インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フリーライダーを生みやすいオンライン授業

コロナ禍に突入してはや二年近くになろうとしています。この間、私が奉職している学校現場も大きな影響を受け、対面授業とオンライン授業を組み合わせた様々な試みのために毎日仕事に忙殺されています。

これまでになかった取り組みをやって、いろいろな発見もありました。それなりに新しい収穫もあったと言ってよいでしょう。オンライン授業のやり方も、二年近く試行錯誤してきたんですから、自分なりに様々なノウハウが蓄積されました。同僚のアイデアに助けられることもしばしばです。

それでもいかんともしがたいと思うのが、やはり人と人との距離、ないしはオンラインにかけている「空気感」のようなものです。これはもう旧人類とも時代遅れとも、あるいは老害と言われても甘受する決意で申し上げますが、私はここまで人の気配が希薄な(と私には感じられる)オンライン授業の空間で、これ以上授業を続けることが本当に耐えがたいのです。

なにがそんなにつらいのかについては、このブログでも縷々書き留めてきました。私がいちばんつらいと思うのは、学生全員が音声をミュートにしたなかで(ときには映像も切っている人がいるなかで)、1人虚空に向かって語りかけるという行為です。

対面授業でだって、ほとんど反応がないことはあります。でもそこにはリアルな空気感だけは必ずあって、言葉は交わされなくても気持ちのインタラクションは働いているような気がします。極端な話「授業が面白くない」という反応でさえ、きちんと伝わってくる。でも学生全ミュート状態のオンライン授業ではその最低限のインタラクションさえ失われてしまうのです。

ただこれ、自分学生の立場になってオンライン授業に参加してみると、全員が音声ミュートをしているなかで、わざわざミュートを切って(それ自体は簡単な動作ではあっても)声を出すのはなかなか難しいということが分かります。

それでも私は学生として参加している趣味の語学教室で積極的にミュートを切って反応を返しています。先生のお気持ちを考えるといたたまれなくなるからです。でも他の学生さんはほとんどそういうことをされません。なかには授業の最初から最後まで、ひと言も発しない方もいます(「こんにちは」や「さようなら」といった挨拶さえ!)。

そういう私は、クラスでかなり浮いていることでしょう。クラスメートのなかには「出しゃばりなオヤジだな」と苦々しく思っている人もいるかもしれません。でも授業をただ黙って聞いているだけ、先生から問いかけられても何も反応を返さないというのは、私にとっては耐えがたい状況なんです。

オンライン授業において、学生がいわゆる「フリーライダー(ただ乗り)」になりがちだというのは、私の周囲でもよく聞かれる問題点のひとつです。ネットを検索していたら、こんな記事を見つけました。一年ほど前に書かれた文章です。

オンラインコミュニケーションでは、カメラもマイクもOFFにできます。呼びかけに答えなくても、「通信状況が悪いので…」とチャットに一文書き込めばスルー可能です。「退出」ボタンを押せば、一瞬で離脱することもできます。教室内のグループワークでフリーライダー(ワークなどに参加せず、利益だけを得る人)をするのは、相応の覚悟が必要です。しかし、オンラインなら1クリックで相手をブロックしたり、アッという間に自室に戻れたりします。互いの気配も感じにくいので、心苦しさを感じることも少ないでしょう。(NOMA総研:大学生活のオンライン化について思うこと

コロナ禍も二年が経過して、ようやく収束に向かうかと思っていたら、またオミクロン株の世界的な流行で暗雲が立ちこめています。ひょっとしたら、いや、かなりの確率で、今後も(しかも数年単位で)オンライン授業を続けていくことになるかもしれません。私もこの仕事で糊口をしのいでいる以上、なんとか対応して行かざるを得ないでしょう。その責任は自覚しています。でも、その数年間自分のメンタルが持ちこたえられるかどうかについては、正直なところ自信が持てないでいるのです。

そしてまた、容易にフリーライダーになれてしまうオンライン授業の空間というものは、学生にとってもメリットよりデメリットのほうが大きいのではないかと思うのです。

f:id:QianChong:20211207105344p:plain
https://www.irasutoya.com/2021/04/blog-post_191.html

忘れ物をなくすために

週末に、眼鏡をなくしました。ふだん眼鏡をふたつ使っていて、ひとつは常につけている眼鏡、もうひとつは文字を見るときに使う老眼鏡です。なくしたのは常にかけているほうの眼鏡で、なぜ「常にかけている」のになくしたのかというと、最近は老眼がすすんで、老眼鏡をかけている時間のほうが圧倒的に長くなってきたからです。

