インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

トイレットペーパーがなくなったら困る?

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、トイレットペーパーが売り切れになるとか、購入制限が設けられるとか、長蛇の列ができるとか……そんなニュースに接しました。昔懐かしい(?)オイルショック時のあの「古典的デマ」が現代において再現されたことに、驚きと苦笑をもって受け止めました。

昨日のTBS『サンデーモーニング』では、ハフポスト日本版の竹下隆一郎編集長が今回のデマの構造を分析されていました。ネットの情報でデマが拡散され、そのデマを信じなかった人さえ買いに走る行動が生まれ、なおかつそれがSNS等で再生産されることでさらにデマが拡散したという、 現代ならではのメカニズムが背景にあったらしいとのこと。なるほど。

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調べてみたら、オイルショック時のトイレットペーパー騒動は1973年のことでした。
ja.wikipedia.org
私は小学生でしたが、当時のことをよく覚えています。学校の体育館でなにかのイベントがあって、大勢の子どもたちが「ゲーム大会」をやっておりまして、チーム対抗で競うゲームのひとつに「トイレットペーパーをいかに速く巻き下ろせるか」ってのがあったのです。今どきバラエティ番組でさえやらないような「しょーもない」企画で「資源の無駄遣い」なんてクレームも入りかねませんけど……。時代を感じます。

ただその時に、ゲームのルールを説明してくれた先生の言葉がやけに印象に残っています。いわく「いま、トイレットペーパーがなくなるって騒がれているけど、大丈夫。心配しなくていいから今日は思う存分使って!」――何十年を経てもこの記憶が残っているのは、子供心にも「ああ、トイレットペーパーがなくなるってのは嘘なんだ」という安堵感をもたらしてくれたからじゃないでしょうか。

私が通っていたのは大阪の小学校だったんですけど、こういう「しょーもない」ゲームを楽しんじゃうお笑い大好き風土と、世間のデマを吹き飛ばすような「知らんがな」的精神*1の為せる技だったのでしょうか。とにもかくにも、トイレットペーパー騒動をデマだと見抜き、子どもたちを笑いのうちに安心させようと「企んだ」炯眼の持ち主がいたのではないかと、今にして思うわけです。

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https://www.irasutoya.com/2018/02/blog-post_78.html

で、今時のトイレットペーパー騒動です。私がこのニュースというか、デマに接して最初に思ったのは、「トイレットペーパーがなくなると、何が恐怖なのだろうか」という点でした。当たり前ですが、私も毎日トイレットペーパーやティッシュペーパーを使っています。トイレットペーパーをデスクに置いて、ティッシュ代わりに使っている方も多いですよね。細々とした用途で使われるこれらの紙製品がなくなれば、確かに不便だと思います。

特にトイレに紙がないというのは、これまた古典的な「ピンチ状態」なんですけど、私個人はここにあまり恐怖を感じません。あ、以下はいささか尾籠なお話になりますので、そういうのが苦手な方はスルーしてください。




はい。で、私がトイレットペーパーがなくなっても恐怖を感じないのは、お尻を手で洗えばよいと思っているからです。インドやパキスタンなどを「貧乏旅行」された方ならお分かりかもしれませんが、彼の地のみなさん(主に庶民でしょうか)はコップ一杯の水と左手で「その用」を足します。これ、やってみると分かりますが、けっこうエレガントな気持ちよさなんです。紙を使うほうが「野蛮」に感じられるくらい。

私は温水洗浄便座が大好きで、引っ越しの際に賃貸物件を探す場合はまずこの条件をインプットするくらい生活には欠かせないアイテムになっています。「おしりだって、洗ってほしい」というわけで、やっぱり気持ちいいじゃないですか。ところが海外を旅行すると、多くの国や地域でまだまだ温水洗浄便座の普及率が高くないという現実に直面します。というか、日本国内でも古い施設や建物ではついてないところも多いです。

そんな場所で私は、今でも彼の地で習い覚えた方法で洗っています。ペットボトル一本の水があれば充分。だからバックパックには必ず空のペットボトルをしのばせています。もちろん洗った後には今度は手を洗う必要がありますし、それを拭くためにトイレットペーパーなどを使いますけど、何ならタオルで拭いて、その後きちんと洗濯すればよろしい。マリー・アントワネットじゃないですけど「紙がなければ手で洗えばよろしいじゃないの」と。

つまり私にとっては水がなくなることこそ恐怖なんであって、万一トイレットペーパーがなくなってもあんまり困らないのです。というわけで私は、きたる大地震に備えて水と、水がなくても薬品で固めて捨てることができる簡易トイレだけは自宅に常備しています。災害などの際にいちばん復旧が遅れるのは水道だと言われています。電気やガスはまだなんとかなる(発電機やカセットコンロなど)。でも物理的に大規模な工事が必要になる水道はそう簡単ではありませんから。

2020年の現代に再燃したトイレットペーパー騒動を見ながら、そんなことを考えました。

*1:もしくは「知らんけど」。こちらのページでは、「関西人の会話は正しさより"楽しさ重視"」と説明されています。

「物事を丸く収める」ことの是非

仕事帰りの書店で目に止まり、買い求めた『しょぼい生活革命』(内田樹氏✗えらいてんちょう=矢内東紀氏)を読んでいたら、河竹黙阿弥作の歌舞伎『三人吉三廓初買』のお話が出てきました。

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しょぼい生活革命

Wikipediaの同項目に、この歌舞伎でいちばん有名なシーン「大川端庚申塚の場」について、こんな簡潔な解説があります。

夜鷹のおとせが客の落とした百両を返そうと夜道を歩いていると、盗賊のお嬢吉三が現れて金を奪い、おとせは川に突き落とされてしまう。そこへ別の盗賊・お坊吉三が現れ争いになるが、盗賊の和尚吉三が仲裁して三人は義兄弟の契りを交わす。

この「義兄弟の契り」は『三国志演義』の「桃園の誓い」がベースになっているんだそうですけど、仲裁に入った和尚吉三の「自分の腕を切り落とす代わりに二人が五十両ずつ受け取る」という提案に二人が感銘を受け、争い事が丸く収まるという「三方一両損」みたいなお話になっています。

このお話に関して内田樹氏は「『全員が同程度に不満な解』によって合意形成した集団は、そのことによって一種の運命共同体を形成する」と評し、その合意形成に自ら参加したという自覚こそが、集団のパフォーマンスを向上させると述べています。

