インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「リアルタイム・双方向・長時間」オンライン授業の課題

オンライン授業の取り組み、5月は非同期型の「課題を送信→回収→レビュー」という形がメインだったのですが、6月に入って同期型の「リアルタイム・双方向」での授業が始まりました。学校によっては6月中旬から対面授業に戻すところも多いのですが、逆に長期的な感染状況を見据えて、このままオンライン授業を続けるというところもあります。私は「掛け持ち」なのでリアルタイム・双方向、かつ2時間から3時間という長いコマでの授業も何度か行ってきました。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/e_21.html

こうした「リアルタイム・双方向・長時間」のオンライン授業を行ってみて気づいた点を記してみたいと思います。

授業開始時にまごつく

学生さんにはあらかじめメールなどで、Zoomなどのウェブ会議システムでの授業開始時間をお知らせしておくのですが、開始時間に全員が問題なく揃うというのは難しいです。もちろん学生さんも、そして我々教員も慣れていないことが大きいのですが、ウェブ会議にアクセスはできても音声が出ない、映像が出ない、時間を間違えた……などなど、小さなトラブルがけっこう発生します。

通信環境が理想的ではない

音声や映像がきちんとつながっても、授業中に途切れたり、品質(音声や映像の)が落ちたりすることがあります。特に学生さんの数が多くなり、なかには海外からアクセスしている人や、VPNで「壁越え」しながら参加している人もいたりすると、その傾向が強まります。パソコンを持っておらずスマホで参加している人もいますし、自宅のWi-Fi環境が貧弱だったり、スマホの「パケ死」を心配したりしている人もいる。5Gどころか4Gすら十全に機能していないんだなあというのがよくわかります。

教員が孤独

通信環境を安定させるため、授業中は基本的に音声をミュートにして、指名されて発言するときや質問があるときだけ自分でミュートを切って話すというのが基本です。そんな環境で授業をしていると、なんだかとっても孤独感を覚えます。通常の対面授業でも時に感じることですが、まるで山奥の静かな湖水のほとりに立って、ひとり黙々と小石を投げ込んでいるような気持ちになるのです。

学生さんには「できるだけ反応してくださいね」ということで、例えば「わかりました?」「大丈夫ですか?」と聞いたときなど、Zoomの「反応」ボタンを利用して「👍(サムズアップ・いいね!)」や「👏(拍手)」を出してくださいとお願いしているのですが、最初はこまめに反応してくれる学生さんも、だんだん面倒くさくなってくるのか反応がなくなっていきます。そんな中、話し続けたり、指示を出し続けるのはけっこう疲れます。

学生も疲れる

教員も疲れますけど、学生さんも疲れるみたいです。特に2時間、3時間連続の授業となると、画面の向こうであくびをしている人が多くなります。もちろん何度も休憩を入れるんですけど、やはり人間、パソコンの画面に何時間も向かい続け、なおかつ音声に耳を澄ませ続け、画面のいろいろな機能を操作し続けるというのは疲れるんですね。こちらも、授業が終わったあとはぐったりします。明らかに通常の対面授業のときとは異なる種類の疲労を感じます。

画面共有でより「疎遠」に

Zoomなどで、教材の資料やパワポなどを共有すると、画面の大半が資料になって自分を含めた参加者の映像は脇に押しやられた形になります。これがさらに「孤独感」を増す結果に。なにせ画面共有前の分割された画面とは違って、自分を含む数名の顔しか見えなくなるんですから。もちろん上下の矢印をクリックして、隠れている顔を表示することもできますが、一方で共有画面のパワポを操作しつつですから面倒なことこの上ありません。結局、学生さんの表情を見ることは諦めて、ただひたすらパワポを操作しつつ話すことに。孤独です。

板書がけっこう難しい

例えば長文逐次通訳の訓練で、ノートテイキングをしながら音声なり映像なりを視聴し、訳出するという場面があります。通訳学校の授業ではこれがメインですから授業時間のかなりを占めています。通常の対面授業では、ホワイトボードに私がノートテイキングをしつつ学生さんにも聴いてもらい、指名して訳出してもらう……ということをやるのですが、オンライン授業ではこれがなかなか難しいです。

背景にあるホワイトボードがどこまで映像に写っているのか、学生さんに見えているのかを常に意識しなければなりませんし、光の反射や文字の大きさなんかも意識しなければなりません。特にスマホで参加している人は、見ている画面もかなり小さいですから、それも考慮した板書が求められます。これが、か・な・り大変で。

またパワポのスライドショーを再生しながら板書はできません。画面共有でパワポ画面がほとんどを占めてしまうため、脇の小さな私の画面に写ったホワイトボードの板書を判読することはほぼ不可能だからです。これは教室のパソコンがデュアルモニター(CALLなどによくある2画面)である場合は、パワポに埋め込んだ音声をスライドショーで再生しながら、画面全体はノートテイキングしているホワイトボードを移すということが可能だとわかって一応一件落着していますが、ま、何にしても手順がいささか面倒です。

つい大声になる

これは私だけかもしれませんが、オンライン授業でヘッドセットを使っているのにも関わらず、つい大声になってしまうことがあり、その抑制に苦労します。ヘッドセットのマイクが口元まで伸びているわけですから、そんなに大声になる必要はなく、むしろ「ささやく」くらいが丁度いいらしい。同時通訳のブースと同じですね。

でも私は授業に興が乗ってくると、つまり興奮してくるとついつい大声になってしまうのです。きっと学生さんたちはパソコンやスマホのボリュームをこっそり小さく調整しているでしょうね。申し訳ないです。そういえば同時通訳をしていたときも、ついつい大きな声になって「いかんいかん」と自分を何度もたしなめたものでした。

やはり発想の転換が必要

以上、縷々「困難」を記してきましたが、ここからわかるのはやはり、通常の対面授業をそのまま「リアルタイム・双方向・長時間」のオンライン授業に持ち込もうとしても、少々無理があるということですね。いえ、これはもう数多の先達が指摘していることなのですが。これはやはり「反転授業」などの事前学習なども取り入れながら、もっと大胆にカリキュラムを組み替える必要があると思います。でないと早晩、教員も学生も疲れ切ってしまうでしょう。

とりあえず通訳学校のひとつでは今期(秋まで)の授業がすべてオンラインと決定していますから、実践を通じて徐々に改善していきたいと思っています。おつきあいいただく学生さんには少々申し訳ないのですが。

デオドラントされたキャンパス

Amazonのブックレビューはなるべく読まないようにしているんですけど、新聞の書評欄は必ず読みます。評者の質の高い文章が読めますし、普段の自分の興味がおもむく範囲では絶対に巡り合うことはないような本を発見することができるからです。書評欄は各紙によって違いはありますが、概ね見開きの二面を使って毎回十冊程度の本が紹介されています。いわゆる「文化欄」の記事として考えると、一冊の本にこれだけの紙面を割いてくれるというのは「読み物」としてもとても贅沢なんじゃないかなと思います。

