インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

傘の柄は手首の外側から掛ける?

先日、ネットで何かの検索をしている折に、偶然こちらの記事を読みました。「育ちがいい人」というタイトルの記事なのに、冒頭から「婚活成功者続出!難関幼稚園、名門小学校合格率95%!」という、およそ育ちがいい人なら自ら感嘆符つきで言わないであろう類のフレーズが踊っていたので、興味を惹かれたのです。

diamond.jp

一時期、大いなるトンデモと有名になった「江戸しぐさ」の「傘かしげ」を、「昔から日本人が当たり前にしている気遣い」と引いている時点で少々身構えてしまうこの記事では、さらに雨の日のマナーとして、たたんだ傘の柄を腕に掛けるときは手首の外側から掛けるのが「育ちがいい」人だとおっしゃいます。

なるほど、傘の柄を手首の外側からかければ、傘の先端が自分の側に少し寄るので、しずくを他人にかけてしまう可能性が減るというわけですね。これはたしかにエレガントかもしれないというわけで、育ちがあまりよいとは言えない私も実践してみました。……が、傘の先が足に当たりまくって歩きにくいです。足に当たらないようにするには腕を常に身体から微妙に離して上げておく必要があり、やたら腕が疲れます。

梅雨に入って駅のホームなどで数日間観察してみたところ、傘の柄をこうやって腕の外から掛けている方はお見かけしませんでした。それだけ「育ちがいい」人が少ないのかしら。いえいえ、みなさん歩きにくいし疲れるから自然にそうなってるんでしょう。

この本では「普段の生活の中で『育ち』が出てしまうポイントや、どうふるまうのが正解か? というリアルな例を250個も紹介してい」るそうで、もちろんそれらに取り組むかどうかは個々人の自由ですけど、だからって「あっ、あの人はこのポイント通りやっていないから育ちが悪い!」などとチェックするのは、いかにも育ちが悪そうな行為ですのでやめましょうね。

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https://www.irasutoya.com/2019/08/blog-post_971.html

あ、でも、この傘の柄の話で思い出したのが、かつてワインスクールで教わった「スワリング」のマナーです。スワリングというのは、ワインを飲む時にグラスをくる〜りと回す、アレです。回すことでワインがグラスの内壁に薄くつき、それが揮発することで香りが引き出され、よりワインを楽しめる(ただしクリスタルガラスのちゃんとしたワイングラスじゃないと、あんまり意味ないらしい)という。

このスワリング、回す方向は自分の外側から内側へが「エレガント」だと教わりました。内側から外側に回すと、勢い余って他人にワインをかけてしまう可能性があるからだそうで。まあ実際にはワイングラスからワインが飛び出るほど勢いよくスワリングしちゃったら、その時点でエレガントもへったくれもないんですけど、確かにこれは合理的な配慮ではあるかなと思います。

でもこれも「あっ、あの人は内側から外側にくるくる回しているから育ちが悪い!」などとチェックするのはやめましょうねえ。ワインはもっともっと自由に楽しんでいいのです。ともあれ「傘の柄は手首の外側から掛ける」というの、他人への細やかな配慮という点ではスワリングと同じで素敵だなと思うものの、それを「育ち」という言葉で戒めちゃうのが素敵じゃないなと思ったのでした。

フィンランド語 57 …命令形一人称複数

受動態現在形を学んでいるときに、「命令形一人称複数」というちょっと変わった用法を教わりました。まず受動態現在形には大きく三つの用法があって、1.不定人称、2.「〜しましょう」の文、3.話し言葉、でした。

1.不定人称(主語が定まっていない文での動詞の形)
Suomessa puhutaan suomea.
フィンランドではフィンランド語を話します。

フィンランド語が話されます」と受動態っぽく考えてもよいのですが、これはむしろ単なる事実の叙述とかんがえるのでした。

2.「〜しましょう」
Puhutaan suomea.
フィンランド語を話しましょう。

動詞の受動態を先頭に置くと「〜しましょう」という呼びかけになるのでした。

3.話し言葉
(Me) puhumme suomea.
私たちはフィンランド語を話します。
Me puhutaan suomea.
私たちはフィンランド語を話します。

話し言葉では圧倒的に下の表現が使われるとのことでした。この下の表現は「Me」を省略できません。省略すると2.の「〜しましょう」の文になってしまうからです。

その上で「命令形一人称複数」ですが、例えばこんな感じです。

Lukekaamme.
読みましょう。
Puhukaamme.
話しましょう。
Syökäämme.
食べましょう。
Menkäämme.
行きましょう。
varitkaamme.
選びましょう。
tehkäämme.
作りましょう/しましょう。

「読みましょう」は受動態現在形で「Luetaan」と言ってもいいのですが、命令形一人称複数で「Lukekaamme」と言ってもいいということですね。さらに否定形では「Älkäämme」がついて、動詞には「-ko/-kö」がつきます。

Unohtakaamme.
忘れましょう。
Älkäämme unohtako.
忘れないでいましょう。

これらは受動態現在形の「Unohdetaan(忘れましょう)」、「Ei unohdeta(忘れないでいましょう)」と同じです。ただ、『フィンランド語文法ハンドブック』によると、「これらの形が使われることは現在ではまれで、形式ばった印象を与えます」とのこと。

Unohtakaamme tämä juttu!
この話は忘れてしまいましょう!
Älkäämme unohtako tätä juttua!
この話は忘れないでいましょう!
・・・・・・・・・・・・・・・・
Unohdetaan tämä juttu!
この話は忘れてしまいましょう!
Ei unohdeta tätä juttua!
この話は忘れないでいましょう!