外出中、どこかに置き忘れたようなのですが、週末に立ち寄ったそれぞれの場所での行動を思い出してみても、どこで眼鏡を外して老眼鏡にかけ替えたのかはっきりしません。ジムのように一切眼鏡をかけない場所もあります。というわけで、すべての場所に電話をかけて問い合わせ、場所によっては実際にもう一度行ってそこの人に確かめたのですが、結局どこも空振りでした。

それで諦めて、また眼鏡を作らなきゃ行けないなあ、痛い出費だなあと思っていたら、時々利用しているコワーキングスペースの店主さんからスマートフォンにショートメッセージが入りました。「眼鏡、お預かりしています」。おおお、お手数をおかけしました。感謝です。

感謝です……が、そのコワーキングスペースでも置き忘れていないかどうか確かめたのに不思議です。しかもその場所で作業をしたときに、どこに眼鏡をおいたのかもまったく思い出せません。最近はこういう感じで、何かをちょっとどこかに置いてそれを忘れてしまい、後から慌てるというパターンがよくあります。

先日もジムにトレーニンググローブを置き忘れてしまったようで、どこを探しても見つからないのでもうひとつ同じものを買ったところ、ジムのスタッフさんから「お忘れでは?」と声をかけてもらいました。そんなことを繰り返しています。

う〜ん、これも「老い」のひとつの表れなのでしょうか。あまり自分に暗示をかけたくないですし、認めたくもないのですが。

こういう小さなアクシデントは暮らしにつきもので、それを防ぐためにはどうすればいいか……たぶん、ものの置き場所を決めるなど、万一うっかり忘れても自動的に思い出せるような「しくみ」を意識して作る必要があるのでしょう。自宅ではもちろん、出先でも。例えばその辺に適当に置くのではなく、必ずカバンやバックパックのなかにしまうとか、自分なりのルールを徹底するしかないでしょうね。すべての持ち物にスマートタグをつけるなんてことはできないんですから。ともあれ、より日々の暮らしで注意深くならなければと思ったのでした。

f:id:QianChong:20211206105927p:plain
https://www.irasutoya.com/2021/08/blog-post_16.html

さよならTwitter

自分にとって本当に必要なものだけを残して、いわゆる「断捨離」を試みる際に、思い出がじゃまをするということはよくあります。冷静になってよく考えれば、いまとこれからの自分にはもう必要がないものなのに、そのものとの付き合いがそれなりにあったために、なかなか思いを断ち切れないという。

そんなときによく推奨されているのが、いきなり手放すのではなく一定期間「保留状態」にしておいて、その後の自分の気持ちを観察するという方法です。捨てようと思っているものをいったんどこかにまとめて隠しておき、ある程度の期間が経ってから本当に捨てるかどうかを判断するのです。

日常的には自分の目に入らないところに隠しておいてある程度経ってみると、その間一度も使わなかった、それでも自分の暮らしには何も支障はなかった……というようなことが冷静に理解できるようになります。もちろんそれまでに「やっぱり必要だった」と思い直すこともあり得ますが、たいていの場合、結局それはなくてもいいものだったと気づいて、さばさばとした気持ちで楽に手放すことができるのです。

今回私がこの方法を使ってみたのは「Twitter」です。前々からTwitterに違和感を覚えていて、やめようと思っていたのですが、なかなか踏み切れませんでした。2011年の東日本大震災の頃から使い始めて、一時期は本当に中毒状態と言えるほどにどっぷりと浸かっていたTwitter。でも最近は違和感のほうが大きくなっていました。

まず、Twitterのタイムラインを眺めていると、どんどん時間を奪い取られていくということがあります。「注意経済」の虜になって、ついついいろいろな事柄や事物に目が行き、ときに不要なものを買ってしまうこともあります。さらに、強すぎる言葉やネガティブな感情に接して、そのたびに心の中がざわつくということもあります。そしてまた、大変に失礼ながら、自分にとってはどうでもいい他人のよしなしごとばかり読まされるというのもあります。

情報が速いのはTwitterの特徴です。テレビでさえTwitterから数日遅れて追っていることがあるほどで、新聞については言わずもがな。また、普段の自分の生活圏では知る由もない全く違う角度からの情報に接することができるという側面もあります。でも毎日毎刻、そんなに必死で新しい情報をキャッチアップしていく必要があるのかと自問するようになったのです。SNSから距離をおいて、自分の時間・自分のペースを取り戻すべきではないのかと。

