『ゆる言語学ラジオ』の堀元見氏がnoteで能について書いておられるのを見つけ、購入して読んでみました。
はじめて能をご覧になったそうですが、観劇全体の印象として「顧客のニーズを満たそうとかそういう気持ちは全くない」と厳しいことをおっしゃっています。
これは既得権益なのだ。「伝統芸能」として成立した能。”なんかすごそう”で皆が見に来る能。”織田信長の時代から変わっていない”ことがウリになる能。
そこに市場原理は働いていない。普通エンターテイメントというものは市場原理によって進化を求められるものだが、もはや既得権益になってしまった「能」は黙っていても客が来る。つまり進化しなくていいのだ。
まるでかつて文楽を攻撃した橋下徹氏のような論旨に思わずぐぐっと拳を握りしめそうになりますし、「黙っていても客が来」なくなっているからこそ多くの能楽師があれこれ苦労されているんですと言いたくもなりますけど、お金を払って(といってもたった300円しか貢献していませんが)記事全体を読んだあとは、確かにそうなんだよなあと思わざるを得ない部分が残りました。
もちろん氏が「能の演者が退場するスピード。秒速5ミリメートル」とか「オジサンしか出てこなかった」とか「幽玄って実はズルいよね。能もちゃんと具体的な良さで勝負すべきだよね」などとおっしゃるのは言いがかりのたぐいですし、引用されている写真が『道成寺』で、これなんかきわめてスペクタクルな内容なんだけどな……などと、どうか一度の観能で嫌いにならないで〜という気持ちでいっぱいなのですが、そこはそれ、能楽自身がその特徴と自負している「一期一会」でなにがしかの「よきもの」を伝えられなかったという結果には、ただただ残念と言うしかありません。
有料部分を読んでみると、堀元氏は観能前の事前解説イベントにも参加されたよし。そこで解説をされていた、とある能楽師のグダグダっぷりが、氏をして能楽に対するきわめて否定的な印象に至らしめたというお話には(どこまで話を盛られているのかは分からないという留保はつけながらも)、さすがに私も怒りを覚えました。
私の師匠をはじめ、多くの心ある能楽師の方々が、能楽のよさを伝えるためにさまざまな取り組みをされています。それはもう本当に並々ならぬ努力で、だからこそ私も微力ながら応援するわけですが、その一方でこの世界には正直に申し上げて、上に引いたような容赦のない批判がそれなりに当たっているなと思うふしもあります。例えば以前にも書いたことのある能楽関係諸団体の「熱の低さ」などもそのひとつです。
私は、芸能というものは、そのすべてをビジネスの用語で語ることはできないと思います。ですから、ニーズとか市場原理とか既得権益などという言葉で能楽を語りたくありません。でも、だからといって堀元氏のこの文章を単に暴論だと片付けてしまうのも何かが違うと感じました。私ひとりが悶々としても何の意味もありませんけど、ひょっとしたら一能楽ファンの私のような者こそ、こういう厳しい視点を持たなければならないのではないかと思ったのです。芸能は、芸能を担っている人々のみならず、芸能を享受する人々も含めたところで成り立っているものなんですから。