インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

評価が学生の未来を作るのだろうか

夜回り先生」として有名な教育評論家で、大学でも教えてらっしゃる水谷修氏が、リモート授業(オンライン授業・遠隔授業)に「これが授業なのか」と疑問を呈していました。「いい加減な授業を行い、いい加減に評価し、学生たちの未来を作る。こんなことが許されるはずもありません」と。

maidonanews.jp

この記事に関して、記事のコメント欄やTwitterでは、現場でオンライン授業に取り組んでいる教師のみなさんから、多くの批判的な意見が寄せられていました。いわく「現場で頑張っている人々に失礼」「たった数週間の実践で諦めるのか」「通信制教育の否定では」「老害」などなど……。

私は、水谷氏がたぶん感じてらっしゃるであろうオンライン授業への「隔靴掻痒感」や「無力感」には共感するところもありますし、批判的な意見でも多くを占めていた「早々に放り投げすぎ」というのもそうだなあと思います。ただ、水谷氏の「学生たちの顔を見ることなく、直接彼らの声を聞くこともなく、評価をし、彼らの明日を決める。こんなことができるわけがありません」という一文に引っかかって、しばし考え込んでしまいました。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_4947.html

引っかかったのは「評価をし、彼らの明日を決める」という部分です。冒頭でも「学生たちの未来を作る」という言葉を引用しましたが、水谷氏は授業後の「評価」にとても重きを置かれているようです。もちろん十分な授業なりレクチャーなりが提供されないのに評価などできるわけがない、学生としてもそれで評価されてはたまらない、という意味だとは理解できます。でも学生にとっての学びにおいて(特に氏が担当されているような高等教育において)評価は本当に必要なのだろうかとも思うのです。

水谷氏は教員による評価が学生の将来を決める、つまり教員が学生の生殺与奪を握っているように思われているようですが、大学などの高等教育においては、その教育の成果は評価ではなく、学生自身の自発的な学びの量と質によってのみ測られるべきではないかと思うのです。学生が自分を生かすも殺すも、自分に与えるも自分から奪うも、ひとえに学生自身の意識にかかっているのであって、「学び」は教員が教え→テストし→評価するという流れで担保できるものではないんじゃないかと。

自分でもここのところのオンライン授業を続けてくるなかで、その思いを一層強くしました。オンライン授業は「学生たちの顔を見ることなく、直接彼らの声を聞くこともな」いがゆえに、従来の対面授業以上に学生の主体的な参加が必要不可欠です。面と向かっていない、学校に身を置いていないがゆえに、サボろうと思えばいくらでもサボれるし、ふだんの時間割やカリキュラムとは違う時間感覚のなかで学ぶので、自律的な生活態度が必要になります。

この点で、オンライン授業に求められるのが、従来の対面授業をZoomでやりましょう的な単純な「引き写し」ではありえないことは明白です。そこには学生の自発的な学びを誘発するようなあたらしい「仕掛け」が必要で、そのためには教員にも新たな思考とそれに伴う作業が求められます。だからオンライン授業の初動からその延長段階に当たる現在は、こんなにも疲れるのだと個人的には理解しています。そして、学生の自発的・自律的な学びを起動させる手段としてオンライン授業を捉えることも可能ではないかと思っているのです。

東京においても、緊急事態宣言の解除が目前に迫り、近いうちに対面授業の一部、または全面的な復活が図られると思います。そうなったあかつきにも、オンライン授業が持っている(と思われる)この長所は残していきたい。となれば、今後の対面授業も変わって行かざるを得ない、いや変わっていくべきです。オンライン授業を対面授業の「バージョンダウン版」とせず(水谷氏の言葉を借りれば「いい加減な授業」にせず)、より良質なものにしていく余地はまだあるのではないかと思いました。

疲れているからこそ粉をこねたくなる

以前「疲れているのに餃子を包みたくなる」ことがよくある、と書きました。

qianchong.hatenablog.com

世の中には毎度毎度の炊事に倦んでノイローゼ気味になっている方も多いそうです。もちろんどこのご家庭にもそれぞれの事情があって、小さいお子さんがいらっしゃるとか、パートナーが家事全般に非協力的だとか、本来の炊事以外のところでストレスを重ねている方もいらっしゃるのだとは思いますけど。ただ私の場合は、手を動かして料理を作ることがストレス解消になっているんですね。その点で、よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』に出てくる佳代子さんが言う「ごはん作るだけでイヤな事あってもけっこうリセット出来んのよね」にとても共感します。

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餃子を包みたくなるとはいえ、そこは時短で市販の皮を買ってきちゃいますが、以前は皮も粉からこねてのばしていました。そう、疲れているのに、いや、疲れているからこそ粉をこねたくなる体質でもあるのです。粉からこねてご飯を作るなんてそれこそ「男のホビー」みたいに思われそうですけど、そんなことはないのです。本当に粉をこねるのが好きで、以前フリーランスと宮仕え半々だった頃は通勤時間がないぶん余裕があったのか、三日と開けずにうどんを打ったりバゲットを焼いたりしていました。

やっている方は同意してくださると思いますが、粉をこねるのって思ったより簡単かつ短時間でできるんですよね。それを初めて知ったのは大学生の時、宮崎県の土呂久で砒素鉱山の鉱毒被害に苦しむ集落の人々と交流を持った頃でした。訪ねたとあるお宅がちょうどお昼前の時間で、その時に「もうすぐお昼だから、うどんでもつくるかね」と粉をこねていたおばさんがいて、とても驚いたことを覚えています。「うどんでも」という感じで、ごくごく日常のルーチンワークとして粉をこねるのか! ……と。

後年、中国に留学したときも、みなさんけっこう頻繁に粉をこねて水餃子を作っていたりして、ますます「毎日のように粉をこねる」ってのはごく普通の風景なんだと思うようになりました(もちろん中国のみなさんが毎日水餃子を包んでるわけじゃなくて、やはりあれは「ハレ」の料理ではあるんですけど)。そういえば私、昔は彫刻を学んでいて粘土をこねるのは得意なのでした。彫刻や陶芸で粘土をこねる時の「菊練り」という方法は、粉の生地を作るときにも使えます。どちらも要は粉(or土)と水分をできるだけ均等に一体化させる工程ですから。