下のほうが一般的ということですね。なお、否定文になると命令形一人称複数にせよ受動態現在形にせよ、目的語は分格になっています(juttu → juttua)。この辺は通常の文と同じです。

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Missä maassa sijaitsee kuuluisa Kulmin lentomäki? Varitkaamme!

桑田真澄氏の解説にうなる

TBSの『サンデーモーニング』を見ていたら、スポーツコーナーに桑田真澄氏が登場していました。私、このコーナーはメイン解説者のおじさんがいつも腹に据えかねることばかりおっしゃるので消しちゃうのですが、今日は桑田氏なのでそのままテレビをつけていました。氏がかねてからおっしゃっているトレーニング論や練習論について、とても共感していたからです。

sports-brain.ilab.ntt.co.jp

そうしたら、期待通り興味深いことを解説されていました。プロ野球某球団のルーキー投手について、「腕を振って投げるのではなく、腕が勝手に振られるような投げ方をするべきだ」と。プロの場合は自主トレやキャンプから公式戦まで長丁場なので、その間を投げきって行けるような体を作って行くべきだ、その意味で最初の一〜二年は二軍でそういった投げ方を習得すべきだというわけです。Twitterで検索したら、ちょうどその部分の映像を上げてらっしゃる方がいました。

桑田氏の解説を聞いて、これはお能の師匠やジムのトレーナーさんが言うことと、とても似ていると思いました。能の仕舞や舞囃子で、例えば身体が回転して腕が前に伸びるような動きをする時、師匠は「腕から行かない」ということをしきりにおっしゃいます。腕を前に出そうと思って前に出るのではなく、腰をしっかり据え、身体全体が回転した「結果として」腕が前に行くようにするのだと。

ジムでは、例えば体幹レーニングで上半身をひねる動作をしている時、やはり「腕から行かない」と注意されます。腰のある下部から順番に脊椎が回転していって、その「結果として」腕が回転するような意識を持つようにと。いずれも腕に意識を持っていくのではなく、身体全体の使い方が重要なのだと言っているように思います。素人の考えですけど、これはたぶん身体の軸とか体幹というものを重視していて、腕の動きなどまさに「小手先」の技術でごまかすのではなく、身体全体を使って動かすほうが効果的で力強いし、身体も傷めないということじゃないかと。

こういう解説こそ、スポーツ解説者の成すべきお仕事ですよね。メイン解説者のおじさんや、大相撲の中継で酒場談義の域を出ないような解説ばかりしているおじさんは「喝!」だと思います。

qianchong.hatenablog.com

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_587.html

カレー料理の「バイブル」

ネットで評判になっていた、稲田俊輔氏の『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』を買いました。評判通り、これはものすごい料理本です。私はカレーが大好きでよく作るのですが、この本でカレーに対する概念(?)がすっかり変わってしまいました。

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南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー

稲田氏いわく、インドの家庭で毎日行われている料理づくりでは、「あっという間に何種類ものカレーを仕上げて、家族の食卓を賑やかにつくり上げてい」る。「日本で言うなら野菜炒めと肉じゃがとお味噌汁をつくるくらいの感覚であっという間にカレーの献立が揃ってしま」うというのです。考えてみれば、そりゃそうですよね。どこの国だって忙しい暮らしのなかで、あり物の素材を組み合わせつつ毎度毎度の食事をこしらえているわけで。

カレーといえば、それも市販のルーなどを使わないカレーともなれば、玉ねぎを飴色になるまで炒めて、様々なスパイスを駆使して、なおかつ煮込みに長時間を要する……というイメージだったのですが、そして自分もそうやって作ってきたのですが、本来のカレーは「そんなわけないじゃん」というわけです。もちろんインド料理専門店の高級なカレーは時間と手間暇をかけているでしょうけど、われわれの家庭の、暮らしのなかで日々作るカレーはもっと簡単であっていいと稲田氏はおっしゃる。

そうした概念のもと、この本の冒頭では「基本のミックススパイス」と「基本のマサラ」を学び、実践編として「鯖缶」を使ったカレーを作ることになります。といっても基本はスーパーで簡単に手に入る素材ばかり。計量だけはけっこう厳格ですけど(この辺が面白い)、ニンニクやショウガはチューブでOKと、かなりハードルが低いです。そして私は「鯖缶」が大好きで常にいくつも台所に常備しているくらい。

というわけで、基本のマサラを作り、なおかつ鯖缶とオクラのトマトマサラ(カレー)を作ってみました。ほんとにほぼ15分でできました。そしてこれが美味しい!

