インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

クラークラーの眼鏡

私は視力が両目とも1.5で、遠くのものもよく見えます。これでも加齢によって少し視力が落ちており、10年くらい前までは両目とも2.0でした。なのに老眼鏡は手放せません。遠くの風景はくっきりはっきり見えるのに、近くの文字はてんでダメなのです。目の構造はどういうことになっているのか、本当に面白いです。

というわけで、普段かけている眼鏡は、上半分がただ透明なだけ(いわゆる「ダテ眼鏡」)で、下半分に老眼鏡が入った「遠近両用」です。もう五年以上前に作った眼鏡は度数1.0の老眼鏡が入っているのですが、最近これではパソコン作業がつらくなってきました。フレームもくたびれてきたので新しく眼鏡をあつらえることに。フレームは「KRAA KRAA(クラークラー)」というフィンランドの小さな眼鏡メーカーのものです。

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このフレームは合板、つまり木でできていて、強度を高めるために「つる」を折り曲げるための「ヒンジ」がありません。つるを耳にかけるというより、眼鏡全体で側頭部を挟むようにして固定する作りになっています。とてもシンプルな作りで、しかも、いかにも木で作りました! 個性的なデザインです! といった「クラフト感」が少なく、抑制の効いているところがいいなと思ったのです。

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このメーカーの本社はフィンランドタンペレという都市にあって、先回渡芬(という日本語はあるかしら)した際に行ってみようと思っていたのですが、あいにくタンペレに行ったその日は休業日で諦めました。その後、日本でも扱っているお店があることを知って、作ってもらったのです。注文から2ヶ月かかってようやく届くという「ゆったり」ぶり。注文が殺到しているからというわけではなさそうで、単に少人数で手作りしているからみたいです。

www.kraakraa.com

フレームをあつらえるのを機に改めて検眼してもらったら、老眼がずいぶん進んで度数は2.25になっていました。遠近両用の眼鏡をかけてしばらくは、視線の向きによって解像度が違うために少々戸惑います。例えば階段を降りるときなど、足元がぼやけて不安になるのです。今回も急に度数が上がったのでちょっと慣れない感じですが、使っているうちになじんでくると思います。

語学はあとから「じわっ」と染みてくる

ほそぼそと学習を続けているフィンランド語、『suomea suomeksi(フィンランド語をフィンランド語で)』という教科書の第1冊目をようやく学び終えて第2冊目に入ったので、これを機に「単語の棚卸し」をしてみました。先生からも「フィンランド語はとにかく語形変化が多く、単語の元の形を知っていなければ変化のさせようがありません。だからとにかく単語を覚えてください」と言われていたことでもありますし。

これまでも学んだ単語を片っ端から Quizlet の単語帳に放り込んで覚えてきたのですが、もう一度 Excel で新しい単語帳を作りました。もう一度書きながら意味を確認したら、そのぶん記憶も定着するんじゃないかと思って。それで最後の章から逆に戻る形で第一章まで単語を拾っては Excel に入力していきました。これを最後にまた Quizlet で「単語帳化」して覚えるのです。

“minä(私)”とか“suomiフィンランド)”など、もう完全に覚えきっちゃってる単語は除いて、本文を読みながら単語を拾っていくと、全部で1000個あまりの単語がありました。この教科書はおもしろいストーリー仕立てになっている、なかなかうまくできている一冊で、けっこう複雑なことも言っていたような気がします。でも、こうやって拾ってみると使われている単語の総数はそれほど多くないんですね。これだけでもきっちり覚えて、なおかつ格変化や活用がきちんとできれば(これが難しいんですけど)なんとかなりそうな気がします。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_963.html

それから、教科書の最後の章から逆に最初の章まで読んでみて気づいたのですが、かつて初めて読んだときはとにかく複雑で、文法がどうなっているのかよく分からなかった文章が、やけに簡単に(というかシンプルに)感じられました。当たり前のような気もしますが、語学にはこうした「後から振り返ったとき腑に落ちる」という側面があるんですよね。語学に限らず、何でもそうだと思いますが。

だから、語学を継続させるコツは「その場その場で完璧を目指さず、未消化でもとりあえず先に進む」ことではないかと個人的には思っています。その時にはどうしてそうなっているのかよくわからない事柄でも、後からもう一度振り返ってみると、ああそうだったのかと「じわっ」と染み入るように分かる、そういうことがあるのです。

また、前述したようにフィンランド語にはとても複雑な語形変化があります。それは人称や時制などによって語尾が変わる際の「子音階梯交替」であったり「母音交替」であったりするのですが、単語の棚卸しをしながら、どうしてそういうことが起こるのかについての「感覚的なもの」が分かりかけてきたような気がしました。考えてみれば、フィンランド語の母語話者にとってこうした子音や母音の変化はごくごく自然に行えることであって、それは一種の「言い易さ」という感覚に従った結果なんですよね。あるいは「言葉の経済性」と言ってもいいかもしれません。

例えば日本語でも数字に細長いものを数える数量詞の「本(ほん)」をつける時、「一本(いっぽん/ippon)」「二本(にほん/nihon)」「三本(さんぼん/sanbon)」……などと、非日本語母語話者にとってみれば悪夢みたいな変化をします。これも私たち日本語母語話者は考えることなく発音できてしまいますが、ようは「いっほん」とか「さんほん」とかだと言いにくくてストレスを感じる(やってみると分かります)ので、自然に言い易い形に変化させているわけです。

フィンランド語の語形変化も、人間の言葉である以上基本的にはそういう理屈が働いているわけで、「悪魔の言葉」と呼ばれるほどの変化の激しさも、その根底には少しでも言い易くしたい、ストレスを減らしたいという言葉の経済性がある……そんな感覚を自分のものにしていけばいいのだというかすかな見通しのようなものがつかめたような気がしました。

武漢の現状を伝える映像を見て

留学生の通訳クラスで、武漢の現在(正確には一月下旬時点ですが)を伝える映像を教材に使ってみました。


90後小哥冒死拍下中國武漢第一批封城影像 Post-90 Guy Risks His Life to Record Wuhan City Under Lockdown Firsthand