粉をこねていると、とても幸せな気分になります。それは粉と水の量がバッチリ決まって、赤ちゃんの肌のようなもちもちした表面になるその瞬間が美しいからです。さらに発酵系の、つまりイーストなどを入れる記事の場合は、一次発酵が終わってまとめ直す時のあの手触りがたまりません。ピザ生地や包子などは記事に油を少し練り込むのですが、あの油が十分に練り込まれた記事の手触りも、いまどきの言葉で言えば「エモい」。生地フェチにとっては一番お手軽なストレス解消法です。

ともあれ、昨日もオーブンの天板いっぱいにピザを焼きました。こねるの5分、発酵30分(この間に具や他のおかずを用意)、のばして具をのせて5分、焼いて20分。1時間あれば作れます。

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スマホで「マルチタスク的」な録音をしたい

学校での「対面授業」復活が予想していたよりも遅くなりそうだということになり、オンライン授業で本格的に通訳訓練をする必要に迫られて、はたと気づいたことがありました。最初は、要するに対面授業でやっていた「音声を聞かせる→生徒に訳してもらう→フィードバック」をZoomなどのウェブ会議システムで再現すればいいんだよね、音声も映像もインタラクティブな環境がある以上、基本的には大差ないよね、などと高をくくっていました。

ところが本格的な実施に先立って同僚や教務のスタッフなどといろいろ試してみたところ、ことはそう簡単ではないことが分かってきました。まずはウェブ会議システムそのものの不安定性。Zoomなどで会議に参加された方はお分かりだと思いますが、参加している全員が映像と音声を「オン」にしていると、通信環境にかなり負担がかかります。そこで通常はホストが全員の音声を基本的に「ミュート」にしておき、発言するときだけ「オン」にする、などということが行われています。

基本的にはこれで「音声を聞かせる→生徒に訳してもらう→フィードバック」が可能です。音声を聞かせ、誰かを指名してその人だけミュートを外し、訳してもらう。……なのですが、参加者のネット環境がまちまちなためか、そうスッキリとは行かないことが多かったのです。音が途切れたり、遅れたり、歪んだり、雑音が混じったり。特に通訳作業は、まず最初のインプット、つまり発話者の声を十全に聴き取ることに全神経を傾けていますから、そこでこういう音声面のトラブルが少なからず起きると、なかなかスムーズに進みません。

こういうのは大容量の5G環境になれば笑い飛ばせるような昔話になるのかもしれませんが、2020年現在のニッポンでは、5Gどころか4Gさえもまっとうに整っていないような状態。加えて生徒さんの通信環境もまちまちで、自宅に光回線を引いている方もいれば、Pocket WiFiの方もいる。留学生の中にはスマホしか持ってませんという人もいる。下手に「ハイスペック」なことをやろうとすると、必ずついていけない人が出てきます。その方の実力でついていけないならまだしも、通信環境の格差でじゅうぶんな訓練が提供できないのはこちらとしても心苦しいです。

こういうところに学校からぜひ支援をしてほしいんですけど、ウチの学校は「いや、国から給付金が出るから」と対応が遅いですし、その国はといえば昨日もブログで書いたように「いずれ母国に帰る留学生が多い中、日本に将来貢献するような有為な人材に限る要件を定め」るなどと言い出す始末。

qianchong.hatenablog.com

とはいえ文句ばかり言ってもいられないので、ちょっと「スペック」を落として(?)、通訳用の教材に、訳出用のポーズ(無音部分)を入れてmp3の音声ファイルを編集し直し(これはAudacityなどでごく簡単にできます)、それをLMSやメールで送って学生に訳出を各自で吹き込んでもらい、送り返してもらってこちらで聞き、さらにフィードバックを返す(あるいは「総評」的なものを出す)というやり方にしました。他にもメモを取りながら聞いて訳出とか、いろいろ訓練したいことはあるのですが、とりあえずできるところから始めようと。

ところが、ここでまた壁にぶつかりました。スマホしか持ってない学生はどうやって録音すればいいのでしょう。

スマホで「マルチタスク的」な録音ができるアプリ

私は当初、例えばiPhoneならデフォルトでついている「ボイスメモ」を使って録音して送ればいいと思っていました。誰でも日常的にやっていることです。ところがiPhoneの「ボイスメモ」は、他のアプリが動いている時は止まっちゃうんですね。マルチタスクではないんです。教材のmp3ファイルを再生しながら「ボイスメモ」で録音ということができない。スマホの他にパソコンなど持っている学生は、パソコンからmp3を再生しておき、スマホの「ボイスメモ」で録音するだけですから簡単なのですが。

それでいろいろ調べたら、AppStoreで公開されているアプリの中にはこうしたマルチタスク(というか多重音声とでもいうべき?)が可能なものがあるらしい、ということが分かりました。いまのところ私が使ってみて大丈夫だったのは、これ。無料版はほぼ録音しかできませんけど、それでも十分です。

高音質録音 - ボイスレコーダー&ボイスメモ

高音質録音 - ボイスレコーダー&ボイスメモ

  • OneStep Inc.
  • ユーティリティ
  • 無料
apps.apple.com

教材のmp3音声を流しながら、その音声とポーズの間に訳す自分の声が両方とも録音され、保存されます。いや、このアプリにたどり着くまで、合計10個近くのアプリを試しちゃいました。協力してくれた同僚によると、Androidではこれで同じことが実現できるようです。

play.google.com

またAndroidでは、例えばSamsungの一部機種ではマルチタスクが最初から備わっていて、デフォルトの「ボイスメモ」的なアプリでも多重録音ができるようです(未確認)。ともあれ、これでなんとか訓練のお膳立てが整いました。学生にはまず資料を送って背景知識を予習しておいてもらい、なおかつ各自グロッサリーを作成して提出してもらっています。このあと、ポーズを入れた通訳用の音声を配布する予定。さてこのオンライン授業、上手く行くでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_40.html

追記

Facebook「オンライン授業のコツ・知恵・経験談の共有(よりよいオンライン授業を目指して)」グループで、同じような取り組みをされている方からもっとシンプルな方法を教えていただきました。iPhoneiPadiPod touch では、画面の録画と音声の録音ができるのだそうです。つまり配布された教材音声を再生しながら、学生の声も含めてまるごと録画してしまえると。これなら訳出している時の表情まで把握できますよね。こんな機能があるなんて知りませんでした。素晴らしい〜! ありがとうございます。

support.apple.com

文部科学省の「現金給付、留学生は上位3割限定」を恥ずかしく思う

新型コロナウイルス感染症の影響でアルバイトなどができず、学費やオンライン授業への対応(通信費など)で苦慮している学生さんに最大20万円の現金給付を行う支援策が検討されています。この給付について文部科学省が「外国人留学生に限って成績上位三割程度のみとする」と通達しているとの記事を読みました。

this.kiji.is

文部科学省の説明は「いずれ母国に帰る留学生が多い中、日本に将来貢献するような有為な人材に限る要件を定めた」とのこと。私はこれを読んで思わず天を仰ぎました。何という近視眼的な発想、何という人間に対する想像力のなさでしょうか。