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この本にはまだまだめくるめくようなカレー料理の数々が紹介されており、さらに休日などにもっと踏み込んで作りたい向きの本格レシピまで掲載されています。「シードスパイスのテンパリング」とか「バスマティライスの湯取り炊き」といったマニアックな項目もあって、日々の暮らしのごくふつうの炊事という範疇にだけとどまるのではなく、ギークやオタク的テイストも満載なところも異彩を放っています。

カレーが国民食となって久しい私たちのための「バイブル」と言ってもいいほどの一冊。超オススメです。

大人の「お稽古ごと」が貴重である理由

コロナ禍でしばらくお休みしていた能のお稽古に出かけてきました。お師匠は日本各地を飛び回ってお稽古されているのですが、お弟子さんの中にはやはり「三密」でのお稽古に不安を感じる方もいらっしゃるそうで、ましてや緊急事態宣言の発出後は都道府県をまたいだ移動も自粛という事態に立ち至ってからは、地方でのお稽古はストップしていたそうです。。

東京に住んでいる私個人としては、ひろびろとした能舞台でのお稽古は「三密」とはかなり程遠いですし、謡のお稽古で向き合うときだって従来から距離がありましたし、まあそれほど気にもしていなかったというのが正直なところなのですが、逆にこちらからウイルスを師匠のもとに運んで行ってしまうリスクも考えなければ(小さなお子さんもいらっしゃるし)、ということでしばらくお休みになっていたのです。

師匠は蟄居中の我々に対して、定期的に謡の音声と謡本のコピーをメールで送ってくださいました。いわば「ある分野の本格的な知識やハウ・ツーを気軽に学べるように、週刊や隔週刊の雑誌形式を採用した(Wikipedia)」かの『ディアゴスティーニ』みたいな感じのお稽古教材です。謡本は『三輪』で、ワキが登場する冒頭から、以前お稽古したことがあるクセの前までをすべて。

ふつう、われわれ素人の謡のお稽古は、能の一部、例えば仕舞や舞囃子で舞われる部分のクセやキリだけ、あるいはその前後を少し拡張してというパターンが多いので、こうやって能の一曲全体をお稽古するというのはなかなか贅沢なことです。以前『羽衣』の全曲をお稽古させていただいたことがあり、なおかつ能の上演時に地謡に入らせていただくというこれまた贅沢な経験をしたのですが、謡を全曲お稽古すると、実に奥深いことがたくさん見えてきて(見えてきたような気がして)本当に面白いのです。

能『三輪』は「神秘性と詩情に満ちた物語(the能.com)」であり、特に冒頭は静謐な空気感が漂っています。師匠の「ディアゴスティーニ」でその冒頭部分を自習して、昨日のお稽古に臨んだのですが……いや、なんというか、徹底的に直されました。というかこの曲の肝心なところに半歩も踏み込めていなくて「いや、参った」という感じ。まことに奥深うございますな。

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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_56.html

以前にも書いたことがありますが、大人の趣味というのはこういうところが得難いと思うのです。中高年ともなれば、ましてや私みたいにともすればパターナリスティックに振る舞ってしまいがちな「おっさん」ともなれば、普段の暮らしや仕事のあれこれについてはそこそこ手慣れていて、初手から完膚無きまでに直されるなんてことはまずありません。それが、お稽古ではおのれのパフォーマンスが児戯に等しいという現実を突きつけられる。これってかなり貴重なことじゃないかと。

そしてまた、ズブの素人に対しても手を抜かず常に高い要求を出し続ける師匠にめぐりあえるというのも、これまた貴重なことだと思います。正直、毎回のお稽古に向かうときは、けっこう緊張しているというか、気分が少々沈んでいます。いや、沈んでいるというのは違いますね。自分の技量の程度を知っていて、かつやろうとしていることがとてつもなく難しいので心許ない感じとでもいいましょうか。

でもお稽古が終わったあとは、いつも心底楽しいと思うのです。そして新しい課題が目の前に現れてまた頑張ろうという気になる。これ、仕事のプロジェクトによく似ています。通訳仕事などでも、仕事前は不安で心許ないけれど、終わったあとはジェットコースターに乗り終えたときのように爽快で、またチャレンジしてみようと思う。そういう感じです。

シシリアンライス

ネットで検索しているときに偶然見つけたこの記事。佐賀県のローカルフード「シシリアンライス」だそうです。長崎県にはかの有名な「トルコライス」がありますし、九州のローカルフードも面白いですね。

crea.bunshun.jp

私事ですが、うちの父方のご先祖様は佐賀県にいた人たちだそうで、実際、佐賀県を旅行した時は、自分の名字と同じ名前を冠したスーパーとか雑貨屋さんなどがあって驚きました。でもこの「シシリアンライス」は知りませんでした。自分のルーツは佐賀県にだなんて、おこがましくてとても言えません。