自分で決めたことだから、自分に責任がある。みんながそう思ってくれると、一人ひとりが割り前以上の働きをするようになる。全員が給料以上にオーバーアチーブするようになる。

そういうものかなあ……と思いつつ、この本を読み終えて、次に堀有伸氏の『日本的ナルシシズムの罪』を読みだしたら、途中でまた『三人吉三廓初買』が引用されていたので驚きました。同じ日に読んだ全く別々の本なのに、こういうシンクロニシティって、起こるものなんですねえ。

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日本的ナルシシズムの罪 (新潮新書)

堀有伸氏のこの本は「個人よりも集団、論理よりも情緒」といった、法や論理を度外視して集団との一体感を優先させる心性(日本的ナルシシズム)を批判するものです。そして、この歌舞伎を引用しているのは「コンプライアンスが繰り返し叫ばれるにもかかわらず、集団や組織の持つ想像上の一体感が、法のような抽象的原理によっては破られにくい」という日本と日本人の現状に対する批判的な文脈においてなのです。

同じ歌舞伎の演目をめぐって導き出されている洞察が、内田氏と堀氏では全く異なっているように私には思えました。内田氏は、物事を丸く収めて運命共同体的な関係を作ることで個々が「オーバーアチーブ」し、集団のパフォーマンスが向上すると肯定的に捉えています。それに対して堀氏は、理非曲直を正すことよりも共同体の秩序を優先させ、個人の確立よりも集団への依存を選んでしまうような意識のあり方が日本の諸問題の根源だと捉えているように思うからです。

折しも、豪華客船における新型コロナウイルスの集団感染に関して、その内部告発を行った岩田健太郎医師に対する賛否を論じた堀氏の文章がネット上に発表されていました(私が『日本的ナルシシズムの罪』を読んだのはこの記事に接したからで、その前に買っていた『しょぼい生活革命』を先に読み、それから堀氏の本を読んだのでした)。

gendai.ismedia.jp

この記事の中で堀氏は「日本的ナルシシズム」をこのように定義しています。

「目の前の経済的利益と影響力・プライドの維持が最優先され、将来を見た長期的な視点からの投資的行動が全くできなくなった支配層と、それとけじめなく心情的につながってしまっている被支配層の発想と行動の総体」

今回、岩田氏の告発を無視、ないしは封じ込めようとした政府側の動きは、まさにこうした心性の為せる技だったと思います。これは「物事を丸く収めて運命共同体的な関係を作ることで個々が『オーバーアチーブ』し、集団のパフォーマンスが向上する」とは真逆の状態のように思えます。

内田氏は、この歌舞伎を引用した節の締めくくりでこう述べています。

たしかに、トップダウンの組織は即断即決ですぐに動けるというメリットがありますけど、手間ひまかけて合意形成して、全員がリスク・テイカーであり、ディシジョン・メイカーであるという組織じゃないと「でかい仕事」はできないんですよ。

そうしたら、即座に矢内氏に「でかい仕事ができない。しょぼい起業で生きていく(笑)」と混ぜ返されて、「そうか。でかい仕事じゃなんくて、いいんだ(笑)」と応じています。なんだか煙に巻かれたようで、よくわからなくなりました。

それに、今の日本政府の「後手後手ぶり」あるいは「いきあたりばったりぶり」は、即断即決はせず、かといって手間ひまかけて合意形成もせず、全員が責任を取らない態度に出ているからじゃないかと思うんです。その意味で、私は『三人吉三廓初買』的なありように対する堀氏の批判のほうがまっとうなのではないかと思いました。

体育会系

子供の頃からスポーツが苦手でした。だからもちろん体育の時間が一番嫌いでした。

でも小学生の頃は「男の子だったら野球をやっていて当然」というような同調圧力がありまして、好きでもないのにプロ野球の球団の帽子をかぶって、グローブも持ってましたね。でも子供の野球って、個人の運動神経やスポースセンスによって、それはもう残酷なほどの「ヒエラルキー」が構成されるものでして。私は常に「ライトの後ろの球拾い」でした。

中学生の頃は、私が通っていた公立の中学校が(今から考えると)かなり問題のある学校で、軍隊式の行進を延々とやらせたり、君が代の斉唱をやらせたり。体罰も日常茶飯事でしたし、おかしな校則もどっさりありました。今でも一番印象に残っているのは「Tシャツのワインポイント問題」。

確か合宿か修学旅行のとき、就寝時に用いる白いTシャツを持参すべしとなっていて、当時男子の間で圧倒的に人気があったのは「アディダス」と「プーマ」だったんです。だけどワンポイントの大きさは「十円玉以下」という規則がありまして、アディダス三つ葉マークはうまく収まったものの、プーマは尻尾がどうしてもはみ出しちゃうので、全員買い直させられたという……。

学生時代に入っていたサークルや部活もすべて美術部や吹奏楽部や演劇部やアマチュア無線部などの「文化会系」でした。もっとも「文化会系」だからといって「体育会系」的なメンタリティと無縁かといえばそうでもなく、美術部は個々で好きなことやってましたけど、それ以外はけっこう「体育会系」的なノリでした。吹奏楽部はコンクールに向けて、演劇部はまんま肉体訓練、アマチュア無線部もコンテスト(一定の時間内にどれだけたくさんの局と交信できるかを競う)ってのがあるんです。

サラリーマンの頃には、まんま体育会系の「先輩」にくっついて顧客回りをするのがしんどかったです。この会社では休日返上で野球の試合に駆り出されるなんてこともあって、いまの私だったら「ヤです」って断っちゃうところですが、当時はそんなブラック企業に対抗するすべも知らず……。

こうしてみると、とにかく私は「体育会系」的なノリとは折り合いが悪かったですね。だからいま、学校というある意味「体育会系」的なノリがいかんなく発揮されやすい職場に勤めているので、自分でも日々気をつけています。もっとも、生徒は全員外国人留学生で、同調圧力などどこ吹く風のみなさんですから、見ていて微笑ましいですけど。それでも留学生を預かる学校は国から厳しい管理を受けており、例えば出席率や資格外活動(アルバイト)などについて厳格な規定がありますから、ときに「体育会系」的なノリで留学生に接しているんじゃないかという懸念は残るのですが。

