インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「お子ちゃま」だなあ

毎朝自宅の最寄駅から電車に乗って出勤しています。今日はちょっと時間に余裕があったので、ゆっくり駅に向かっていたら、踏切脇に公衆電話ボックスがあるのに気づきました。もう何年もこの駅を使っていますから、毎日のように目にしていたはずなのです。なのに、ここに電話ボックスがあるという認識自体がなかったというのは、ちょっとした驚きでした。大丈夫かな、自分。

それで、あらためて電話ボックスを観察してみました。電話ボックスの扉を開けたのは何十年ぶりかしら。懐かしい灰色の公衆電話はかなりホコリにまみれていましたが、「生きて」いるようでした。おそらく災害時には役立つとか、そういう理由で残されているんでしょうね。

……と、奥のガラスにこんな注意事項が貼ってありました。これはまた、日本ならではの過剰な注意喚起です。こういう「日本文化」は外国人留学生とディスカッションする時にとても盛り上がるアイテムなので、すぐに写真に収めました。

それにしても、これはかなり過激な注意喚起です。およそ起こりそうもないようなことが列挙されていますもん。1番目の「電話帳上蓋」というのは何のことだろう……と薄れてしまった記憶をたどっていくうちに、思い出しました。たしか公衆電話機の横に小さなテーブルみたいなスペースがあって、そこにあの分厚い電話帳が吊り下げられていたんです。

その電話帳が吊り下げられているプレート(これが電話帳上蓋)を手前からくるっと持ち上げると、180度回転してそのまま電話帳を閲覧することができるようになっていた……って、生まれたときからスマートフォンが世の中にあった世代の方には、電話ボックスだの電話帳だの、もはやなにを言っているのか皆目見当がつかないと思いますが。試みに「電話ボックス 電話帳」で写真検索をしたら、こんな写真が見つかりました。緑色の公衆電話の横に、電話帳が下がっています。これこれ。


https://www.benricho.org/Tips/nttpublictel.html

……などと喜んだり懐かしんだりしている場合ではありません。ともかく、こんな注意喚起が暮らしの隅々に溢れているのが日本なんですよね。これは外国の方々からはとても好奇の目を注がれるポイントでありまして、公共空間のアナウンスやスローガンの多さとともに、驚かれる方が多いです。来日当初はあまりにも大音量のアナウンスが多いので、なにかとんでもない緊急事態が起こっているのだと思った、なんてのは定番のジョークです。

でもそのうちみなさん「日本人化」して慣れちゃう、ないしは「こんなことまで注意喚起し続ける必要があるなんて、ずいぶん『お子ちゃま』だなあ」という感慨に落ち着くというのが大体のところです(気を遣ってあまり言ってくれませんけど)。そうですね、諸外国では逆にちょっと不安になるくらいこうしたアナウンスや注意喚起はないものね。

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とはいえ、なにごとも理由や原因があるものです。くだんの電話ボックスにあの過激な注意喚起ステッカーが貼ってあったのは、とりもなおさずそういう「事案」が実際に起って、クレームなり抗議なりがNTTに寄せられたからなのでしょう。注意喚起してくれてなかったから脚を挟んで怪我した! ……みたいな。まさに「お子ちゃま」です。

もっともこのステッカー、ネット界隈ではけっこう有名なものらしく、検索している過程で私と同じような「ツッコミ」を入れている方を見つけました。たとえばこちらとか、こちらとか。みんな「お子ちゃま」扱いに、それなりに複雑な感情を抱いてらっしゃるんですね。

電話ボックスで写真を撮ってから電車に乗ったら、ぎゅうぎゅう詰めの車内でアナウンスが入りました。「発車しますと揺れますのでご注意ください」。

もはやデジタルネイティブとかそういう話ではなくて

語学教師の同僚と雑談していて「紙の辞書」の話題になりました。最近の学生さんは紙の辞書を使わないですね、などと話していたところで「ああそうか」となにか妙に腑に落ちるというか、カタンと音を立てて何かが組み変わったような気持ちになりました。紙の辞書を使わないどころではなくて、最近の学生さんにとっては紙の辞書という概念自体がすでに意味をなしていないのではないかと。

