インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「取り急ぎお礼まで」をめぐって

先日Twitterのタイムラインに、メールの最後を「取り急ぎお礼まで」で締めくくるのは失礼、という趣旨のツイートが流れてきました。それに対して賛否両論もたくさん湧き上がっていたようです。私は少々心穏やかではありませんでした。なぜって、これまで「取り急ぎお礼まで(あるいは「御礼まで」)」とか「取り急ぎご連絡申しあげます」のような締めくくりの言葉をメールに多用してきたからです。

試みにこの十年くらい使っているG-mailで検索をかけてみたら、数百から一千の単位で「取り急ぎ御礼」申し上げておりました(この検索能力もすごいですね)。受け取った仕事のお相手のみなさま方は、そのたびに「なんだ、この人、礼儀を知らないな」と思っていたのかしら、と小心者の私は不安になってしまったというわけです。

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https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_347.html

その一方で、なぜ自分がこの表現を多用しているのかなとも考えました。Twitterでこの表現を糾弾していた方は「略儀ではございますが、まずはメールにてお礼申し上げます」が正解だと主張していましたが、え〜、それはどうかしら。相手にもよりますが、メールなのに格式張り過ぎているような雰囲気ですし、まずはメールでお礼申し上げ、そののちに手書きの信書を出すつもりでもなければ「略儀ではございますが、まずは」も何もないと思います。

私としては、単に「ありがとうございます」では物足りないので、クライアントに対しては多少かしこまって、でもメールだから簡潔性や即答性を感じさせる(と思っている)「取り急ぎ」を使っていたように思います。でも本当にこれが失礼だと感じる人が大勢いるのであれば、あえて使用にこだわるほどでもないし、リスクは回避して使わないでおくに越したことはないかなと思っていたら、国語辞典編纂者の飯間浩明氏がこんなツイートをされていました。

こうやって権威にすがるのも情けないですけど、なんだか、ほっ。コラムニストの石原壮一郎氏による、デマに惑わされれないように、との指摘もありました。
togetter.com

なるほど、「失礼クリエーター」とは言い得て妙です。かの「江戸しぐさ」にもどこか似ていますが、SNSではこういう言説が次々に登場するものだと心得ておきましょう。そのたびにオタオタしない、と。でもそれに即ツッコミや疑問が呈されるのもまたSNSの良いところなんですけど。

早く日常の暮らしに戻りたい

東京都に緊急事態宣言がみたび発出されて数日。在宅勤務をはじめたものの、早くも肩こりに襲われました。ここ一年くらい積極的にジムに通って肩甲骨など肩まわりを動かして、ずっと無縁だったのに。私にとっては、在宅で作業をしたり、オンライン授業をしたりというのが身体によくないのは明白です。でも毎朝通っていたジムは大規模施設なので全面休業になってしまいましたし、お高いパーソナルトレーニングに毎日行くわけにもいかないし。

先日からLINEを使ってトレーナーさんが運動メニューを提案してくれるサービスを利用しているのですが、狭い自宅で取り組んでいても、どうもいまひとつスッキリしません。やっぱりジムに行って、思いっきり身体を動かさないと気持ち悪い。かといって、近所の公園まで走っていってみれば、同じように体の不調を持て余したみなさんが大挙して押し寄せていて、ものすごい人出になっています。

それに自宅で仕事をしていると、身の回りに仕事の気を散らせるモノが多すぎます。確かに通勤時間が要らなくなるので時間の余裕はできるのですが「小人閑居して不善をなす」のことわざ通り、かえって仕事の効率は下がっているような気がします。やはりここ数年習慣づけてきた、朝に思いっきり身体を動かして、勤務時間中に集中して仕事をして、定時にさっさと帰る、早くそういう日常の暮らしに戻りたいです。

それにしても、一年以上前にも同じようなことを考えていましたが、一年経ってもまだ同じような状態が続くとは思いませんでした。これは……身体から徐々に精神にまで影響が及びつつありますね。よくないことです。何らかの新しい発想でこの長期戦に臨まなければなりますまい。

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https://www.irasutoya.com/2021/01/luffy.html

「なんでもない毎日をていねいに生きる」

ここ数年、折に触れて「次の人生をどうしようかなあ」と考えています。言うまでもなく、いまの仕事があと数年のうちに「雇い止め」になるからですが、実は「次をどうしようか」と考えるのはこれが初めてではありません。学生時代にまともな就職活動もせず(「就活」という言葉もない時代で、かつ学生は「就活」をするものだということすら理解していませんでした。世間知らずにも程があります)、卒業して即路頭に迷ってから今日まで、就職と退職を繰り返し、その間に無職やモラトリアムの期間を何度も挟んできた私としては、これはむしろルーティンワークと言えるのかもしれません。

飽きっぽい性格ということもあります。就職しても、ひとつところに長く勤めていられません。現在の職場にはもう五年以上勤め続けていますから、私としては例外的に長い方です。というわけで、もうずいぶん前から、つまり雇い止めとか定年とかを意識するより前から、「もうそろそろ次に……」という思いが湧いてきて抑えきれなくなりつつあるのです。