書評欄が悩ましいのは、載っている本を片っ端から買いたくなってしまうことです。しかも紹介されているのは新刊書が多いから、Amazonマーケットプレイスなどでもまだ値段が下がっておらず、図書館にも入っておらず、結局かなりな出費を覚悟しなければなりません。世上、本を読むことは自分への投資だ、あとあと自分の人生の糧になることを考えたらこんなに安い買い物はない、と識者の方々がおっしゃっています。私もその通りだとは思うのですが、それでも
結構な出費であることは(私の収入レベルでは)否めません。

昨日も東京新聞の書評欄で興味深い本ばかり紹介されていて、そのうちの何冊かをAmazonで注文してしまいました。なかでも岡田憲治氏による、栗原康氏の『奨学金なんかこわくない!: 『学生に賃金を』完全版』評にあった記述に興味を惹かれました。

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大学の「常勤・非常勤」に関するくだりもまさに身につまされる話題で興味深いのですが、これはまだ未読なので脇に置くとして、興味を惹かれたのは「『デオドラント』された大学」という表現です。なるほど、今の大学のキャンパスはとても清潔ですよね。「タテカンもビラもない」というの、たしかにそのとおりだなと思います。私が大学に通っていた時期は、学生運動の時代からはずっと下っていましたし、世はバブル景気に向かって急坂を登り続けていましたが、それでも学内にはまだその「残滓」が感じられました。タテカンは私も作りましたし(と言っても政治的な主張ではなく、サークルの広告ですが)、岡田氏の書かれているような「部外者すら含む若者が勝手な時と場で溜まり過ごす風景」があちこちに見られ、「そんなに安易に社会と有効する存在ではなかった」ように思います。

いま私が奉職している学校も大学のキャンパス内にありますが、そこを行き交う学生さんたちは限りなく「清潔」です。特にファッション系や芸術系の学部が多いので、思わず目を引く出で立ちの学生さんも多い。かつて私が学んだ大学も芸術系で、それこそ毎日が奇抜なファッションショーのようなキャンパスでしたが、あのときのキャンパスはなにか「不穏」なものが渦巻いていたように思います。でも現代のファッショナブルな学生さんたちにはそういう不穏かつ不健康な空気はあまり感じません。それが時代のせいなのか、それとも単に自分が中高年になって若い人たちの感覚から乖離しかけているからなのかは分かりませんが。

……と、先日仕事を終えて駐輪場に向かうべく(いまは自転車通勤なのです)キャンパス内を歩いていたら、広場のベンチでタバコを吸っている男女二人組の学生さんに出くわしました。中国語でおしゃべりしながらタバコを吸っており、足元には何本か踏み潰された吸い殻が散らばっています。うちの学校は今年四月一日からの東京都受動喫煙防止条例と改正健康増進法の全面施行によってキャンパス全域が禁煙になっており、加えて新型コロナウイルス感染症の拡大で「三密」を避ける目的から、喫煙所も閉鎖されています。実質的にキャンパス内ではタバコが吸えない状況になっているため、この学生さんたちはこっそり吸っていたというわけですね。

というわけで同情するところもあるのですが、教職員はこういった場合注意をするように学校側から求められていて、仕方がないので私は声をかけました。しかも学生さんたちが座っているベンチのすぐ横には「学内禁煙」と大書された看板が立っているのです。これはちょいとふざけた態度ではありませんか。私の注意に渋々吸い殻を足でもみ消す二人。私が「それも片付けてください」と言うと、不服そうに無言でかき集め、去っていきました。北方系の中国語を話していたので留学生だと思います(うちの学校は千人単位で中国語圏の留学生がいます)が、よそ様の国に来てそのルール違反はあまり感心しませんね。“入鄉隨俗(郷に入っては郷に従え)”を教えてくれたのはあなた達のご先祖さまですよ。

qianchong.hatenablog.com

しかも何より「美」を追求すべきファッション関係の学問を学ぶ学生さんが、吸い殻を足でもみ消したまま放置して平気というのも感性やセンスを疑います。みなさんの先輩には「タバコはかっこいい」という時代錯誤を吹聴する山本耀司氏のような「悪い大人」もいますけど、真似しちゃだめですよ。

qianchong.hatenablog.com

そんなことがあった先週。しかし、そのあと上述した岡田氏の書評を読んで、おお、これが「デオドラント」されたキャンパスのありようであり、私もその強化に日々邁進しているのだなと思ってしばし考え込みました。確かにかつてのキャンパスは喫煙も飲酒もそこここで行われており(私も広場の中央で酒盛りしたことがあります)、縦感やビラや、部外者なのかどうかよくわからない人たちが行き交う多少なりとも猥雑な空間でした。それが良かったのかどうか、そしてそこに戻りたいのかどうかと自問すれば答えは多分「否」なんですけど。

現代のキャンパスに「役に立たないことをしながら、じっくりものを考える」空気があるのかどうか。本が届いたら、この書評を傍らに置きつつ読みたいと思います。

“國情不一樣(国情が違います)”に教えられたこと

新型コロナウイルス感染症の状況が落ち着いてきたとして、学校現場では対面授業への復帰が始まっています。うちの学校でも来週から限定的ながら従来どおりのカリキュラムで対面授業が復活することになりました。限定的というのは、授業や実習によっては「三密」が避けられないものがあり、それについては引き続きオンラインのLMS等を利用した授業を続けていこうとしているからです。

私が担当している学生さんは全員が外国人留学生で、2月3月頃の感染拡大期から今日に至るまで日本に残り続けて来週の対面授業再開にこぎつけたわけですから、みなさんとても喜んでいます。でもその一方で、母国へ一時帰国帰してしまったがゆえに再来日ができず、学業を続けられないかもしれないと悩んでいる学生もいます。

うちの学校は教務(事務局)があらかじめメールと書面で在校留学生に注意喚起を行っていました。感染拡大の状況が読めないということで一時的に帰国する場合、そのリスクもあることを十分に理解しておいてほしいと。つまり今後感染状況が収束しても、すぐに日本に戻ってこられるとは限らないこと、その状況が長引けば出席や単位の面で不利益を被る可能性があること、などなどです。

母国のご家族も心配しているということで、この注意喚起を十分に理解した旨サインをして、一時帰国していった学生もいます。その一方で、せっかくの留学のチャンスをダメにしたくないということで、心細いながらも日本に残り続けた学生もいます。そのいずれも私は気持ちが十分わかるので同情もしますし、メールやオンライン授業などで励まし続けてもきました。

しかし、中には注意喚起を無視してサインもせず勝手に帰国してしまい、今になって再入国できないけどなんとか授業を受けさせてほしいと泣きついてくる学生もいて、私はなんとも複雑な気持ちになってしまいました。個人的には、新型コロナウイルスの蔓延という未曾有の状況に直面して留学の計画が狂いかけているわけですから同情の気持ちはあります。でもその一方できちんと義務を果たさずに権利だけ主張するのはどうだろうとも思うのです。