この困難な時期というのは、新型コロナウイルス感染症もさることがなら、この国がこれからじわじわと縮小していく「下り坂」に差し掛かって、これまでのように海外から視線を向けてもらいにくくなっているここ数年、十数年の経緯も含んでのことです。各国が留学生の獲得と自らの言語的プレゼンス拡大に躍起になっている中、わざわざ日本を選んで、あるいは日本が好きで留学してくださる留学生という存在が、今とこれからの日本にとってどれだけ大切なことか。

平成30年5月1日現在の留学生数は298980人(日本学生支援機構)。1人20万円支給しても約600億円。アベノマスクに466億円つぎ込むくらいなら、日本と縁を持ってくださる外国人を1人でも増やすほうがよほど「国益」にもかないます。

本当はあまり「国益」なんてナマな言葉は使いたくないけれど、留学生の存在はその国にとってかけがえのない「資産」(これもナマな言葉ですね)なんです。日本で学び、日本の良いところも悪いところも知悉した人々の多さが、私たちをより豊かで開かれた存在にしてくれるのです。文部科学省の説明には、そうした長期的な視点に立った、豊かな国際関係観と人間観が決定的に欠けています。近視眼的で想像力がないという所以です。

私はかつて中国(中華人民共和国)政府の奨学金を得て、かの国に留学しました。一年間、学費も宿舎費も無料で、毎月の「お小遣い(生活費+α)」もいただきました。当時私はすでに社会人でした(貯金ゼロの貧乏サラリーマンでしたが)が、社会人であっても試験をパスしさえすれば、奨学金をもらうことができたのです。しかも中国と日本の経済的な格差がまだ歴然としていた頃の話です。経済的には苦しくても、中国は長期的な視野に立って、自国を理解してくれる人材をせっせと招き入れていたわけです。このあたり、現在の中国には久しく見られなくなった、古き良き「大人(たいじん)」的な風格を感じます。

もちろん留学生を受け入れ、支援することがすべてそうした国益やら長期的な視点やら国際的な戦略やらに還元されるものではありません。また留学生にだって真面目な方もいれば、物見遊山的な方もいるでしょう。それは世界中どの国や地域に行っても同じだと思います。それでも、学業の成就・未成就に関わらず、一定期間その国に留学した人は、その国の理解者になります。そこに暮らす以上、ならざるを得ない。そうした理解者が、なおもその国にとどまるか、自国に帰ってしまうかはわかりません。それでも世界中にそういう「知日者」が数多く存在していることが、どれだけ私たちにとって心強いことか。

励ましは時に辛辣な批判という形を取ることもあるでしょう。でもそれもまた私たちを間違った方向に進ませないための、より豊かで幸せに暮らすための一助になるはずです。私は中国に留学している時に、現地の人々(学生のみならず、いろいろな人に会いました)と話していて「善意の批判」をできること、受け入れられることが人としての、そして国にとっても真の強さだと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_90.html

国の強さで思い出すのは、当時上映されていた張芸謀チャン・イーモウ)監督の映画《一個都不能少(邦題:あの子を探して)》を見たときのことです。見終わって私は、中国国内で貧困ゆえに学校に通えない子供がいるなか、私のような外国人が奨学金をもらって留学なんかさせてもらっていいのだろうかという「ひっかかり」を覚えて、そのことを中国人の友人に話したのでした(私にもそういう若い時代があったのだ……)。

それを聞いた友人はこう言いました。「それはまた別の話でしょ。アンタが中国で学んだあと、もしかしたら中日の交流に関わる仕事をするかもしれない。それだってウチの国に対する『貢献』だよ。仮にアンタがそうならなかったとしても、少なくともウチの国をよく知った人物を一人生み出すことができる」。そして、“總有一天,你會以自己的方式報答中國的,你說是不是?(それにいつの日か、あんたはあんたなりの方法で中国に「報いる」ことができる。そうじゃない?)”とつけ加えたのでした。

一大学生だったその友人にして、この「大人」的な達観と長期的な視野。かの国が強い理由はこんなところにもある。私はこの言葉をずっと反芻し続けているだけに、今回の文部科学省の方針には心底落胆し、情けなく、恥ずかしく思うものです。

ローソンの新しいデザイン

昨日は餃子を作ろうとしてキャベツを刻み、これを塩もみしようと思ったらなんと塩が切れていました。何たる失態。それで近所にあるローソンへ塩を買いに行きました。よくある卓上塩の小瓶しかなかったのですが、まあこれでよしとしましょう。……と、何となく店内に静かな雰囲気を感じてよく見たら、ローソンのプライベートブランドのパッケージが何だかベージュ色をベースにした可愛くてシンプルなデザインになっていました。

ネットで検索してみたら4月頃からリニューアルされたようです。日頃、コンビニエンスストアというものをあまり利用しないのでいまさらながらに気づいたのでした。

www.axismag.jp

ネットではこのデザインについて「賛否両論」が起こっているということも知りました。へええ。私はシンプルでいいデザインだなと思いましたが、ぱっと見て何の商品だか分かりにくいとか、文字が小さすぎて読みにくいという意見があるそうです。なるほど、私もかなり老眼が進んでいますから、その気持ちは分かります。

中には、中国語の簡体字や韓国語のハングルが併記されていることに噛み付いているヘイトスピーチまがいの意見もありました。差別や偏見は言語道断ですが、これは少々奥の深い問題だなと思いました。例えば私は、駅のサインシステムなどにやたら外語表記が増えていくのは一瞬の可読性などの視点からはあまり良くないのではないかと思っています。それでも日本語に加えて、英語・中国語・韓国語の表記が入るのは、特に東京のような都市ではスタンダードになりつつありますし、コンビニなどでちょっと手にとった商品が何かわかるというのはけっこう便利なんじゃないかな、とも思い直しました。