というわけで今回、Twitterに触れないようにして三週間ほど「寝かせて」みました。結果は……Twitterがなくても日常はこれまで通りに進んでいました。あたり前のことです。そして家族や同僚との会話も増えました(その家族や同僚は誰一人Twitterをやっていません)。これはもう、Twitterにさよならしてもいいですよね。

f:id:QianChong:20211205105559p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/03/blog-post_221.html

追記

ところで前言をいきなりひっくり返すようですが、私はTwitterのアカウントをもうひとつ持っています。それはフィンランド語でのみつぶやくアカウントです。自分の勉強のために、一週間に一度くらいのペースでつぶやいたり作文を書いたりしています。こちらはときたま、ほんのときたまフィンランド語の母語話者と思しき方からリプライが入って、その読解やそのリプライに対するフィンランド語での返答がとても勉強になります。このアカウントだけは残そうと思っています。

フィンランド語 144 …日文芬訳の練習・その59

学生の頃から村上春樹氏の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が好きで、海外に出かけた際には書店で各言語版を買い求めるのがささやかな趣味です。フィンランド語版はヘルシンキ駅の売店で見つけました。先日この小説を約十年ぶりに再読しましたが、以前とは違う読後感でした。若い頃には大好きだった冒険活劇のような部分よりも、静かな描写により惹かれるようになったのです。十年後に再読したら、また異なる感想をいだくかもしれません。


Minä olen tykännyt Haruki Murakamin romaanista “Maailmanloppu ja ihmemaa” koulupäivästäni asti. Kun käyn ulkomailla, ostan kirjakaupasta paikallisen painoksen, se on ollut yksi pienistä harrastuksistani. Löysin suomenkielisen painoksen Helsingin rautatieaseman kioskista. Äskettäin luin tämän romaanin uudelleen ensimmäistä kertaa noin kymmeneen vuoteen, mutta sain hieman toisenlaisen vaikutelmani kuin ennen. Vaikka nuorempanani pidin hyvin seikkailutarinoiden osista, mutta nyt mielestäni rauhallisten kuvausten osat ovat mielenkiintoisempia. Jos lukisin sen kymmenen vuoden kuluttua, saatan saada taas erilaisen vaikutelman.


f:id:QianChong:20211111204207j:plain

Duolingoの2000日

スマートフォンやパソコンで言語を学べるDuolingoの連続学習日数が2000日になりました。Duolingo自身のキャッチフレーズは「初歩から上級者まで」ということですが、正直に申し上げて「上級」の内容を欲している方にはかなり物足りないのではないかと思います。

f:id:QianChong:20211201094233p:plain:w200

ただし私のように、中学校レベルの英語を繰り返し練習したいという人にとっては、とても便利なアプリです。実際のコミュニケーション(聴いて話す)にどれだけ活かせるかは心許ないですが、5年以上毎日通勤時間や隙間時間に取り組んできて、少なくとも中学校レベルの英文を瞬時に組み立てることはできるようになりました。

畢竟、外語の、特に聴いて話す部分で必要なのは、ひとつは語彙量と、もうひとつは文法が「肉体化」されているかどうかです(もちろんその大前提として母語できちんと思考できることが必要なのは言うまでもありませんが)。Duolingoはその基礎的な文法を手を替え品を替えながら身体にたたき込む道具としてはとても有用だと思います。

もうひとつ、語学は基本的に人と比べたり人と争ったりすべきものではないのですが、Duolingoで設定されている「リーグ」は学習のモチベーションを持続させるのに適度な刺激になります。ちょっと油断していると下ののリーグに陥落してしまい、そこから上のリーグに上がるためにはかなり努力しなければなりません。こうして毎日ある程度の練習量を自然な形で自らに課すことができます。

現在は上述した「肉体化」をもう少し補うために、横山雅彦氏と中村佐知子氏の『英語のハノン 初級』にも継続して取り組んでいます。この本にも冒頭にこんなことが書かれています。

会話の「意味」に集中できるためには、英語の「形」=「文法」が、それを意識せずにすむようになるまで内在化されていなければなりません。

f:id:QianChong:20211203080108j:plain:w200
英語のハノン 初級 ――スピーキングのためのやりなおし英文法スーパードリル (単行本)

確かに、自分が中国語を学んできた経緯を振り返ってみても、文法を考えながら文を組み立てて話していた段階から、徐々にそれを無意識のうちに、あるいは自動的に紡ぎ出せるようになった(肉体化・内在化)段階にいたって、ようやく自分の話したい内容に注力できるようになったような気がします。