近代的な大都会である武漢の繁華街にまったく人影が見られないなど驚きの映像ですが、とても客観的に武漢の現在、その一部を切り取っていると思いました*1。こんな大都市を“封城(都市の封鎖)”してしまえる中国の政治体制に逆に恐ろしさも感じますが、少なくとも武漢のみなさんは黙々と事に対処しようとしている……そんな雰囲気が伝わってきました。こういう内容こそ、通訳や翻訳で日本の方々にも伝えたい。そう思って教材に選んでみたのです。

翻って日本では、センセーショナルな報道(特にテレビ)ばかりが加熱しているように思えます。おどろおどろしい音楽を使ったり、過度に緊迫した口調でクルーズ船や隔離施設などの前からレポートしたり……報道の役割を履き違えているのではないでしょうか。報道は「バラエティ番組」化することなく、もっと抑制的に淡々と事実だけを伝えてほしいと思います。

思い返せばSARSのときにも、あたかも中国全土が汚染されているようなイメージで語り、現地の日本人留学生と日本にいるその家族とのやり取りを扇情的に伝える報道(たしかNHKのテレビニュースでした)などに憤ったものでした。今回は未知のウイルスということで、まだワクチンや特効薬などがないため、人々の不安も募っているわけですが、現時点では日本国内で感染が爆発的に広がっている状況にはありません。通常のインフルエンザでは、毎年それをはるかに上回る数の死者が出ているのです。

●参考:厚生労働省新型インフルエンザに関するQ&A」
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html#100

視聴率争いに汲々としているテレビ業界は聞く耳を持たないかもしれませんが、せめて受け取る私たちの方は冷静でありたいものだと、この武漢の映像を見て思いました。

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*1:中国語のタイトルは“冒死(死を賭して・命がけで)”などと扇情的ですけど。

能楽を外語で発信することについて

一昨日は休日だったので、東京は千駄ヶ谷国立能楽堂お能を観に行きました。能楽堂へ向かう途中、交差点で何やら困ったご様子で佇む海外からの観光客とおぼしきご婦人が。「あ、これはたぶん……」と思って声をかけたら、予想通り能楽堂へ行く道が分からないとのことでした。ブラジルから初めて日本に来られたそうです。お国では劇場関係の仕事をしているので、日本の能楽堂や能の公演にも興味を持っておられるよし。

チケットは購入済みとのことでしたので、能楽堂の入口までお連れして別れたのですが、ちょっと気になってチケットの「もぎり」の場所で待っていたら、これも案の定受付のところで困っておられるご様子。聞けば、なんと別の日のチケットを取っていたとのことでした。けっこう「うっかりさん」ですね。それで受付の方に相談したら、当日券があるとのことで譲っていただきました。

席は私のすぐそばだったので、休憩時間中にいろいろお話したのですが、能の内容を英語で説明するのに骨が折れました。だって私の英語は中学校1〜2年生くらいの習熟度ですから。それでも私たちが座っていたのが脇正面の橋掛かりのそばで、その日の演目はちょうど脇正面から橋掛かりのあたりで激しいバトルが繰り広げられる内容だったので、そのブラジルのご婦人はいたく感激してらしたようでした。

能に関して、ポルトガル語は無理でもせめて英語のパンフレットがないかしらと館内を探してみましたが、見つけられませんでした。以前の国立能楽堂には英語のパンフや解説がよく置かれていたものですが、昨今は見当たらないんですよね。文化予算削減の折から、そういうところにかけるお金が減っているのかもしれません。まあスマホで検索すれば、それなりの情報は得られるんでしょうけど。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

その日の公演パンフに、「スポンサーやサポーターを募集いたします」というチラシが折り込まれていました。その中の文章に、こんなくだりがありました。

近年、能をたしなむ方々の高齢化や、趣味の多様化などのため、謡や能を学ぶ方々や観客が大幅に減少してきています。しかも国指定の重要無形文化財でありながら、国からの補助や助成はほとんどなく、各流派とも自助努力で次世代への継承に力を尽くしているのが現状です。

歌舞伎などはその興行方式が比較的充実していて、ファン層も幅広いと思いますが、それ以外の伝統芸能はいずれも厳しい状況にあるようです。もちろんそれぞれの担い手のみなさんが、様々な趣向をこらして観客層の掘り起こしをされています。ただ能楽は、鑑賞するだけではなく自らもお稽古ごととして演じる素人層の存在がけっこう大切で、単に興行的に成功すればそれで良しとはいえない部分があります。

実際、明治期に能楽師武家の扶持を失い、能楽が存亡の危機に立たされた際、それを救ったのは謡や仕舞などを稽古していた分厚いファン層の存在だったといわれています。現在ではそういう「分厚いファン層」はなくなりつつありますよね。昔は結婚式や上棟式などで謡を披露するおじさんなんかがいたものですが、最近の結婚式では「高砂や〜」などと謡っている方をとんとお見かけしなくなりました。

じゃあどうするのか。先日某所でうかがったのは「芸術に理解のある富裕層にどん! とバックアップしてもらう道を模索するほうが実効性があるのではないか」というご意見でした。確かに、これぞと惚れ込んだアーティストの作品をお金に糸目をつけず購入する富裕層はいますよね。もちろんそれは投資や投機という目的もあるのでしょうけど、そして能楽が投資や投機の対象になるのか、そもそもなっていいのかという問題もあるでしょうけど、能楽の魅力を分かってくれる富裕層にどん! とお金を出してもらうほうが「手っ取り早い」というお気持ちはよくわかります。まあもともと能楽は、そういうパトロンがいて成り立つ(ある意味で贅沢な)芸能でもあったわけですし。

例えば経済成長著しい中国にはとてつもない富裕層が日本とは桁違いにいそうです。そして能楽はもともと中国の古典と縁の深い芸能で、中国の知識階級ならとても興味をそそられそうなコンテンツが満載なのです。でもその事実ーー日本の伝統芸能である能楽が古代中国の文化と深くつながっているというーーをご存知の中国人はほとんどいません。そして能楽と中国の古典との関係を知って大いに驚く方も多いのです。そこに働きかけていくという「戦略」はあながち的を外してはいないんじゃないかなと思いました。

そのためにも、きちんとした外語での発信ができるようにしておかなければならないですね。

隣のサイコパス

学校の教師などという因果な商売をしておりますと、時々生徒の負の側面とお付き合いしなければならない局面にも出くわします。それは例えば、試験の際にカンニングを見つかった生徒や、レポートで剽窃(いまふうに言えば「コピペ」ですか)が発覚した生徒への対応です。