ここは日本という外国です。そしてうちの学校は大人が自分の意志で判断して学びを選択する専門学校です。留学に限らず仕事でも旅行でも、「よそ様」の国に行けば、自分の国と同じように何もかも思いのままに行くわけではありません(自分の国だって何もかも思いのままには行かないけど)。私は海外に住んだり旅行したりする時は、自分の行動をできるだけ「内輪内輪ではかる*1」ようにしています。自分の国にいる時以上にリスクには敏感になるし、行動も「八掛け、七掛け」くらいで考える。そしてよそ様の国にお邪魔しているというひとかけらの謙虚さを常に持つ。

これ、一歩間違うと、だからガイジンは黙っとれみたいなヘイトと紙一重にまで近づきますから注意深く考える必要がありますが、よその国に行くというのは、そういうリスクを把握した上で自制がより必要な行為だと思うのです。

中国や台湾で学んだり働いたりしていた時、人々の風俗習慣の違いから、あるいは思想信条の違いから、はたまた異文化ギャップなどの理由から、私もいろいろと不利益をこうむりましたし、理不尽な目にあったことも数知れません。でもそんな時、こちらがいくら抗議しても、かの地の人はいつも最後にこのひとことでピシャっと「処理」するんですよね。“國情不一樣(国情が違いますから)”。

もちろん、親身になって助けてくれる人も少なからずいました。だから中国や台湾の華人がみんなそうだというつもりは毛頭ありません。でも私はこの“國情不一樣”というにべもない一言に、逆によその国に暮らすということはどういうことか、異文化と付き合うとはどういうことかを教えてもらったような気もしています。異文化に暮らす子どもたちについては、これは親など大人の責任ですから別のカテゴリーですが、大人の留学生にはもう少しこの辺りを理解してほしいと思って、実際折に触れて私はそういう話をしています。

留学は楽しい、そしてかけがえのない経験です。私も中国に留学していた時期をいまでも「人生最高の日々」だと思っています。でもそこにはリスクを見極める姿勢が大切だし、よその国に居させてもらっているという謙虚さも必要だと思うのです。上述した、学校の注意喚起を「無視」して帰国してしまい、いま再入国できなくて悩んでいる留学生の中には、なんとか学校が対応策を考えるべきだと「要求」してくる人もいます。私は、ことにその人たちをよく見知っているだけについ同情の気持ちを持つのですが、いやいや、そうじゃないだろうとも思う。複雑な気持ちになると書いたゆえんです。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_798.html

*1:落語「火焔太鼓」。

「言葉の経済」を肉体化するのが楽しい

昨日Twitterで偶然見かけたフィンランド語のニュース。見出しがたまたま知っている単語ばかりで構成されていたので、すらっと読むことができました。これは初めての体験でした。細々と学んでいるので、やっとこのレベルですが、嬉しかったです。

Vanhojen omakotitalojen hinnat ampaisivat pääkaupunkiseudulla

フィンランド語の先生は、読解の時はまず文型と動詞を確認しなさいと言います。この文は「olla」の文(第一文型)でも所有文・存在文(第二文型)でもないので「〜が〜する」「〜を〜する」という動詞の文ですね。第三文型と言っていいのかしら。というか、私はまだこの3つしか学んでいないので、とりあえず「動詞の文」と言っています。上級者から見ればとんちんかんなんでしょうけど、勘弁してください。

動詞は「ampaisivat」。フィンランド語は語形変化が激しいので、そのまま辞書を引いてもまず見つかりません。この動詞は「vat」がついているので三人称複数ですね。「ampaista(舞い上がる/跳ね上がる)」という動詞があるので、これかな。「〜sta」の動詞は、後ろ二文字をとって「e」を付加した「ampaise」が語幹で、kptは逆転だけどこの単語はなし。三人称複数は「ampaisevat」になるところですが「ampaisivat」になっているということは過去形です。「ampaise+i」で「e」が消えて「ampaisivat」。

動詞の前に長い主語がついています。「vanhojen」は「vanha(古い)」の複数属格ですね。「vanha+i → vanhoi → vanhoia → vanhoja(複数分格)→ vanhojen(複数属格)」。

「omakotitalojen」も複数属格っぽいですが、これは「oma(自分の)」「koti(家)」「talo(建物)」の複合語ですね。たぶん一戸建てのマイホームじゃないかと思うんですけど、最後の「talo」が複数属格になっています。「talo+i → taloi → taloia → taloja(複数分格)→ talojen(複数属格)」。属格は多く「〜の」を表すので、ここまでで「古い一戸建てのマイホームの」。

「hinnat」は複数主格の目印「t」がついています。「nt → nn」のkpt変化だから、元の形は「hinta(値段)」でしょう。ここまでで「古い一戸建てのマイホームの値段」が主語。もちろんひとつだけじゃなくてたくさんあるマイホーム(たち)の値段(たち)ということです。日本語はこういう時「マイホームたち」とか「値段たち」とか複数を意識しないですね。主語+動詞で「古い一戸建てマイホームの値段が跳ね上がった」ということなんでしょう。

最後に「pääkaupunkiseudulla」があります。「pää(主な/主要な)」と「kaupunki(都市)」で「首都」、「seudulla」は所格・接格の形ですけど、「d」がkpt変化しているっぽい。「d → t」で「seutu(地域/辺り)」かな? つまり首都のヘルシンキ周辺で、と言いたいのでしょう。

これで「古い一戸建てマイホームの価格が首都圏で跳ね上がった」というような見出しだと分かりました。ここまで縷々腑分けしてきましたけど、フィンランド語の母語話者はこれを一瞬のうちに行って理解できるんですよね。当たり前ですけど、母語ってすごいです。

これでもやっと見出しが読めただけ。本文に入るとところどころの単語がわかるだけで、ほとんどお手上げです。でもこうしてみると「悪魔の言葉」とまで称される複雑極まりないフィンランド語の語形変化も、きちんと体型だって行われていることが実感できます。kptの変化や母音交替などの語形変化も、畢竟人間が言いやすくするための「言葉の経済」なんですよね。私たちが「一本(いっぽん)二本(にほん)三本(さんぼん)」と何の苦もなく言い分けられるのと同じで。ぜんぶ「ほん」だと、「いっほん」と「さんほん」がとてもストレスフルですもん。六本や八本や十本を「ろっほん、はっほん、じゅっほん」などと言っていたら酸欠になりそう。

外語が話せるようになるということの一つの側面は、こうした人間の自然な「言葉の経済」が肉体化されるということなのでしょう。そのためには繰り返し練習して、その感覚を(擬似的にでも)身に付けなければいけません。私はいまのところフィンランド語が話せるようになっても実質的なメリットはほとんどない(旅行して楽しいくらい?)んですけど、こういう外語を肉体化することそのものが楽しいんですよね。筋トレと同じかもしれません。

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Asun ja työskentelen aina meluisassa paikassa Tokiossa, en ole koskaan ajatellut, että voisin jäädä niin upeaan paikkaan.