その「話したい内容」を支えているのはもちろん語彙力と、母語によって培われた思考です。つまり自分にとっての語学の「戦略」としては、話したいことを話せるようになるために、まずは文法の肉体化(語学によってはその前に発音の習得)を目指すというのが最初の目標になります。そのための道具としてDuolingoはとても使いやすく長続きしやすいアプリではないかと思います。

ところで、これもほそぼそと続けているフィンランド語は……とにかく文法が難しすぎて、まだそれを肉体化する練習にすらたどり着けていないという感じです。Duolingoのフィンランド語版にも継続して取り組もうと思っています。

席を譲られました

昨日、仕事の帰りに電車に乗っていたら、高校生くらいとおぼしきお兄さんに席を譲られました。次の駅で降りる予定だったので「ありがとうございます。大丈夫です」と言ったのですが、とても新鮮な体験でした。だって、生まれて初めて電車で席を譲られたんですから。いやあ、ついに来ましたか。

昨日は職場から書籍をたくさん持って帰るために両手に大荷物を持っていましたし、加えて折からの雨で持参していた傘を杖のようについていました。さらに私は髪を染めていないので紛う方なきグレイヘアー(白髪)ですし、マスクで顔の造作もよくわかりません。それで彼にはとってもくたびれたお年寄りに見えたんでしょうね。いや、実際にくたびれていたんですけど。

次の駅で降りるとしても、ありがたく座らせてもらえばよかったかなと後からちょっと反省しました。高校生の彼だってその方がうれしかったでしょうに。次に席を譲られることがあったら、ぜひそうしたいものです。

f:id:QianChong:20211202092208p:plain
https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_4923.html

Amazonの注文履歴を振り返る

ジョシュア・ベッカー氏の『より少ない生き方』を読んでいたら、Amazonの注文履歴を確かめるという話が載っていました。

アマゾンの注文履歴を見て愕然としたことが、オンガロ夫妻にとって自分を知る大きなきっかけになった。共働きで子供のいない夫婦が、やりたいことがあってもお金が足りないためにあきらめていたのは、つまらないものに散在していたからだ。
2人とも、数日おきにネットで何かしら買っていた。(102ページ)

f:id:QianChong:20211201093843j:plain:w200
より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

まるで自分自身ことを書かれているかのように感じました。それで私もAmazonの注文履歴を確かめてみることにしました。領収書が必要なときや予約注文品の配達予定日を確認するとき以外はほとんど見ることもないページです。なんと、Amazonには私のこれまでの購入履歴がすべて残されていました。2002年からです!

じっくりと眺めていると「ああ、確かにこんな本やこんなものを買ったなあ」とかなり懐かしく感じることしきり。でもそれを上回って感じたのは、「ずいぶん無駄な出費をしてきたなあ」ということです。私は基本的に本にはあまりお金を出し惜しみしないようにしていますが、それでも「どうしてこの本を買ったのだろう」と思うような本が少なくありません。

それらはすべて古本屋さんに売ってしまっていますが、購入履歴を眺めながらなぜその本を買ったのかを思い出してみると……ネットで、とりわけSNSで宣伝ないしはお勧めされていて、つい「ポチっ」と買ってしまったものがほとんどでした。

本ならまだしも、それ以外の様々な品物にも、いまとなっては完全に浪費だったと思えるようなものがあれこれとありました。これもまたネットで、SNSでたまたま接した情報の熱に浮かされるようにして購入したものたちでした。ジョシュア・ベッカー氏はこう言っています。「一つひとつの金額はたいしたことがなく、それに買い物をすると、ドーパミンが分泌されてその瞬間は気分がよくなる」。

確かにその通りです。こうした事実を突きつけられるにつけ、やはりネットやSNSの「注意経済」には文字通り注意しなければと思うのですが、ジョシュア・ベッカー氏は容赦なくこうたたみかけます。

しかし、外側の影響のせいだけにしているようでは、自己分析はまだまだ不十分だ。
残念ながら、外側の責任よりも、むしろ自分の責任の彭が大きいのだ。
私たちが買うのは、誰かにムリヤリ買わされたからではない。買いすぎるのも、ものをため込み過ぎるのも、すべて自分で決めたことだ。(中略)まずは自分の内面を見つめるところから始めよう。

ぐぬぬ……。

かつて家計の無駄な出費を可視化するために、すべてのレシートや領収書を取っておいて、月末に項目別に整理して合計金額を出し、それが自分の収入のうちどれくらいを占めているかを確かめるというのをやったことがあります。それで私はずいぶん出費を抑えることができた(例えばスターバックスなどのコーヒーショップをほとんど利用しなくなりました)のですが、これはけっこう面倒な作業なので続きませんでした。