とはいえ、そういう不正行為については学校の方針に従って淡々と対応するだけです。あらかじめカンニングやコピペなどをしたら失格とか単位が出ませんなどの決まりを伝えてあるので。もちろん「こういうことをして信用をなくすと、社会での立場が危うくなりますよ」といった「教育的指導」も行いますけど、正直私は、義務教育でもない自分の持ち場ではあまり意味がないかなとも思っています。だって、みんな大人なんだし。

ところがごくまれに、「みんな大人なんだし」と達観しているだけでは済まされないような事例にも遭遇します。それは生徒自身に反省が全く見られない場合です。カンニングでは複数の生徒が全く同じ回答をしていたり、またコピペではネットに全く同じ文章が存在することが確認されたりして、理詰めでは言い逃れることが完全に不可能な状況であっても、一部の生徒は平然と「やっていません」と言ってのけるのです。

言いのけるスタイルは人さまざまです。顔色一つ変えず、声がうわずることも淀むこともなく「やっていません。本当です」と言う人もいれば、「私がそんなに信じられないのか」と泣き叫ぶ人もいます。客観的に見ればどう考えても矛盾だらけで、かつその矛盾をはっきり指摘されても、あくまでシラを切り通す、切り通せる種類の人がいる。世の中、そんな人はままいるよ、と言ってしまえばそれまでですが、私はこれ、なかなかに深い問題だと思っています。

ちょっと話は変わりますけど、先日来「桜を見る会」をめぐる国会での質疑応答、とりわけ安倍首相による仰天の答弁に怒りと失笑が止まらない日々を過ごしてまいりました。これほど愚かしい人物をトップに据えたままのこの国に暗澹たる思いです。でも、こんな状況を作り出したのはもちろん首相ひとりの力ではありません。彼を取り巻く政権与党の人間、官僚、支持者、その他大勢の人々の共同作業によってこの状態が維持されているわけです。

そんなことを考えていたら、ネットでたまたま内田樹氏のブログ記事を読みました。内田氏は「ヤクザと検察官」の比喩で「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている人間を『理詰め』で落とすことはできない」とおっしゃっています。おお、そうかなるほど、と膝を打ちました(喜んでる場合じゃありませんが)。カンニングやコピペが発覚しても、そしてその論理矛盾を指摘されても「やっていない」と言ってのける人も同じようなものかもしれないと。

blog.tatsuru.com

確かに、こういう人を「『理詰め』で落とすことはできない」です。人に自分の知性の欠如を知られてもまったく痛痒を感じないというのは、ちょっとした恐怖を覚えます。

かつて私が勤めていた職場では「表敬訪問したいから」と我々にインビテーションを出させて来日のためのビザを取得したとある国の団体が、結局観光旅行をしてそのまま帰っちゃった(もちろん表敬訪問はすっぽかし)ことがありました。担当者を探し出して問い質すも「私はこの件で一晩中寝られなかった!」と意味不明な理由を述べ立てて泣き叫び、自分の非ではないと言い張る姿勢にある意味圧倒されました(私も若かったですしね)。

また留学に際して提出された書類、その出生から最終学歴に到るまでのありとあらゆる書類が全て偽造で、なおかつ来日してその点を問いただしても「私は知らない」と言い張った学生もいました。もちろん現代ではさすがにそこまでの事例はないと思いますが、これらはいずれも「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている」タイプの人たちであったのだなと今にして思います。

内田氏は、今後も安倍首相はこうして「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にし」続けるだろうとして、ブログの記事をこう締めくくっています。

 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
 いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。

さすがに「過半数」ということはないだろうと私は思いますが、そういう「論理的でない人間」に出くわした際に、我々がその「意味不明さ」に驚き、怯み、スルーしてしまうことも、また問題の解決を先送りにしてしまう一因なのかもしれません。じゃあ問題解決のために何ができるのか……そう思って最近色々と本を読んでいるのですが、先日たまたま書店で見つけて購入したこの本の結論は「逃げる」でした。

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まんがでわかる 隣のサイコパス

この本は「サイコパス」についての入門書です。映画や小説などに出てくるモンスターみたいなサイコパスとは違って、社会の中で普通に暮らしながら、ときには普通の人以上に活躍しながら、その普通の人々の暮らしや仕事や人生を脅かすサイコパスについて解説されています。その中で、アメリカ精神医学会の「DMS-5 精神疾患の分類と診断の手引」にあるサイコパス(反社会性パーソナリティ障害)の診断基準が紹介されていました。

①法律にかなって規範に従うことができない。逮捕に値する行動。
②自己の利益のために人をだます。
③衝動的で計画性がない。
④けんかや暴力を伴う易刺激性(ささいなことをきっかけに不機嫌な態度で周囲に反応しやすい状態のこと)。
⑤自分や他人の安全を考えることができない。
⑥責任感がない。
⑦良心の呵責がない。

この本では、この項目のうち三つ以上に当てはまる人をサイコパスの疑いあり(実際には中長期的な観察が必要)と設定しています。確かにこういう人はいる……上述した、私が出くわしてきた人々もそうですし、どこかの国のトップなど、みんな当てはまるんじゃないかとさえ思います。ただ、程度の差はあれ、こういう側面は誰しもが抱えている可能性がありますよね。そういう意味では、軽々に「あの人はサイコパス」などと決めつけちゃうのも危ういのではないかと思いました。

それに「逃げる」のは自分のみを守るためにはもちろん大事ですけど、教師という立場でそういう人に出くわした場合、逃げるだけでは問題解決になりません。結局、理詰めで落とすことができない「論理的でない人間」に対しても、注意深く観察しつつ対応していかなければならないのでしょう。やはり因果な商売ですよ、教師というのは。どこかの国のトップについては……まあこれも逃げるわけには行かないので、はやく選挙で落とさなきゃいけませんね。

フィンランド語 55 …条件法

動詞にまつわる新しい文法事項として「条件法(仮定法)」を学びました。条件法には①現在形と、②完了時制があるそうです。授業で学んだ例文はこのようなものでした。

① Jos tietäisin, sanoisin.
 もし知っているなら、言っているだろう。
② Jos olisin tiennyt, olisin sanonut.
 もし知っていたなら、言っていただろう。

日本語だと「もし知っているなら、言っている」と後ろは通常の形で言うことのほうが多いような気がしますが、フィンランド語ではきっちり「〜なら〜だろう」と言い切るんですね。