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賛否両論の「否」で散見されたのは「デザインの敗北」というキーワードです。これはデザイン(というか、デザイナーの独りよがりな「かっこよさ」追求)が機能により良く寄り添っておらず、かえって使い勝手が低下してしまっているデザインを批判する言葉です。こちらにとても興味深い記事がありました。

note.com

このうちのいくつかは、実際に私も遭遇したことがあって、確かに分かりにくくて混乱した覚えがあります。今でもよく覚えているのは、JR市ヶ谷駅にかつてあった改札。これは改札自体の「デザインの敗北」というよりは、JR・東京メトロ有楽町線南北線都営地下鉄新宿線の乗り換え口という場所がもたらした混乱に、サインシステムのデザインが対応しきれていなかった「敗北」です。でもこの改札は、その数カ月後には下のように「改善」されていました。

こういう、人々の行動を自然に導くデザインというのは、とても難しく奥が深いものなんですね。上述のローソンのデザインについては、とても興味深い解説をされている方がいました。

note.com

私はこの方が述べておられる「これでいい」から「これがいい」というほんの少しの上質さを目指したというの、とても腑に落ちました。普段はあまり立ち寄らないコンビニで「卓上塩」を買ったついでに、その近くにあったオリーブオイルで揚げたというポテトチップスを「これがいい」と惹かれて買ってしまいましたもの。

www.lawson.co.jp

ネットの動画や写真をオンライン授業で使っても大丈夫?

通常の対面授業で、YouTubeの動画やネット上にある写真をその場で検索し、プロジェクターで投影して、参考資料として見せることがあります。これが現在はオンライン授業(遠隔授業)を余儀なくされている関係で、そういう検索をしている場面を録画したり、あるいはPowerPointなどのプレゼン資料に張り込んで解説しているのを録画したりして、Google ClassroomのようなLMSで配信するという形になっているのですが、これって著作権法的には大丈夫なの? ……という点が気になりました。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/copyright.html

著作権法を確認する

そこで様々な資料にあたってみました。まずは「著作権法」の第35条です。2018年に改正されたこの条文では、著作物を……①学校その他の教育機関で、②教育を担任する者と、③授業を受ける者に対して、④授業の過程で、⑤複製すること、⑥公衆送信すること、⑦伝達すること、を認めています。もちろん⑧著作権者の利益を不当に害することとなる場合は除いて、です。まずはこれらを確認してみることにしました。

①学校その他の教育機関……うちは専修学校なので、OK。
②教育と担任する者……私は講師なのでOK。ちなみに非常勤講師ももちろんOKです。
③授業を受ける者……うちの学校の学生なのでOK。
④授業の過程……講義、実習、演習、ゼミなどなのでOK。
⑤複製……いろいろな形がありますが、私が気になっているのはYouTubeの動画やネット上にある写真の複製です。これについては勤務先の学校から「著作物の教育利用に関する関係者フォーラム」から示された『改正著作権法第35条運用指針』というものが配布されていて、そこではいろいろある「複製」のパターンのうち、これらもOKとなっています。

・キーボード等を用いて著作物を入力したファイルのパソコンやスマホへの保存。
・著作物のファイルのサーバーへのデータによる蓄積(バックアップも含む)。

⑥公衆送信……私の場合は特定の学生だけに送信するので、ここは関係ありません。
⑦伝達……これは「指針」に該当例が示されていて、例えば「授業内容に関係するネット上の動画を授業中に受信し、教室に設置されたティスプレイ等で履修者等に視聴させる」などがあたるそうです。私の場合もこれですが、それをさらにオンライン授業で使っていいのかどうか(後述します)。
著作権者の利益を不当に害することとなる場合……これも「指針」に「基本的な考え方」が示されていて、そこでは学生の数を大幅に超えて配信するとか、一人一冊使用するドリルやワークブックを「全コピー」するとかはNGとなっています。基本的には、授業を受ける学生にだけ配信して、授業後は蓄積したデータを速やかに削除してそれ以上広がらないようにすればOKのようです。この点はちょっと曖昧なので、例えば学生に「コピーして外に出したりしないように(例えば友達に送るとか)」などと注意喚起しておく必要がありそうです。

いずれにしても、YouTubeの動画やネット上にある写真などの「著作物」を、授業で見せたり、一時的にダウンロードして使ったりすることは、まず問題ないようで安心しました。ただ、普段の対面授業はそれでよくても、それをまた録画してLMSで送信するのは大丈夫なのでしょうか。

授業目的公衆送信補償金制度

この点については、今回の新型コロナウイルス感染症の拡大でオンライン授業を余儀なくされているという状況に鑑みて、「授業の過程における著作物のインターネット送信」が一定の条件で認められることになっています。これは数年前から検討されてきた「授業目的公衆送信補償金制度」によるもので、学校でのICT活用を促進するために指定管理団体(授業目的公衆送信補償金等管理協会・SARTRAS:サートラス*1へ一定の補償金を支払えば、著作物を合法的に利用できるというものです。

この制度は2018年に著作権法の一部が改正され、来年までに施行予定だったのですが、新型コロナウイルス感染症の影響でオンライン授業への対応が必要になったため、前倒しで施行されました。今年度に限って、補償金額を特例的に無償として申請できることになったのです。つまり本来ならSARTRASへ一定の補償金を支払ってはじめて著作物のインターネット送信が認められるところ、今年度は非常事態だからとりあえず補償金はいいから教育を前に進めて、ということですね。素晴らしいです。

うちの学校もすでに届け出を済ませて、申請が受理されています。というわけで、「YouTubeの動画やネット上にある写真を使って授業を行っているところを撮影してLMSで配信」は基本的に大丈夫そうだということが分かりました。

違法著作物の取り扱い

ただし、なおもネットでいろいろと検索してみると、写真や動画のうち、「違法著作物であることを知りながら、そのファイルをダウンロードして行うデジタル方式の録音や録画は複製権の侵害」という見解を示している弁護士さんもいるようでした。ただし、ここがちょっとグレーなのですが、ダウンロードではなく再生・視聴するだけならまず大丈夫のよう。う〜ん、つまり、例えばYouTube動画を使うにしても、オフィシャルなものに限定しておいたほうがいいということでしょうか。ちょっと学校の法務部門にも相談してみようと思います。

