インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

新しい生活様式

新型コロナウイルス感染症との並走が長引くにつれて、なんとも重苦しい雰囲気が社会に充満しています。「自粛警察」などという言葉に嫌悪感を抱きつつも、「三日に一度」と言われマイバッグを二つも持参して向かった近所のスーパーに、家族連れで子どもを「野放し」(失礼)にしている夫婦とか、手ぶらで何も用がなさそうなのにあれこれ商品を触って歩いているお年寄りなどが散見されるや、自分の心にも憎悪が芽生えているのを発見してさらに沈んだ気持ちになります。

この憎悪って何かに似ているなと思ったら、そう、ふだん私が往来で所構わずタバコを吸っている人につい向けてしまう思念とほぼ相似形なのでした。要するに、自分の健康や快適さが侵されることに対する嫌悪感なんですね。私はどちらかというとそんなに几帳面じゃなくて「ずぼら」な人間だと思いますけど、それでも人並みに健康や快適な環境、ひいては清潔さや「あらまほしき」マナーの遵守についての欲求は持っているわけです。

……と思っていたら、先日、政府が「新しい生活様式」というものを公表していました。生活に関する事細かなマナーが列記されていて、なるほど「自粛警察」はこうした政府オフィシャルのお墨付きを得てますますその勢いを増すのかもしれない、と思いました。私はこうした「啓蒙」は必要かなと思いますけど、それが「自粛警察」のような相互監視や同調圧力の強化につながっていく危うさも軽く見るべきではないと思います。

www.mhlw.go.jp

今回の新型コロナウイルス感染症では、諸外国に比べて日本の感染者数が比較的少なく抑えられている理由について、さまざまな陰謀論と同時に「日本ならではの特徴」も喧伝されています。いわく、靴を脱ぐとか手洗い・うがいの励行とか毎日入浴するなどの生活習慣が普段から浸透していて清潔を愛する国民性だからだ……と。

なんだか「日本スゴイ」の変奏版で私はあまり同意できないんですけど(子供の頃を思い出してみるとそんなに社会は清潔じゃなかったし)、でも海外で暮らした経験からすると確かに日本は比較的きれいで整った生活環境が実現できているとも思います。私が職場で出会う海外からの留学生も、多くの人が異口同音に「日本はきれい」と言ってくれます(お世辞もふくめて)。

先日読んだ、深町英夫氏の『身体を躾ける政治――中国国民党の新生活運動』という本には、日本に留学してその清潔で規律正しい人々の生活のあり様に感化された蒋介石氏が、後年大々的に展開した「新生活運動」について詳細な考察がなされていました。そこに詳述されている「陋習」は、この運動が展開された1930年代から50年代のみならず、(大変失礼ながら)その後の時代、私が留学や仕事などで暮らしていたごく最近に至るまで、程度の差はあれかなり普遍的に見られたものでした。

f:id:QianChong:20200510115044j:plain:w200
身体を躾ける政治――中国国民党の新生活運動

この本によれば「新生活運動」は15年ほど展開されるも、確たる実を上げ得なかったのだそうです。ところが最近では(特に都会部においては)ネットを駆使した「社会信用スコア」等による監視社会体制が急速に進化したことも相まって、「衣食足りて礼節を知る」が現実化してきたと言われていますよね。この本にも終章にこう書かれてありました。

先進諸国が経てきた近代化過程を経ることなく、「富強」が自己目的化し個人の尊重を伴わぬ国家――いわば特異な「後現代(post-modern)超大国として、二十一世紀の中国は台頭しつつある。(中略)「中国模式(モデル)」や「北京共識(コンセンサス)」といった、昨今しばしば議論される概念が示唆するように、新たな「近代化」の範例を中国は創出しようとしているのだろうか。(330ページ)

これはとても失礼な言い方になりますが、私は中国が新たに創出しつつあるポストモダンが、「新生活運動」でも克服し得なかった生活様式を根本から(人々の心性の根っこから)変えていくのは難しいのではないかと思っています。人間のあり様というものはそういうシステムだけで抑え込めるような単純で脆弱なものではないんじゃないかと思うからです。でもそれを抑え込む「自粛警察」みたいな機能を、かの国はテクノロジーで実現しようとしているんですけど。

もちろん、だからといって「中国人は不潔」といったヘイトスピーチに加担する気は毛頭ありません。先日たまたま見たテレビの時事教養系バラエティ番組では、歴史上猛威をふるった感染症(ペストや天然痘など)が中国由来だったと説明されていて、その瞬間にTwitterなどのSNSでは今次の新型コロナウイルス感染症を引き合いにした「ミニ・トランプ氏」みたいな人がわんさか登場していて頭を抱えました。こういう漠然としながらも暗黙のうちにどこかを悪役に仕立て上げる心性は本当にたちが悪いです。

……と、ここまでブログを下書きにしておいて、さっきスーパーへ買い出しに出かけようと家を出たら、うちのアパートの前で犬を連れた三十絡みの髭面の男性が、道端で小便をしながらタバコを吸い、そのままアスファルトの路面に座って犬をあやしていました(実話)。なんかこう、政府の「新しい生活様式」と中国国民党の「新生活運動」とブログで書いていたこととすべてにシンクロするような光景で、ちょっと笑っちゃいました。