インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

評価が学生の未来を作るのだろうか

夜回り先生」として有名な教育評論家で、大学でも教えてらっしゃる水谷修氏が、リモート授業(オンライン授業・遠隔授業)に「これが授業なのか」と疑問を呈していました。「いい加減な授業を行い、いい加減に評価し、学生たちの未来を作る。こんなことが許されるはずもありません」と。

maidonanews.jp

この記事に関して、記事のコメント欄やTwitterでは、現場でオンライン授業に取り組んでいる教師のみなさんから、多くの批判的な意見が寄せられていました。いわく「現場で頑張っている人々に失礼」「たった数週間の実践で諦めるのか」「通信制教育の否定では」「老害」などなど……。

私は、水谷氏がたぶん感じてらっしゃるであろうオンライン授業への「隔靴掻痒感」や「無力感」には共感するところもありますし、批判的な意見でも多くを占めていた「早々に放り投げすぎ」というのもそうだなあと思います。ただ、水谷氏の「学生たちの顔を見ることなく、直接彼らの声を聞くこともなく、評価をし、彼らの明日を決める。こんなことができるわけがありません」という一文に引っかかって、しばし考え込んでしまいました。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_4947.html

引っかかったのは「評価をし、彼らの明日を決める」という部分です。冒頭でも「学生たちの未来を作る」という言葉を引用しましたが、水谷氏は授業後の「評価」にとても重きを置かれているようです。もちろん十分な授業なりレクチャーなりが提供されないのに評価などできるわけがない、学生としてもそれで評価されてはたまらない、という意味だとは理解できます。でも学生にとっての学びにおいて(特に氏が担当されているような高等教育において)評価は本当に必要なのだろうかとも思うのです。

水谷氏は教員による評価が学生の将来を決める、つまり教員が学生の生殺与奪を握っているように思われているようですが、大学などの高等教育においては、その教育の成果は評価ではなく、学生自身の自発的な学びの量と質によってのみ測られるべきではないかと思うのです。学生が自分を生かすも殺すも、自分に与えるも自分から奪うも、ひとえに学生自身の意識にかかっているのであって、「学び」は教員が教え→テストし→評価するという流れで担保できるものではないんじゃないかと。

自分でもここのところのオンライン授業を続けてくるなかで、その思いを一層強くしました。オンライン授業は「学生たちの顔を見ることなく、直接彼らの声を聞くこともな」いがゆえに、従来の対面授業以上に学生の主体的な参加が必要不可欠です。面と向かっていない、学校に身を置いていないがゆえに、サボろうと思えばいくらでもサボれるし、ふだんの時間割やカリキュラムとは違う時間感覚のなかで学ぶので、自律的な生活態度が必要になります。

この点で、オンライン授業に求められるのが、従来の対面授業をZoomでやりましょう的な単純な「引き写し」ではありえないことは明白です。そこには学生の自発的な学びを誘発するようなあたらしい「仕掛け」が必要で、そのためには教員にも新たな思考とそれに伴う作業が求められます。だからオンライン授業の初動からその延長段階に当たる現在は、こんなにも疲れるのだと個人的には理解しています。そして、学生の自発的・自律的な学びを起動させる手段としてオンライン授業を捉えることも可能ではないかと思っているのです。

東京においても、緊急事態宣言の解除が目前に迫り、近いうちに対面授業の一部、または全面的な復活が図られると思います。そうなったあかつきにも、オンライン授業が持っている(と思われる)この長所は残していきたい。となれば、今後の対面授業も変わって行かざるを得ない、いや変わっていくべきです。オンライン授業を対面授業の「バージョンダウン版」とせず(水谷氏の言葉を借りれば「いい加減な授業」にせず)、より良質なものにしていく余地はまだあるのではないかと思いました。