*1:文化庁長官により授業目的公衆送信補償金を受ける権利を行使する国内唯一の指定管理団体として指定されています。

新しい歌を歌う

在宅勤務が長期間に及び、これまでになかった形でのオンライン授業や遠隔授業などの準備と実施に追われているうち、先週や先々週あたりはちょっと心身ともに疲れ切ってしまっていました。やることは次々に立ち現れてくるのに、身体がどうにもだるくて、心もちょっと沈みがちになっていたのです。しばらく減っていた酒量もここに来て増えつつありましたし、明らかによくない兆候でした。

それで、まだまだ非常事態宣言の真っ最中ではあるものの、職場へ自転車で通勤してみることにしました。職場からの指示は「原則として在宅勤務」なので。とにかく狭すぎる自宅に一日中いると、オンライン授業の準備や録画、録音なども気兼ねなく行うことができず、ストレスが溜まります。もうこれは限界だと思いました。職場に行けばほとんど人がいない(出勤時と退勤時にカギをやり取りする守衛さんにしか合わない日も多いです)ので仕事が捗ります。

運動不足も深刻でした。ジムにはもちろん行けず(どこも休業中)、近所の公園は普段よりも人口密度が高くなっていて却ってよろしくなさそう。それもあって、片道40分、往復1時間半ほどの自転車通勤がいい運動になります。さらに、研究室やフロアに誰もいないのをいいことに、退勤時間後に自重を使った筋トレも再開しました。床を使って体幹レーニングの多くが可能ですし、腕立て伏せもできます。ダンベルはないけど、不要になってまとめてある書類の束を使ったりなんかして。

さらにオンライン授業は課題のやり取りなどでメールやメッセージがひっきりなしに入り、いきおい24時間対応になだれ込みがちなので、出勤時だけの対応に絞り、週末は一切仕事をしないなどの「メリハリ」もつけるように気をつけ始めました。一時は夢の中でもオンライン授業への対応を考えていたりして、これはいかんなと思っていたのです。たぶん同僚のみなさんも多かれ少なかれ、同じような状況に置かれていると思います。ここは声を掛け合って、この「ニュー・ノーマル」に対応していかねばなりません。

先週末は先日録画しておいた、昔懐かしい「アバ(ABBA)」のドキュメンタリーを見ました。どの曲も、とりわけいまだからか心にしみます。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2145810/index.htmlwww.nhk.or.jp
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その勢いで、映画『マンマ・ミーア!』も見てしまいました。底抜けに明るい、設定とかリアリティとかは正直どうでもよくなるような映画(ちょっと失礼)。でもその明るさと人生への手放しの肯定感に、これまた救われたような気がしました。特に「Chiquitita」の歌詞には、とことんやられました。

Chiquitita, you and I cry.
But the sun is still in the sky and shining above you.
Let me hear you sing once more like you did before,
sing a new song, Chiquitita.

そう、“Sing a new song”ですね。

オンライン授業の「非身体性」をめぐって

今朝の東京新聞に載っていた、貴戸理恵氏の「オンライン居場所」というコラムをとても興味深く読みました。氏によれば、テレワークやオンライン授業などで人々が距離を取りつつ集う「居場所」で失われているものは「余白」と「身体性」ではないかとのこと。まさにその通りだと思いました。

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ちょうど一昨日、私はオンライン授業についてブログで、「『相手の存在の希薄感』とでもいったようなものが、なにか『もやもや』とした気持ちを醸し出しているような気がする」と書いたところでした。このいわくいい難い気持ちの悪さはなんだろう、それは単に「オンライン授業」という新しい形式に身体が馴染んでいないがゆえの反応なのか、それとも生身で相対しないことそのものになにか学びを大きく損なうような側面があるのだろうか……と。

qianchong.hatenablog.com

貴戸氏がおっしゃる通り、パソコンの画面越しに向き合う人と人との間には、その場を共有する身体性が欠けているがゆえに、その場に「身を委ねたという信頼と受容」が起きにくく、その結果「予想外の展開は生まれにく」く、「言葉の比重が大きくな」る。もちろん人のコミュニケーションに言葉は欠かせないもののひとつだけれど、言葉以外の何かによってもコミュニケーションは大きく補完されているのだ……そんなことをここ数日感じ続けていたために、貴戸氏が言語化してくださった「オンライン居場所」の特徴に、思わず膝を打ったのでした。

確かにオンライン授業では、それが元々持っている「隔靴掻痒性」がゆえに、普段の授業よりもずいぶん入念に教材を配置し、説明を尽くし、フォローもより細かく行っています。それは対面授業よりも更に行き届いた配慮がなされるわけだから、むしろ学生にとってはよいことなのではないかと最初は思っていました。また対面授業がついその場の豊富なインタラクティブ性に助けられて、たとえば教師側がある種「お茶を濁す」ようなことが容易な場だったのだとすれば、オンライン授業はそんな「甘え」を受け付けにくいという意味で刺激になるし、教師にとってもこれまたよいことなのではないかと。

ところが、数週間オンライン授業を展開してみて感じ続けてきたのは、まさに貴戸氏がおっしゃるような、その場に「身を委ねたという信頼と受容」の希薄さだったような気がしています。同じ場に、同じ空間にいて、同席している誰とでも・いつでもやり取りができ、相手の身体感覚が直接伝わってくるという一種の皮膚感覚を持てること。これがどれほど大切かが今ではよく分かるのです。

ふだん学生さんたちは、こちらが問いかけても反応が薄く、なかには居眠りしている人もいるわけで、そんなとき私はなんだかベタ凪の湖面に一人小石を投げ込み続けているような気分になるのですが、それでもオンラインの「非身体性」に比べればずいぶんマシだと思いました。

教室で実空間を共にしていれば、肩をたたいて起こすこともできるし、あるいは「疲れてるみたいだからそのままにしておきましょう」と他の学生さんたちと目配せしあって小さな笑いを共有することもできる。ときには「誰も答えないってどゆこと!?」とキレることもできるし、学生の表情や空気感から「これはいかん」とこちらの不備を見透かされて焦ることだってある……。それらすべてはオンライン授業でもできなくはないけれど、どこかが決定的に違うようなのです。

それは身体性の欠如であり、貴戸氏のおっしゃる「究極的には『生きもの』である私たちは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく」という現実からの遊離ゆえではないかと思いました。それはなにも保育や介護だけでなく、教育の現場でも同じなのではないかと。オンライン授業の経験は、確実にこれからの教育に何がしかの可能性をもたらすと思います。だから「何といってもコミュニケーションは対面が一番」とは思いませんが、同時に「すべてのコミュニケーションがオンラインで可能」と言い切ってしまうことも私にはできないな、と考えているのです。