身体はどんどん老いていきつつあります。若いときのように何でもいいからとにかく「次」というわけにもいかないでしょう。それでも、この先なにかの「サイン」が訪れたら、また私は性懲りもなくいまある仕事を捨てて「次」に行っちゃうような気がしています。家族も、年老いた両親も心配ではあるけれど、それでも。もともと、それまでのあり方を根本からひっくり返して「がらっぽん!」とやるのが大好きな性格なのです。政治家なんかにしては一番いけないたぐいの人間です。

先日、山口周氏の『仕事選びのアートとサイエンス ~不確実な時代の天職探し 改訂『天職は寝て待て』~』を読みました。『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 〜経営における「アート」と「サイエンス」〜』に続けて二冊を一気に読みましたが、どちらも読みやすくて、またたく間に読了しました。

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仕事選びのアートとサイエンス~不確実な時代の天職探し 改訂『天職は寝て待て』~ (光文社新書)

「アートとサイエンス」という表題が象徴しているように、いずれもカタカナ語がわんさかと出てくる本です。それに山口氏ご自身が大手広告代理店から世界最高峰の名門コンサルティング会社へとキャリアを進めてこられた方なので、私が生きてきた環境とはまったく違う世界のお話でしょうね……と多少身構えながら読んでいたのですが、腑に落ちる箇所がたくさんありました。

特に「天職」について述べられたほうの一冊は、自分のこれまでの環境や、その中で考えていたことと符合する話が多くて驚きました。大変失礼な言い方ながら、山口氏のようなエリートでもいろいろと悩み、苦労もして今にいたっておられるのですね。いや、人は誰しもいろいろなものを抱えながら生きている。当たり前のことですか。

山口氏はこの本の口絵に挿入された、カラヴァッジョの『聖マタイの召命(Vocazione di san Matteo)』という絵を引いて、その題名にある“Vocazione”、英語では“Vocation”または“Calling”と訳される言葉に注目します。日本語では「天職」と訳されるところが、この題名では宗教的なニュアンスを持つ「召命」になっているのですが、これは「神によって使命を与えられること」。つまり「天職とは自己によって内発的に規定されるのではなく、本来は神から与えられるもの」だというわけです。

私はこの“Calling”が「天職」であるという話がとても腑に落ちます。というのも、これまでの自分の仕事は、自分で主体的に選んだように見えて、あとから考えればすべて外から与えられるようにして自分のところにやってきたものだったと思うからです。まさに何者かに“Calling”、コールされるように。私は無神論者で無宗教ですが、ここには自分の存在を超えた何かが介在しているように思えることさえあります。

山口氏はこう書かれています。

天職とは本来、自己を内省的に振り返ることで見出すものではなく、人生のあるときに思いもかけぬ形で他者から与えられるものではないか、ということです。(19ページ)

そしてまた、その他者から与えられるなにかのきっかけがやってくる(私はそれを「サイン」と呼ぶわけですが)のは、「なんでもない毎日をていねいに生きる」ことであると言います。これも私にはとても腑に落ちる一点でした。山口氏はその説明として「人脈の第二階層(同僚ゾーン)」ということをおっしゃっていて、それは親友のように自分のことを裏も表もよく知り尽くしているわけではなく、かといってただの知人のように表面的なことしか知らないわけでもない、日常的に自分の周りにいて自分の仕事を見ている人たち、そういう人たちが上述した「他者」になるのだと。

この人たちとあなたの毎日の仕事の積み重ねが、いわばキャリアのバランスシートに、その営みが健全であれば優良な資産として、不健全であれば不良資産として積み上げられることになるわけです。(144ページ)

う〜ん、正直に申し上げてこの記述はコンサルティング会社にお勤めの山口氏ならではの口吻で、拒否反応を示す方もいるかもしれません。でも大丈夫。そのあとにすぐ「いま、まずやれることを一生懸命やる、これが非常に大事」とか「まず目の前の仕事を誠実にこなす、いま周りにいる人に誠実に対応する、自分らしく振る舞う」ともう少し受け入れやすそうな言葉で補足がついています。この点、大いに同感です。私もこのブログで、山口氏ほどの洗練された説明とは雲泥の相違ながらも、同じようなことを書いていたのを思い出しました。
qianchong.hatenablog.com
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Amazonにおけるこの本のレビューには、「この本は以下に相当する方々しか必要ない。というかお呼びでないと思う。①高学歴、高年収で一流企業等にお勤めのエリート②転職前後や昨今の世情からキャリアのアドバイスを求めている人(但し、最初からそれなりのエリートキャリア)」というものがありました。つまりこの本で語られているお話は、そうしたエリートの転職やセカンドキャリアを考える際においてのみ有効なのだと。

でも私はそんなことはないと思います。「なんでもない毎日をていねいに生きる」というのは、誰にとっても福音となる人生の基本的なスタンスになりうるんじゃないでしょうか。私自身はいま、なんでもない毎日をていねいに生きながら「次の人生をどうしようかなあ」と考えています。そうしていればたぶんまた訪れるであろう「サイン」を楽しみにしながら。