学生の自主性をも問うオンライン授業

先日Twitterで拝見したこちらのツイート、学びの本質がとても簡潔に表されていると思いました。

義務教育段階ではまだしも、大学や専門学校に入って自ら学びを選択したのですから、自分がどれだけ学ぶことができたかだけが重要で、他の人のことなど全く関係ないはずですよね。でもこういう「一生懸命出席して損した」的なマインドは学生さん(留学生も含む)の中に広く見られます。学期の最初に「この授業は何回まで休めますか?」と聞いてくるというのもよくあるんですけど、とにかく最小限の努力で最大限の利益を得たいというスタンスなんですね。ま、学生時代の私は決してそんなことなかったかといえば、かなり怪しいですけど。

ここのところ展開してきたオンライン授業でも、学校からは出席をきっちり取るように言われています。でも同期型双方向のオンライン授業(例えばZoomなどを使った授業)など、出席していてもいつの間にか画面をミュートしてサボっている人がいます。でも私は特に咎めません。もちろん学校である以上、そして卒業のあかつきには「〜士」という称号を与えることが許されている学校である以上、出欠や評価はきちんと記録しなければなりません。ですから私もやりますけど、本音では「学びたい人が学べばいいんだから出席なんて取らなくてもいいんじゃないか、サボりたい人はご自由に」と思っています。

オンライン授業をやってみての意外な発見は、これは教員のこれまでのあり方が否応なく問われるのと同時に「学生の自主性が一段と問われる」という点でした。時間を決めてオンラインで行う同期型の授業は、あらかじめ開始時間が通知され、授業によっては事前の課題なども提示され、スクリーンの向こうの教員やクラスメートと協力して学習に臨まなければなりません。また非同期の授業で課題が送信され、締め切りが設定されるというパターンもあります。

そうした一切のやり取りは多くのメールやメッセージやチャットによって行われます(といっても我々教員が扱ってる数からすればごく僅かですけど)。それらをちゃんと読み、然るべき対応を自律的にこなしていかなければなりません。社会人ならまあ当たり前のことですけど、そういった点も学生は問われるのです。つまりは学生自身が時間を管理し、パソコンなどの機材や教材などを整えて向き合わなければならない。

しかし実体としては個々人が一人きりですから、クラスメートと私語に興じるなんてこともできません。そのためか、元々受け身マインドだった学生はオンライン授業になってけっこう辛そうにしています。オンライン授業は、朝学校に来たらあとは何となく教室でセンセが来るのを待ってるといったマインドとはかなり違うわけです。つまり教師側から見ると、惰性で学校に来て漫然と座ってるだけという習慣の学生がこの上なく可視化されるという感じなんです。オンライン授業は対面授業以上に本人のやる気が問われるのですね。

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https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_564.html

課題の提出状況も見ていると面白い(失礼)です。Google ClassroomなどのLMS(Learning Management System/学習管理システム)を使った非同期の課題では、学びに貪欲な学生はどんどん使いこなしてくるのに対して、逆の学生は課題提出が遅れた言い訳に「送信ボタンを押すのを忘れてました」などと言って寄こします。しかも何人もが同じ言い訳だったりして可笑しい。なるほど、リモート環境でお互いの動きが見えないからこそ、普段の授業以上に馬脚を露わしちゃうんですね。周りを見計らっての行動がしにくい(メールやLINEなどでできないことはないけれど、元々非積極的なマインドだからそこまで手間を掛けない)から。同様の理由で、教師側からはやる気のない学生のコピペや剽窃も一目瞭然です。

そういう学生も引っ張り上げてこその教育だという意見もあります。私もその批判は甘んじて受けますし、教案の改善に努力は惜しまない覚悟ですけど、学生さんにも「自分にとって何が一番大切か」をよく考えてもらいたいと思います。緊急事態宣言の解除に伴って学校現場も対面授業に復帰しつつありますが、私はオンライン授業の良い点は残して今後も使い続けたいと考えています。それは学生にとってもよい「学びの訓練」になるのではないかと。

対面授業のカリキュラムに何度かオンラインを挟むとか、対面が必須でない課題をLMSで出すとか、あと大雨や大雪の日なんかはムリに学校に来ないでオンラインでやるとか。この数ヶ月の実践で得たものを、ぜひ今後に活かしたいものです。

ジムの再開が本当にうれしい

東京都が新型コロナウイルス感染症拡大防止のための対応を「ステップ2」にしたことで、スポーツジムの営業が再開されることになりました。私が通っているふたつのジムもメールやFacebookのお知らせで営業再開を知ったので、昨日は約二ヶ月ぶりにパーソナルトレーニングに行ってきました。

受付の前にもうひとつ受付があって、手や身体や持ち物の殺菌と体温測定が行われ、タオルやウェアやロッカーの鍵なども受け取ったあとはすべて自分で管理。トレーニング中はマスクをしなくてもいいですとのことでしたが、逆にトレーナーさんたちは全員マスク姿でした。マシンやウェイトなどもこまめに消毒に回ってらして、忙しそう。でもせっかく営業再開したのにまた感染者でも出したら大変ですから、仕方がないですよね。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_726.html

久しぶりにベンチプレスなどしましたが、いやもうこれが気持ちいい。このジムでは営業休止中もスタッフのみなさんが持ち回りで、Facebookに自宅でできるトレーニングのあれこれを動画でアップしてらして、私はそれを見ながら体幹レーニングや自重を使った筋トレなどを継続してきました。でも自重を使った筋トレといってもできることには限りがありますし、負荷だって大したことはありません。その証拠に自重で筋トレをしている時はほとんど筋肉痛になりませんでした。

やっぱりマシンやダンベルなんかを使って体を動かすのは楽しいです。あっという間にトレーニング時間が過ぎてしまい、「あれ、こんだけ? もっとやりたい!」と思ってしまいました。いつもと同じトレーニング時間なのに。「cakes」で連載されている、ふっくらポリサット氏の『メンタルジャングル探検記』にコロナ禍中の引きこもり生活で鬱々した気分を晴らすために運動する話が出てくるんですけど、あの「運動いいわ〜」という感じ、よくわかります。私もホント、ダンベルを買おうかなと思ったくらい。

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ともあれ、ジムが営業再開になってよかった。私、引きこもり生活中にジムに行く夢を見たくらいでしたから。東京都はまた感染者が増加傾向ということで「アラート」が出されましたが、なんとかみんなの努力で抑え込みたいところです。またジムが閉まっちゃったらちょっと心折れそう。そういえばうちの職場も来週から対面授業再開となるも、学校側は「1人でも感染者が出たらまた閉鎖する」と言っています。でもうちの学校は全学の学生と教職員合わせて8000人もいるんですよ。ちょっと「無理ゲー」じゃないかなと思っています。