さてこのシシリアンライス、ごはんの上にどっさり焼き肉と生野菜、さらにマヨネーズが必須だとのこと。焼肉のタレ味とマヨネーズが出会ったら美味しくないわけがありません。というわけで早速作ってみました。ベースはごはんではなくて茹でた生パスタです(写真では見えません)。何となくスパイシーな方が美味しそうな気がしたので、黒胡椒をひくほかにチリパウダーなんかもかけてみました。

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予想通り、とても美味しかったです。本当にあっという間にできますし、野菜たっぷりで意外にあっさりしていますし、これからもヘビーローテションで作ることになると思います。

警察のチラシに見る外国人への予断と偏見

昨日学校の事務局から「担当クラスの留学生に配布してください」と渡されたチラシ。一読、不愉快な気持ちになりました。学校がある区の警察署から送られてきたという、こんなチラシです。

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「日本で生活する外国人のみなさまへ」と題されたこのチラシ、日本語に加えて英語、中国語(簡体字)、ベトナム語の説明が付されています。上半分は「新型コロナウイルス対策」ということで、三密を避けるなどの注意喚起があり、下半分に「SNSでさがしたアルバイト」が犯罪かもしれないと警鐘が発せられています。注意喚起の趣旨は理解できなくもありません。でも「してはいけないこと」に列挙されている項目は、まるで留学生が犯罪者予備軍であるかのような予断と偏見に満ちていませんか。

このチラシが「警視庁組織犯罪対策部」の発行であることからも、配布の目的が下半分にあることは明白です。その意味で上半分は、そうした主目的の露骨さを薄めるために取って付けたような印象すらあります。中国語で“溫馨提示”とあるのですが、これ、「お知らせ」くらいの意味ながら、「お気をつけになってください」的な丁寧さを醸し出した表現でもあります。これすら却って慇懃無礼に感じてしまうのは、私の心がひねくれているからでしょうか。

だいたい、新型コロナウイルス対策については、警察署に言われるまでもなくできる限りの体制を取っています。何なら異国に住んでいる留学生のほうが私たち日本人よりも敏感かつ繊細であるくらい。そして下半分の「してはいけないこと」に列記された「どろぼう・ごうとう」だの「さぎ」だのは一体何でしょう。改めて言われなくたって、やりませんよ、そんなこと。自分が留学生や在留外国人の立場で、現地の警察からいきなり「どろぼう・ごうとう・さぎ」はしないようにと言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。一度想像してみてほしいと思います。

このチラシを唯々諾々と受け取り、我々現場の職員に配るよう指示した学校当局にも、少々疑問を感じています。留学生を千人単位で抱える学校でありながら、こうした予断や偏見に何のセンサーも働かなかったのでしょうか。私はこのチラシを配る気はありません。組織犯罪に巻き込まれないようにと警察から注意喚起があったので、各自注意してくださいと口頭で伝えるだけにしたいと思います。いや、そうだ、あえて留学生にこのチラシを見せて、それぞれどう感じたか、日本における外国人への偏見についてどう考えるか、討論の材料にしましょう。留学生のみなさんの意見や感想、討論の結果は、あとでこのエントリに追記したいと思います。

LNGかLPGか

中国浙江省溫嶺市近郊で発生した、タンクローリー爆発事故のニュースに接しました。最初、ネットの産経新聞ニュースで「LNGを積んだタンクローリーが……」と報じられていたので、これはひどいことになっているだろうなと感じました。以前LNG液化天然ガス)関係の社内通訳者をしていたことがあり、安全講習などでたびたびその特徴やリスクについて聞かされ、通訳していたからです。

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LNG天然ガス、つまりメタンをギュッと圧縮して冷やし、液化したものです。液化するとマイナス162度の極低温となり、体積が約1/600になるので輸送に適しています。その一方で極低温を維持するため、タンクにしてもタンクローリーにしてもいわば魔法瓶のような保温構造が必要になります。タンクローリーに詰める量は限られていても、いったん気化すれば体積が600倍になり、それが引火したら……ものすごい爆発になることは想像に難くありません。過去にはアメリカなどで大規模な爆発事故が何度かあり、そのたびに安全対策が強化されてきたそうです。

ただし、単にLNGが漏洩したとしても、すぐに爆発するわけではありません。ある程度気化して濃度が薄まり、空気(酸素)と混合が起こり、なおかつ着火源が必要です(燃焼の三要素)。メタンの爆発上限界と爆発下限界はそれぞれ15%と5%。つまりLNGが流れ出して気化が始まり、この範囲の濃度になったときに爆発が起こりえるわけです。

メタンは空気より軽いので、気化しながらどんどん上空に拡散して行くのですが、その過程でちょうど爆発範囲の濃度になり、着火したら……かなり広範囲に被害が及びそうです。しかもYouTubeで動画を見ると、爆発前や爆発した後に白く濃い霧のようなものが広がっています。これは極低温のガスが気化するとき周囲の空気を冷やすために発生する「蒸気雲(ベイパークラウド)」だと思われます。