もう国や都など信頼しない

東京都に三度目の緊急事態宣言発出ということで、またまた暮らしに大きな変化が……起きていません、これが。「コロナ慣れ」とか「コロナ疲れ」というわけでもなく、確かに感染者数は増加傾向なので自分も感染しない・感染させないことに努めて気をつけようとは思っていますが、菅義偉氏や小池百合子氏の要請に素直に耳を傾けられないというか、もう愛想が尽きたというか。

諸外国で奏功している「検査と隔離」を一年以上経っても積極的に行わず、ワクチンの確保でも諸外国の後塵を拝し(というか外交力・交渉力で負け)、言葉遊びのように何度も「宣言」を出す一方で補償はとことん渋りまくる。私だけではなくて多くの人が「もう国や都などは頼りにならないから、自分の判断で前に進もう」と考えているのではないでしょうか。いくら行動変容を求めても、もう多くの人が聞く耳を持たなくなってる。コロナ禍のずっと以前から始まっていたことですが、この一年あまりでぷつりと切れてしまった為政者への信頼や期待の代償は、今後日本社会に深い影響を残していくだろうと思います。
qianchong.hatenablog.com
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毎朝通っているジムは、1000平方メートル以上の大型施設なので、明日から全面休業になりました。でももう一つ通っているジムは小規模なので、感染対策をしながら営業を続けるそうです。昨日行ってみたら、当然のように「うちはこれまで通りですから」とスタッフが言っていました。私はそこに「もう政府などは信頼せず、自分たちの責任でやっていく」という自負と抵抗のようなものを感じました。

東京に四つある寄席も「『社会生活の維持に必要なもの』に該当する」という自らの判断で営業を続けていくと報じられていました。東京のとあるミニシアターも休業協力金が一日二万円という額であることに対して「香典のつもりか」と皮肉り、営業を続けるのだそうです。いずれも、もう国や都など信頼しない。自分たちの判断で、自分が正しいと信じた道を行く、という態度表明だと思います。

私自身は、これはとても健全なあり方ではないかと思っています。それぞれが自らの判断で自律的に困難に立ち向かっていくという姿勢を示しているのですから。もちろん、本来なら行政との相互信頼関係があって、より本質的な対処が行えるのが理想的ですけど、明らかに五輪優先、あるいは次の選挙優先で動いているとしか思えない為政者に不服従の態度を示し、なおかつ自分の頭で考えて判断していくというのはいいことではないかと。

私が勤めている学校でも、オンライン授業と対面授業を組み合わせて、なるべく学生が密にならないように気をつけながら授業を行っています。それは緊急事態宣言の発出前後で何ら変わるものではありません。もちろん社会全体で感染者が増えている以上、身近で感染が広まる可能性もありますが、少なくとも「まんぼう」だの「緊急事態宣言」だのでそのつどオタオタしない! という度胸のようなものは身についたような気がします。何だか一抹の悲しさや寂しさや情けなさが漂いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_173.html

「ユルさ」が足りません

春からの新年度が始まりまして、いくつかの学校で担当しているクラスも授業がスタートしました。留学生だけのクラスもあれば、日本語の母語話者と非母語話者の混成クラスもあります。留学生のクラスも、華人留学生のみのクラスもあれば、いろいろな国や地域からの留学生が混在しているクラスもあります。

どのクラスでもそうなのですが、この歳になっても授業の開始前はいまだに少々緊張します。教材はちゃんと作ってあるし、教案も立ててあるし、大まかな授業の流れも考えてあるのですが、それでも「何かトラブルがあったら……」という気持ちが抜けきらないのです。本質的に小心者なんでしょうね。けれど、授業の内容を事前に考えすぎると、却ってつまらない授業になるという経験則もあります。それで、毎回の授業が毎回とも一回限りのライブみたいな感覚になります。

駆け出しの頃は「これくらいの時間でこれを説明して、その後練習にこれくらい、そこで休憩を取って……」などと細かく考えていました。が、往々にしてそううまくは行かない上に、授業もつまらないものになるのです。むしろその場の雰囲気に合わせてアドリブを効かせた方がよいこともあります。というか、初手から授業を「こうやってこうやって……」と決めておくというのは、学生さんの存在をまったく無視していますよね。

しかし……。

昨年あたりから、こうしたやり方にもなんとなく「頭打ち感」を覚えるようになりました。どうも学生さんたちが「ノッて」いないというか、楽しそうじゃないというか。それに自分自身もあんまり楽しくないと思うようになってしまったのです。スランプというやつでしょうか。それで同僚に相談してみたところ、こんなことを言われました。

「ユルさ」が足りないんじゃない?