トーベ・ヤンソン氏を描く映画『TOVE』

ムーミン』シリーズの作者として有名なフィンランドトーベ・ヤンソン氏。その氏をテーマにした映画『TOVE』が制作されているという情報をSNSで知りました。

www.moomin.co.jp

トーベ・ヤンソン氏はフィンランド人ですが、スウェーデン語系フィンランド*1なので、母語スウェーデン語。『ムーミン』シリーズもオジリナルはスウェーデン語で書かれています。以前トーベ・ヤンソン氏の伝記*2を読んだことがあって、てっきりこの本の映画化かなと思っていたら、まったく新しい創作のようですね。主演のアルマ・ポウスティ氏は、写真で拝見するかぎり、どことなくトーベ・ヤンソン氏ご本人の雰囲気に似ているような気がします。


Alma Pöysti on Playing Tove Jansson in First Feature Film about the Moomins Creator

フィンランドでは今秋公開とのこと。トーベ・ヤンソン氏はまだ同性愛などが社会的な認知と尊重を受けていなかった時代にあっても、自らのセクシャル・アイデンティティを隠そうとはしなかったことで有名です。新作の映画でこの点が描かれるのかどうかはわかりませんが、今から楽しみです。日本でも人気のあるトーベ・ヤンソン氏ですから、きっと日本公開もされるでしょう。

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nordiskfilm.fi

オンライン授業にありがちな「落とし穴」

オンライン授業(遠隔授業)を始めて、いろいろと気づいたことがあります。そのひとつは、文字ベースにせよ映像ベースにせよ、コミュニケーションへのより細やかな配慮が必要になるという点です。対面授業ではリアルタイムでの口頭でのコミュニケーションで済ませていたところを、すべて文字(文書)なり映像なりに盛り込まなければならない。これがけっこう気を遣って大変だな、しんどいな、と思いました。

しかも対面授業では、その場で相手の反応を見ながら言い方を変えたり、言い直したり、その都度相手から届く疑問や質問に答えたりして、リアルタイムで理解の齟齬や誤解を解消する試みが不断になされます。相手の表情で理解されたかどうかを即時に「体感」することもできる。それがオンライン授業ではなかなかスムーズに行かず、その結果、勘違いや思い違いや誤解が長く残り続けて、双方に「もやもや」したものが残るのです。

これは「非同期」型の授業で特徴的に現れます。課題を送り、その課題が提出されてくるまでにタイムラグがあるのですから当然です。メールのやり取りでも同じような誤解は生じますし、TwitterやLINEのようなSNSのメッセージのやり取りでも、ちょっとした書き方や表現によって気持ちのすれ違いや誤解が生じることはよくありますよね。また「同期」型の授業でも同じようなすれ違いや誤解は生じます。相手がインタラクティブなやり取りに非積極的である場合は特に(映像や音声をミュートしたままとか、反応を返さないとか)。

またGoogle ClassroomのようなLMS(学習管理システム:Learning Management System)を使ったやり取りも、まだお互いが使い方に習熟していないという側面はあるものの、どうにも「隔靴掻痒感」が否めません。例えば課題を送出して、それが確実に届いて、課題に取り組み始めたのかどうか、どれくらいの進度で課題をこなしているのか、また学生側からすれば課題を返送して教師がそれを確実に受け取ったのか、その後どんな反応があるのか……こうした様々な部分での「相手の存在の希薄感」とでもいったようなものが、なにか「もやもや」とした気持ちを醸し出しているような気がするのです。

オンライン授業というのはもともとそういうものだよ、むしろ対面授業ではできないことをオンライン授業に求めていくべき、オンライン授業で開発していくべきで、隔靴掻痒感や「もやもや」感を抱えているのはまだ対面授業の発想から完全に抜け出していないからだよ、という声も聞かれます。いや、まさにそういうことなんでしょうけど、私は生身の人間が相対してその都度、反応し・反応されながら進められる学びというものも必要なんだな、むしろそれでしかできない学びもあるのかも知れないな、と思い始めています。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_36.html

あともうひとつ、LMSを使ったオンライン授業ではとにかくメールやメッセージやリマインダーがひっきりなしに届きます。初動のいまは特に、全体がどう流れているのかを把握したいのでそうした「届きもの」はすべてオンにしていますが、ある程度軌道に乗ったらオフにするものを選んでいくのが大切ではないかなと思いました。なにせ、昼夜を問わず届くのです。特に「非同期」型の授業で課題を出している場合、学生さんは自分の生活の中でいつでも課題に取り組めますから、夜型の人など深夜に送ってきたり、質問してきたりする。そういうのにも一つ一つ対応していると、実質24時間スタンバイ状態に陥りかねません。

メールは届いたらすぐ返信というの、サラリーマンの時に教え込まれましたし、フリーランスのときにはなおさら自らに課していました(じゃないと仕事を取りっぱぐれるから)けど、オンライン授業の場合は例えば通常の対面授業と同じ時間帯でLMSに「出勤」と「退勤」をして、それ以外の時間帯には基本的に反応しないというふうにしたほうが良さそうです。でないと早晩身体を壊しそうな予感がします。

イヤーワームを消す方法

ここのところ、イヤーワームがひどくて少々まいっています。イヤーワームとはある音楽が頭の中で「ヘビロテ」してしまうアレで、ウィキペディアには簡潔に、「歌または音楽の一部分が心の中で強迫的に反復される、俗にいう『音楽が頭にこびりついて離れない』現象である」と表現されています

強迫的に反復というのは本当にその通りで、かなりしつこく何日も残り続けるのです。ここ数日出現しているイヤーワームはなぜか「Pretender(Official髭男dism)」や「晴天(周杰倫)」で、妻によると先日など夢の中でも歌っていたらしいです。私は昔からコレがけっこうひどくて、一時期は病的な原因も疑ったのですが、どうやらそこまでではないようで。何かに集中している時はもちろん消えているようなのですが、ちょっとでも気を抜くとすぐに頭の中で鳴りだします。

qianchong.hatenablog.com

以前ブログを書いた時は「アナグラムづくり」が効くらしいという情報を得ていたのですが、今回検索してみたら「チューインガムを噛む」という方法が紹介されていました。私はふだんガムをまったく口にしない人間なのですが、さっそく買って試してみました。……が、私にはあまり効果がなかったようです。

www.j-cast.com

このイヤーワーム、仕事が忙しいときや煮詰まっているときに極端に多く現れるような気がします。たぶん心のどこかで、何かの平衡を保とうとして現れるのかもしれません。だって旅行している時にイヤーワームで苛まされた記憶はまったくないんですから。となれば、究極のイヤーワーム解消法は仕事を辞めるか、辞めないまでも減らすことなのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_969.html