でもAmazonなどネットショッピングの購入履歴を閲覧するのはとても簡単で、なおかつAmazonの場合は画像も載っているので、よりどんなものを買ったのかがイメージしやすく、自分のお金の使い方を振り返るのに最適だと思いました。

フィンランド語 143 …口語ことはじめ

二冊目の教科書の最後に、フィンランド語の口語に関する初歩的な解説が載っていました。これまで延々文法を学んできて、最後に「でも実際に話されるときにはまた別の形があるんですよね」と奈落の底に突き落とすような感じ、嫌いじゃないです。人間の話す言葉ですから、こうでなくてはいけません(でも内心ショックが大きい)。

かつて中国に留学したときも、最初は「教科書で学んだのとかなり違う! 聴き取れない!」と焦ったものでした。ただ中国語のそれは単にネイティブスピーカーが速くしゃべっていて、教科書や教科書についている音声のようにハッキリクッキリ発音してくれないからという側面が大きかったように思いますが、フィンランド語の場合は口語バージョンになるとかなり形が変わるものもあるようです。

まず、人称代名詞に関していくつかの例が載っていました。属格・分格・所格(接格)の口語バージョンです。括弧内はこれまでに学んだスタンダードな言い方。

属格 分格 所格
一人称単数 mun(minun) mua(minua) minulla(mulla)
二人称単数 sun(sinun) sua(sinua) sinulla(sulla)
三人称単数 hänen(sen) häntä(sitä) hänellä(sillä)
一人称複数 meidän meitä meillä
二人称複数 teidän teitä teillä
三人称複数 niiden(heidän) niitä(heitä) niillä(heillä)

一人称と二人称の単数は口語になると“in”が落ちるんですね。逆に一人称と二人称の複数は変わらず。いちばん混乱しそうなのが三人称の単数と複数です。彼/彼女、彼ら/彼女らの形なのに、“se(それ)”や“ne(それら)”の格変化と同じになっちゃうんですね。まあこれらは自分では言わなくても,相手が言ったときにその文脈で判断できるようにならなければなりません。

先生によるとこの表では変化していない一人称と二人称の複数も,人によっては“meidän”が“meiän”、“teidän”が“teiän”のようになるそうです。総じて口語では“d”の音が落ちやすいということでしょうか。数字の“kahdeksän(8)”も“kaheksän”、“yhdeksan(9)”も“yheksan”と言われたり、“lähdetään(出発しましょう)”も“lähetään”、“odota(待て)”も“oota”などと言われると。確かに“d”を外した方がスムーズに発音できそうです。言葉の経済性というやつですね。

また人称代名詞と動詞の組み合わせでも、口語では劇的に変化が起こります。

人称代名詞 olla(いる・ある) mennä (行く) tulla(来る)
mä(minä) oon(olen) meen(menen) tuun(tulen)
sä(sinä) oot(olet) meet(menet) tuut(tulet)
se(hän) on menee tulee
me ollaan(olemme) mennään(menemme) tullaan(tulemme)
te ootte(olette) meette(menette) tuutte(tulette)
ne(he) on(ovat) menee(menevät) tulee(tulevät)

三人称単数は変化がありませんが、三人称複数の変化が半端ありません。変化というか、三人称単数と同じ形になっています。これらは例えば現在完了形でも口語の形があって“olen sanonut”が“oon sanonu”になったりするとのこと。これまで必死に覚えてきた過去分詞まであっさり変わってしまうのですから、さすがは「悪魔の言語」です。

というわけで、今まで学んできた標準的な(?)文章も口語ではこうなることが多いそうです。

Minä rakastan sinua. → Mä rakastan sua.
私はあなたを愛しています。
Minulla on kissa. → Mulla on kissa.
私は猫を飼っています。

これらは口語なので、こうしてブログの文章に書いていること自体が矛盾していますが、例えばスマートフォンのチャットなどで会話するときなどには書かれることもあるそうです。またもっとも標準的なフィンランド語を話すと言われているユヴァスキュラ圏の人々は、比較的こうした省略なり変化なりを行わず、「教科書通り」のフィンランド語で話しているのだとか。

ともあれ二冊の教科書を学び追えて基本的な文法事項は出そろった今後は、いろいろな音声や映像を視聴して、それらを聴き取り、口語表現にも慣れて行く必要がありそうです。引き続き精進いたします。

f:id:QianChong:20190806182646j:plain

お酒をめぐる問題に対するスタンス

お酒を飲まなくなってついに100日を超えました。日数を覚えているのは習慣化するために毎日記録をつけているからですが、最近ではその記録を忘れてしまっても飲みたいという気持ちが起こらなくなるまでになりました。もう完全に習慣化できたと思うので記録はやめてもいいんですけど、まあいちおうの「保険」ということでつけ続けています。

