インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んで

香港は九龍半島の突端、メインストリートである彌敦道(ネイザンロード)に面して重慶大廈(チョンキンマンション)という有名かつ巨大な雑居ビルがあります。下層階には両替商や貴金属店や飲食店などが入っていて、上層階は安宿やいろいろな事務所になっています。もうずいぶん前のことですが、香港へ行ったときにこのビルの安宿に泊まったことがあります。すぐそばには5つ星のペニンシュラホテルがあるんですけど、チョンキンマンションのホテルは1つ星とか。星をつける意味あるのかしら。

香港人の留学生にも「センセ、あそこに泊まるのは危ないですよ」と言われるのですが、私が泊まった安宿はとても清潔で快適で、特に不安は感じませんでした。もっとも留学生が「危ない」というのは、とにかくごちゃごちゃしている雑居ビルだから、万一火災にでもなった場合に逃げ遅れるからということらしいですが。

それはともかく、安宿に泊まろうとチョンキンマンションの一階に足を踏み入れたら、とたんに複数の黒人男性が寄ってきて日本語で「ホテル、イラナイカ」とか「○○、ヤスイヨ」などと声をかけてくるのに閉口しました。私は上海から夜行列車で広州まで来て、それから香港に入ったのですが、ちょっと風邪気味で体調が悪かったため、面倒くさくなって思わず中国語で“我不是日本人!(オレは日本人じゃない)”と言ってしまいました。そしたら向こうも中国語で“噢,那你是什麼人呢……(じゃあ、アンタ何人だよ)”と困惑顔をしていたことを覚えています。

そりゃそうですよね。日本語で話しかけて、その日本語を理解したからこそ私が反応したのに、その私は中国語で「日本人じゃない」と言っているのですから、辻褄が合っていません。それはさておき、その黒人の彼らが中国語を、それも香港で使われている広東語ではなく北京語を駆使していたことがずっと印象に残っていました。彼らはどこの国の人たちだったんだろうと。

最近、小川さやか氏の『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んで、その背景がかなりよく分かりました。この本は、チョンキンマンションなどを拠点にして独自のネットワークを作りながらビジネス(それもときに法的にグレーな範囲のものも含む)を展開しているタンザニア人に取材しています。もちろんこの本に出てくるタンザニア人は客引きのような「しょぼい」商売ではなく、もっと大規模で複雑なビジネスを展開していますから、私に声をかけてきた人たちとはぜんぜん違う人たちなのだと思いますが。

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チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

私はこの本を「贈与経済」への興味から読みました。贈与経済についてはさまざまな人がさまざまな角度から論じていますが、私はかなり以前に読んだ内田樹氏のこの説明がとても魅力的に思えます。ご自身もおっしゃっているように、これはいまのところまるで「夢物語」なのですが、「金は天下の回りもの」というのをこの年になって特に強く感じるようになっているのです。

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ただ、今回読んだ『チョンキンマンションのボスは知っている』に出てくる贈与経済(的なしくみ)は、私の予想とはちょっと、いや、かなり違っていました。というか、あまりにもダイナミックすぎてちょっとついていけなさそう。また香港や中国、そして母国タンザニアならではの成立要件もかなり大きいように思います。イスラム教の文化(喜捨など)も絡んでいるかもしれません。さらに、少なくとも自分が参考にするにはあまりに人生の「経験値」がなさすぎるかなとも思いました。

思えばサラリーマンをしていた若い頃に、社員旅行で訪れたシンガポール(そんなバブリーな時代があったのです)で、その街全体から湧き上がるようなエネルギーに圧倒されて「ああ、こういう世界に飛び込みたい」と強く願ったことが中国語学習の大きなモチベーションになりました。それからずいぶん経ち、実際に中国や台湾で働く機会を得て、その時の願いはまあ実現したんですけど、いまこの年になって、正直ちょっともうついていけないなあと思っている自分がいます。

いやいや、私は家族にも友人にもあまりしがらみはないし(というか、できるだけしがらみを捨てるようにしてきた)、日本にも格段の愛着はないので、この先またどこかへ出ていくかもしれません。ぜひともそうしたい。でも、あの湧き上がるようなエネルギーの中に自分の身を投じたいとはあまり思えないんですよね。この本はフィールドワークとしてとても面白い内容でしたけれど、ごめんなさい、今の自分にはあまり響かなかったのでした。やっぱりこれが年を取ったということなのかしら。