動詞を条件法にするには、まず語幹を求めます。その語幹に条件法の目印である「isi」をつけます。このとき語幹の最後の音と母音交替が起きます。この母音交替ルールは過去形や格変化のときよりずっとシンプルで以下の三つです。

e, i + isi → e, i が消える。
aa, uo + isi → 前の a, u が消える。
oi, ui + isi → 後ろの i が消える。
※例外:käydä は語幹が kävi になる。(kävi + isi → kävisi)

このとき「kpt」の変化は起こりません。ただし「逆転」は起こります。

●lukea(読む)
語幹 luke + isi → lukisi(k → × の変化なし)

lukisin lukisimme
lukisit lukisitte
lukisi lukisivat

三人称単数は語尾を伸ばさず「isi」のままというのがこれまでと違うところです。

●ajatella(考える)
語幹 ajatele + isi → ajattelisi(t → tt の逆転あり)

ajattelisin ajattelisimme
ajattelisit ajattelisitte
ajattelisi ajattelisivat

条件法は「もし〜ならば」という仮定なので、ときに丁寧な表現にもなるそうです。

Saanko kupin kahvia?
コーヒーを一杯ください。
Saisinko kupin kahvia?
もしよろしければコーヒーを一杯もらえますか。

普通は上で十分だそうです。特に目の前にコーヒーがあることが自明なシチュエーション、例えばカフェとかコーヒースタンドとかなら。でもコーヒーがあるかどうか分からない場合には、「もしコーヒーがあれば、もらうことはできますか」的にへりくだった表現になると。そういえば以前定型句を覚えていたときに“Voisitko auttaa minua vähän?(もしよろしければ、私を少し助けてくれますか=手伝ってくれませんか)”というのがありましたけど、これも“voida(可能だ、できる)”の条件法で、より丁寧な表現だったわけですね。

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Jos minulla olisi rahaa, matkustaisin Suomeen.

マスクをしない理由

新型コロナウイルスによる肺炎の感染拡大が連日マスコミで伝えられる中、往来ではマスクをしている人の姿が目立ちます。目立つどころか、マスクをしていない人のほうが少ないくらい。マスクをせずに混雑した電車やバスに乗って、うっかり咳きこみでもしようものなら、周囲から白眼視されかねない状況です。

そんな中、私はといえばマスクをしていません。学校で働く周囲の同僚、特に教師のみなさんもマスクをしていません。マスクをしていると授業ができないからです。生徒の中にはかなりの割合でマスクをしている人がいますが、「語学訓練なのでマスクを取ってください」と言うわけにもいかず、自由にしてもらっています。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_719.html

私がマスクをしない理由は二つあります。ひとつは、現時点で健康な人がマスク、それもN95のような高機能(呼吸がしにくいほど)マスクではなく一般のガーゼや不織布製のマスクをするのはほとんど無意味だと知っているからです。毎年流行するインフルエンザの予防と基本的には同じですが、こうした感染症の感染経路は「接触感染」と「飛沫感染」です。ネットをちょっと検索するだけでさまざまな情報が手に入りますが、マスクは基本的に感染している人が飛沫を他の人にかけないため措置なのです。

kaigyou-turezure.hatenablog.jp
uniunichan.hatenablog.com

私がマスクをしない、というか「できない」もう一つの理由は、痒くなるから。軽いアトピー性皮膚炎を持っている私は、顔の肌に何かがぴたっとくっついていると、すぐに痒くなるのです。このためマスクのようなものは一分とつけていられません。二年前、インフルエンザに感染したときは、他の人にうつさないようマスクをしていましたが、あれは辛かった……。

よくヘアサロンで洗髪してもらうときに顔に薄い紙やタオルなんかが置かれますよね。あれもかなり苦手で、いつも拳を握りしめて耐えています。台湾に住んでいた時、通っていたヘアサロンではコピー用紙みたいな腰のしっかりした紙の一端に両面テープがついているようなものを額にピッと張ってくれました。額からまっすぐに顔を覆う庇が出ているような形になって、あれは快適でした。肌についている面積もとても小さいですし。ああいうの、日本でも導入してくれないかしら。

閑話休題

ニュースではマスクの品薄や、通販サイト・フリマサイトにおける不当な高値などの情報が伝えられていますが、いま私たちがすべきことは、不安にかられてマスクの買い占めに走ることではありません。健康な人がマスクを買い占めることによって、本当に必要な人――インフルエンザなどの感染症にかかった人、あるいはこれから増える花粉症などの人――にマスクが届かなくなる可能性だってあるのです。

またマスコミは連日「ダイヤモンド・プリンセス」号の集団感染ばかりセンセーショナルに報道していますが、あの閉鎖空間で濃厚接触が起こったがゆえの感染を除けば、現在日本国内で新型コロナウイルスによる肺炎が爆発的に広がっている状況はありません。「正しく知り、正しく怖がる」ことをひとりひとりが心がけたいものだと思います。

追記

厚生労働省ホームページの一般向けQ&Aでは、このように書かれています。

問10 マスクをした方がよいのはどのような時ですか?
マスクは、咳やくしゃみによる飛沫及びそれらに含まれるウイルス等病原体の飛散を防ぐ効果が高いとされています。咳やくしゃみ等の症状のある人は積極的にマスクをつけましょう。
予防用にマスクを着用することは、混み合った場所、特に屋内や乗り物など換気が不十分な場所では一つの感染予防策と考えられますが、屋外などでは、相当混み合っていない限り、マスクを着用することによる効果はあまり認められていません。

www.mhlw.go.jp

スープジャーでお昼ごはん

毎日のお昼ごはんで、プラスチックごみの多さにいたたまれなくなり、お弁当を持参するようになって二週間ほど。購入したスープジャーがことのほか便利で、ほぼ習慣化ができました。だいさん(id:GOUNN69)のブログ『片道書簡→』で紹介されていた「赤パプリカ味噌汁」に触発されて、ここのところずっとこればかり作って持参しています。野菜は赤パプリカのほか、そのときにある野菜いろいろ。あと土井善晴氏の名言「日本のベーコン」こと油揚げも。

shiba-fu.hatenablog.com

最初のうちはスープジャーに入り切らないくらい作りすぎちゃっていたのですが、今ではぴったりの量を小鍋で作れるようになりました。だいさんがおっしゃる通り、火の通りが早い食材ならお湯を注ぐだけでもよくて、忙しい朝には助かります。ただ私の場合、油揚げはまとめ買いして冷凍しているのを使うので、お湯を注ぐだけだとかなり熱を取られるみたい。お昼にはけっこう冷めちゃっています。それで一度小鍋で煮てからスープジャーに移しています。予めお湯でスープジャーを温めておくこともしているので、味噌汁はお昼に食べてもかなり「あつあつ」です。