自分で言うのもなんですが、私はどちらかというと几帳面で生真面目なほうで、授業にあたってきっちり準備をしたがる方です。もとより小心者だから、少なからぬ学費を払っている学生さんに、その学費に見合うだけの授業をやらなきゃと自分にプレッシャーを与えてしまう。

もちろんそれは基本的には正しいと思います。某通訳学校では大御所の通訳者さんが「ちゃら〜ん」と学校にやってきて「ええっと、今日私は何を教えればいいんだっけ?」なんてなことを事務方のスタッフに聞いているところを目撃したことがありますが、ああいうふうになっちゃいけないなとは思う。でも、私は授業に対して生真面目に臨みすぎるがゆえに、余裕がなくなってるのではないかと同僚は言うのですね。「なにかの原因で、自分の理想の状態から外れると、表情が険しくなってるんじゃない?」

いや、よくおわかりで。そういう険しい表情になればなるほど、生徒側も萎縮して「ノらなく」なるのかな。というわけで、もう少し「ユルく」授業をするべく努力してみようと思いました。……って、「ユルさ」を醸し出すべく努力しているようでは全然「ユルく」ないわけですが。

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https://www.irasutoya.com/2020/10/blog-post_49.html

フィンランド語 99 …日文芬訳の練習・その29

「ネタバレ」は「他人の楽しみを邪魔する」、「日進月歩」は「引き続き進化している」と言い換えました。最初に日本語で文章を書いてからフィンランド語に訳すのですが、あまり日本語の表現に拘泥しすぎるととんでもない迷文になるのは中国語でも経験済みなので、シンプルにシンプルに。

まだ複雑なことや抽象的なことは書けないので、そこはぐっと抑えて単純な自分を受け入れるのが外語学習における作文の「心得」のような気がします。

最近カズオ・イシグロの小説を読みました。最新作の『クララとお日さま』です。ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、AIをめぐる叙情的な作品で、とても感動しました。AIが登場して、機械翻訳も日進月歩の進化を続けていますし、将来は外語の学習が不要になるという人もいます。でも外語を学ぶことは、思考を母語の外側に広げることです。人々が外語を学ばなくなり、母語の内側だけで思考するようになったら、人類の思考は退化してしまうのではないかと思います。


Minä luin äskettäin Kazuo Ishiguron kirjoittaman romaanin. Se on hänen viimeisin teoksensa:“Klara ja aurinko”. Vaikka minun ei pitäisi kertoa yksityiskohtaisesti, koska häiritsisin muiden hauskanpitoa, mutta se oli lyyrisen tarinan tekoälyistä. Olin todella vaikuttunut siitä. Meillä on jo ollut tekoälyjä, ja konekäännöksiä on kehittynyt jatkuvasti. On sanottu, että meidän ei pitäisi opiskella vieraita kieliä tulevaisuudessa. Kuitenkin kun me opiskellaan vieraita kieliä, me voidaan ylittää äidinkielten ajatteluja ulkopuolelle. Jos ihmiset eivät haluaisi oppia vieraita kieliä ja ajattelisivat vain äidinkielensä sisällä, mielestäni ihmisten mielet palaisivat alkeelliseen.


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「ウヨい」方々について

私はブログをこの「はてなブログ」のサービスを利用して書いているのですが、「はてな」には面白いブログがたくさんあります。特に「週刊はてなブログ」で毎週発表されている「今週のはてなブログランキング」には、その週に最も多くブックマークがついた記事がずらっと並んでいて、どれも読み応えがあります。そしてみなさん、本当に文章がうまい。私のように文才の乏しい人間はただただ仰ぎ見るばかりです……。

今週のランキングでは『黒色中国BLOG』さんの「#ネトウヨが発狂しそうなことを言う 中国編」という記事を面白く読みました。現時点で295はてなユーザーのブックマークがついています。
bci.hatenablog.com
私は黒色中国氏のお考え、たとえば「男は男らしく、強く、たくましくあるべきだと思っている。身体を鍛えて、武道の1つでも身につけて、女子供を守る。仲間を守る。家庭を守る。国を守る。いざとなったら戦うぞ!」という価値観にはあまり共感できない人間ですが、それでも氏のおっしゃること、とりわけ中国人に対する観察と、そこから生まれるスタンスには「わかるなあ」という部分がたくさんあります。

黒色中国氏は「中国人はガチのリアリストである」と書かれています。いや、ホントにその通りです。私など、中国人、というか華人全体の、あの透徹したリアリズムに日々驚嘆させられ、学ばされています。そしてそんな中国人を少しも知ろうとせず、予断と偏見に満ちた言説ばかり繰り返す頭の悪い「ネトウヨ」に対して黒色中国氏は容赦ない批判を浴びせるのです。中国人と直接話したこともなく「リアルの中国に飛び込んで行こうともせず、ネットでデマや誹謗中傷ばっかりやってるネトウヨはホントにダメな人間だと思う」と。わははは。

私はもう何十年も前の学生時代から、どうして日本の右翼と呼ばれる人々はあんなに頭が悪いのかと、本当に国を愛しているならあんな奇矯な行為に出るはずないじゃないかと思ってきました。もっとも「心ある」右翼の方々からすれば、例えばコスプレして街宣車でがなっている人々など右翼ですらないと思ってらっしゃるでしょうけど。

嫌中嫌韓が嵩じて「断交だ!」などと書き散らす人々はネットにも大量に存在しますが、少しでもものを考えたことがある人なら、本当にそうなっていちばん割を食うのは自分自身だということがわかるはずです。世界はそれほど複雑で緊密に絡みつき、結びついているのですから。想像力がなさ過ぎるというか、動物的な脊髄反射がイタいというか。