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ところで、上述の産経新聞はその後LNGをLPG(液化石油ガス)と書き改めました(訂正のコメントは出ていないようです)。LPGはプロパンやブタンなどを冷却したもので、それぞれマイナス42度、マイナス0.5度で液化されます。体積は約1/250。LNGよりかなり高い温度ですし、しかも加圧状態で常温でも保存することができます(だからプロパンガスのボンベが家庭や屋台などで広く使われているんですね)。またプロパンやブタンは空気より重いので、漏洩した場合は気化しながら地表面を漂うことになります。これもけっこう危なそう。

www.sankei.com

中国語圏のニュースサイトでも“液化天然氣”(LNG)としているところもあれば“液化石油氣”(LPG)としているところもあって、結局どちらだったのかいまだによくわかりません。今朝の日本の新聞各紙も、ざっと見たところではこの事故の報道は見当たりません。日本政府は「LNGはクリーンで安全なエネルギー」と謳っていますから、仮にこのタンクローリーLNGを運んでいたのだとしたらイメージが悪い……というので報じなかったり、LPGに書き改めたりしているのかな、などという考えが一瞬頭をよぎりましたが、ちょいと私も「陰謀論」の毒に侵されているのかもしれません。

10年後に食える仕事 食えない仕事

先日、住んでいる区の区役所から「特別区民税・都民税通知書」という分厚い封筒が届きました。毎年のことですけど、紙の納付書が五枚も同封されています。一括納付専用の一枚と、分割納付用(6月・8月・10月・翌年1月)の四枚。私は毎年一括して納付している上に、Yahoo! 公金支払いでクレジット納付なのでこれらの納付書は全く使わないため、毎年「もったいないなあ」と思っています。

通知書のご案内と称した刷り物や「税額決定・納税通知書」まで入っており、それをまた日本郵便の配達員さんがポストまで届けてくれる……こういうのこそメール一本で済むんじゃないかと思うんですけど、記憶にある限り昭和の昔からひとつも変わっていませんよね。そんなことを考えているときに、たまたまこの本を読みました。渡邉正裕氏の『10年後に食える仕事 食えない仕事』です。

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10年後に食える仕事 食えない仕事: AI、ロボット化で変わる職のカタチ

この本によれば、こうした税金関係のお知らせは「法律で決まっていて全員に一律で送ることになっています」とのこと。私に届いた封筒には「口座振替依頼書」も入っていて、これを利用すれば自動引落になってペーパーレスが実現するのかなと思いきや、すでにそうされている渡邉氏のもとにも毎年紙が送られてくるのだそうです。なるほど「失われた○十年」じゃないですけど、本当にこういう時代遅れなところは変わらないんだなと天を仰ぎました。

この件に限らず、この本の第三章と第四章は、この国のあまりにも時代遅れで時代錯誤なあり様に対する筆者の静かな怒りがふつふつと湧いています。書名通り、これから先自分の今やっている仕事はどうなっていくのかしらという「ナマ」な動機で読み始めた本書でしたが、むしろ日本政府のいまのあり様に対する強い問題提起の部分をこそ興味深く読みました。

「AI化」で消える仕事・残る仕事についても、センセーショナルに不安を煽るようなやり方ではなく、それぞれの仕事の特徴を注意深く腑分けしながら、わかりやすいマッピングに落とし込んでいて説得力があります。私の仕事のフィールドである語学関連についても、Google翻訳やその他のAIによる通訳・翻訳が日進月歩で進化し続けていると喧伝されるなか、学校でも「この仕事に将来はあるんでしょうか」と学生さんから聞かれることが多いのですが、渡邉氏は明確に「AIにはできない」と述べます。

詳しくはぜひ本書にあたっていただきたいのですが、観光旅行レベルの通訳や、概略を大まかに掴む程度の翻訳、あるいは翻訳者のサポートツールとしての機能程度であればかなりの部分が代替されるだろうとしながらも、「文脈や話の流れを理解して」訳すとか、膨大な人間界の常識をすべて自動でインプットしていくといったようなことがAIにできない以上、AIが人間並みの「理解」を獲得して通訳や翻訳を代替することは「永遠にできない」と言うのです。

AIが機械学習レンブラントの画風を自ら獲得したとか、猫の映像を学習し続けてついに猫の概念を獲得したなどというニュースが、半ばセンセーショナルに、そして半ば不確かな背景知識の理解とともに伝わってきて、私たち門外漢はつい不安になるのですが、本書を読むとそういう生半可な理解がいかに雑駁であるかが分かります。そう、あの「シンギュラリティ」についての理解も。

人間ならではの感情や創造が不可欠で、かつ高度な日本語力やコミュニケーション能力を必要とする職種について、本書では「デジタル・ケンタウロス」という名称を与えています。人間とAIとの相乗効果によって労働生産性が上がっていくという状態を「人獣一体」のケンタウロスにたとえているわけです。通訳者や翻訳者の仕事は、デジタル・ケンタウロスというより「職人芸」的な位置づけなのだそうですが、それでも感情を読み創造力が必要な「人間が強い」仕事であることは論を俟ちません。