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あとはこれにオニギリなんかを作って持っていっています。オニギリもラップでいちいち包んでいたらゴミが減らないので、くり返し使えるタッパーで(まあこれもいずれプラごみになっちゃうんですけど)。そのうち曲げわっぱみたいな木の弁当箱を買おうかなと思っています。

漢字にルビ振りゃいいってもんじゃないです

学校の健康管理センターから「留学生に周知されたし」とのことでメールが届きました。新型コロナウイルス感染症の流行に対する学校の対応方針を伝えるためのものです。必要に応じて配布や掲示をするための説明文が添付されていたのですが、これが非常に興味深いと思いました。以下はその一部です。

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日本語の習熟度がまだそれほど高くない留学生を慮ってか、すべての漢字に「カッコ書きで」ルビが振られています。漢字にカッコ書きのルビをふるのは、Windows版のWordで文章を書いて、全選択ののちツールボックスから「ルビ」を選んで総ルビにしたのち、その文章をコピー&ペースト(ペースト時に「テキストのみ保持」)すると作成できます。試しにやってみたら、同じようなカッコ書きルビつき文が生成されました。

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武漢市」が「ぶ」と「かんし」に別れちゃってるなどのツッコミどころはこのさい脇に置きまして、この文章が興味深いのは、普段から申し上げている日本人(日本語母語話者)の「ナイーブな多言語観」が如実に現れていると思うからです。

日本語の習熟度が高くない方のためにといくらルビを振ってあげても、日本語そのものの読解力がなければ情報は伝わりません。例えば「多数報告されている状況を鑑み」とか「不要不急の渡航はやめてください」などの日本語を「たすうほうこくされているじょうきょうをかんがみ」とか「ふようふきゅうのとこうはやめてください」とひらがなに開いたとしても、それで文章の意図が相手に了解されるでしょうか。

かつて、阪神・淡路大震災などでは被災した在日外国人への情報伝達が上手く機能しませんでした。そこで、その反省から考案されてきた「やさしい日本語」というものがあります。Wikipedia「やさしい日本語」の項には「簡易な表現を用いる、文の構造を簡単にする、漢字にふりがなを振るなどして、日本語に不慣れな外国人にもわかりやすくした日本語である」との説明があります。本来であればそうした「簡易な表現・簡単な文の構造」を目指すべきところ、上記のメール作成者は「漢字にふりがなを振る」だけで済ませちゃったわけですね。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_380.html

もちろん何もしないよりはマシです。留学生になんとか情報を伝えたいという気持ちを疑うものでもありません。でもこう言っては大変失礼ながら「外国人向けには漢字にルビ振っときゃいいでしょ」的な思考方法には、多言語やマルチリンガル、異文化コミュニケーションなどにナイーブ(うぶ)な日本人ならではの特徴が現れていると思います。日本社会はほぼ単一の言語で社会が回るモノリンガル社会であるがゆえに、私たち日本人は、外語を学ぶとはどういうことか、言語の壁を超えるとはどういうことかについての想像力があまり働いていないのではないかと思うのです。

この国では、ウェブサイトをグーグル翻訳に丸投げして珍妙な英語や中国語やその他の言語が並んでいるなどという事例は枚挙に暇がありません。昨年はかの「堺マッスル」なんてのもありましたし、昨日は厚生労働省のウェブサイトでも、こんな珍事(笑い事ではありませんが)が。官から民まで、ここまで多言語のありように無頓着でいられるというのは、これはもうこの国の宿痾とさえ言えるかもしれません。

mainichi.jp

幼少時から英語を始めとする外語教育に力を入れるのもいいでしょう。でもその前に、いやせめてそれと並行して、言語とは何なのか、言語や文化の壁を超えるとはどういうことなのか、通訳や翻訳とはどんな作業をしているのか、多言語に分かれているこの世界とはいったいどういうものなのか……そうしたことを学ぶ「言語リテラシー」的な教養科目がぜひとも必要だと思います。それは幼少時からの外語教育がその前提としている「グローバル化した世界」と対峙する際の、基本中の基本だと私には思えます。

qianchong.hatenablog.com

こんなに尻尾を振っているのにね

昨日の朝刊紙を読んでいたら、アメリカのトランプ大統領による一般教書演説の記事が大きく載っていました。演説前にペロシ上院議長が差し出した握手の手をトランプ氏が無視しただの、演説後にはペロシ氏が演説原稿を破り捨てただの、どこかの国に負けるとも劣らぬ「お子ちゃま」ぶりに笑いましたが、演説要旨を読んで「日本」の「に」の字もないことに、さもありなんと思いました。

原文はどうなんだろうと思って確かめてみたら、“China”が5回も出てくるのとは対照的で、ホントに“Japan”の“J”の字もありません。まあ、文脈をすっ飛ばして数だけどうこう言っても始まらないんですけど。

www.nytimes.com

トランプ氏の一般教書演説はこれが3回目だそうですが、同じように過去のフル・トランスクリプトを確認した限りでは一度も日本に言及していません。こんだけ尻尾振って追随して、軍事面でも土地やお金を提供し、兵器や装備を爆買いしているというのに、日本もかわいそうですね。ちなみにさらに遡って前任のオバマ氏の一般教書演説でも“Japan”の文字はほとんど引っかかりませんから、ま、もともとアメリカってのは元々そんなものなんでしょうけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_49.html

折しも先日から、東京都心を通過する羽田空港への新飛行ルートの「実機飛行確認」が始まったんですけど、新宿にあるうちの学校の真上をひっきりなしに飛行機が通過して、かなりな騒音に戸惑っています。でもこれだって、もとをただせば米軍の「横田空域」が首都圏にど〜んと横たわってるがゆえの苦肉の策なんですよね。