というか、私の場合は「ソバーキュリアス(シラフでいることへの興味)」なので、別に今夜飲んでもかまわないのです。そして明日からまた飲まなくなってもいい。いつでも飲めるけれども、あえて飲まない、とりあえずいまは飲まないでいる方が心地よいというスタンスなので、「断酒」とか「禁酒」といったような字面から連想されるような悲壮感や「頑張ってる感」はまったくありません。

こういう「ソバーキュリアス」のスタンスはとてもシンプルかつ前向きで自分好みなのですが、周囲の方々の反応を見ていると、ことお酒に関しては実にいろいろな立場の人がいて、「飲んでも飲まなくてもいい」などと腑抜けたことを言っていると怒られそうな雰囲気があるというのも何となくわかってきました。それだけ飲酒問題は複雑なのですね。

例えばお酒に関してはアルコール依存症に苦しむ方々や、そこからの脱却を目指す方々、またそれを支援されている方々などがいます。これはこと命に関わるだけにそう軽々に語れません。私などその知識も薄いのでなおさらです。また体質的にアルコールを受け付けない方々をめぐる問題もあります。いわゆる「アルハラ」もここに関係していて、これも人権に関わる非常に重い問題を抱えています。

私が明るく「ソバーキュリアス♡」などとSNSでつぶやいたりブログで書いたりしていて、実際にどなたかにたしなめられたわけではありません。でもいくつかの反応を見るにつけ、あるいはネット上での議論に接するにつけ、ひょっとするとお酒に関する問題は自分の想像以上に深く広く、そういうところにもそれなりに配慮した上で発言すべきなのではないかと思ったのです。発言といっても私など何の社会的影響力もありませんが、それでもSNSやブログだってひとつの社会。そこで何かを発言ないしは発信するときにはそれなりの責任が伴います。

お酒をめぐる問題の深刻さ、大切さはじゅうぶんに尊重しながらも、自分は自分なりのソバーキュリアスを目指したい。そう考えました。この件、またいろいろと考えた上でブログに書いてみたいと思っています。

f:id:QianChong:20211129190150p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_52.html

日本で初めて(たぶん)のソバーキュリアス専門書店

今年の4月から「棚主(たなぬし)」として利用させていただいている、東急世田谷線松陰神社前駅近くの「100人の本屋さん」。売り上げより維持費のほうが上回っていてほとんど道楽のようになっていますが、ほかの「本屋さん(本棚)」もどんどん増えて充実してきて、なかなか楽しい場所になっています。

これまで旅や語学に関する本ばかり扱ってきたのですが、最近思い立って「ソバーキュリアス(Sober Curious)」や下戸に関する本を紹介したらどうかなとリニューアルしてみました。たぶん、日本で初めてのソバーキュリアス専門書店(書店と称するのはおこがましいですが)です。

f:id:QianChong:20211128160325j:plain

自分の持っている本のほかに、ネットで下戸に関する古本を渉猟して集めたのですが、ここに並べたもの以外にもかなりたくさんあります。でも先日も書きましたが、「下戸」というと、なんとなくいじけたような形見の狭いようなイメージ(もちろんそれは理不尽なイメージですが)の一方で、「ソバーキュリアス」というどちらかというと前向きでポジティブな感じがします。そしてそういう本はまだまだ少ないみたい。でもこれからきっとたくさん出てくると思います。

お酒を飲める人も飲めない人も、そして飲めるけど飲まない人も、みんなが楽しめる社会になっていけばいいなというささやかな願いを込めて。さて、買ってくださる方はいるでしょうか。

フィンランド語 142 …日文芬訳の練習・その58

中国人留学生を観察していると、日本語の長音や促音が苦手なことに気づきます。中国語にはそのような音がないので、例えば「コピー」を「コピ」、「切手」を「きて」と話したり書いたりします。私は以前フィンランド人と話したときに、何人かから「発音がいいですね」と言われました。もちろんお世辞が99%でしょうけど、私が日本語の長音や促音に慣れているからかもしれないと思いました。