これから学生さんに「AIの進化で通訳や翻訳の仕事は……」と弱気な相談を持ちかけられたら、この本をおすすめしようと思います。20代、30代のお若い方に特におすすめ。あと余談ですけど、この本を読んで私は「マイナンバー」に対する功罪についての考え方がちょっと変わりました。コロナ禍への対応で画期的な成果を上げたアジアのIT先進諸国の実践も見るにつけ、きちんと知ることなく忌避し続けるのは知的な退廃かも知れないと思ったのです。もっと腰を据えて学んでみようと思っています。

ドラマ『路』で感じた「物足りなさ」

録画してあった日台共同制作のテレビドラマ『路 ルウ〜台湾エクスプレス〜』を見ました。高鐵(台湾新幹線)の建設当時、つまりこのドラマの時代背景よりほんの少し前に、私も台湾の別の建設現場で働いていたので、なんだか懐かしい思いにひたりました。

www.nhk.or.jp

ただ、その一方でドラマ自体にはあまり入り込めませんでした。全3話と短いのに、いくつもの恋愛ドラマを同時進行させ、なおかつ台湾新幹線の開業に向けて奮闘する人々のお話が主軸に据えられているんですから、どうしたって総花的になります。結果、どの人間関係も深く描ききることができずに消化不良感が残りました。後半は妻と二人で「なんでこの二人はいきなりこんな話してるの?」とか「本命のカレはどこに行っちゃったの?」とかツッコミ合戦に……。

まあ全3話では仕方がなかったですよね。日台共同制作ということで、一部には台湾語のセリフも登場しましたし、台北だけでなく高雄のそのまた田舎の(まさにそこに住んでいました)風景なども映し出されましたし、建設現場で「ご安全に!」と呼び交わすのも毎日やっていたので、個人的には「おおっ」と盛り上がる部分もあったのですが……。いつかまた、今度はもっと長いスパンで、日台共同制作の重厚なドラマを見たいものです。古いですが、かつて日中共同制作で作られた『大地の子』みたいなの。

大地の子』は上川隆也氏の出世作ですが、氏はかなり頑張って大量の中国語のセリフを話していました。いま聞くと少々無理もあるんですけど、でもその無理を承知で若い才能に賭けた当時の制作スタッフに拍手を贈りたいと思います。相対する中国側の俳優さんも素晴しいリアリティで。

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https://www.nhk.or.jp/drama/dodra/ruu/html_ruu_story.html

そういえば『路』に出てくる「台灣高鐵」の人々が主に共通語として使っているのは英語でした。これは欧州のスタッフも入っていたから、実際に当時の、特にオフィスワークをしている部門の人々は英語が共通語だったのかな? それとも上川隆也氏みたいに、俳優さんに中国語でセリフを言ってもらうのはちょっと難しいので、英語が共通語という設定にしたのでしょうか。

たぶん前者なんでしょう。かつて私が台湾の会社に赴任した時、日本側の責任者から「かつてはうちの会社も英語を共通語にして日台双方がコミュニケーションを取っていた」と聞かされたことがあります。でも日本側も台湾側も英語が母語という人はほとんどいない中、お互いに慣れない英語でやり取りするうちに細かな齟齬が生まれ、それが時に大きな誤解や損失につながったという反省があったのだそうです。それで専任の中国語通訳者を雇って、日台双方が母語で十分に自分の考えを表明することにしたと。

プロの通訳者を信頼して、英語から母語へ仕事の言語を戻したという会社の英断は素晴しかったと思います。でもその一方で、この台湾赴任が実質的に通訳者としてのデビューだった私にとっては、かなり荷の重い任務でしたが。

台湾のお話なのに、結局多くの人が英語でやり取りしている……そんなところも、このドラマに今ひとつ入り込めなかった理由かもしれません。もちろんこれも、中国語学習者の勝手な感想なんですけど。

丸いフライパンで四角い卵焼きを焼く

先日の新聞に、「卵の白身と黄身を素早くまんべんなく溶きほぐして一体化させることができる」という調理器具が紹介されていました。一読、すごいな、ほしいな〜と思ったのですが、すぐに「そのためだけに道具を増やすのはちょっと……」と冷静な気持ちに戻りました。こういう調理器具がどんどん増えてキッチンが雑然としていくのは望むところではないのです。

特にいま住んでいる部屋は激狭で、キッチンも当然狭いため、収納スペースにも限りがあります。しかも私はすべての調理器具を引き出しや戸棚にしまって、シンクやレンジ周りには一切何も置かないことにしています(掃除がとても楽だから)。なにもないキッチンから炊事を始めて、後片付けが終わったあとはまたなにもないキッチンに戻る。まるで能舞台みたいなキッチンが一番使いやすいのです。

加えて食器や、鍋・フライパンのたぐいも、なるべく少なく持つように心がけています。以前は凝った皿などもけっこう持っていたのですが、ある時一気に処分して必要最低限のラインナップにしました。とはいえ暮らしには「うるおい」も必要ですし、お椀などはどうしても陶磁器以外に漆器もほしいので多少の余剰がありますけど。