先日、サンドラ・へフェリン氏のその名もズバリ『体育会系』という本を読みました。学校から会社組織、地域社会にいたるまで、この国に蔓延している「体育会系」的な思考方法と慣習が、どれだけ私たちを(なかでも女性を)苦しめているか、何度も「そうそう!」と膝を叩き「この2020年に、どうしてまだそんなことが……」と失笑しつつも軽い絶望感に襲われました。

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体育会系 日本を蝕む病 (光文社新書)

「本人にやる気さえあれば、どんな状況でも人は目標を成し遂げられるはず」。そういった自他ともに厳しい態度がこうした「体育会系」的思考の蔓延を招いている一因ではないかと氏はおっしゃいます。こういう思考といちばん親和性が強いのは……やはり教師のような職業かもしれません。あらためて気をつけなければと思った次第です。

もうちょっと落ち着きましょ

早朝からジムで筋トレとランニングをやって出勤したら、同僚から「大丈夫?」と心配そうな声をかけられました。一瞬「何のこと?」と理解が進まなかったのですが、そうか、先日千葉でこんなことがあったからですね。

www3.nhk.or.jp

そういえば、早朝のジムは心なしかすいていたような気がします。普段ならスタジオレッスン(私はやりませんが)に整理券が要るほど混んでいるというのに。そりゃまあこのご時世ですから、人の集まる、それも汗まみれになるような場所に行くのは控えようというお気持ちも分かります。このジムからは「現状を鑑み、一時休会されたい方に対応いたします」というメールが来ました。パーソナルトレーニングで通っている別のジムでも「かなりヒマです」とトレーナーさんがおっしゃっていました。

ジムだけじゃありません。都心の電車もなんとなく人が少ないような感じがします。私は普段から満員電車を避けて「時差出勤」していますけど、早朝の電車内もいつもより空いているようです。新宿や渋谷などの繁華街はあまり変わらないような気もしますが、それでも言われてみれば若干人出が減っているような。人の多い場所がとにかく苦手な私にはありがたいことですけど。

うちの学校でも、卒業パーティや卒業式など、人が集まるイベントが全て中止になりました。うちの学校はファッション系や美術系の学部があって、この時期は卒業制作のファッションショーや展示会、大学院の学術発表会などが行われるんですけど、それらもすべて中止になりました。卒業制作を発表できないというのはかわいそうですね。私も美大に通っていたのでお気持ちお察しします(とはいえ私は卒展に出品せず、卒業式にも出なかったんですけど……)。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_494.html

ことほどさようにいまは「非常時」です。テレビはことさらに不安を煽るような報道ばかりなのでほとんど見ていません。TwitterなどのSNSでも非常時だからこそなのか、ここぞとばかりに罵詈雑言が飛び交っているので近づかないようにしています。とはいえ、有用な情報が得られるのもネットで、先日はこちらのスライド資料に接しました。現時点での課題と対策がわかりやすくまとめられており、事態に冷静に対処するためにとても役に立つと思いました。

drive.google.com

特に毎年流行しているインフルエンザと今回の「COVID-19」との相違点、現時点で取るべき行動……。こういう資料をきちんと読んで、冷静に対応したいと思います。巷ではやれマスクが品切れだの、特定の国を非難だの、頭の悪すぎる(失礼!)騒ぎが目につきますけど、もうちょっと落ち着きましょうよと言いたいです。

この資料では今後の見通しは触れられていませんが、インフルエンザになぞらえて考えれば、今後も感染者数は増加していき、いつかの時点でピークに達した後、徐々に収束していくことが予想できます。ポイントはそのピークがどれくらいの高さになるのかと、ピークが訪れるまでの時間、この「縦と横」の量ですね。そこを注視しながら、私たちは予防のためにできることを日々淡々とやっていくしかありません。

海外からの郵便にときめく

先日フィンランド語の教室で講読をやっていたら、郵便局での会話が出てきました。先生によるとフィンランドは国内の郵便事情がとてもよく、海外への郵送も、例えば日本への普通郵便であっても約三日で届くのだそうです。「ひょっとしたら日本国内より速いかもしれませんね」と先生はおっしゃっていました。

でも、面白いのは国によって速さがずいぶん違うそうで、例えば同じEU圏のフランスへは一週間くらいかかるんだそうです。ということは、フィンランドの郵便事情だけでなくて、相手国の郵便事情も絡んでいるのかもしれないですね。

そういえばこの間、フィンランドのネット書店「SKS verkkokauppa」で教材のCDを注文したのですが、小包であっても五日で届きました。以前本を買った時も同じくらいで届きましたから、これが標準なんでしょう。

kirjat.finlit.fi

もっとも、38ユーロの商品を日本まで送ってもらうのに16ユーロかかり、さらに税金が加わって合計62ユーロになっちゃいますから、ちょっと割高です。台湾のネット書店もよく使うのですが、こちらも400元ほどのDVD一枚で運賃が250元ほどかかります。でもまあ、現地に行ってあちこち探し回って、それでも見つからない……という苦労をするよりは、こうやってネットで検索して「ポチ」のほうがずいぶん楽です。

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これだけ物流が発達した現代、海外から郵便や小包が届くのは日常茶飯事になりましたが、それでもこうやってはるばる遠くからやってきた荷物を受け取るとなんだかワクワクします。送り状に“posti(フィンランド語の「郵便」)”なんて書かれてあるだけでなんだかときめく。はるか遠い昔、海外の人と英語で文通していた頃のことを思い出します。

メールやショートメッセージなどが普及した現代では信じられないでしょうけど、昔は「コレポン(Correspondence)」、文通という趣味があったんですよ。文通相手は「ペンパル」とか言ったりしてね。郵便代金が安くなるように、うす〜い便箋に手紙をしたためて、赤青の縁取りがあるエアメール専用の封筒で送っていたのです(いまでもあるけど)。封筒のおもてに“PAR AVION“とか“VIA AIR MAIL”とか書いて。

いまでも海外からの荷物にどこかときめくのは、当時のあの感覚が身体に残っているからなのかもしれません。

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フィンランドの郵便配達員さんと切手。

中国にタアサイはないんですか?

