インタプリタかなくぎ流

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「物事を丸く収める」ことの是非

仕事帰りの書店で目に止まり、買い求めた『しょぼい生活革命』(内田樹氏✗えらいてんちょう=矢内東紀氏)を読んでいたら、河竹黙阿弥作の歌舞伎『三人吉三廓初買』のお話が出てきました。

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しょぼい生活革命

Wikipediaの同項目に、この歌舞伎でいちばん有名なシーン「大川端庚申塚の場」について、こんな簡潔な解説があります。

夜鷹のおとせが客の落とした百両を返そうと夜道を歩いていると、盗賊のお嬢吉三が現れて金を奪い、おとせは川に突き落とされてしまう。そこへ別の盗賊・お坊吉三が現れ争いになるが、盗賊の和尚吉三が仲裁して三人は義兄弟の契りを交わす。

この「義兄弟の契り」は『三国志演義』の「桃園の誓い」がベースになっているんだそうですけど、仲裁に入った和尚吉三の「自分の腕を切り落とす代わりに二人が五十両ずつ受け取る」という提案に二人が感銘を受け、争い事が丸く収まるという「三方一両損」みたいなお話になっています。

このお話に関して内田樹氏は「『全員が同程度に不満な解』によって合意形成した集団は、そのことによって一種の運命共同体を形成する」と評し、その合意形成に自ら参加したという自覚こそが、集団のパフォーマンスを向上させると述べています。

自分で決めたことだから、自分に責任がある。みんながそう思ってくれると、一人ひとりが割り前以上の働きをするようになる。全員が給料以上にオーバーアチーブするようになる。

そういうものかなあ……と思いつつ、この本を読み終えて、次に堀有伸氏の『日本的ナルシシズムの罪』を読みだしたら、途中でまた『三人吉三廓初買』が引用されていたので驚きました。同じ日に読んだ全く別々の本なのに、こういうシンクロニシティって、起こるものなんですねえ。

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日本的ナルシシズムの罪 (新潮新書)

堀有伸氏のこの本は「個人よりも集団、論理よりも情緒」といった、法や論理を度外視して集団との一体感を優先させる心性(日本的ナルシシズム)を批判するものです。そして、この歌舞伎を引用しているのは「コンプライアンスが繰り返し叫ばれるにもかかわらず、集団や組織の持つ想像上の一体感が、法のような抽象的原理によっては破られにくい」という日本と日本人の現状に対する批判的な文脈においてなのです。

同じ歌舞伎の演目をめぐって導き出されている洞察が、内田氏と堀氏では全く異なっているように私には思えました。内田氏は、物事を丸く収めて運命共同体的な関係を作ることで個々が「オーバーアチーブ」し、集団のパフォーマンスが向上すると肯定的に捉えています。それに対して堀氏は、理非曲直を正すことよりも共同体の秩序を優先させ、個人の確立よりも集団への依存を選んでしまうような意識のあり方が日本の諸問題の根源だと捉えているように思うからです。

折しも、豪華客船における新型コロナウイルスの集団感染に関して、その内部告発を行った岩田健太郎医師に対する賛否を論じた堀氏の文章がネット上に発表されていました(私が『日本的ナルシシズムの罪』を読んだのはこの記事に接したからで、その前に買っていた『しょぼい生活革命』を先に読み、それから堀氏の本を読んだのでした)。

gendai.ismedia.jp

この記事の中で堀氏は「日本的ナルシシズム」をこのように定義しています。

「目の前の経済的利益と影響力・プライドの維持が最優先され、将来を見た長期的な視点からの投資的行動が全くできなくなった支配層と、それとけじめなく心情的につながってしまっている被支配層の発想と行動の総体」

今回、岩田氏の告発を無視、ないしは封じ込めようとした政府側の動きは、まさにこうした心性の為せる技だったと思います。これは「物事を丸く収めて運命共同体的な関係を作ることで個々が『オーバーアチーブ』し、集団のパフォーマンスが向上する」とは真逆の状態のように思えます。

内田氏は、この歌舞伎を引用した節の締めくくりでこう述べています。

たしかに、トップダウンの組織は即断即決ですぐに動けるというメリットがありますけど、手間ひまかけて合意形成して、全員がリスク・テイカーであり、ディシジョン・メイカーであるという組織じゃないと「でかい仕事」はできないんですよ。

そうしたら、即座に矢内氏に「でかい仕事ができない。しょぼい起業で生きていく(笑)」と混ぜ返されて、「そうか。でかい仕事じゃなんくて、いいんだ(笑)」と応じています。なんだか煙に巻かれたようで、よくわからなくなりました。

それに、今の日本政府の「後手後手ぶり」あるいは「いきあたりばったりぶり」は、即断即決はせず、かといって手間ひまかけて合意形成もせず、全員が責任を取らない態度に出ているからじゃないかと思うんです。その意味で、私は『三人吉三廓初買』的なありように対する堀氏の批判のほうがまっとうなのではないかと思いました。