インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

隣のサイコパス

学校の教師などという因果な商売をしておりますと、時々生徒の負の側面とお付き合いしなければならない局面にも出くわします。それは例えば、試験の際にカンニングを見つかった生徒や、レポートで剽窃(いまふうに言えば「コピペ」ですか)が発覚した生徒への対応です。

とはいえ、そういう不正行為については学校の方針に従って淡々と対応するだけです。あらかじめカンニングやコピペなどをしたら失格とか単位が出ませんなどの決まりを伝えてあるので。もちろん「こういうことをして信用をなくすと、社会での立場が危うくなりますよ」といった「教育的指導」も行いますけど、正直私は、義務教育でもない自分の持ち場ではあまり意味がないかなとも思っています。だって、みんな大人なんだし。

ところがごくまれに、「みんな大人なんだし」と達観しているだけでは済まされないような事例にも遭遇します。それは生徒自身に反省が全く見られない場合です。カンニングでは複数の生徒が全く同じ回答をしていたり、またコピペではネットに全く同じ文章が存在することが確認されたりして、理詰めでは言い逃れることが完全に不可能な状況であっても、一部の生徒は平然と「やっていません」と言ってのけるのです。

言いのけるスタイルは人さまざまです。顔色一つ変えず、声がうわずることも淀むこともなく「やっていません。本当です」と言う人もいれば、「私がそんなに信じられないのか」と泣き叫ぶ人もいます。客観的に見ればどう考えても矛盾だらけで、かつその矛盾をはっきり指摘されても、あくまでシラを切り通す、切り通せる種類の人がいる。世の中、そんな人はままいるよ、と言ってしまえばそれまでですが、私はこれ、なかなかに深い問題だと思っています。

ちょっと話は変わりますけど、先日来「桜を見る会」をめぐる国会での質疑応答、とりわけ安倍首相による仰天の答弁に怒りと失笑が止まらない日々を過ごしてまいりました。これほど愚かしい人物をトップに据えたままのこの国に暗澹たる思いです。でも、こんな状況を作り出したのはもちろん首相ひとりの力ではありません。彼を取り巻く政権与党の人間、官僚、支持者、その他大勢の人々の共同作業によってこの状態が維持されているわけです。

そんなことを考えていたら、ネットでたまたま内田樹氏のブログ記事を読みました。内田氏は「ヤクザと検察官」の比喩で「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている人間を『理詰め』で落とすことはできない」とおっしゃっています。おお、そうかなるほど、と膝を打ちました(喜んでる場合じゃありませんが)。カンニングやコピペが発覚しても、そしてその論理矛盾を指摘されても「やっていない」と言ってのける人も同じようなものかもしれないと。

blog.tatsuru.com

確かに、こういう人を「『理詰め』で落とすことはできない」です。人に自分の知性の欠如を知られてもまったく痛痒を感じないというのは、ちょっとした恐怖を覚えます。

かつて私が勤めていた職場では「表敬訪問したいから」と我々にインビテーションを出させて来日のためのビザを取得したとある国の団体が、結局観光旅行をしてそのまま帰っちゃった(もちろん表敬訪問はすっぽかし)ことがありました。担当者を探し出して問い質すも「私はこの件で一晩中寝られなかった!」と意味不明な理由を述べ立てて泣き叫び、自分の非ではないと言い張る姿勢にある意味圧倒されました(私も若かったですしね)。

また留学に際して提出された書類、その出生から最終学歴に到るまでのありとあらゆる書類が全て偽造で、なおかつ来日してその点を問いただしても「私は知らない」と言い張った学生もいました。もちろん現代ではさすがにそこまでの事例はないと思いますが、これらはいずれも「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている」タイプの人たちであったのだなと今にして思います。

内田氏は、今後も安倍首相はこうして「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にし」続けるだろうとして、ブログの記事をこう締めくくっています。

 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
 いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。

さすがに「過半数」ということはないだろうと私は思いますが、そういう「論理的でない人間」に出くわした際に、我々がその「意味不明さ」に驚き、怯み、スルーしてしまうことも、また問題の解決を先送りにしてしまう一因なのかもしれません。じゃあ問題解決のために何ができるのか……そう思って最近色々と本を読んでいるのですが、先日たまたま書店で見つけて購入したこの本の結論は「逃げる」でした。

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まんがでわかる 隣のサイコパス

この本は「サイコパス」についての入門書です。映画や小説などに出てくるモンスターみたいなサイコパスとは違って、社会の中で普通に暮らしながら、ときには普通の人以上に活躍しながら、その普通の人々の暮らしや仕事や人生を脅かすサイコパスについて解説されています。その中で、アメリカ精神医学会の「DMS-5 精神疾患の分類と診断の手引」にあるサイコパス(反社会性パーソナリティ障害)の診断基準が紹介されていました。

①法律にかなって規範に従うことができない。逮捕に値する行動。
②自己の利益のために人をだます。
③衝動的で計画性がない。
④けんかや暴力を伴う易刺激性(ささいなことをきっかけに不機嫌な態度で周囲に反応しやすい状態のこと)。
⑤自分や他人の安全を考えることができない。
⑥責任感がない。
⑦良心の呵責がない。

この本では、この項目のうち三つ以上に当てはまる人をサイコパスの疑いあり(実際には中長期的な観察が必要)と設定しています。確かにこういう人はいる……上述した、私が出くわしてきた人々もそうですし、どこかの国のトップなど、みんな当てはまるんじゃないかとさえ思います。ただ、程度の差はあれ、こういう側面は誰しもが抱えている可能性がありますよね。そういう意味では、軽々に「あの人はサイコパス」などと決めつけちゃうのも危ういのではないかと思いました。

それに「逃げる」のは自分のみを守るためにはもちろん大事ですけど、教師という立場でそういう人に出くわした場合、逃げるだけでは問題解決になりません。結局、理詰めで落とすことができない「論理的でない人間」に対しても、注意深く観察しつつ対応していかなければならないのでしょう。やはり因果な商売ですよ、教師というのは。どこかの国のトップについては……まあこれも逃げるわけには行かないので、はやく選挙で落とさなきゃいけませんね。