久しぶりにジムに行って、思いっきりトレーニングしたので、今日は筋肉痛がものすごいことになっています。……ああ、この感じ、たまりません。

バーミキュラのフライパン

比較的長持ちして大事に使ってきたテフロンのフライパンが(というかフライパンのテフロンが)かなりくたびれてきたので、思い切って気になっていたバーミキュラのフライパンを購入しました。といっても購入したのはおよそ二ヶ月ほど前です。新型コロナウイルスの影響に加えて、人気で注文が殺到しているらしく、注文から二ヶ月でようやく届きました。年初に買ったメガネもそうですけど、いまのこの時代に注文から数ヶ月もかかって品物が届くというのも、かえって新鮮な時間感覚です。

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https://www.vermicular.jp/products/fryingpan/

鋳物にホーロー引きというと、ル・クルーゼのようなどっしり重い調理器具を想像しますけど、このフライパンはかなり薄くて軽い作りです。それでも鋳物には変わりないので、片手でひょいひょいと返しながら炒めるような料理には向いていないかもしれません。むしろこのフライパンは、蓄熱性が高い鋳鉄の特徴を生かして、急速に水分を蒸発させてパリッとした仕上がりにする料理や、逆に弱火でゆっくり仕上げるような料理に向いているのだと思われます。

フライパンにはかなり分厚い取説+レシピブックがついていて、十分に余熱してから調理すると焦げ付かないとの指南がありました。なるほど、私は同じ鋳物のフライパンであるLODGEのスキレットを長年愛用しているのですが、あれも十分な余熱をしてから使うと、ステーキなどかなりおいしく焼けます。あとパエリアみたいな炊き込みつつ最後はパリッと蒸気を飛ばしたいような料理にも活躍します。

ただスキレットがとにかくどっしり重くて、返しながら炒めるどころか流しの下から取り出してコンロに置くだけでも気合いを要するのに比べると、このバーミキュラのフライパンはちょっと鋳物らしからぬ薄さと軽さです。それで最初にこのフライパンで餃子を焼いた時は、あんまり予熱し過ぎるとよくないような気がして、そこそこのところで餃子を並べ、テフロンのフライパンの時と同じような差し水加減で焼いてしまいました。

これが大失敗でした。焼き餃子でここまで失敗したのは何十年ぶりかしらというくらい焦げ付きました。泣きそう。そこで初めてわかったのですが、やはりこのフライパンも最初にしっかり予熱することが肝心なのでした。コンロの高温センサーが反応して火が弱まるまで余熱して、そののち油をなじませ、油からもうもうと煙が出るくらいになったらごく弱火にするか、いっそのこと火を止めちゃう。そのあと餃子を並べ、蒸し焼きするための水もかなり少なめで、そのかわりごく弱火のままじっくり焼いていく……というある種の「技術」が求められます。

その意味では気軽に焼ける「テフロン具合」抜群のティファールみたいなフライパンとはかなり違う発想が必要な調理器具で、好みが分かれるところかもしれません。ただ、そうやってじっくり焼いた餃子は「羽根」も含めてかなりパリッとしていて、格段のおいしさでした(まだ微妙な火加減に慣れきっていないので、焦げ目が偏っています)。あと、焼き目で肉汁を閉じ込めたあとゆっくり煮込むタイプのハンバーグなんかも(『きのう何食べた?』に出てくる、玉ねぎのいっぱい入ったあれ)かなりおいしくできました。これからも色々試してみるつもりです。

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ところでバーミキュラさんは最近「今日の旦那メシ」というキャンペーンをやってらして、趣旨としては「旦那」も積極的に参画しようという方向なので微笑ましくもあり、あまり目くじら立てるのも無粋なのですが……ごめんなさい、やっぱり「男の料理=ホビー」って感じを強めている感が否めなくて複雑な気持ちになってしまいます。日々繰り回している炊事って、そういう料理名がハッキリつけられないものが常じゃないかなと思うのです。ただまあ、新しいフライパン買ったってんで、さっそく「餃子」だの「ハンバーグ」だのハッキリ料理名がついたものばかり試してる私が言っても説得力ゼロですが。

https://my.vermicular.jp/feature/detail/72

ファクトフルネス

ハンス・ロスリング氏の『ファクトフルネス』を読みました。昨年からのベストセラーで評判はあちこちで目にしていたのですが、遅ればせながらようやく読んだ次第。評判通り、とても衝撃的で大きく目を見開かされる内容でした。

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FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

ハンス・ロスリング氏の名前は、YouTubeのTED動画でかなり以前に知りました。IKEAの収納ボックスを使って10億人単位で世界の動向を解説しながら私たちの思い込みをひっくり返すこの動画は何度も見ています。『ファクトフルネス』でも、その動画で駆使されていた氏ならではのバブルチャートや、4つのレベルに分けて各国を見る方法、Dollar Streetに使われている各レベルごとの写真などが様々な角度から用いられていました。


Hans Rosling: Global population growth, box by box

この本を読む前と読んだあとでは、世界の見え方、いえ、もっと卑近な自分の周囲の世界すら違った色合いに見えてきます。ここに収められた10の思い込みはどれも一考に値するものばかりなのですが、特に私は「ネガティブ本能」と名付けられた、「世界はどんどん悪くなっている」という思い込みに興味を惹かれました。

もう何十年も前の学生時代、私は同じような「世界はどんどん悪くなっている」という考えに取り憑かれていました。そして今もまた、日々テレビニュースや新聞やSNSに接するたび、同じような感慨に取り憑かれそうになり、心がザワザワします。でもハンス・ロスリング氏はシンプルに、「世界についての暗い話はニュースになりやすいが、明るい話はニュースになりにくい」と指摘するのです。そして事実として「世界はどんどん良くなっている」のだと。

確かに子供時代を頑張って思い出してみれば、いまと比べてけっこう野蛮、と言って悪ければワイルドな世界でした。舗装されていない道は多かったし、道路の脇には「ドブ」があったし、子供たちは自分も含めて小汚かったし、どこでもタバコが吸い邦題でした。一度など、駅の混雑した階段で、母親の髪が前を歩いていた人の手にしたタバコに触れて焦げたことを覚えています。パオロ・マッツァリーノ氏が以前から繰り返し主張されているように「昔はよかった」なんて、そんなことはないのです。

先日ネットを検索しているときに偶然、勝間和代氏のYouTubeチャンネルで見た動画も、この「暗いニュースばかり」のバイアスについて語っていました。氏はテレビニュースを一切見ないのだそうです。それは「視聴率を獲得するためにテレビのニュースは原則として私たちの恐怖心や猜疑心や心配を煽るものばかりで構成されているから」だそう。それはちょっと極端なご意見かなとも思いましたが、でもハンス・ロスリング氏の言う「世界についての暗い話はニュースになりやすいが、明るい話はニュースになりにくい」と符合しますよね。


勝間和代の、テレビのニュースを一切見てはいけない理由を教えます

ハンス・ロスリング氏は、上掲のTEDトークでこうおっしゃっていました。

I'm not an optimist, neither am I a pessimist. I'm a very serious "possibilist."
私は楽観主義者ではありませんが、悲観主義者でもありません。私はとても真剣な「可能主義者」なのです。