新聞やテレビのニュースも、そこにこそ踏み込んで世論を喚起すべきなのに、やれ「すっごい威圧感!」だの「飛行機好きにはちょっと興奮」だのといった街の声を拾ってる場合じゃないです。そして政治家も。アメリカをはじめとする連合国側からの押しつけ憲法を改定して自主憲法制定とか言ってるヒマがあったら、まずこの「アメリカの第51番目の州」的な状況をどうにかするのが何よりも大事じゃないかと思います。

この「アメリカの第51番目の州」って表現、実は外国人留学生にものすごくウケるフレーズです。それだけ外から見た日本は「そういう存在」に映るんでしょうね。でも、今回の一般教書演説を読んでふと思いました。現状の日本はひょっとしたら「アメリカの第51番目の州」ですらなく、それ以下じゃないかなって。こういう存在は、なんと呼べばいいんでしょうね。

留学生の同時通訳実習

通訳や翻訳を学んでいる留学生が、講演会での同時通訳実習に臨みました。毎年この時期に開催しています。学外から講師をお招きして、ご専門の内容を「容赦なく」お話しいただき、それを同時通訳するという実習です。この日のために、数ヶ月前からサイトラを始めとする同時通訳訓練を行い、スライド資料や関連資料などの予習を行い、グロッサリーを作り……という作業を続けてきました。

講演のテーマはプロの能楽師による「能楽史通覧」、つまり能楽が成立する以前の芸能から説き起こして、近現代までの歩みをたどるという難しいものでした。なにせ、猿楽や伎楽、雅楽など能楽に先行する諸芸能をはじめ、日本や中国の古典、芸能、宗教、政治などの話題がふんだんに盛り込まれた内容なのです。日本語の母語話者であってもけっこう難しいと思います。しかも講師の先生からは世阿弥風姿花伝』の一部を読んでおいてくださいという指示まで。

さらに講演の直前までスライド資料に変更や増補が入り、この点でもリアルな、いやリアル過ぎるほどの実習になりました。実際の通訳業務でも、当日使用するスライド資料がなかなか出ないとか、本番直前に出ても変更がたくさん入るとか、極端な場合には当日に全部差し替え(しかも通訳者には知らされず!)なんてこともあるからです。もちろん今回は訓練が目的なので、なるべく「前びろ」に資料を渡して各自予習させましたが、なかなか難しい内容でした。

それでも留学生諸君はよく頑張っていました。英語と中国語の2チャンネルで同時通訳を行い、下級生や教職員が聴衆となって訳出をイヤホンやパナガイドで聞きました。人によって出来不出来の差が大きかったですが、約二年前に入学して以来、地道に真面目に訓練を重ねてきた留学生は、ほとんどこのまま現場に出てもなんとかなりそうなくらいのレベルにまで達していました。逆に、二年間手を抜きつづけてここまで来て、惨憺たる結果に終わった留学生も若干名いました。やはり語学は、日々の地道な努力がものをいいますね。

こうやって同時通訳の訓練をしても、実際にフリーランスとして活躍する場はかなり限られています。それに一部のハイエンドの方々を除いて、通訳や翻訳だけで食べていくのはかなり難しいのが現状です。それでも卒業して企業などの就職したら、その語学力を活かして通訳や翻訳をすることは多いでしょうし、またウィスパリングのような形で同時通訳を任されることもあるでしょう。若い留学生のみなさんの、今後の活躍を期待したいと思います。お疲れさまでした。

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黒板消しを手伝ってくれる留学生

うちの学校にはパーテーション(間仕切り)で隔てられた教室がいくつかあります。授業に参加する生徒の人数に合わせて、二つの教室を一緒にしたり、別々に仕切って使ったりするため、天井から床までの大きな可動式の壁が設置されているのです。

このパーテーションを授業前の短い時間で畳んだり広げたりするのはけっこう大変です。まず昔のエンジンを始動させるときに使うような「クランク棒」を差し込んでくるくる回し、床と接しているパーツを引き上げてパーテーション自体を自由にした後、天井に組み込まれているレールに沿って重いパネルを一枚ずつ動かしては教室の端にあるスペースに収納していきます。それが何枚もあるのでふうふう言っていると、たいがい留学生の男子諸君が手伝ってくれます。ありがたいことです。

パーテーションに限らず、留学生のみなさんはこうして教師の作業を手伝ってくれることが多いです。一番多かったのは授業が終わったあと、黒板やホワイトボードの板書を消す作業。こちらが消そうとすると「センセ、私がやります」と駆け寄ってくれる留学生がいるのです。

これもなぜか男子が多く、それも中国や台湾などを始めとするの華人留学生やアジア圏の留学生ががほとんどです。欧米などの留学生が手伝ってくれたことは、少なくとも私の経験ではありません。もっともこれは、単に私が担当する授業では、華人留学生の割合が高いからというだけのことかもしれません。

今しがた私は「一番多かった」と書きました。そうなんです。最近の華人留学生は、あまり「黒板消し」を手伝ってくれません。私が最初に華人留学生のクラスを担当したのはほんの十数年ほど前のことですけど、その当時から比べても、明らかに「センセ、私がやります」は少なくなりました。いえ、別に手伝っていただかなくても構わないのですが(もともと私がやるべき作業ですし)、ただ、たったこの十数年ほどで、華人留学生のメンタリティになにがしかの変化があったのかしら、とちょっと興味を持ちました。

想像するに、かつて「黒板消し」を率先して手伝ってくださる華人留学生が多かったのは、たぶん母国で、それも初中等教育の中でそういう指導なりしつけなりが行われてきたからではないかと思います。だから日本に留学してきても、当然のようにそういう行動に出ていた。それが最近に至って減ってきたということは、彼の地でもそういう教育に変化が現れたからなのかもしれません。現代の“課堂規矩(教室でのきまりごと)”がどうなっているのか、こんど華人留学生のみなさんに聞いてみたいと思います。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_30.html

あ、そうそう、この件に関して、個人的な印象でひとつだけ気づいたことがあります。それは日本へ留学して間もない留学生には「センセ、私がやります」という人が多いのに、日本で一年、二年と学ぶうちにだんだんそう言わなくなるという点です。別に統計など取っているわけじゃないですから漠然とした印象ですけど、「ああ、こういうところは日本の若い人とずいぶん違うなあ」と新鮮な感動を覚えるような場面がだんだん少なくなっていくのです。