先日、留学生の通訳クラスで配った資料に、中国野菜の「タアサイ(ターサイ)」が出てきました。ところが華人留学生(中国語圏の留学生)のみなさん全員が「タアサイって何?」という反応だったので、へええ、と意外に思いました。中国大陸からの留学生(北方も南方も含めて)も、台湾からの方も、香港やマカオからの方も、とにかく全員が「知らない」というのです。

日本のスーパーでもよく売ってますよね、買ったり食べたりしたことはないですか、と聞いても、一様に「さあ……?」という感じで、とにかく暖簾に腕押しという感じ。それでみなさんすぐにスマホで検索し始めたのですが、例えばWikipediaに“塌棵菜(學名:Brassica narinosa)為十字花科蕓薹屬下的一個種,又名瓢兒菜、塌古菜、烏塌菜(江蘇)、塌菜、塌地松、黑菜等”という別名の説明があっても「う〜ん、聞いたことない(or 食べたことない)」という方ばかりでした。

zh.wikipedia.org

まあウチの学校の留学生だけで一般化できないとは思います。というわけで真相は依然謎のままなんですが、ひょっとしたらタアサイは中国原産ではあるけれど、現地ではあまり栽培されなくなって、逆に日本でポピュラーになった野菜なのかもしれません。う〜ん、私は中国の市場で見かけたような気もするんですけど、そういえば定番の“炒青菜(青菜炒め)”でもタアサイが出てきたことはあまりないような気がします。

ネットで検索してみても、詳しい事情はあまりわからず。中国語圏におけるタアサイ事情にお詳しい方、ぜひご教示ください。

ところで私、タアサイのように葉っぱが平らに広がる「ロゼット系」の野菜が好きで、いまのこの時期は「ちぢみ雪菜」というのをよく買っています。これを油揚げと一緒に生姜を効かせて煮浸しにするのです。ネットで検索してみたら「仙台の『ちぢみ雪菜』などは、タアサイが寒い地方で順化していき地方独自の野菜となった、甘みのあるタアサイ」という記述に出会いました。そうだったのか! 初めて知りました。

books.google.co.jp

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_56.html

ちょっと「ルンドゥン」まで

JR山手線に乗っていたら、車内の動画ディスプレイでANAの広告が流れていました。西島秀俊氏が出演する「ANA国際線でどこいく?」というCMです。YouTubeでも見ることができます。


ANA国際線でどこいく?(30秒)

この広告を見て「おおっ?」と思ったのは、西島氏が最後にロンドンのことを「ルンドゥン」と言っていたからです。

ご案内の通り、JR車内の映像広告には音がなく、セリフには字幕がついています。この広告では登場人物が航空便の行き先を「しりとり」でつなげて行くという設定で、「ル」で始まる都市名に悩んだ西島氏が苦し紛れに「ルンドゥンまで」と言って、グランドスタッフに「ロンドンですね?」と突っ込まれるというオチになっていました。

それで早速YouTube動画を確認してみたというわけです。なぜかといえば中国語のロンドンは「ルンドゥン」に近い発音(倫敦/Lúndūn)だからです。もし西島氏が窮余の策として中国語を使った(という筋書き)とすれば、いかにも中国語のプレゼンスが増している今っぽいじゃないですか。でも確認してみた結果、西島氏は「ルンドゥン(高低低低)」と言っていました。惜しいなあ。せめて中国語っぽく「低高高高」で言ってくれたら、分かる人は分かるってんで、さらに深みがあってクールだったのに〜。

……って、こんなくだらないことを考えて悔しがっているのは私だけですか。

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https://www.ana.co.jp/ja/jp/book-plan/airinfo/network/international/

いまどき「嫁探し」だなんて目も当てられない

私は「嫁」という言葉が好きではありません。特に「うちの嫁」とか「嫁にもらう」などといった物言いが大嫌いです。とはいえ、私の周囲にもお連れ合いのことを「嫁」と呼ぶ人は存外多く、かといってそのたびに「その言い方に違和感をお覚えではないですか」などと論戦を挑むのも面倒、かつその勇気もないので、いつも内心忸怩たるものを抱えております。

女性が男性の家に入る、嫁ぐという観念じたいが好きではありません。とはいえ、自分も結婚して籍を入れている。しかもうちの場合は妻が私の姓に変えましたから、世間さまからみれば実質「嫁いでもらった」ことになります。あまりエラソーなことは言えないかもしれません。それでも「嫁」という言葉に染み付いている家父長制的な考え方や男尊女卑の匂い、さらには「うちの嫁」という時に漂う「上から目線」感などもあって、私はこの言葉を使えないなあと思っています。

その意味で、現在議論されている(けれどなかなか進展が見られない)選択的夫婦別姓に賛成ですし、諸外国で実現しつつある、同性婚を含むさまざまな婚姻の形にも賛成です。日本はこの点、政府の動きも、それを支持する人々の観念も本当に遅れていますけど、それでも自治体によっては「パートナーシップ制度」などが生まれつつあります。私はこうした、より多くの人々が自分の生きたいように生きることを後押しする制度の拡充、その動きは止まらないと思いますし、もっと声を上げてそれを加速させるべきだと思っています。

……と、数日前に録画してあったNHKの『チコちゃんに叱られる!』を見ました。妻がこの番組のファンで録画しているのです。番組の中で、チコちゃんの顔のCGを作っている(ここは「大人の事情」で伏せられてますけど)チームが休暇を取れるようにする「働き方改革のコーナー」というのがあって、カラスのキョエちゃんが日本全国を回って「岡村(岡村隆史氏)の嫁探し」をするというのがここのところシリーズになっています。

www4.nhk.or.jp

実際のところは、全国各地の特産物などを紹介するコーナーなのですが、そこに「岡村の嫁探し」という側面をもたせて、笑えるコーナーにしようとしています。キョエちゃんが岡村氏の写真を見せながら、現地にいる女性に片っ端から「この男と結婚してくれませんか」と声をかけ、全員から一様に「ムーリー」と手でバツを作りながら拒否される。それが何度も繰り返され、岡村氏自身の自虐的なコメントが入ってチコちゃんが笑う……。

つまりこのコーナーを作っているNHKのスタッフはこれが「笑い」になると思っているようなのですが、私はちっとも笑えませんでした。この「嫁探し」というのは驚くほど古い感覚だと思います。冒頭に書いた男尊女卑もそうですけど、男女とも「適齢期」になったら結婚すべきという考え方の押し付けによる「結婚しない人、結婚できない人いじり」でもありますし。

キョエちゃんは以前は「岡村の嫁」と言っていたのですが、今回は「岡村のお嫁さん」とややソフトな言い方に変わっていました。NHK内でもいくらか「これはちょっと」という声があったのかもしれません。あるいは投書などが届いているのかも。でも、「嫁」を「お嫁さん」にしたって、根本の古臭い考え方は変わっていません。価値観が多様化した現代に、しかも日本人が普段常識だと思っていながら実はその理由を気づいていない問題に切り込むという番組にして、この旧態依然感はどうしたことでしょうか。