いいですね。私もその可能主義者の末席に連なりたいと思います。

誹謗中傷をめぐって

ネット上での誹謗中傷に関して、能楽師の安田登氏が書かれていたツイートが目に止まりました。

ああ、本当にそのとおりですねえ……。必要以上に人間関係を広げない、言い換えれば世の中には「ご縁」のある人とない人がいることをわきまえるというの、心穏やかに暮らすための「生活の知恵」だと思います。

そしてまた、世の中には「ためにする」反対意見や議論をふっかけてくる方がいるものですが、そういった方にはにっこり笑って「そうですね」。これでいいんですね。人生は短いのですから、ましてや私のような中高年に残された時間は少ないのですから。

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https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_164.html

誹謗中傷に関してはもうひとつ、これもいつもツイートを拝見しているエッセイストで翻訳家の渡辺由佳里氏の記事も心に響きました。

cakes.mu

「歳をとると、いろんなことから解放されて楽になる」、「この歳になると自分の人生は自分のものだとわかるようになる」。本当にそうですね。私は(自分で書くのも何ですけど)けっこう生真面目に物事を考えてしまうところがあって、これまではそういう生真面目な思考と現実との折り合いに悩むことも多かったのです。

でもだんだん「ずぼら」でいいんだ、物事の整合性にこだわったり、無謬性にこだわったりしなくていいんだ、というか、それは元々無理筋の要求なんだということが分かるようになりました。そうしたら、もともと自分に備わっていた「ずぼら」な部分があたらめて顕在化してきて家族に怒られたりしていますけど。

嫌なものはスルーして、自分の人生は自分のものと大切にする。これ、一歩間違うと頑迷な「ジジイ」へ一直線のような気もしますけど、そこをうまく避けながら渡辺氏のおっしゃるような「楽しく生きる年寄り」になりたいと思います。

オンライン授業のこれまでとこれから

緊急事態宣言が解除となり、六月から以前のような対面授業へ回帰する動きが教育現場で加速しています。うちの学校でも六月の第一週はオンライン授業を継続するものの、第二週からは対面授業を再開することになりました。とはいえ当面は多少の調整を加えて「三密」になりそうな実習やグループ学習は慎重に避けつつ、またラッシュ時の登下校を避けるために授業時間をずらすなどの対策をとりつつ、ということになっています。

この間のオンライン授業への取り組みを振り返る声もあちこちで聞かれるようになりました。私の職場でも教職員がかなり疲弊している中、それでも「なんとかやって来られた」「新しい授業の形が見え始めた」という声がある一方で「もうかなり限界」「やはりオンライン授業にはムリがある」という声もあります。私もいくつか思うところがあったので、少し振り返ってみようと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_283.html

学生の自主性が問われる

私が担当しているのは義務教育ではなく、ほとんどが成人の留学生クラスなので、オンラインでもなんとかなるだろうとは思っていました。ネットでもかなり以前から大学の講義や授業を配信する取り組みは行われてきましたよね。海外の質の高いコンテンツを私も視聴したことがあって、これでも十分に学べるのではないかと思っていました。

ところが実際に自分が展開してみると、まずはこちらの技術不足が浮き彫りになりました。動画の撮り方、ウェブ会議システムでの話し方、メールやLMSを使った学生とのやり取り。いずれも不慣れな点が多く、膨大な時間を費やす結果になりました。これはまあ経験を積むごとに洗練させていくこととして、そんなオンライン授業でネックになるのは、まず学生の「自主性」なんだなと感じました。

義務教育ではないので、学生は全員自分が学びたくてこの学校に入学してきた人たちです。本来なら自分で貪欲に学んでいけばいいわけで、学生の側から学びを仕掛けられて来るべきです。ところがオンライン授業をやってみると、積極的に学ぼうとする人がいる一方で、ネット端末の後ろに隠れて極めて消極的な人もいる。これはもちろん対面授業でも同じなのですが、曲がりなりにも学校まで足を運んでいますから、それなりに積極性は発揮しています。ところがオンライン授業だと、やろうと思えばその最低限の積極性さえ発揮しなくて済むんですね。

でもまあ、オンライン授業は、むしろ学生の自主性が問われるいい機会だと思いました。しかし同時に、オンライン教育で十分であるのならば、わざわざ日本にコストをかけて留学してくる意義も失われるかもしれないなとも思いました。実際、SNSでの議論には「もはや留学の意義は失われつつある」「逆に世界中に配信できるのだから学校にとってはチャンス」といったような声も散見されました。

「ナマ」の人間関係とは違う

とはいえ、私自身はやはり留学をオンライン授業で代替することは不可能、というか、自分が留学生だったら絶対に嫌だと思います。私もかつて中国に留学しましたが、あの当時に今のようなICT技術があったとして、じゃあ日本にいながら中国での学びを自分のものにできたかと想像してみれば、かなり無理があると思います。

日々その国の社会で暮らし、学校以外でもその国の人々とコミュニケーションし、季節の移ろいを肌で感じながら「皮膚感覚」の経験をすることでしか学べないものも多い(私の場合はそれがとても大きかった)と思うのです。先日の東京新聞に、岡崎勝氏がナマの人間関係から生まれる「試行錯誤や失敗」からしか生きる力は育たないと書かれていましたが、同感です。岡崎氏のおっしゃるオンライン授業の「特殊な距離感」というのは、教育にとって決定的に何かを損なうのではないかと感じています。

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しかし圧倒的に遅れている

とはいえ、とはいえ、私たちはまだオンライン授業をたかだか数週間から数ヶ月やってみただけです。その功罪について判断を下すのはまだ早すぎるだろうとも思っています。また上述したような「生徒の自主性が問われる」側面があるオンライン授業にあっては、むしろその側面を上手く取り入れて行くことはこれからも必要だと感じました。対面授業への復帰で「ああもうこれでZoomに向かって虚しい声を張り上げなくても済むわ〜」とこれまでの取り組みを全部放り投げるのではなく、ICTの活用をこれからも積極的に考えていくべきだと。

そんななかでテレビ東京の『ガイアの夜明け』を見ました。「コロナで学びを止めるな!」と題されたこの回、日本はOECD諸国でデジタル機器の使用が国語・数学・理科で最下位という情報から始まり、双方向のオンライン授業を実施できた小中高校は5%だという衝撃的な(でもある程度予想もされた)データが続きます。

txbiz.tv-tokyo.co.jp

パソコンがない、Wi-Fiがない。オンライン教材がない。日本はこの通信インフラの遅れに加えて、オンライン教材のコンテンツがものすごく乏しいのだなと思いました。番組ではどんな端末でも授業が受けられる(教育格差を作らない)という上海の会社の取り組みが紹介されていましたが、これは実際自分がオンライン授業をやってみて、まずはそのインフラの不備(学校側にない&学生側にない)でできない、あるいはあれこれの対策が必要で雑務が大幅に増えるというのを実感しています。そして自分の受け持っている授業の、オンラインへの対応の遅れも。