十年くらい前までなら、紙の辞書 vs.電子辞書みたいな立て分けにまだ意味がありました。「紙」のほうが一覧性がある、いや検索には「電子」が便利だ、持ち運びやすいのは……などと議論なり会話なりが成り立ちました。このブログでも何度かそういう話を書いた覚えがあります。でも2024年の現在に至っては、もはや紙の辞書という言葉自体が死語になってしまったような気がするのです。

qianchong.hatenablog.com

いま私が担当している外国人留学生はちょうど50人です。その50人のうち、紙の辞書を使っている人はゼロです。ひょっとしたら自宅には紙の辞書を持っているという人がいる可能性はありますが、少なくとも学校の現場で紙の辞書を引いている人は皆無という時代になりました。かくいう私だって、職場や自宅に紙の辞書はありますが、引く回数からいえば圧倒的に「物書堂」みたいな辞書アプリか、ネット検索です。

語学の教材、とりわけ通訳や翻訳の教材にはできるだけ新しい話題や事物を取り上げたいという仕事の性質上、紙の辞書を引いてもその語彙がヒットしないという背景もあります。辞書アプリやネット辞書も同様で、これはもう中国語で(私の仕事の場合)直接ネットを検索して、その語彙が入った中国語の前後の文章から意味や概念を推測するという、中中辞典的な使い方で「引いている」ことが多くなり、紙の辞書を引くことがますます少なくなりました。

それでも私は、紙の辞書を引くことに、それも特に語学の初中級者が紙の辞書を引くことには簡単に捨て去ってはいけない大切な何かがあるように思う、思いたい……のですが、もう事ここに至ってしまっては、この現状を押し戻すことはまず不可能なのだろうなと感じています。

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デジタルネイティブという言葉が登場してからすでにかなりの年月が経ち、この言葉自体も陳腐化のそしりを免れなくなってきました。iPhoneがこの世に登場したのが2007年、ということは、来年度にはもうiPhoneが最初から世の中にあった時代に生きてきた人たちが、大学や専門学校などに入学してくるのです。

私など、小学生の時は新聞委員で、学級新聞をガリ版謄写版)で刷った記憶があります。ガリ切りもやりましたし、わら半紙のチリを一枚一枚払ったり、缶入りのインクをヘラで取ってローラーで縦横によく伸ばしたりした身体の記憶があります。

中学生の時は吹奏楽部に所属していて、新しい曲に取り組むときはまず全員で自分のパートの「写譜」をするところから始めました。五線紙に手書きで音符を書き写していくのです。コピー機はありましたが、中坊ごときが使うのは贅沢とたしなめられていました。

高校生の時は生徒会の書紀だったのですが、会報を輪転機で刷る技術に磨きをかけていました。手書きの原稿をまずは細長いドラムが回転する製版機にかけ、出来上がった半透明の版を輪転機のハンドルを回しながら貼りつけ、インクの調子を見ながら試し刷りをくりかえしたものです。

大学生の時に使っていた「ワープロ」は画面が1列が8文字の上下2段、つまり16文字しか液晶画面に表示されないものでした。それでどうやってたくさんのページがあるレポートや芝居の戯曲を作っていたのか。記憶が曖昧ですが、フォントを明朝体からゴシック体に変えるときには「フロッピーディスク」を入れ替えていたのもこの頃だったかしら。

就職してからだいぶ経った頃ようやく「パソコン」が登場し(「マイコン」は中学生の頃からありましたが)、「インターネット」というものが職場の話題に登り始めたのは30歳を過ぎたあたりだったと思います。そこからでさえ思い返せばちょっと信じられないくらいの大きな変化が起こり続けていまに至っています。

……と、こうやって書き連ねてきましたけど、なんなんでしょうね、この昔語りは、と自分に自分でツッコミを入れたくなります。

ここまで彼我の接してきた環境が違えば、これはもう共通の概念や認識をもとにコミュニケーションが行えていると信じるほうがおかしいのではないかと。私たちは、こと学習方法、勉強の仕方、知識の広げ方……などなど知的活動の作法については己の経験則を振りかざしがちです。でもなんだか「紙の辞書かネット辞書か」とか「紙の本か電子辞書か」とか「手書きか入力か」とか「AIや機械翻訳を使うか否か」とか、そういう論の立て方じたいが、いまの学生さんたちを前にしては不毛なのかもしれません。

いまさらですか、と呆れられるかもしれませんが、あの「紙の辞書」の話をしている途中で、自分の中ではなにか大きな変化が起こった(起こってしまった)ような気がしています。


https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_78.html

「将来の目標は音楽で売れて皿洗いをやめること」とは言わないほうがいいかも

最近はめっきりテレビというものを見なくなりましたが、毎週土曜日の夜に放送されている「地域密着系都市型エンタテインメント」を標榜する某番組だけは昔から好きでよく見ています。毎週ひとつの街を選んで徹底的に紹介するというこの番組、先日は私がよく知っている街の特集だったので、録画しておきました。