先日キョエちゃんは香川県東かがわ市に行き、様々な女性に声をかけて断られた末に、東かがわ市の「ご当地ヒーロー・てぶくろマン」にまで声をかけます。ところがそばにいた人に「てぶくろマンは男性なんですよ」とたしなめられる……。これなども、ご当地キャラが男性だということで結婚相手にならない、つまり結婚は男女でなされるべきものとの固定観念を無条件で支持しています。これもちょっと痛々しいくらいのあまりにも古い感覚で、めまいがしました。

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https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020104974SC000/?spg=P201800178400000

最近のNHKは、特にその報道はあまりにも政権寄りの恣意的(というより不作為)なものが多く、受信料をきちんと払っている身からすればなんとも腹立たしいです(投書しても「なしのつぶて」ですしね)。それでも「NHKにも心ある職員はいるはず。その人たちを応援しよう」と思って受信料を払い続けています。以前ブログにも書きましたが、言論法・ジャーナリズム研究の山田健太氏が「社会の公共財として、みんなで少しずつ負担して公共的なメディアを支えることで、民主主義の発展に寄与することをめざしている」というのに大いに共感するものでもありますし。

qianchong.hatenablog.com

でも最近の『チコちゃんに叱られる!』、なかでも「働き方改革のコーナー」は本当に興醒めです。同じように感じている方は多いと思いますし、投書や意見なども少なからず届いていると思うんですけど……。どこまでこのコーナーが続くのか、どこでやめるのか、見届けたいです。ヘンな意味で来週の放送が楽しみになってきてしまいました。

歌って楽しむ外国語

図書館で借りた黒田龍之助氏の『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』という本を読んでいたら、「歌は外国語の学習に多大な効果をもたらす。発音練習にもいいし、文化に触れることにもなる」と書かれていました。たしかにそうかもしれません。私もかつて中国や台湾のポップスはもちろん、懐メロから革命歌曲までどっぷりハマって歌い、中国語カラオケにもよく行きました。某中国語学校で「歌って楽しむ中国語」みたいな講座も担当していたこともあるくらいです。

もっとも中国語の場合は「声調」という一種のメロディがあり、なおかつ歌のメロディの上がり下がりと歌詞の中国語の声調が一致しているとは限らないため、特に中国語の初学者にとっては「発音練習にもいい」とは言えないかもしれません。それでも語学の一環として歌うのは楽しいですよね。

いま学んでいるフィンランド語は……う〜ん、フィンランド語の歌で有名どころというのはあまり思いつきませんが、シベリウス交響詩フィンランディア』に出てくる『Finlandia-hymni(フィンランディア讃歌)』など、きれいだなあと思います。『フィンランディア』はあの勇ましいファンファーレ的な主題の部分が人気ですが、賛美歌みたいな雰囲気をたたえたこのコーラスの部分(演奏によっては交響詩にコーラスが入ります)も美しい。……というわけで、いま練習しています。

こちらにフィンランド語の歌詞と日本語訳が紹介されています。


【和訳付き】フィンランディア賛歌(フィンランド歌謡) - "Finlandia hymni" - カタカナ付き

こちらはヘルシンキ駅の構内で行われたフラッシュモブの映像。なかなかすてきです。


Flashmob Finlandia

歌詞はこちら。

1.
Oi Suomi, katso, Sinun päiväs koittaa
Yön uhka karkoitettu on jo pois
Ja aamun kiuru kirkkaudessa soittaa
Kuin itse taivahan kansi sois
Yön vallat aamun valkeus jo voittaa
Sun päiväs koittaa, oi synnyinmaa

2.
Oi nouse, Suomi, nosta korkealle
Pääs seppälöimä suurten muistojen
Oi nouse, Suomi, näytit maailmalle
Sä että karkoitit orjuuden
Ja ettet taipunut sä sorron alle
On aamus alkanut, synnyinmaa

Finlandia (sävelruno) – Wikipedia

1番の歌詞では“koittaa”、“soittaa”、“voittaa”という“ittaa”の部分が、2番では“korkealle”、“maalimalle”、“alle”という“alle”の部分が韻を踏んでいますが、これらはいずれもフィンランド語に多い子音の重なりで、発音する時にはいわゆる「促音」になります。歌ってみると、このいったん詰まって伸びる感じが、4分音符(1拍)のあとに符点2分音符+4分音符(つまり4拍)のメロディによく合っているなあと思いました。
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qianchong.hatenablog.com

で、『Finlandia-hymni』を覚えたら、お次はこちら、Kari Tapio(カリ・タピオ)氏の『Olen suomalainen(俺はフィンランド人)』にしようかなと思っています。「ここでの暮らしは大変で、運など巡ってきやしない。それを知ってるのは俺らだけ」……こういう哀愁漂うオジサン受けしそうな歌謡曲、大好きです。


Kari, Jorma ja Paula - Olen suomalainen

「てづかみキッシュ」のその後

先日、外苑前のデリカテッセンでキッシュを買ったら、フランス人とおぼしき店員さんの青年が「てづかみ」で箱に入れてくれて、なぜか和んじゃったという話を書きました。

qianchong.hatenablog.com

この話を同僚の女性にしたら、たまたま外苑前に用事があって行ったとのことで「そのお店を見つけたから、私も入ってみた」。でも同じようにキッシュをテイクアウトで買ったら「ちゃんと薄い手袋をして箱に入れてくれたけど?」だそうです。「ハタチくらいのかわいいフランス人青年だったよ」だって。そうそう、私が買った時もその青年だったと思いますけど、わはは、ずいぶん対応が違うんじゃない?