この番組で紹介されていた「ロイロノート・スクール(動画や資料などの教材を並べ替えて一本の教材にでき、学生とのやり取りもできるアプリ)」はぜひ試してみたいと思います。またある大学の先生がおっしゃっていた「大学の授業は双発性・相互性が必要」という言葉は、上述した学生の自主性と相まってとても大切なことだなと改めて思いました。

メインの職場では六月の第二週から対面授業に復帰しますが、もうひとつ奉職している学校では少なくとも今秋までオンライン授業が継続される予定です。これを奇貨として、もう少し学んでみようと思っています。

唯一の反対票をめぐって

昨日閉幕した中国の全人代では、反体制活動を実質的に禁じる「国家安全法」の制定が採決され、圧倒的多数の賛成で可決されました。採決にあたっての「棄権6票、反対1票」を投影する電光掲示板の写真がメディアに繰り返し登場していました。この「反対1票」というのがとても印象的だったので、「國安法 反對 一票 誰」でネットを検索してみました。

同じようなことを考えた人は中国語圏にも多かったようで、数多くのサイトがヒットしました。例えばこちらによれば、全人代の投票は匿名ではあるものの、ネットでは全人代の香港代表議員が反対票を投じたらしいという情報が流れているとしています。ただし本人は否定しているとも。

www.rfi.fr

こちらは、くだんの香港代表議員が反対票を投じたと目される「根拠」についても述べています。いわく、以前に受けたインタビューで同法に対する疑問を述べていたからだと。非合法な「行為」を取り締まるのは分かるが、合法的な「活動」まで禁止することになるのは公正ではないと述べたというのです。

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https://www.chinapress.com.my/?p=2052118

こちらには、香港代表議員が反対票を投じたらしいという情報の出どころが「微博」の投稿だと書かれています。私もリンクをたどってこの投稿を読みに行ってみましたが、「自分が投じた」と本人が言っていると避難めいた口調で書かれたこのつぶやき自体が消されずに残っているのは、そういう世論操作なんじゃないかなあ……と穿った見方をしてしまいました。

udn.com

まだまだたくさんありますが、私はこちらの「賛成票を投じなかった七人は早く逃げて……」との台湾立法院議員のコメントを表題にした記事にあった、ネットユーザーの意見が辛辣だなと思いました。いわく“七個人是暗樁啦,自以為民主(七人は「やらせ」だよ、民主的だと思いたいがためのね)”。

www.msn.com

う〜ん、本当のところは「かの国」のことですからよく分からないのですが、民主的だと装うために多少の(にしては少なすぎますけど)棄権票や反対票を作って演出しているというのは、あり得ることかなと思います。共産党一党独裁ではないという建前のために「民主党派」を残しているお国柄ですから。

日本のSNSではたったひとつの反対票に「勇気ある行動」と評する向きもみられましたが、なにしろ(新聞報道によれば)ご本人が否定しているということですから、私はやはり「穿った見方」をしてしまいます。かつて911事件の直後、アメリカの連邦議会ブッシュ大統領に軍事力行使の権限を認める決議がなされた際、ただひとり反対したバーバラ・リー議員が話題になりましたが、あの状況とはまったく異なるということなのでしょうね。

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200528/k10012448801000.html
▲一番下に「ひとりがまだ表決ボタンを押していません」とあるのも気になりました。

「国家安全法」の香港への導入採択の日に

ずいぶん前に録画したままにしておいた番組を、先日見ました。NHKBS1の『中国と闘う風刺アート Badiucao』。オーストラリア制作のドキュメンタリーです(以下の文章には「ネタバレ」があります。ご注意ください)。

nhk.jp

制作会社のトレイラーはこちら。


Trailer: China's Artful Dissident

覆面アーティストとして著名な巴丟草(Badiucao)氏。「覆面」といえばバンクシー氏がおなじみですが、巴丟草氏の活動はもっと緊張感がみなぎっています(比較することにあまり意味はありませんが)。それは中国(中華人民共和国)政府の価値観と真っ向から対立するためで、このドキュメンタリーからもそのヒリヒリするような緊張感が伝わってきました。

氏が一貫して取り上げる、中国の人権侵害や歴史の隠蔽について、特にその事実が中国の若い人たちに共有されなくなりつつあることに対する深い怒り。その怒りの一端は私のような者にも十分に伝わってきました。なにせ、私が関わっている仕事の現場でも、若い中国人の中には天安門事件を「リアルに」知らないという人がいたりするのですから。

中国政府に対して苛烈な批判を加える氏の素性をつかもうと、当局は様々な圧力をかけます。ドキュメンタリーの後半で、氏は香港での個展開催を計画するのですが、当局に素性を暴かれてしまいます。いまだ中国国内に住む親族への影響を心配しながらも、氏は覆面を取ってカメラに向き合うことを決意するのでした。その氏のどこか吹っ切れたような、深い諦念を湛えたような表情が印象的でした。

折しも中国ではコロナ禍で延期になっていた全人代が開かれていて、最終日の今日は言論の自由を制限して「一国二制度」を事実上形骸化すると言われている「国家安全法」の香港への導入が採択されると伝えられています。人の密集を避けさせる今回のコロナ禍は、香港の抗議活動を弱める方向に、言い換えれば中国政府にとって有利に作用していることは否めません。

私の知人で日本に住んでいる香港人の中には、この一連の流れのなかで精神的に追い込まれている人もいます。現地で抗議活動に参加したいけれども、日本での現在の暮らしも立てていかなくてはならないというもどかしさ。未来を悲観して日本でのセカンドキャリアを模索している人もいます。中には、極度に中国政府の介入を心配して、中国製のスマホは使わない、Zoom会議にすら出たくないという人もいます。Zoomは中国系アメリカ人の袁征(エリック・ユェン)氏が作った会社で、先日はこういう報道もありましたよね。

japan.techrepublic.com

日本の私たちからすれば、ここは日本だし、どうしてそこまで……とつい反応してしまいそうな心性も、当事者にとっては決して揺るがせにはできない故あってのこと。正直に言って、私は常日頃から国外の政治に対してはあまり積極的に関与しない・関与できないと思っていて(それは第一義的に当事者の問題)、「いや、香港や中国や台湾の現在は明日の日本なのだ」といった物言い(特に嫌中のヘイトスピーチ紙一重の)にも与しないようにしている人間です。

むしろ自分の役割は、香港からも中国からも台湾からも一歩引いた日本という場所で、華人(チャイニーズ)のみなさんがよりフラットで幅広い視線を持てるように協力することだと思っている・思ってきたのですが、ここ数年の中国のありようを見ていると、もうちょっと別の、自分なりの関わり方があるのではないかと思うようにもなりました。もっといろいろな人に(華人も、日本人も含めて)学びたいと思いますし、「中国には恩がある」自分としては、自分なりの持ち場でできることをしていきたいと思います。

qianchong.hatenablog.com

虹とオーロラ

緊急事態宣言が解除されても、語学講座はおおむねどの学校も授業がストップしたままです。そりゃまあそうですよね、先生と生徒がかなり密接な距離で相対して話すことが多いのが語学講座の特徴ですから。私が通っているカルチャーセンターのフィンランド語講座も、臨時休校したまま再開の連絡はまだありません。