まあいつの世にも学ばない・学べない人たちはいますもんね。その系譜は現代の「ネトウヨ」と呼ばれる人々の大半にもしっかり引き継がれているようです。「私自身がウヨい人間であっても、彼らが苦手で、できれば関わりたくない…相手にするのは時間の無駄、と思って避けている」とおっしゃる黒色中国氏に共感するゆえんです。

ところで余談ですけど、フィンランド語で「シャイ」とか「臆病」とか「引っ込み思案」なことを“ujo(ウヨ)”というんですよね。“Tom aivan hirvittävän ujo.(トムは人見知りが激しい)*1”。中国語も学ばず、「リアルの中国に飛び込んで行こうともせず、ネットでデマや誹謗中傷ばっかりやってる」ような「ウヨい」方々というのは、本質的にシャイで臆病者なのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2019/09/blog-post_98.html

*1:ネットのフィンランド語辞書に載っていた例文です。

クラフトコーラのシロップ

いつも仕事帰りに寄っているスーパーで「コーラベース」というものを見つけました。炭酸水などで割るとクラフトコーラができるというものみたいです。昨日ブログに書いた、ノンアルコールビールと合わせると面白いんじゃないかと思って、買ってみました。

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ネットで調べてみると、福島県郡山市の「小田原屋」さんが作っている製品のようです。オフィシャルサイトでも通販していますが、どうやら業者向けの卸しかやっていないようですね。たぶんうちの近所のスーパーは、仕入れ担当の方がこれを見つけて「おもしろい!」と発注したのでしょう。

odawaraya.bcart.jp

ちなみにネットで「クラフトコーラ+シロップ」などのキーワードで検索してみると、日本全国いろいろなところで商品開発され、販売されていることがわかります。ふだんからコーラをまったく飲まない私は、クラフトコーラがこんなにブームになっているなんて、知りませんでした。

ノンアルコールビールを(それなりに)おいしく飲む

酒量を減らしたいと思っています。というより、年をとってお酒に弱くなり、そんなに飲めなくはなりました。それで一時期は「もう一生分飲んだ」ということで断酒していたのですが、やはりどうしても夕飯にはお酒を合わせたくなって、ついつい飲んでしまうのです。

しかし、もとよりお酒に弱くなっているので、すぐに酔ってしまいます。そして一度酔ってしまうと、もう何もしたくなくなっちゃう。いちおう夕飯の後片付けまでは気合いでこなしますが、そのあとはもう読書をするにしても、こういうブログなどの文章を書くにしても、ほとんどはかどりません。これはかなり時間をムダにしています。

ということで、ノンアルコール飲料を開拓しようと思って、一時期はいろいろと試していました。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

しかしこれらも、そう手軽に作れるものではなかったり、少々甘すぎて食事には合わなかったり、そもそもが美味しくなかったりで(注文がうるさいです)、結局は日々の暮らしに定着しませんでした。ところが、先日書店で立ち読みした、ノンアルコールドリンクに関する書籍に興味深い記述を見つけました。「ノンアルコールビールにジュースを足す」というものです。

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はじめよう! ノンアルコール: 6つのアプローチでつくる、飲食店のためのドリンクレシピ109

これまでノンアルコールビールはほとんどのメーカーのほとんどの製品を試してきましたが、どれも「かなりまずい(たいへん失礼!)」と思いました。広告などでは「美味しくなった!」などと喧伝されていますが、そのたびに試しては「ええ〜、どこが〜?」という感じで。

それにノンアルコールビールは、ビールの味に近づけようとする企業努力のあまり、けっこういろいろなものが添加されています。甘味料とかアミノ酸とか、苦味料、酸味料などなど。そういう成分表示を見ちゃうと「そこまでするんだったら普通のビール飲んだ方がいい」という気持ちになっちゃって、どうにも手が伸びないんですね。ほんとにワガママですみません。

ところが、上掲の本に従ってノンアルコールビールにジュースを少量足してみたら、これがけっこう美味しかったのです。特にグレープフルーツなど加えると、苦みがビールっぽい苦みとよく馴染んで、なおかつフルーティー系のビールの味にかなり近くなります。ちょっと白濁系のプレミアムビールっぽい感じもします。こんな簡単なことに、なぜいままで気づなかったのか。

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▲泡立ちはいまひとつですけどね。

というわけで、しばらくはあれこれジュースを変えながら試してみたいと思います。いまのところ、原材料が一番シンプルなキリンの「グリーンズフリー」をベースにしています。フルーツのシロップなんかも試してみたいですね。ただシロップは甘みがかなり強くなるので食事には向かないような気もしますが。

ところで、ノンアルコールビールについてはこちらのサイトで「飲み比べ」が行われていました。最後に出てくる「龍馬1865」はうちの近所のスーパーにも売っていて、なかなか美味しいです。トップ評価の「ヴェリタスブロイPURE&FREE」は知らなかったなあ。どこのスーパーでも見かけたことはないし……と思ってネットで検索したら、Amazonで売ってました。さっそく注文してみました。

www.ienomistyle.com

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ノンアルコールビール ヴェリタスブロイ 缶 330ml×24本