自転車レーンもけっこう危ない

非常事態宣言が地域によって徐々に解除されつつあるフランスでは、公共交通機関を避けて通勤したいという人が自転車通勤を選択するようになり、自転車が品薄になっているというニュースに接しました。私も出勤しないと仕事にならない(家が狭すぎてオンライン授業の録画などとても無理)のと、運動不足解消を兼ねて、先週から自転車で出勤しています。職場には誰もおらず、鍵を受け取る時に守衛さんと会う以外は一日中ほぼ誰にも会うことがないほどで、極めて快適です。

自宅から職場がある新宿までは自転車で35分ほど。グーグルマップでルートを検索して、色々なルートを試してみましたが、幹線道路を使うとスピードが出せて早いものの、かなり危険を感じるので、裏道をゆっくり走るルートに定着しました。こうやって自転車で走ってみると分かりますが、平坦に見える東京都心部も、けっこう起伏が多いんですね。

幹線道路は危険を感じると書きましたが、裏道でも時々車に接触しそうになって恐い思いをすることがあります。以前から指摘されていたことではありますが、日本の、というか東京の道路はとにかく狭くて、その意味では自転車には極めて優しくない道路が多いです。しかも最近は自転車は歩道を走らず路肩(道路の左側)を走るよう指定されているところが多いのですが、その自転車レーンがほとんど申し訳程度の幅しかなく、かなり走りづらいです。

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もっとも車に乗っている方からしても、この自転車レーンはけっこう厄介なんだそう。以前乗ったタクシーの運転手さんは、路肩を走る自転車に接触しそうになることが多くて、いつもヒヤヒヤするとおっしゃっていました。とはいえ、これはもう東京という都市の構造そのものの問題なので、解決するのはほぼ不可能でしょう。それこそ車に乗る人が大幅に減って、みんなが自転車に乗るようになればまた変わる可能性もあるのでしょうけど。

授業料の減免を!

昨日の国会で、野党四党が新型コロナウイルス感染症の影響で経済的に困窮する学生を支援する法案を提出していました。「授業料半額免除」、「アルバイト減収分補償」、「奨学金の返済免除」が柱だそうです。ぜひ実現に向けて検討を進めてほしいと思います。

www.nikkei.com

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私が担当している学生さんは全員外国人留学生ですが、ただでさえ慣れない「アウェイ」な環境で暮らしているところに加えて、今回の感染症の影響を受け、これまた慣れないオンライン授業(遠隔授業)への対応を強いられて、かなりストレスがたまっています。私たち教員の対応もまだ手探りなところが多く、通常の対面授業と比較すれば現在のところは「バージョンダウン」感が否めません。留学生からは、学費の減免を求める声が少なからず届いていて、そのたびに胸が痛みます。

中には入国制限ギリギリで来日できたものの、春からの授業はストップ、もちろんアルバイトもできないし、周囲にまだそんなに知り合いもおらず、母国に帰ることもできないという状態で不安な日々を過ごしている新入生もいるのです。国の対応はとにかく遅くて後手後手に回りがちなので、とりあえず学校として何がしかの支援をしてほしいと我々教員も働きかけているのですが、規模の大きい学校ほど反応も鈍いようです(いや、規模が大きくてもいち早く支援策を打ち出しているところもありますから、これは「校風」ということになるのでしょうか)。

昨日もとある台湾人留学生から、今のような「目減り」した授業でお茶を濁すのは納得できないという長文のメールが我々教師あてに届いて胸を痛めていました。本当にその通りだなあと思うからです。もちろん「目減り」「バージョンダウン」と言われないくらいのオンライン授業を作って日々配信していますが、たしかに四月の初動段階では私たちも後手に回ったことは否めません。批判は甘んじて受け、今後巻き返したいと思っています。

この留学生はメールに「先生方が日々私たちのために頑張ってくださっていることはもちろん分かっているし、感謝している」という一言も添えてありました。う〜ん、外国人留学生にそこまで気を遣ってもらうこと自体が申し訳ないし、不甲斐ないです。なんとかせねばなりません。

あまりにも家が狭いので

在宅勤務やテレワークの期間が長期化するにつれて、その利点が様々な角度から論じられています。こうして否応なしに在宅勤務に追いやられてみると「なんだ、意外にできるじゃないか」と思った方が多いのだとか。あの長時間満員電車に揺られる苦行はいったい何だったのかと。たしかに、ウェブ会議システムを始めとする協同のための道具がこれだけ揃っているいま、もう郊外から都心へとみんなが通勤してオフィスビルに籠もらなくてもできる種類の業務や業態はたくさんあると思います。

業務や業態によっては、大都市に集中して住まなくてもほとんどの仕事が可能になるのかもしれません。私が奉職している教育業界だって、従来のように学生さんが「登校」してきて、リアルな対面授業をやらなくてもなんとかなると思う方はいらっしゃるようです。大学など様々な学校や機関がネットでの学びのコンテンツを充実させていますし(日本はまだまだ遅れているようですが)、ネットで使える教育用のサービスも数え切れないほどあります。現在はまだデータ通信量の点で不自由な部分もあるものの、まもなく5Gの環境が標準になって、VR(仮想現実)のような技術も成熟してくれば、かなりのことができるようになるのではないかと予想する方々もいます。

私はもう中高年から老年の域に差し掛かっていて、定年とか退職とかいう言葉が指呼のうちに入ってきている人間ですし、それらを迎えた先は、正直もうこの業界にはあまり関わりたくないかな……などと考えている人間です(もっと別のことをやってみたい)。それでもせっかくこういう機会に遭遇したのですから、せめていろいろな可能性を試してみたいなとは思っています。その意味ではやる気十分なんです。向き合っている学生さんたちの顔を思い浮かべると、なおさらに。

ただ私の場合は、自宅があまりにも狭いために、在宅勤務がとてもやりにくい環境だと分かりました。むかしむかし、自嘲を込めた流行語に「ウサギ小屋」というのがありましたが、うちは本当に狭くて寝室と居間の二部屋しかありません。そんなところで私が朝から晩まで在宅勤務をしているんですから、妻も私もストレスがたまります。いくら服を着替えて「出勤モード」にしても仕事に集中しにくいですし、ウェブ会議や授業の録音なんてことになると、とんでもなく気疲れします。