ブログでは「手づかみで逆に和んだ」などと、おおらかな性格をアピールした私ですが、彼女の話を聞いて「なんだよ〜、納得いかないなあ」と思ってしまい、すぐに馬脚をあらわしてしまったのでした。あ、でもキッシュはおいしいのでおすすめです。


http://citron.co.jp/

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https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_569.html

疲れているのに餃子を包みたくなる

「晩ごはん症候群(シンドローム)」という言葉があるそうですね。毎晩の食事作りがつらい、疲れた……というお悩みの総称で、同名のマンガが元になっているのだとか。こちらにマンガの紹介がありますが、読んでいてなんとも複雑な心境になりました。症候群に苛まされているのが全員「ママ」だったり「主婦」だったりで、なおかつ夫、つまり男性が全くの無理解かつ非協力的だという点にです。

select.mamastar.jp

まあこれ、お子さんがいるかどうかも大きな要素ですし、世の中には理解があって協力的な夫もいると思いますが、こうした主題のマンガが広範な共感を得るというのは、やはり日本社会の特殊性を物語っていると思います。そして学生時代から何十年もこの状況を見つづけてきた自分の感想としては「変わらないなあ、この国の男たちは……」という感じです。

私自身は毎日の炊事が大好きです。とはいえ、子供のために食事を用意する必要はなく、夫婦二人分だけなのでなにかエラソーなことを言えるような資格はありません。ただ、炊事ってけっこう向き不向きがあるような気がします。食材を繰り回したり、同時並行でいくつか作ったり、作りながら洗い物を消化していったり……というのは、そう単純なことではないと思うからです。

性別やジェンダーを問わず、パートナーを選ぶ際には外見や性格や思想信条などなどの要素のほかに、ぜひ「家事能力の有無」や「家事への向き不向き」も加えるべきじゃないでしょうか。だって、家事に理解を示さず、帰ってきたら洋服脱ぎ散らかしとか、風邪で寝込んでいるのに「俺のご飯は?」などという人なんてイヤ過ぎるじゃないですか……って、お若い方に言ったら「は?」と怪訝な顔をされるかな。

それはさておき、私は炊事全般が大好きなので、妻と家事を分業しています。買い出しや炊事や後片付けは私の担当、掃除と洗濯は妻の担当です。現在妻はくも膜下出血後のリハビリと就活の最中で、外に出て働いている時間は私が圧倒的に多いので家事の分担は妻のほうが多いです。私は私で、炊事全般を担当すると自分の勉強や趣味や筋トレの時間が圧迫されるので、時々気持ちが煮詰まりそうになりますけど、マンガ『きのう何食べた?』のシロさんばりに炊事が生きがいなので、さいわい「シンドローム」には陥らずに済んでいます。

自分にとっては、炊事がストレス解消法なんですよね。だから「晩ごはんのこと考えるの、疲れた」ってことがないです。疲れないためにごはん作ってんだもの。ときには「ああ、今日は仕事でかなり疲れたから、晩ごはん作るの面倒だな」と思うこともあります。でも外食や惣菜を買って帰るのが苦手で(理由はいろいろ。落ち着かないし、味が濃すぎるし、高いし……)結局毎晩作っています。夕飯を外食で済ませることは、旅行などをのぞけばほとんどありません。

もちろん、手は抜きます。この時期だったら手抜き料理の横綱はやっぱり「鍋」。だけど、私は不思議なことに、疲れているときほど餃子を包みたくなったり、グラタンを焼きたくなったりするんですよね。アレはどういう心理状態なんでしょう。身体がカロリーを欲しているのかしら。餃子は、以前はもう絶対に市販の皮など使わず、粉からこねてのばしてましたけど、最近はそこまでのガッツというか欲望がなくなりました。歳を取って食にも淡白になってきちゃったのかしら。

それにまあ市販の餃子の皮も最近はいろいろとあって、餅粉入りとか米粉の皮とか、けっこうおいしいのです。というわけで、疲れているのに餃子を包みたくなった晩は、そんな皮を利用して手を抜き、さらに包み方も「スヰートポーヅ」式にしてさらに手を抜いています。

スヰートポーヅというのは、東京は神田神保町の古書街、すずらん通りにある焼き餃子と包子のお店。混雑時には相席になるほどの人気店です*1。ここの焼き餃子は包むときに皮にひだを寄せない、いわゆる「棒餃子」状態なんです。

この包み方だと、焼いている最中に肉汁や餡の調味料が流れ出してそれがおいしい焦げ目を作ってくれます。だから餡にしっかり味をつけて、そのぶん食べるときは何もつけないのがおすすめ。皮に餡を置いて両側から合わせて閉じるだけだから、とても早く包めるんですね。ひだを寄せる包み方の1/3から1/4くらいの時間で済むと思います。忙しいときにぴったりです。

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などと書いていたら、また食べたくなりました。今夜も作ろうかな。

*1:個人的には、正直に申し上げて、えー、そこまでおいしいとは思えないんですけど(ごめんなさい)。

「セイメイ」か「セ―メー」か

先日「はっ酵乳」という表記について書いたところ、サバねこ主義 (id:kgrapevine)さんからコメントを頂戴しました。「表記に関しては、メーカーごとに統一のルールがあるので、色々なクライアントの仕事をするコピーライターにとってはなかなかややこしいです」とのこと。なるほど、企業によって表記のこだわりはけっこうありますよね。

有名なところでは「キヤノン」や「シヤチハタ」の「ヤ」が拗音ではないとか、「ブリヂストン」が「ジ」ではなく「ヂ」を使い、「アヲハタ」が「オ」ではなく「ヲ」を使うとか。気になってネットを検索してみたら、こちらのような興味深い記事を見つけました。へええ、「キユーピー」の「ユ」も拗音ではないんですね。初めて知りました。

kw-note.com

かつて実務翻訳を仕事にしていたころは、コピーライターさんのように表記にきちんとこだわっていたかしら……と思い返してみましたが、どうもそういう場面には出くわさなかったように思います。でもたとえば中国語の原文に“佳能公司”とあったら、日本語の訳文では「キヤノン」と「ヤ」を拗音にしないというような配慮が必要なのかもしれません。もっとも昨今のインプットメソッドなら拗音を使って書いても「間違ってますよ」と指摘してくれるかな?