調理器具では、卵焼きをよく作るので卵焼き器がほしいなといつも思うのですが、これも上述した卵を混ぜるためだけの調理器具同様、他にあまり使いみちがないので持っていません(レトルトパックを一人分温めるときなどに重宝するそうですが)。それにまあ、卵焼きは普通のフライパンでもなんとか四角く整形できますもんね。卵液を丸く広げたあと、左右からちょっとだけ折り返して四角くして、そののちくるくる巻きながら焼いていけばいいのです。慣れればけっこう簡単です。

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お籠り開けの新しい生活

コロナ禍による営業自粛から開けたジムに再び通いだして一週間。大手のジムも、いつもお世話になっているパーソナルトレーニングもジムも、以前に比べると人が少なめです。聞くところによると、会社などによっては自社規定でジムなどに通うのを禁止しているところもあるそう。業種によっては感染者を出すことがかなりのリスクになるでしょうから、仕方がないのでしょう。

私の職場は特にそういう規定はありません。というか、留学生のみなさん、久しぶりにクラスメートに会えた喜びで思いっきりお喋りに興じています。もちろんマスクは必須で、教室に入るたびに消毒などもしているのですが、ちょっと「密」になりすぎなんじゃないのという場面もそこここで見られます。そのたびに「ちょっとちょっと、離れて〜」と注意喚起することに。

ところで、パーソナルトレーニングのトレーナーさんも、長い自粛生活で「指導欲(?)」が蓄積していたのか、「新たに、筋肥大を念頭にプログラムを組みます!」などとやる気満々です。さらに「食事は糖質を若干控えつつ、タンパク質を『ちょい足し』で食べるようにしてください」と指導されました。

「ちょい足し?」
「例えば夕食に納豆をつけるとか、卵を一個増やすとか、その程度でもいいです」

なるほど。納豆も卵も大好きです。というわけで、納豆オムレツなど作って一品増やすようにしました。プロテインもいいですし、最近はタンパク質含有量の多さをうたった食品も多種多様なものが売られていますが、やはりこうやってふだんの食事に自然な形でタンパク質を多めに配していくのがいいですね。通常の肉や魚もバランス良く食べた上で、ちょい足し。

こうしてafterコロナ、というかwithコロナの新しい生活がスタートしました。

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https://www.irasutoya.com/2015/03/blog-post_760.html

「自炊する・しない」をめぐって

いつも拝見しているこちらのサイト、とても共感できる部分が多くて記事の更新を楽しみにしているのですが、先日も興味深い記事が掲載されていました。「自炊」についての本を紹介した記事で、自炊が何より自分の体を気遣う行為であることを主張しつつも「パターナリスティックに『料理あたりまえ』と強制するのは論外」とおっしゃる……内容の本を紹介している記事(ややこしくてすみません)です。

slowinternet.jp

確かに、食の有り様は人それぞれ。自炊しなくてもいい環境ならしなくてもいいし、したい人はしたいだけすればいいんですよね。私自身は高校生の頃から自炊を始めて、もはやこれなしに自分は暮らせないと思います。だから出張や旅行などで比較的長期にわたって自炊ができないと、だんだん疲れてくるのを感じます。そう、自炊以外の外食は疲れるのです。

もとより、外食やコンビニ食、ファストフードなどはいずれも「味が濃すぎ」てかなり苦手なため、それでほとんど自炊になっちゃったということもあります。ファストフードのハンバーガーとか、〇〇屋の牛丼とか、記憶にある限りもう20年くらい食べていないと思います、とこないだジムのトレーナーさんに話したら驚かれました。

でもまあ、これもまたそれぞれの食の有りよう。私だってもちろん忙しいときには外食やコンビニ食時をやむを得ず利用しますが、「やむを得ず」という心理が作用するのか、あまり心身ともに喜べないのを実感します。それと、これは以前にも何度か書いたのですが、外食にせよ、コンビニ食や市販の加工食品にせよ、「おいしすぎて、おいしくない」のです。いろいろな味がしすぎるというのが。けれど、何もかも素材から作っていたらいくら時間があっても足りないので、現実的なところで妥協はしています。

qianchong.hatenablog.com

ただ、これもジムのトレーナーさんからうかがった話ですが、アスリートでも、ボディビルやエアロビックダンスのプロでも、トップに行く人、行ける人は食へのこだわりというか、食への注意がとても繊細なんだそうです。科学的な根拠はないけど、あとコンマ何秒とかの成績を分けるのは、そういう食のこだわりかもしれないとおっしゃっていました。……と書いていたら、偶然こちらの記事を見つけました。「人の身体は口から摂取した食べ物で作られています。だからこそ食べ物に対する意識を高く持って欲しいんです」。

nishiogibiyori.com

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https://www.irasutoya.com/2014/10/blog-post_876.html

ところで、冒頭の記事を読んだ時、この記事を載せているサイトの主宰氏が記事の紹介で「僕は人生でほとんど自炊をしたことがない」とおっしゃっていて、少なからずショックを受けました。いえ、自炊するかどうかはその人の自由ですから、もとより「パターナリスティックに」あげつらうのはいけないと思います。