フィンランド語 98 …第一不定詞長形

第一不定詞長形(だいいちふていし・ちょうけい)というのが出てきました。これまで「第○不定詞」と名のつくものは、第三不定詞と第四不定詞がありました。当然その前の数字の不定詞もあるわけですね。まずフィンランド語でいうところの「不定詞」とは、動詞の原形のことです。例えば……

Minä voin lähteä.
私は出発することができます。

……では“lähteä”が動詞の原形です。辞書形と言ってもよく、辞書にはこの形で載っています。これをいままでは単に「不定詞」と呼んできましたが、これは実は「第一不定詞短形」というのが正式な呼び方だそう。じゃあ「長形」はというと、うしろに「kse」がつき、さらに所有接尾辞がついた長いものになります。

lähteä(第一不定詞短形)→ lähteäkseni, si, en, mme, nne, en(第一不定詞長形)

この第一不定詞長形は、以下の二つの用法があるそうです。

1.所有接尾辞の人が〜するために
Minä ostin kirjan lukeakseni.
私は私が読むために本を(一冊)買いました。

「〜のために」という意味ですから、第三不定詞の“mAAn”に似ています。もう一つは熟語です。

2.所有接尾辞の人が〜する限り
tietääkseni ……私が知る限り
luullakseni ……私が思う限り(私の思うに)
muistaakseni ……私が覚えている限り(私の記憶では)
ymmärtääkseni ……私が理解する限り(私の理解するところによれば)
käsittääkseni ……同上

なるほど、これらの表現はこれまでにも見かけたことがあります。文章の最初に持ってきやすそうですね。

Muistaakseni hän asuu tuossa valkoisessa talossa.
私の記憶では、彼はあの白い家に住んでいます。

二冊目の教科書も半分を過ぎて、かなり文法事項が出そろってきました。先生によれば、この先はもうそんなに新しい文法事項は多くなく、かわりに単語の語形変化をいかに素早く正確にできるかが鍵になるとのことでした。

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Muistaakseni Alvar Aalto asui tuossa valkoisessa talossa.

フィンランド語 97 …動作主分詞

新しい文法事項で「動作主分詞(どうさしゅぶんし)」というのが出てきました。「行為者分詞」あるいは「MA分詞」とも言うそうです。この分詞を使うと「〜が〜する〜」とか「〜が〜した〜」といった文を作ることができます。たとえば……

Minä söin ruokaa tänä aamuna.
私は今朝料理を食べました。

という文で「料理」を「母が作った料理」にしてみます。「母」が動作主というわけですね。

Minä söin äidin tekemää ruokaa tänä aamuna.
私は今朝母が作った料理を食べました。

この文を作るためには、まず動詞を三人称単数の形、つまり“〜vAt”の形にします。その上で“vAt”を取って“mA”をつけます。これが動作主分詞ですが、さらに目的語の格にしたがって格変化します。上の文では目的語の“ruoka(料理)”が“ruokaa”と分格になっているので、動作主分詞の“tekemä”も分格の“tekemää”になっています。なるほど、これはよく使いそう。さっそく作文で試してみたいと思います。

Minä tykkään Tove Janssonin piirtämästä Muumipeikosta.
私はトーベ・ヤンソンが描いたムーミントロールが好きです。

ここにでてくる“piirtämästä”はなんだか第三不定詞出格の“mAstA”に見えますけど、そうではなくて動作主分詞なんですね。動詞“tykätä”が出格を取るので“Muumipeikko”が出格になり、それに合わせて“piirtämä”も出格になっているだけだと。先生からはこれを混同しないようにと注意がありました。

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Minä ostin Tove Janssonin kirjoittaman Muumipeikon kirjan.

清水邦夫さんのこと

劇作家の清水邦夫氏が亡くなりました。新聞の訃報記事には「若者の苦悩やいら立ちを詩的なせりふで描いて人気を集めた」のように「詩的なせりふ」という言葉が多く見られましたが、私もその詩的な世界に強く惹かれたひとりでした。

www.tokyo-np.co.jp


▲写真は東京新聞の記事より。

清水氏が演出家の蜷川幸雄氏と組んで『真情あふるる軽薄さ』や『ぼくらが非情の大河をくだる時』などの舞台を作ったのは1970年前後。私はそれよりもっとあとの世代なので、いわゆる「アングラ」と呼ばれた時代の舞台は見ていません。

一番初めに清水氏の作品に接したのは『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』で、通っていた高校の演劇部の公演でした。まだ「アングラ」の予熱は残っていた時代だったのか、私も一気にその熱に引き込まれました。大学に入って劇研(演劇部)に傾倒しちゃった(そのぶん本分の学業はおそろかに)のは、明らかにあのときの印象が大きかったのだと思います。私の高校の演劇部はかなりレベルが高かったようで、『ぼくらは……』で主役を演じた学生は、たしかその後、劇団俳優座の俳優さんになったと記憶しています。

私が劇研に傾倒していた頃は、バブル経済がどんどん膨らんでいた頃で、今ではちょっと信じられないくらい豪華な、あるいは野心的な演劇公演があちこちで行われていました。清水氏と蜷川氏のコンビも大劇場に進出していくつかの代表作を発表するようになります。