通訳訓練の一環としてアナウンス学校に通っていたときは、長音や連母音にとても敏感になっていました。日本語では同じ母音が連続するときに、音を引っ張って発音することが多く(長音)、また異なる母音が続くときも前の母音を引っ張って発音することがあります(連母音)。NHKのテキストで例文に出てきたのは、たとえば以下のようなものでした。

おかあさん(オカーサン)
経営委員会(ケーエーイインカイ)
移動性高気圧が(イドーセーコーキアツガ)
再生計画(サイセーケーカク)

いずれも「オカアサン」「ケイエイイインカイ」「イドウセイコウキアツ」「サイセイケイカク」と読むと、なんだかぎこちなく、かつ押し付けがましい感じに聞こえるんですよね。ただし、連続する母音の間に意味の切れ目がある場合とか、音を繰り返す擬態語などの場合は、母音を引っ張らないというのも教わりました。

里親(×サトーヤ)
安請け合い(×ヤスーケアイ)
あかあかと(×アカーカト)
おろおろと(×オローロト)

ところで、この件に関して昔から気になっていたのが、生命保険会社のCMにおける発音です。ずっと以前に、たまたまテレビで見かけた「明治安田生命」のCM、最後にこの社名をコールするナレーションが「メイジヤスダセイメイ」と聞こえて、心にひっかかったのです。自然に発音するなら「メージヤスダセーメー」のようになるんじゃないかと。

たとえばこれは六年くらい前の同社のCMですが、小泉今日子氏は最後の社名コールで「メイジヤスダセイメイ」と言っています。


いいなCM 明治安田生命 小泉今日子 片桐はいり うさりん&かめろん

最初に出てくるナレーターさんも、小泉氏よりはいくぶんソフトですが「メイジヤスダセイメイ」。ところが直近の同社CMでは、ちょっと気だるい感じのナレーションで「メージヤスダセーメー」と言っています。


歳の差兄弟「兄、父になる」篇 [30秒バージョン]

こうしてみると明治安田生命は自社名の発音について、俳優さんやナレーターさんの個性というかやり方にお任せしていて、キヤノンが「ヤ」の表記を拗音にしないというようなこだわりは特にお持ちではないのかもしれません。私個人は、社名があまりおしつけがましく聞こえるのはイメージ的にマイナスだから「メージヤスダセーメー」がいいかなあ、と思いますが。

こうなると他の生命保険会社はどうしてらっしゃるのか気になります。というわけで、YouTubeでいくつか検索してみました。「アクサ生命」はこのCMに出演している杏氏が「アクサセ―メー」と言っています。


アクサ生命 「娘の入学」杏

ところが同じアクサ生命で杏氏の出演している古いCMでは、ナレーターさんが「アクサセイメイ」と言っているのです。こちらもあまりこだわりはないのかもしれません。


杏 CM アクサ生命 「まるごとサポート」

住友生命も新旧に関わらず「スミトモセイメイ」だったり「スミトモセーメー」だったり。あまり傾向みたいなものは見えないですね。でも最後にひとつだけ気になったのは「東京海上日動あんしん生命」(長い!)です。なにせこちらは「あんしんセエメエ」という羊の執事がキャラクターなんですから。「セエメエ」ってくらいですから、絶対に「セイメイ」推しだと思って確認してみたら、案の定「♪あ〜んし〜んセイメイ」と歌っていました。


東京海上日動あんしん生命 CM がん保険 「がん診断保険R いつもの車窓から」篇 15秒

でも東京海上日動あんしん生命の最新のCMではナレーターさんが「セ―メー」と発音しているんですよね。


医療保険「ひとりひとりの生きるのそばに」篇【公式/東京海上日動あんしん生命公式CM】

まあ全体として、よりソフトに聞こえる「セ―メー」が選ばれつつあるということなのかもしれません。あまり説得力ないですけど。

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https://www.tmn-anshin.co.jp/company/cm/seemee/

自分をいったん括弧に入れる必要

都内の日本語教室で社会人向けのクラスを担当している同僚からこんな話を聞きました。仕事で来日した外国人やその家族のために区役所が開設している、まだほとんど日本語を話せない方向けの初級クラスでの話です。「相手の家族についてたずねる」というロールプレイをしたところ「初対面の人に家族構成を聞くなんて失礼ではないか。特に日本人には、そんな習慣はないではないか」と言ってロールプレイを拒否する方がいたというのです。

私はこれ、とても興味深い話だなと思いました。というのも、かつて中国語学校で教えていた際にも似たようなことをおっしゃる方が時々いらしたからです。拒否するまではいかなくても「何人家族ですか?」と聞いたら「一人暮らしですから」とか「プライバシーに関することはちょっと……」などと答えて会話が続かないという方がいるのです。ペアになった生徒さんも困惑気味で。

もちろん、どう答えようともその方の自由です。話したくないことは話さなくても構いません。ただ、こと語学の練習に関する限り、そこはもう少し頭を柔らかくして、実際には一人暮らしであっても十人とか二十人とかの大家族を頭の中でこしらえて、覚えたばかりの文法と、数詞や量詞や家族の呼称に関する名詞などの語彙を使いまくればいいのです。なんなら犬も飼ってます、猫もたくさんいます、そのうち一匹は三毛で可愛くて……とかね。

思うに「一人暮らしですから」とか「失礼ではないか」という方は、とても誠実なのだと思います。自分の気持ちに反することができない。それはそれで美徳ではありますが、語学は、特に外語は畢竟「お芝居」なんだという感覚なりマインドセットなりが必要なんじゃないかとも思います。ディベートなどでは、自分の思想信条とは異なる主張であってもゲームとして論理を組み立てる、みたいな「バーチャル性」がありますよね。あれと似ています。

逆に言えば、そういうお芝居やバーチャル性を楽しめる性格の方でないと、外語の学習は味気ないものになるかもしれません。もっと身も蓋もない言い方をしてしまえば、語学(外語の習得)には向き不向きがあるのです。もちろん向いていなくても学んだってオーケーですし、なにも会話だけが語学ではありません。例えば書籍を読むためだけに語学を学ぶ方もいると思います。ですが、少なくとも「聴いて話す」という外語の習得を目指す方には、多少なりとも「芝居っ気」が必要です。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_5.html

もうひとつ、聴いて話す外語の習得を目指す方の中にときおり「実際に現地で、ネイティブスピーカー同士で話されているような会話を学びたい」という方がいらっしゃいます。実用本位と言えば聞こえはいいですが、ひょっとするとこれは実用からいちばん遠い考え方かもしれませんよ。

例えば日本語を学びたいと思っている外国の方が、初手から「あざーす!」とか「チョーウケるんだけど」などを学ぶと想像してみてください。「ありがとうございました」ではなく「ありあったしたー(コンビニの店員風?)」のほうがネイティブっぽいじゃないかと。

まあそこまで極端ではなくても、いわゆる「うなぎ文」や「こんにゃく文」――「ぼくはウナギだ」「こんにゃくは太らない」などの――を外国人が率先して学ぼうとしていたら「まあ待て、落ち着け。その前にだな……」と言うでしょう。こうした文は、実はネイティブスピーカーだからこそできるとても高度な発話だからです。