Tarkastellessani kiinalaisia opiskelijoita huomasin, että heillä on vaikeuksia japaninkielen kaksoiskonsonanttien tai pitkien vokaalien kanssa. Kiinankielessä ei ole tällaiset ääntämiset, joten sanonevat tai kirjoittanevat esimerkiksi “ko-pi” ja “ki-te” vahingossa “kopii (kopio)” ja “kitte (postimerkki)” sijaan. Jutellessani suomalaisien kanssa aikoinaan, pari ihmisia sanoivat minulle, että minun ääntämisiä ovat suhteellisia hyviä. Tietysti se olisi 99 prosenttisesti imartelua, mutta luulen sen johtuvan siitä, että olen tottunut puhumaan japaninkielellä kaksoiskonsonantteja tai pitkiä vokaaleita.


f:id:QianChong:20210307155250j:plain

消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神

資本主義と、これまでの資本主義が大いに寄りかかってきた大量生産大量消費の行き詰まりを見据えて、「脱資本主義の精神」をミニマリズムに求めてみるという野心的な一冊です。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を本歌取りしたような書名からは一見難解な印象を受けますが、現代に生きる私たちがその忙しい日常に忙殺されながらもぼんやりと感じている「いまのこの消費社会ははたしてこのままでいいんだろうか」という不安に、一定の解と展望を与えようとする存在としてのミニマリズム(なかんずく消費ミニマリズム)を論じています。個人的にはとても心に刺さる一冊でした。

f:id:QianChong:20211126100126j:plain:w200
消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神 (筑摩選書)

というのも、私自身がきわめてミニマリズムに親和性の高い生活様式や思考方法をこれまでずっと志向してきたのだなあと、この本を読んで自己認識を新たにしたからです。この本では消費に関わるミニマリズムについて、先駆者から現代の実践者まで実にたくさんの「ミニマリスト」がまるで列伝のように登場し、その言動や著書が紹介され、分析されるのですが、私はここに出てきた方々の著書の大半を読んだことがあるか、あるいは現在も座右の書にしていることを発見したのでした。

そして定期的にまるで発作のようにミニマリズムに共鳴して、いわゆる「断捨離」や身辺の整理ないしはリセットを繰り返してきました。キャッシュレスやペーパーレスにひかれるのも同じような心性だと思います。ときにそれが行き過ぎて周囲の人々との摩擦の原因になったことさえありますが、それでも懲りずにそこに(ミニマリズムに)なにがしかの価値を見いだし志向してきたのです。この本にはそれがなぜなのかについての一定の理論的な裏付けが述べられていて、その点でも非常に腑に落ちる一冊でした。ミニマリズムの実践者による「ライフハック」のような本はあまた世に問われていて、私はそういう本を読むのも大好きですが(なにせ「大半」の類書を読み漁ってきましたから)、その背景にある思想や歴史を大きな視点で分析するこうした書籍もまた読んでいて本当に楽しいです。

しかもこれは消費ミニマリズムという点では本質的ではありませんが、おなじ「ミニマリズムくくり」で現代美術や現代音楽におけるミニマリズムについても触れられています。私はこれについても学生の頃からとても心をひかれていて、例えばドナルド・ジャッドの彫刻や、フランク・ステラマーク・ロスコの絵画や、スティーブ・ライヒの音楽などが大好きでした(今でも好きです)。

本を読みながら「この本はまるで自分に向かって語りかけているかのようだ」と思えることは、小説などではたまにありますが、こうした学術書でそれを感じたのは初めての体験でした。この本を読みながら、またまた人生で何度目かの大きな断捨離の波が押し寄せてきてしまいました。折しも年末の大掃除シーズン間近です。家族や同僚などとの軋轢を引き起こさないように注意しながら、それでもたぶんまた大胆に「やっちゃう」と思います。

フィンランド語 141 …第五不定詞

新しい文法事項として「第五不定詞」というのが出てきました。これは動詞の語幹に“mAisillA”がついたものに、さらに所有接尾辞(ni, si, An, mme, nne, An)がついたもので、「〜しそうになる」「〜しかける」「まさに〜しようとしている」といったような意味を表すものだそうです。例えば“nukkua(眠る)”なら……

nukkua → nukkuvat → nukkumaisilla + ni → nukkumaisillani
Olin nukkumaisillani. 私はまさに眠ろうとしているところだった。

……となるわけです。これでフィンランド語の不定詞すべてが出そろったことになります。先生からは、これまでに習った不定詞の「棚卸し」をしておいてくださいと言われました。“syödä(食べる)”を使ってやってみます。