かつての渋谷のパルコ劇場で見た『タンゴ・冬の終わりに』は、幕開けからものすごいインパクトで圧倒されました。幕が上がると、舞台上にもこちらと同じような観客席があって、何百人もの若者(そう見えました。実際には数十人だったのかもしれませんが)がこちらを向いて座っているのです。私たちのいる観客席側が映画館のスクリーンという見立てで、その何百人もの若者が一斉に歓声を上げ、笑い、泣く。冒頭のこの数分のためだけに、これだけの俳優を使っていたのです。なんと贅沢な時代であったことか。

『タンゴ・冬の終わりに』の主演は、故・平幹二朗氏と名取裕子氏でした。映画館の支配人を演じたのは塩島昭彦氏だったかな。それぞれにもうものすごい名演で、劇中に何度も用いられたパッヘルベルのカノン(確か戸川純氏の歌が使われていたはず)とともに、今でも記憶に残っています。後年シアターコクーンで再演されたときに、堤真一氏と常盤貴子氏の主演で観ましたが、ごめんなさい、もう「私の青春を返せ!」と舞台に向かって叫びたくなるくらい迫力不足でした。段田安則氏の支配人は「すごい!」と思いましたが。

やはり、若いときのああいうみずみずしい感動というのは、それを記憶のままにとどめておくほうがいいんですね。「あの感動をもう一度」などと欲張って再演に期待すると、たいがいはがっかりするものです。江守徹氏と松本幸四郎氏(当時の)によるピーター・シェーファー作『アマデウス』も、後年松本氏親子の共演で観たときにはものすごく薄っぺらいものしか感じませんでした。いや、これは受け取るこちら側の変化が大きいのかもしれませんが。

パルコ劇場ではもうひとつ、『なぜか青春時代』も観たと思います。ホイットマンの詩『草の葉』が引用されていて、これもまた深い詩情をたたえた作品でした。この作品も、もしいま再演されたなら無性に観たくなるでしょうけど、やめておいたほうがよさそうです。人にはその年齢のその時にしか出会えない、でも出会ってしまったあとは一生の糧になるような、そういう芸術というものがあるんじゃないかと思っています。

フィンランド語 96 …日文芬訳の練習・その28

無謀にも能楽のことを作文してみました。「私の趣味は能楽です」というのを“Minä harrastan Nōgaku”としていたのですが、“harrastaa(趣味にする)”は継続動詞で目的語は分格をとるので“Nōgakua”に直されました。また“tanssia(踊る)”も目的語は分格をとるので「邯鄲」という固有名詞も“kantania”になるんですね(「邯鄲」は“n”で終わる外来語なので“i”を足してから分格語尾の“a”)。

私の趣味は「能」で、月に数回、師匠の家に行って舞や謡を学んでいます。能楽はそのルーツが14世紀にまで遡る日本の伝統芸能です。プロの能楽師による正式な能は豪華な装束や仮面をつけて演じられますが、私たち一般の愛好者は普通の着物で稽古をします。定期的に発表会があり、次は5月に国立能楽堂で行われます。私は中国の古典に題材を採った「邯鄲」という舞囃子を舞い、いくつかの演目の地謡(コーラス)に入る予定です。


Minä harrastan Nōgakua, ja menen opiskelemaan tansseja ja lauluja mestarin luokse pari kertaa kuukaudessa. Nōgaku on yksi japanilaisista perinteisistä esittävistä taiteista, jonka juontaa juurensa 1300-luvulle saakka. Vaikka viralliset Nōgaku-ohjelmat, joissa esiinnytään ammattilaisista, ovat olleet mukana ylelliset vaatteet päällä ja naamio kasvoilla, mutta harrastelijoita kuten meitä, harjoitellaan vain kimonoon pukeutuneina. Meillä on mahdollisuuksia esiintyä säännöllisesti, ja seuraava olisi toukokuussa kansallisessa Nōgaku-teatterissa. Tanssisin “Kantania”, joka perustuu kiinalaiseen klassiseen tarinaan instrumenttien kanssa, ja osallistuisin pariin ohjelmaan kuorona.


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留学生の醸し出す「活き活き感」

新学期が始まったばかりだというのに、職場ではもう来年度の学生募集用のパンフレットが刷り上がってきました。うちの学校の生徒さんは基本的にほぼ全員が外国人留学生です。コロナ禍で海外からの日本入国が制限されているなか、来年度以降の学生募集がどうなるかはまったく不透明なまま。

日本政府のコロナ対策がとにかく後手後手(というか諸外国に比べて非常にお粗末)なので、ひょっとすると大幅な学生減は不可避なのではないか……と暗い予想しか湧き上がってきません。非常勤の先生方の雇用状況がどうなるのかも心配ですし、そもそもコロナ禍への対応でここまでの無策をさらしてしまった日本のイメージ低下で、日本に留学しようとする層の意識が大幅に変化するかもしれません。日本には、そして日本語には、まだまだ魅力は残っていると私個人は考えていますが、今回のコロナ禍の影響はかなり長く残り続けるのではないか。そんな気がしています。