ただこの方がふだん、これまで築き上げられてきた都市の文明とはまったく違った文脈で「人間と自然との関係を再考したい」と展開されている主張に少なからず心を動かされていた私としては、自炊という暮らしのおおもとについてそこまで無頓着でいいものなのだろうか、そうした足元の暮らしから乖離した「人間と自然の関係」論とはどれだけの実体を伴うことができるのだろうか……と懐疑的になってしまったのでした。

パンフの「盛られよう」が素晴らしい

コロナ禍でオンライン授業を継続しつつ、「三密」を避けながら通常の対面授業に戻しつつ……と、教室では試行錯誤の日々が続いていますが、学校側はすでに来年度の学生募集を見据えて宣伝活動に入っています。感染症の状況次第では外国人留学生の募集にかなりの不確定要素が加わるであろうことは予想できますが、といって何もしないわけにも行かないですものね。

というわけで、早くも来年度の募集要項と学校案内をまとめた2021年度版のパンフレットが出来上がってきました。うちの学校は出版局があって、雑誌や単行本も出版しているので印刷部門も学内に持っているのですが、パンフレットは毎年かなり違うテイストで作られています。たぶんデザイナーさんが毎年違うんだと思います。それで教員の間では「今年のパンフはちょっと地味ですね」とか「今年はまた派手だね」などと、新しく刷り上がったパンフを手にひとしきり盛り上がるのですが……。

今年(というか来年度用)のパンフは、とても明るい雰囲気の仕上がりでした。学校の紹介だけでなく、学校がある街のおすすめスポットなども載っていて、ちょっとした雑誌みたいな作りになっています。おお、これはなかなか楽しい。なおかつパンフに出てくる学生が在校生や卒業生で、その人たちを私たちもよく見知っているだけに、その点も見ていて面白いです。

特に「この学生は授業ではあんなに静かなのにこんな笑顔を見せるなんて!」とか、「普段はぐうたらしているのにこんな青春真っ只中みたいな爽やかさが嘘みたい!」とか、内輪受けポイントがたくさん(ごめんなさい)。これはひとえにプロのフォトグラファーさんとデザイナーさんの力量ですね。優れたクリエーターの上でにかかれば、実際よりも何割か盛って見せることができるんだな……と感心しました。う〜ん、我ながらひどいこと書いてますね。

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ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ブレイディみかこ氏の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読みました。昨年からベストセラーとの評判で、書店の店頭に平積みになっているのを気になりながらも未読でした。が、一読、引き込まれて一気に読み終えてしまいました。多様すぎるほど多様な人々が関わる、イギリス南部ブライトンの「元・底辺中学校」に通う息子さんとの日々を描いたこの本。私も日々外国人留学生と顔を突き合わせる毎日を送っているので(最近はネット越しですが)、いろいろな部分で共感したり、深く考えさせられたり。いくつもの付箋をつけてしまいました。

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ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

個人的にとくに共鳴した部分をいくつか。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」(60ページ)

そうなんですよね。多様性はいいことだけど、とっても面倒で、その都度その都度お互いの考えをすり合わせなければなりません。そこには自分とは違った価値観を知ろうとする歩み寄りが必要で、それを積極的に繰り返して行く末に人は無知でなくなっていく。もっとも「アイツラとは分かり会えない!」とシャッターを下ろしてしまうほうがはるかに楽で、残念なことにそれを選んでしまう人も多いのですが。

「エンパシーって、すごくタイムリーで、いい質問だね。いま、英国に住んでいる人たちにとって、いや世界中の人たちにとって、それは切実に大切な問題になってきていると思うから」(中略)ケンブリッジ英英辞典のサイト(https://dictionary.cambridge.org)に行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。(74〜75ページ)

多様性はいいことだけど、面倒。だからこの「エンパシー」が必要になるのだと思います。私も日々、様々な国や地域からやってきている学生や教職員と一緒に仕事をしていますが、ともすればこのエンパシーがおろそかになっている瞬間が襲ってきます。もちろん誰とも分かり会えることなど不可能なのですが、だからこそ「誰かの感情や経験を分かち合う能力」を常に向上させようと意識し続けることは大切だと思います。

まさにこれ、培われる「能力」なんですよね。培う、つまり訓練することが必要な。その意味で、ほぼ単一民族・単一言語の環境に暮らしてきた私たちは、この能力がかなり弱々しいように思います。だからすぐに排他的になっちゃう。もっと訓練が必要だと思いますが、あの移民大国アメリカでいまだに深刻な黒人差別が露呈している現状を見ると、周囲に圧倒的な多文化の環境があっても人はなかなかこの能力を獲得することができないんだなとも思います。

僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだ」(196ページ)

これはかなり「どきっ」としました。自分も、自分が正義を体現したつもりで人を罰するようなことをしていないか、教員という立場であるだけにこれはかなり危うい「ダークサイド」だと思います。罰するつもりで結果的にいじめになっているのではないか。常に内省が必要だと思いました。