第一不定 短形 syödä 食べる 動詞の原形
長形 syödäkseni 私が食べるために  
第二不定 内格 syödessa 食べているときに 能動態・受動態あり
具格 syöden 〜しながら食べる 能動態・受動態あり
第三不定詞 内格 syömässä 進行形/食べに〜する  
出格 syömästä 食べてから〜する/食べるのを〜する  
入格 syömään 食べるために/食べることを/食べることに対して  
接格 syömällä 食べることで  
欠格 syömättä 食べることなく  
第四不定詞 動名詞 syöminen 食べること 30格に変化
第五不定 syömäisilläni 私がまさに食べようとしている  

……と、こんな感じでいいのかしら。

f:id:QianChong:20190804134546j:plain

放っておくとすぐに体重が減る

ほぼ毎日ジムに通っているので体調はとても良いのですが、先日体重を測ったら少し減っていました。けっこう身体を動かしているので、ちょっと食べないでいるとすぐに体重が落ちてしまうのです。そういえば先週はかなり忙しくて、毎日夜遅く帰っていたのでろくに夕食も作らず、ありあわせのもので済ませてしまっていたのでした。食生活の乱れはすぐに体重に現れます。

とはいえ、歳をとってもうそんなにたくさん食べられなくなりました。昔はご飯だってパンだってパスタだって本当にたくさん食べられたのに、いまでは妻も私も本当に少ない量でお腹いっぱいになってしまいます。しかも私はせっかく筋トレもしているんだからと少し糖質を制限してきたので、なおさら炭水化物の摂取量が減っています。米櫃のお米の減りの遅いことといったら。

しかし、ジムのトレーナーさんに相談したら「やはりしっかり糖質を取らないとだめですよ」と注意されました。運動をせずに「メタボ」の傾向があるならまだしも、私の場合はかなり「がっつり」と筋トレをしているので、そのためにはエネルギーのみなもとになる糖質もそれなりの量が必要なのだと。

糖質が足りないと、身体は自分の蛋白質をエネルギーに変えようと筋肉を消費するのだそうです。これではいくら「蛋活(蛋白質を積極的に取る食生活)」していても、筋肥大にはつながらないと。だからエネルギーの部分はきちんと糖質をとることで補ってあげて、その上でトレーニングして蛋白質もしっかり取れば、そのぶん太る、というか身体を大きくすることができますよと。なるほど。

正直なトレーナーさんは「とはいえ、年齢も年齢ですから、若い人のように劇的に身体が大きくなるというのは難しいですけど」と言っていました。それでも冗談交じりに「まあ牛丼屋さんだったら基本2丼、つけ麺屋さんだったら大盛りや特盛りデフォルトでお願いします」だって。……それは私にはもうちょっと難しそうですが、少なくとももう少しきちんとご飯やパンやパスタなどの炭水化物も摂ろうと思いました。

f:id:QianChong:20211123184608p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_176.html

フィンランド語 140 …受動態可能法

新しい文法事項として「受動態可能法」というのが出てきました。「おそらく〜されるだろう」という意味を動詞ひとつで表してしまえるものです。これまでに様々な動詞の形が出てきましたが、その多くが受動態の過去形から作るのでした。つまり、まず動詞の一人称単数形を作り、その印“n”を“tAAn”に変え、さらに“ttiin”にする。その語尾“iin”を様々に変えて様々な意味を表します。フィンランド語は語尾の多様な変化で細かいことを言おうとする言語なんですね。

動詞の原形 nukkua(眠る)
①一人称単数形 nukun
②受動態現在形 nukutaan
③受動態過去形 nukuttiin →ここまで作ってから語尾を変化
④受動態過去分詞 nukuttu
⑤受動態現在分詞 nukuttava
⑥受動態条件法現在形 nukuttaisiin
⑦受動態第二不定詞内格 nukuttaessa
⑧受動態可能法現在形 nukuttaneen

受動態可能法「おそらく〜されるだろう」というのはどういうときに使うんだろう、と思いますが、参考書として使っている『フィンランド語文法ハンドブック』にはこんな例文が載っていました。

Ymmärrettäneen, mitä pääministeri tarkoittaa.
首相が何を意図しているのか、理解されるだろう。

ちなみに否定は“ei”と“en”を取った動詞で表されます。これも『フィンランド語文法ハンドブック』から。

Presidentin vastustusta ei odotettane.
大統領の反対はおそらく予期されていない。

受動態可能法には完了形もあって、これは可能法現在形で出てきた“lienee”と受動態過去分詞を使います。

受動態可能法現在形 nukuttaneen
受動態可能法完了時制 lienee nukuttu
受動態可能法完了時制の否定 ei liene nukuttu

f:id:QianChong:20190801223024j:plain