その言語の非母語話者が学ぶ場合には、きちんとした発音の、きちんとした文法に則った文章を聴き取り、話し、書き、読むことから段階的に習熟していかなければいけません。ここでも自分をいったん括弧に入れて、折り目正しい自分を演じるような気持ちが必要です。この点で、母語の習得と外語の習得には大きな違いがあります。

語学の初学段階で、自分をいったん括弧に入れて素直に演じてみることができない。そういう方が一定数いることが興味深いと思いました。これだけ英語を始めとする語学熱が高いというのに、そういう「キホンのキ」を教わることが少ないというのは考えてみれば不思議なことです。

テニスの入門者が「まずは『エアK』をやりたい」とか野球の入門者が「チェンジアップで投げたい」とか言えば「まあ待て、落ち着け」と言うんじゃないでしょうか。なのにこと語学となると、初手から「ペラペラ」とか「ネイティブっぽい」を目指し「“This is a pen.”なんて言うシチュエーションがあんのかよ!」とdisるのです。外語を学ぶとはどういうことかについての「キホンのキ」を理解していないからだと思います。

はっ酵乳

朝ごはんに食べたヨーグルトの紙パックを洗っていたら、側面に書かれた文字が気になりました。「はっ酵乳」とあります。

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「発酵」をなぜ「交ぜ書き」にする必要があるのかなと思ったのですが、これはもともと「醗酵」が正しくて、「醗」の字が常用漢字に入っていないからということのようです。
bifidus-fund.jp

個人的には交ぜ書きが好きではないので、醗酵と書けばいいのに、いやいっそのこと「醱酵」のほうが「かもされている(醸されている)」感じが字面からも伝わってきていいなあ、と思います。パソコンで文字を書くことがこれだけ普及して、難しい漢字を書けないという不便さはほぼ解消されたんだから、と。でもたぶん世の中の動きはそうはなっていかないんでしょうね。

ただ、上記のリンクによれば、「発酵」は簡略化された正式ではない表記だとのこと。つまり「発」の字は常用漢字に入っているので「発酵」と書けばいいところをあえて「はっ酵」と書くということは、その裏に「醗酵」が本来の表記なんだから「発酵」は支持しませんよ、という表記者(?)の意図が見えます。

本来の表記を尊重するがゆえに、表記としては下策の交ぜ書きを採用するという、何だか倒錯した世界になっているのが面白いと思いました。

語学の「順序」と「戦略」について

先日、語学を継続させるコツは「その場その場で完璧を目指さず、未消化でもとりあえず先に進む」ことではないか……というようなことをブログに書きました。ブログを更新するとTwitterにも投稿するようにしているので(もはやその機能以外Twitterはほぼ使わなくなりました)、時々リプライがつきます。今回は「語学にはそもそも後とか先とかすらないので。現在形より過去形が後とか先とか別にない」とつぶやいてらっしゃる方がいました。

なるほど、語学の学習順序は人間が恣意的に決めたものだけれど、その言語は総体として自然にそこにあるだけだから、順序にこだわることにあまり意味はないということでしょうか。面白い視点だと思いますが、私は、こと外語の習得に関する限り、やはり学習順序にはそれなりに意味があると思っています。

例えば中国語だと、結果補語を学んでから可能補語に進むほうが理解しやすいでしょうし、フィンランド語では、過去分詞を先に学んでおかないと過去形(の否定)が作れません。英語ではたしか過去形を先にやって、次に過去分詞の形容詞的な用法や完了形などに進みますよね。その言語によって、学習者が理解しやすいような順序があるわけです。

それらはさまざまな先達の教育者が「こうやって学んでいったほうが分かりやすい」と試行錯誤してきた末に作り出した順序です。また「日本語母語話者がその言語を学ぶ際には、こういう順番のほうが分かりやすい」というような配慮もあると思います。学校教育の教科書やカリキュラムなどに対する恨みつらみ(?)から、いきおい「語学はシャワーを浴びるように」とか「大量に聞き流せばいいんだ」とか雑駁かつ一刀両断的な気持ちのいいことを宣言しちゃう方が時々いますが、それはちょっと考えが甘いかなあと思います。

加えて、これも既存の学校教育へのアンチテーゼなのか、「最低限の単語や文法は必要だが、まず聴くそして話すを先に持ってこなければならない」とか「まず流暢さ、次に正確な文法、という順序で獲得するほうが、結局手っ取り早く喋れるようになる」というようなご意見もTwitterでは多く見られます。これは英語の場合で、いずれも一理あると思います。

ただこれらも「それじゃあ」ってんで雑駁に「文法など不要だ! ネイティブは文法など気にして話してない!」などと短絡的に受け止める方が出ないだろうかと心配になります(実際、そこについているリプライの中には、そういう方が見られます)。何事も極端はいけません。もう少し腰を据えて、発音も語彙も文法もコミュニケーションもバランスよく学んで行かなければ。

また言語によって、非母語話者が学ぶ際にどの部分の「比重」が高いのか、という点も見逃せません。例えば中国語だと、まずはなんといっても発音の比重が高い言語です。いくら文法が完璧でも発音が間違っていたらまず使えません。逆にフィンランド語は、発音ももちろん大切ですけど、それほどクリティカルではなく、むしろ語形変化など文法の比重が恐ろしく高い言語に思えます。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_580.html

ようは言語によってどういう「戦略」で攻めていけばいいのかがけっこう違うんですね。また学習者の母語が何であるかによってもかなり違う。そして教科書やカリキュラムは、どの母語話者がどの言語を学ぶかという前提によって、専門家がああでもないこうでもないと試行錯誤した末に編まれており、あまりバカにしてはいけないのです。

私たち日本語母語話者が外語を学ぶ際には、まず日本語母語話者でその言語の「達人」になった方を見つけ、その方がどういう学び方をしてきたかに耳を傾けるとよいと思います。そしてできればそういう方を何人も見つけて比較検討してみる。そうやってある程度の「戦略」を描き、なおかつ雑駁で一刀両断的な極論は丁寧に避けつつ、一歩一歩前に進んでいくのです。

……もっとも、英語や中国語のような巨大言語の場合、「先達」も多くて百家争鳴状態ですから、どの道を選べばよいのか初学者が戸惑ってしまうという難点があるのですが。