来日間もない留学生が授業でも積極的に、いえ、積極的すぎるくらいに発言していたのが、来日年数が増えるに従ってどんどんおとなしくなっていく、打てど響かぬようになっていくという現象をブログに書いたことがあります。日本語教育業界やその周辺で言うところのいわゆる「日本人化」というやつですが、上述の「センセ、私がやります」が減っていくのも日本人化のひとつなんですかね。だとすると、その日本人、日本人的なありようって一体なんなんだ、という興味深いハナシになっていくわけですが。

qianchong.hatenablog.com

追記

この話を周囲の同僚にしたら、「ベトナムやタイの留学生は今でもけっこう『黒板消し』をやってくれる」という情報を得ました。なるほど。さするに、経済が発展して市場原理が人心にまで染み込んでいくと、「教育ったって結局は投資とリターンでしょ。学費払ってるのになんでそんな作業をやらなきゃなんないの」的なメンタリティになっていくということなのかしら。十年くらい後にまた観察してみたら、何からの確証が得られるかもしれません。

キッシュとオニギリ

先日、トレーニングの帰りに地下鉄外苑前駅近くを歩いておりましたら、フランス風のおしゃれなデリカテッセンに出くわしました。お店で食べるのが基本みたいでしたが、持ち帰りもOKらしいので入ってみました。キッシュやデザートがおいしそう。おおぶりなキッシュが一個千円近くもするのに少々たじろいだものの、その日は夜遅くなって晩ご飯を作るのもめんどくさくなっていたので、細君のと私のと二つ買い求めました。あとはまあサラダでも作ればいいかなと思って。

店員さんはフランスの方とおぼしき外国人のお兄さんで、過剰な接客トークも笑顔もまったくない「本場ふう」(失礼)。でもそれが面白くて「何だかほんとにフランスに来たみたい」と喜んでいました。しかもそのお兄さん、素手でキッシュをつかんで箱に詰めてくれたのが興味深かったです。キッシュは食べるときに温めるものだから、素手でつかんでも大丈夫っしょ、的な。わはは、日本人のお客さんの中には「ええ〜っ!」と非難の声を上げる方がいるかもしれません。

いえ、別にフランス人をはじめとする外国人はこういうところに無頓着で、日本人は日本人で潔癖すぎる……と一般化した話をしたいわけじゃありません。たぶんそのお兄さんの、あるいはこのお店のスタイルというだけの話なんでしょう。日本人にだって私みたいにあんまり気にならない人間もおりますし。ただそのお兄さんの、とてもワイルドかつ自然な「てづかみ」に、なにかこう心休まるものを感じてしまったのです。ああ、これでも別に構わないんじゃないかって。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_8.html

よく「他人の握ったおにぎりが食べられない」という話題を目にします。おにぎりは基本ラップで包んで握るという方も。私など日常的にお弁当のおにぎりやいなり寿司などを素手で作っていますから、そういう方がかなりの割合でいるのだと知って少々驚きます(あ、自分で握ったのはいいのか)。じゃあ握り寿司なんかはどうするのかと思いますけど、昨今の回転寿司なんかだと、ご飯は機械が成形して、ネタはビニール手袋をした店員さんが乗っけてるんだそうですね。

blogos.com

そう思ってデパ地下のお惣菜売り場などを見渡してみると、店員さんはみなさんけっこうな「重装備」です。以前「いきなりステーキ」では店員さんが口の周りを覆う透明なプラスチックの板状マスクを着用していて驚いたんですが、あれは「つばよけ」ってことですかね。むかしむかしの香港映画で、レストランの店員が運んできたスープの蓋をとって料理の説明をしたら即座に「下げろ」と言われるシーン(『古惑仔』シリーズだったかな?)を思い出しました。

同僚の英国人によれば、イギリスでも個人営業の小さなお店は、パンや焼き菓子などけっこう手づかみで入れているかなあとのこと。肉とかケーキとか、水分が手につきやすいものは手袋とかトングなどを使うけど、キッシュだったらそのまま手にとるんじゃないかと。「いきなりステーキ」の話をしたら「知ってます。初めて見たときはちょっと笑っちゃいました」と言っていました。

そんなきれい好きの東京の、その中心部に「キッシュ手づかみお兄さん」がいて、変な話ですけどなんだか「ほんわか」してしまったのです。これからもご贔屓にしたいと思います。もっともけっこうお高い値段設定なので、そう足繁くは通えないと思いますけど。

文章の書き方を学ぶ

中高年と呼ばれる年齢になり、どんどん衰えていくカラダとアタマに恐れをなして、これは鍛えるに如くはなしと思い立ったのがちょうど二年くらい前でした。以来、カラダのほうは体幹レーニングや筋トレを、そしてアタマのほうはこのブログを書き続けるという二本立てでここまで来ました。

どちらもすでに習慣化しているので、特に苦にもなりません。それでも文章のほうはなかなか思うように書けません。一年前や二年前のブログを読み返してみても、ああ、何だか読みにくい文章だなとか、回りくどい文章だなと思うことが多いです。それでも毎日文章を書くこと自体が「トライ&エラー」の繰り返しみたいなもので、続けていけば洗練とまではいかなくても、自分なりのやり方が出来上がってくるだろうと信じることにしています。

いまのところ、文章を書く上でいちばん励みになっているのは、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットラジオでの対談でおっしゃっていた言葉です。

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。

そうなんですよね。あれこれ考えているだけではなかなか文章にならないことが多くて、そんなときはとりあえず書き出しちゃうんです。そうすると、自分の中で「これも書け、あれも書け」という声が響き始めて、文章が出てくるような気がします。しかも、最初に考えていたのとはかなり違うところに行き着いたりする。「こんなん出ましたけど〜」という占い師みたい(古いですね)な感じです。

そうやって書いていると、百本か二百本に一本くらい、自分で言うのも大変おこがましいですけど「あれっ」と驚くようなイイことを書いているときがあります。これ、ホントに自分が書いたのかしら、という感じ。不思議なんですけど、トライ&エラーを繰り返しているうちに、それまでの自分では考えられなかったような達成が降りてくるというのは、スポーツや芸術の世界ではよく聞く話です。小田嶋隆氏もこうおっしゃっています。

書いているうちに考えが深まるんですよね。自分が書いたことを手がかりに、もう一歩先に考えを進めますから。そうすると、まあ二時間くらいかけて原稿用紙五枚くらいのものを書いたとすると、二枚目まで書いた時に、当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりすることが、いつもじゃないけですけど、たまにあるんですよ。(中略)それは、物を書かなかったら決して気がつかなかったポイントで、それが一番、私は価値があるんじゃなかろうかなあと思っていて。