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しかし、学生募集用のパンフレットに登場している外国人留学生のみなさんの顔を見ていると、そういう鬱々とした気持ちが幾分かでも晴れるような気がします。この学生さんたち、モデルさんではなくて、実際の在校生のみなさんなんですよ。なんと多様で活き活きとしていることか。もちろんフォトグラファーさんの腕が大いにものを言っているのだとは思いますが、それだけではない、何かこう内側から飛び出してくるような活力を感じます。ああ、若い人たちって、いいですねえ。

自分だって若い頃はこんなふうに内側から溢れるような何かが備わっていたのかしら。自分の過去(それも多くの黒歴史)を振り返ると、とてもそんな頃があったとは思えません。留学生のみなさんも、母国においてはいろいろと悩みも鬱屈も世の中に対する怨嗟もあったでしょうし、どこの国にもいろいろと問題はある、それは分かっているつもりです。それでも外国人留学生が醸し出すこの、ある種の活力、多様性がもたらす豊穣さとでもいうべきもの、そしてみなさんからあふれ出る「活き活き感」、これはなかなかに壮観だなと思います。

いえ、このパンフレットだけでなく、ふだんから休み時間などに廊下を行き来する多種多様な留学生のみなさんを眺めるたびに、ああいいなあ……と私は思っています。服装も髪型も肌の色も言語も多種多様で、そのコントラストに目眩がするくらい。日本では「ブラック校則」が問題になっていますが、そんな人を一色に染めようとする人権侵害がいかに時代錯誤であるか。教育政策を担っている方々は、ぜひうちの学校に見学にいらしていただきたいと思います。

付記

ただし、ひとことだけ付け加えておくと、こうした活力溢れる留学生のみなさんも、日本での学校生活が一年、二年、三年……と積み上がっていくうちに、少なからぬ方々の「活き活き感」が(こういう言い方は失礼ですが)どんどん色褪せて行くように感じます。特に中国語圏の留学生に顕著な気が。業界ではこれを「日本人化」と称するとうかがったことがありますが、これはいったいどうしてなんでしょうね。

深呼吸だけでいい

人前で話す時の緊張を和らげる「おまじない」として「聴衆をカボチャと思え」とか「人という字を手のひらに書いて呑め」とか言います。先日同僚のアメリカ人講師と話していて、英語には“Just picture everybody naked”というのがあると教わりました。目の前にいるのは「裸」の人たちだと思えということですか。いや“naked”は「裸」というより、聴衆も自分と同じように無防備で弱い人間なんだよ、だから心配しなくていいよ、と言っているのかな。

中国語では“把聽衆當成蘿蔔白菜”というのを見たことがあります。「聴衆を大根や白菜と思え」ということですね。ただこれも同僚の中国人講師に聞いてみたら、確かにそういう表現はあるけれど、それほど人口に膾炙しているというわけでもない、とのことでした。日本語の「カボチャ」(ジャガイモもありますね)も、それほど昔からあった慣用句ではないように思います。いずれも近代になってから、日常生活にあるありふれた野菜を人に見立てて、相手も自分と同じ人間だから必要以上に怖がらなくていいという戒めなんでしょう。その意味では英語の“naked”と同じです。

私はもう何十年も人前で話す仕事をしてきたので、人前に立つとき緊張などしない……かというと、それがやはり緊張します。毎日の授業でも、始まる前はどこか緊張していて「失敗したらどうしよう」という気持ちがよぎる瞬間が必ず訪れます。良くも悪くも経験を重ねてそれなりに「手慣れて」きたので、それほど手ひどい失敗をすることはないと思っているのですが、それでもやっぱり緊張はするのです。

しかしまあ、そうやっていつまでも多少の緊張感を持って人前に出て話すというのは、悪いことではありません。まったく緊張しなくなったら、逆にマンネリ化・陳腐化していると自分を戒めた方がいいでしょう。

あと、あまり緊張しなくなったのは、話し手であるこちらの言うことが、聞き手にすべて伝わるわけでもないし、ましてや聞き手をどうこうできるというものでもない(そう考えるのは傲慢だ)と思えるようになったからです。さらに言えば、聞き手も時にけっこう手を抜いて聞いている(失礼)ことも分かったから。要するに、話し手と聞き手が向き合うその場所と時間だけで、100パーセントのコミュニケーションを成立させなくていい、というかそんなの成立し得ないということがだんだん分かってきたという感じでしょうか。

聞いているときにはピンとこなくても、ずいぶん後になってから「じわっ」と染みてくることや、ふと思い出されるようなこともあります。また、話している最中に、話す前には想像もできなかった展開になっちゃうということもある。つまりは、話す前に100パーセントのコミュニケーションをイメージして、その成否を心配するあまり緊張する……ということ自体が、あまり意味がないことだと分かってきたのです。

中国人はよく、他人の緊張を鎮めてあげようとするときに“深呼吸吧!(深呼吸して!)”と言います。“蘿蔔白菜”よりよほど頻繁に使われる言い方です。私たちも、人前で話すときにはまず深呼吸。それだけでいいのかもしれません。

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