インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業の「非身体性」をめぐって

今朝の東京新聞に載っていた、貴戸理恵氏の「オンライン居場所」というコラムをとても興味深く読みました。氏によれば、テレワークやオンライン授業などで人々が距離を取りつつ集う「居場所」で失われているものは「余白」と「身体性」ではないかとのこと。まさにその通りだと思いました。

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ちょうど一昨日、私はオンライン授業についてブログで、「『相手の存在の希薄感』とでもいったようなものが、なにか『もやもや』とした気持ちを醸し出しているような気がする」と書いたところでした。このいわくいい難い気持ちの悪さはなんだろう、それは単に「オンライン授業」という新しい形式に身体が馴染んでいないがゆえの反応なのか、それとも生身で相対しないことそのものになにか学びを大きく損なうような側面があるのだろうか……と。

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貴戸氏がおっしゃる通り、パソコンの画面越しに向き合う人と人との間には、その場を共有する身体性が欠けているがゆえに、その場に「身を委ねたという信頼と受容」が起きにくく、その結果「予想外の展開は生まれにく」く、「言葉の比重が大きくな」る。もちろん人のコミュニケーションに言葉は欠かせないもののひとつだけれど、言葉以外の何かによってもコミュニケーションは大きく補完されているのだ……そんなことをここ数日感じ続けていたために、貴戸氏が言語化してくださった「オンライン居場所」の特徴に、思わず膝を打ったのでした。

確かにオンライン授業では、それが元々持っている「隔靴掻痒性」がゆえに、普段の授業よりもずいぶん入念に教材を配置し、説明を尽くし、フォローもより細かく行っています。それは対面授業よりも更に行き届いた配慮がなされるわけだから、むしろ学生にとってはよいことなのではないかと最初は思っていました。また対面授業がついその場の豊富なインタラクティブ性に助けられて、たとえば教師側がある種「お茶を濁す」ようなことが容易な場だったのだとすれば、オンライン授業はそんな「甘え」を受け付けにくいという意味で刺激になるし、教師にとってもこれまたよいことなのではないかと。

ところが、数週間オンライン授業を展開してみて感じ続けてきたのは、まさに貴戸氏がおっしゃるような、その場に「身を委ねたという信頼と受容」の希薄さだったような気がしています。同じ場に、同じ空間にいて、同席している誰とでも・いつでもやり取りができ、相手の身体感覚が直接伝わってくるという一種の皮膚感覚を持てること。これがどれほど大切かが今ではよく分かるのです。

ふだん学生さんたちは、こちらが問いかけても反応が薄く、なかには居眠りしている人もいるわけで、そんなとき私はなんだかベタ凪の湖面に一人小石を投げ込み続けているような気分になるのですが、それでもオンラインの「非身体性」に比べればずいぶんマシだと思いました。

教室で実空間を共にしていれば、肩をたたいて起こすこともできるし、あるいは「疲れてるみたいだからそのままにしておきましょう」と他の学生さんたちと目配せしあって小さな笑いを共有することもできる。ときには「誰も答えないってどゆこと!?」とキレることもできるし、学生の表情や空気感から「これはいかん」とこちらの不備を見透かされて焦ることだってある……。それらすべてはオンライン授業でもできなくはないけれど、どこかが決定的に違うようなのです。

それは身体性の欠如であり、貴戸氏のおっしゃる「究極的には『生きもの』である私たちは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく」という現実からの遊離ゆえではないかと思いました。それはなにも保育や介護だけでなく、教育の現場でも同じなのではないかと。オンライン授業の経験は、確実にこれからの教育に何がしかの可能性をもたらすと思います。だから「何といってもコミュニケーションは対面が一番」とは思いませんが、同時に「すべてのコミュニケーションがオンラインで可能」と言い切ってしまうことも私にはできないな、と考えているのです。