せめて書斎や勉強部屋みたいに一人でこもることができる部屋がもうひとつあればいいのですが、そうなると東京のこのあたりでは家賃がバカ高くなり、私の収入ではとてもまかない切れません。もっと家賃の安い郊外へシフトするのもひとつの選択ですが、今以上に満員の通勤時間に揺られるのは耐え難い……。これはもう東京という異様に密集した大都市に住む者の宿命かもしれません。幸い今住んでいる場所から職場までは自転車で40分ほどなので、最近になって週に何度かは自転車で通勤するようになりました。運動不足解消も兼ねることができますし。

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https://www.irasutoya.com/2015/12/blog-post_29.html

久しぶりに職場に行ってみて、誰もいない空間というのは実に仕事が捗るなあと思いました。普段はいろいろな人が出入りしていて、いろいろな要件で作業が中断されるのですが、今のこの時期は人がほとんどいないので、ものすごく快適です。「ステイホーム」「家にいよう」をできれば守りたいのだけれど、あまりに家が狭いのでおかしくなりそう、で、つい外に出ちゃうという方、特に東京の都心には多いんじゃないかと思います。

新しい生活様式

新型コロナウイルス感染症との並走が長引くにつれて、なんとも重苦しい雰囲気が社会に充満しています。「自粛警察」などという言葉に嫌悪感を抱きつつも、「三日に一度」と言われマイバッグを二つも持参して向かった近所のスーパーに、家族連れで子どもを「野放し」(失礼)にしている夫婦とか、手ぶらで何も用がなさそうなのにあれこれ商品を触って歩いているお年寄りなどが散見されるや、自分の心にも憎悪が芽生えているのを発見してさらに沈んだ気持ちになります。

この憎悪って何かに似ているなと思ったら、そう、ふだん私が往来で所構わずタバコを吸っている人につい向けてしまう思念とほぼ相似形なのでした。要するに、自分の健康や快適さが侵されることに対する嫌悪感なんですね。私はどちらかというとそんなに几帳面じゃなくて「ずぼら」な人間だと思いますけど、それでも人並みに健康や快適な環境、ひいては清潔さや「あらまほしき」マナーの遵守についての欲求は持っているわけです。

……と思っていたら、先日、政府が「新しい生活様式」というものを公表していました。生活に関する事細かなマナーが列記されていて、なるほど「自粛警察」はこうした政府オフィシャルのお墨付きを得てますますその勢いを増すのかもしれない、と思いました。私はこうした「啓蒙」は必要かなと思いますけど、それが「自粛警察」のような相互監視や同調圧力の強化につながっていく危うさも軽く見るべきではないと思います。

www.mhlw.go.jp

今回の新型コロナウイルス感染症では、諸外国に比べて日本の感染者数が比較的少なく抑えられている理由について、さまざまな陰謀論と同時に「日本ならではの特徴」も喧伝されています。いわく、靴を脱ぐとか手洗い・うがいの励行とか毎日入浴するなどの生活習慣が普段から浸透していて清潔を愛する国民性だからだ……と。

なんだか「日本スゴイ」の変奏版で私はあまり同意できないんですけど(子供の頃を思い出してみるとそんなに社会は清潔じゃなかったし)、でも海外で暮らした経験からすると確かに日本は比較的きれいで整った生活環境が実現できているとも思います。私が職場で出会う海外からの留学生も、多くの人が異口同音に「日本はきれい」と言ってくれます(お世辞もふくめて)。

先日読んだ、深町英夫氏の『身体を躾ける政治――中国国民党の新生活運動』という本には、日本に留学してその清潔で規律正しい人々の生活のあり様に感化された蒋介石氏が、後年大々的に展開した「新生活運動」について詳細な考察がなされていました。そこに詳述されている「陋習」は、この運動が展開された1930年代から50年代のみならず、(大変失礼ながら)その後の時代、私が留学や仕事などで暮らしていたごく最近に至るまで、程度の差はあれかなり普遍的に見られたものでした。

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身体を躾ける政治――中国国民党の新生活運動

この本によれば「新生活運動」は15年ほど展開されるも、確たる実を上げ得なかったのだそうです。ところが最近では(特に都会部においては)ネットを駆使した「社会信用スコア」等による監視社会体制が急速に進化したことも相まって、「衣食足りて礼節を知る」が現実化してきたと言われていますよね。この本にも終章にこう書かれてありました。

先進諸国が経てきた近代化過程を経ることなく、「富強」が自己目的化し個人の尊重を伴わぬ国家――いわば特異な「後現代(post-modern)超大国として、二十一世紀の中国は台頭しつつある。(中略)「中国模式(モデル)」や「北京共識(コンセンサス)」といった、昨今しばしば議論される概念が示唆するように、新たな「近代化」の範例を中国は創出しようとしているのだろうか。(330ページ)

これはとても失礼な言い方になりますが、私は中国が新たに創出しつつあるポストモダンが、「新生活運動」でも克服し得なかった生活様式を根本から(人々の心性の根っこから)変えていくのは難しいのではないかと思っています。人間のあり様というものはそういうシステムだけで抑え込めるような単純で脆弱なものではないんじゃないかと思うからです。でもそれを抑え込む「自粛警察」みたいな機能を、かの国はテクノロジーで実現しようとしているんですけど。

もちろん、だからといって「中国人は不潔」といったヘイトスピーチに加担する気は毛頭ありません。先日たまたま見たテレビの時事教養系バラエティ番組では、歴史上猛威をふるった感染症(ペストや天然痘など)が中国由来だったと説明されていて、その瞬間にTwitterなどのSNSでは今次の新型コロナウイルス感染症を引き合いにした「ミニ・トランプ氏」みたいな人がわんさか登場していて頭を抱えました。こういう漠然としながらも暗黙のうちにどこかを悪役に仕立て上げる心性は本当にたちが悪いです。

……と、ここまでブログを下書きにしておいて、さっきスーパーへ買い出しに出かけようと家を出たら、うちのアパートの前で犬を連れた三十絡みの髭面の男性が、道端で小便をしながらタバコを吸い、そのままアスファルトの路面に座って犬をあやしていました(実話)。なんかこう、政府の「新しい生活様式」と中国国民党の「新生活運動」とブログで書いていたこととすべてにシンクロするような光景で、ちょっと笑っちゃいました。