ブログを書き始める以前は、多少はテクニカルなことも学ぶべきかしらと思って、文章読本的な書物もあれこれ読みました。もはや古典ともいえる谷崎潤一郎氏の『文章読本』、丸谷才一氏の『文章読本』、三島由紀夫氏の『文章読本』はもうずいぶん前に読みましたが、あまり記憶に残っていません。むしろこれも古典と言っていい本多勝一氏の『日本語の作文技術』や岡崎洋三氏の『日本語とテンの打ち方』などのほうが自分の糧になったような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_233.html

最近はSNSやブログなどで文章を発信する方が増えたので(自分もそのひとり)、そうした方をターゲットにした文章読本的な出版物がたくさん出ています。私もそういった書籍の中から、直近では例えば三宅香帆氏の『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』とか川崎昌平氏の『書くための勇気: 「見方」が変わる文章術』などを読みましたが、いずれも私の心にはあまり響きませんでした(ごめんなさい)。

思うに、文章はテクニカルな面だけを追いかけてもたぶん実入りは少なくて、むしろいい小説やマンガを読むとか、いい映画を見るとか、いい音楽を聞くとか、そういうのが文章になにがしかの影響を与えるのかもしれません。あと、人と意見交換したり議論したりすると、自分でも思いもよらなかった視点が手に入るような実感があります。

ところで、テクニカルな面だけを追いかけても仕方がないと書きつつ、すぐに前言を翻すようですが、わかりやすい文章を書くというきわめてテクニカルな点について、最近とても納得感のあった文章に出会いました。それはルポライター安田峰俊氏が「note」に書かれていた『片手間で教える文章講座「ユニバーサル日本語」の書き方』というシリーズ記事です。
note.com
ネット上に書く文章の一番基本になるところを丁寧に解説していらして、とても勉強になりました。特に「一文を短くする、逆接以外の『が』を使わない」というのは、ついつい文章が冗長になってしまう私にはとても示唆に富むポイントでした。そしてまた、ほかのポイントのうちいくつかは自分でも「こうじゃないかな」と手探りでやっていたテクニックだったので、とても心強く思えました。

中国語を話すと大声になる?

お昼ごはんを作りながらテレビをつけていたら「中国人観光客はなぜ声が大きいのか」という話題をやっていました。そもそも「〇〇人はこう!」と一緒くたに語ること自体にあまり意味はないように思います。でも、正直に申し上げれば、私自身の経験からしても「確かに声が大きい人が多いなあ」とは感じます。

テレビ番組では中国人のコメンテーターお二人が「中国は人が多いし、空間はデカいし、大きな声を出さないと聞こえないんですよ」とおっしゃっていました。なんだか分かったような分からないようなコメントですけど、たしかにそういう側面はあるのかもしれません。というか、声高に主張しなければどんどん自分が不利になっていくという、いわば生き馬の目を抜くような社会のあり方(なかんずく、中華人民共和国の建国から数十年、文革に代表されるような人心を荒廃させた社会のあり方)がそうさせているのかもしれません。あるいは「人は人、自分は自分」というリアリスティックな考え方をする人が多く、日本のような同調圧力が比較的薄いからなのかも。

世代の差があるという人もいます。比較的年齢の高い方は大声で話す人が多いけれども、若い世代になるほど、それも異文化に触れる機会が多い人ほど、往来で過度な大声を出すのはエチケットに反すると考える人がおおいんじゃないかと。でも、こういった説明はどれもいまひとつピンときません。私が知っている範囲でも年令を問わず声の小さい中国人はいますし、結局は個々人の差じゃないかとも思えます。

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https://www.irasutoya.com/2020/01/blog-post_651.html

ただ、自分自身でひとつだけ実感をともなって言えるのは、中国語を話すと自然に声が大きくなるということです。大きくなるというより、ダイナミックになる。もとから「地声」が大きい私が言ってもほとんど説得力はないのですが、私は日本語を話している時と中国語を話している時では、明らかに自分の性格が違っているのを感じます。どうも中国語のほうが声が大きくなるみたいなのです。

先日も「新型コロナウイルス」に関して箱根の駄菓子屋さんが店に掲げたという差別的な張り紙について、中国人の同僚と意見交換していました。話題が話題なだけにけっこう会話が盛り上がる要素はあったにせよ、かなりな大声で話してしまい、回りの同僚がちょっと引いているのがなんとなく分かりました。中国語を話すとつい大声になっちゃうのは、なぜなんでしょうか?

中国語には「声調」という音の高低や上がり下がり、つまりメロディのようなものがあって、それで意味の区別をしています。日本語にも音の高低やイントネーションはありますが、それほどクリティカルな要素ではないですよね。仮にまったく音の高低をなくして平板に話しても、不自然ではあるものの意味は伝わります。でも中国語はもう少し旋律を伴わないと、言い換えれば日本語よりは多少ダイナミックに話さないといけない。だから自然と声が大きくなるのかもしれません。

まあ私の場合は中国語が母語ではないので、話すときに日本語よりはもう少しエネルギーが必要です。つまりそれだけ必死になって話しているということで、だからついつい声を張って大きくなるのかもしれませんが。

ただ、東京の都心に毎日通っていて、日々中国語をはじめとしてさまざまな外語が飛び交っている電車に乗ることが多い自分の印象から言えば、声が大きいのは何も中国語の方々だけではありません。他の言語の方々もけっこうな音量で話してらっしゃる。そうすると、中国人の声が大きいと感じるのは、単にそれが自分の母語ではないから、馴染みの音ではないからなのかもしれません。ただ観光客にせよ住んでらっしゃる方にせよ、人数から行けば中国語を話す方が圧倒的に多いので、「声が大きい外国人」のサンプルとして中国人が上がってくる確率が高いのかも。

私は公共の場所はできるだけ静かな方が好きな人間ですが、旅先でつい気持ちが高揚して声が大きくなるってこともあるんじゃないかと思っています。インバウンドが増えて経済が活性化すると外国人観光客を受け入れるなら、そういう「異質」な文化との「違和感」にも多少は慣れていくしかないと思います。多様性を尊重するという言葉は素敵ですけど、それは一面そういう違和感をも受け入れていくことなんですよね。