先生からは、休校中に語学の体力が落ちないようにしていてくださいねと言われていたので、少なくともQuizletで単語を覚えるのと、朝晩の通勤時に教科書の音声をシャドーイングするのだけは続けてきました。それと、本を読んだりネットで検索した時に気がついた語彙をQuizletに加えていく作業。先日は「虹」と「オーロラ」を加えました。

虹は“sateenkaari(サテーンカーリ)”だそうです。“sade(サデ)”が「雨」で、「e」で終わる語尾は「ee」になって、さらにkpt逆転だから「d」が「t」になって、さらに「〜の」を表す属格にして“sateen”。きちんと法則通りです。“kaari”はなんとなく外来語っぽいから“curl(カール)”あたりからきているのかしら。「雨の(あとの)カール(アーチ)」という感じなのでしょうか。

オーロラは“levontuli(レヴォントゥリ)”だそうです。“lepo(レポ)”が「狐」で、kptの変化で「p」が「v」になって、さらに属格で“levon”。こちらも法則通りです。“tuli”は「火」ですから、フィンランド語のオーロラは「狐火」なんですね。日本にも狐火というのがありますが、なにかこう、神秘的な炎っぽいところが共通していて面白いなと思いました。

こういう意味的にもビジュアル的にも特徴のある単語(特に名詞)はすぐに覚えることができます。逆に一番覚えが悪いのは、当たり前ですけど抽象的な単語。“turha(無駄な/不必要な)”とか“tyhmä(バカな/愚かな)”とか“tyhjä(からの/からっぽの)”とか“täysi(いっぱいの/満たされた/完璧な)”とか“tylsä(退屈な/つまらない)”とか……どれがどれだったか、英語などからも類推も効かないので、なかなか定着しません。

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https://www.irasutoya.com/2013/09/blog-post_7592.html

不自由だけれど落ち着いた暮らし

緊急事態宣言の全国解除を受けて、今朝の東京新聞「筆洗」にはこうありました。「解除は喜ばしいが、その不自由な生活と別れるのがどういうわけか少々寂しいところもある」。

なるほど、その感慨は分かるような気がします。うちの学校でも六月中旬からは通常とほぼ同じ時間割で対面授業が復活しそう。当面は時差通勤・登校に加えて、広い教室の使用や分散授業みたいな形が取られるようですが、あれだけオンライン授業に知恵を絞って努力してきたのに、何となく拍子抜けしたような心持ちです。

私は最初の一ヶ月ほどは在宅勤務で仕事をしていましたが、極端に狭い家の中では家族も自分もストレスがたまり、加えて極度の運動不足で体調がすこぶる悪いので、その後は自転車通勤で毎日職場まで通ってきました。職場にはほとんど人がおらず、とても静かで仕事が捗ります。なにせ、誰も訪ねてこないし、内線電話も鳴らないし、退屈な会議(こらこら)も一切開かれないのです。

早朝から自転車で都心に向かう道も人や車はかなり少なかったですし、早めに出勤したぶん早めに退勤して、帰りにスーパーに寄り、いつもより余裕を持って晩ごはんを作るなど家事をすることができました。朝夕の自転車に加えて、誰もいないオフィスで腕立て伏せなどをして、運動不足もかなり解消されました。最初はかなり抵抗のあったオンライン授業も、いろいろと取り組んでいるうちに新しい発見がたくさんあって、新しい教案のアイデアをいくつかつかみかけていたところでした。

もともと人の多いところが極端に苦手で、通勤電車は(ラッシュを避けた「オフピーク」でさえ)かなり耐え難く思っていましたから、この数カ月間はとても心静かに仕事ができたというのが正直なところです。もちろんオンライン授業でトラブルが続発して、その時はかなりストレスを感じて悩みもしましたが。それにこれは私のような仕事の人間だからほざいていられるような「たわごと」で、コロナ禍によって仕事が激減、あるいは皆無になってしまった方々からすれば「何を呑気なことを」とお叱りを受けるでしょうけど。

ともあれ、学校の現場も通常に近い状態に戻るとはいえ、当面は細かいところで新たな発想が求められるでしょう。それに、留学生のみなさんは、これまで遅れが出ていたぶん少なからず不満を抱えているので、それに応えるべく、単に元に戻す以上の工夫も必要でしょう。秋冬になって感染症の第二波が来たときのことも織り込んでおかなくてはなりません。

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https://www.irasutoya.com/2020/05/blog-post_881.html

……と、いうのは、優等生の仮面をかぶった自分。その下にある素顔の自分は、あの慌ただしい日常に戻るのをどこか面倒くさく感じているのです。「筆洗」氏の書かれている「小体で不思議と落ち着いた暮らし」という一節が心にしみます。「小確幸」という言葉を連想しました。せっかくこれだけの非日常な体験をしたのですから、何もなかったかのように元に戻るのは惜しいような気もします。コロナ禍は確実に自分の中の何かを変えてきた。それがどんなふうに変わったのかは、これからゆっくりと腑に落ちていくことでしょう。

真夏にマスクをして窓を開けて……?

東京では緊急事態宣言の状態が続いていますが、政府は今日にも解除する方向と伝えられています。もしそうなれば、うちの学校も対面授業の再開に向けて舵を切ることになるでしょう。たぶん数週間の準備期間を経て、六月の中旬あたりから教員や学生の登校を再開するんじゃないかと踏んでいます。

引き続き感染の拡大を抑えるために「三密」の回避が求められるでしょうから、学校全体で一斉にもとに戻すというわけには行かないでしょう。一部のクラスや授業から段階的に教室での対面授業を始めていくとか、分散登校(学年やクラスごとに登校時間をずらすなど)みたいな形が取られるかもしれません。

対面授業に戻ったとしても、当面は教員も学生もマスクの着用が求められるはずです。さらに換気を良くするために窓を開けるよう指示される可能性もあります。いまだって公共交通機関は窓を開けて走るように呼びかけられていますよね。エアコンは単に空気を循環させているだけだから空気清浄機だけにしろと言われるかもしれません。

……となると。

六月、七月と、夏に向かうにつれ、東京の都心は毎年殺人的な蒸し暑さになります。加えて、四月や五月のオンライン授業期に減ったコマ数や実習などの活動時間を取り戻すために、八月の夏休み期間にも臨時で授業が入ることになるかもしれません。そんな酷暑の中、マスクを着用し、窓を開け、エアコンを切って(あるいはエネルギーの浪費を承知で強めに入れながら)授業をすることになるのかしら。だったらオンライン授業のほうが快適かもしれないですね。

オンライン授業にいろいろな限界を感じて、対面授業への復帰を待ち望んでいる同僚も多いんですけど、復帰したらしたで、またいろいろな課題が立ち現れて来そうです。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_650.html
https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_405.html