーキュリアス」という言葉が出てきていません。それだけ私たちにとっては新しい言葉なんですね。でも先日も書きましたけど、この言葉が登場したことで、私のように大きな行動の変容が起こる方はこれからもたくさん出てくると思います。もしこの本の続編が作られるなら、ぜひ「ソバキュリアン」からの発言も載せてほしいなあと思います。