その録画を昨日見ていたのですが、番組に登場したおしゃれな居酒屋の店員さんが皿洗いをしながら「ふだんはギタリストをやっています」と言っていました。なるほど、居酒屋のアルバイトをしながら二足のわらじを履いて頑張ってらっしゃるわけです。でもその方が「将来の目標は音楽で売れて皿洗いをやめること」と自嘲気味に続けていたので、ちょっと複雑な気持ちになりました。


https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_415.html

いえ、個々人が仕事に対してどんな思いを持とうがもちろん自由です。それに誰でも下積み時代みたいなものはあって、いつかは自分も! と自らを鼓舞する気持ちもじゅうぶんに分かります。それでもこうした物言いは、たとえそれが冗談や自虐ネタのたぐいであったとしても、口に出すのはやめておいたほうが「吉」なのではないかと思いました。

「将来の目標は音楽で売れて皿洗いをやめること」というのは、いわば「自分の本当の居場所はここじゃない」と宣言しているようなものです。そういう気持ちで仕事をするのは、お客さんにも、お店の店長さんやスタッフにも、そして自分自身に対しても、残念な姿勢ではないかなと思うのです。

職業に貴賎はないなどという話をしたいわけじゃないんです。ただ、いつかはここではない別の場所で自分の夢を叶えるんだと思ってはいても、それはそれとして、いま・ここで従事している仕事にもきちんと向き合う姿勢がけっこう大事なんじゃないかと。逆説的に聞こえるかもしれませんが、どんな仕事でもきちんと向きあって、いわば「腰掛け」的な気持ちではない姿勢や態度で望むことが、次のステップにつながるーーそういうことが人生にはまま起こりうるのです。

それはおそらく「オレの居場所はここじゃない」とか「オレはまだ本気出してないだけ」という姿勢で仕事に臨んでいると、そういう後ろ向きのオーラみたいなものが数多の対人関係に微妙に影響するからではないかと思うのです。逆にその仕事がたとえ自分が100%望んでいるたぐいのものではなくても、「自分がいまここでできることは何か」、「この仕事をどうやったら少しでも気持ちよくできるか」と前向きな姿勢で臨んでいると、そういう姿勢がその人の魅力となって周囲の人にも伝わる。

それがひいては違うステップやステージに自らを引き上げてくれる。自分では予想もしなかったような未来に連れて行ってくれる。「縁に恵まれる」というのは、そういうことなんですよね、きっと。「オレの居場所はここじゃない」という姿勢でいる人ほど、その居場所からなかなか離れられないものです。いえ、べつに呪詛の言葉を吐きたいわけではないですし、テレビに出ていたあの方もそれは分かっていてのテレビ番組的リップサービスだったのかもしれませんが。

qianchong.hatenablog.com

いつかは皿洗いをやめるとしても、そのいま・ここで従事している皿洗いという仕事に「いつかはやめてやる、こんな仕事」的な言葉を用いないほうがいいんじゃないかーー大きなお世話だとは思いながら、そんなことをテレビ画面に向かってつぶやいたのでした。

鉛と亜鉛

中日通訳のクラスで教材にいくつかの元素名が出てきたことにちなんで、中国語と日本語の元素の読み方を学習してみました。中国語の元素名は基本的に漢字一文字ですが、日本語は漢字一文字のもの(金とか鉄とか)もあれば、二文字のもの(水素とか酸素とか)もあり、カタカナのもの(ヘリウムとかナトリウムとか)があり、さらには漢字とカタカナの併用(ヨウ素とかフッ素*1)もあって、通訳や翻訳の際にはとてもめんどくさいのです。

でも人名や地名と同じように、知らなければ特に通訳の場合は「一発アウト」ですし、元素名を訳し間違えると場合によってはとても危険でもあるので、主なものはきちんと覚えて、なおかつじゅうぶんに口慣ししておきたいところです。というわけで、Quizletに主な元素名の単語帳を使って、覚えることにしました。

元素名といえば、日本の私たちは学生時代にこれを「水兵リーベ僕の船……」などと語呂合わせで覚えたものです(いまでも中学校や高校でやってるのかしら)が、中国や台湾の学生はどう覚えるのか、聞いてみました。そうしたら、中国大陸の方も台湾の方も、いずれもとにかく丸暗記したのだそうです。それに加えて周期表の縦方向も丸暗記させられるのだとか。私自身は文系のクラスだったからか縦方向を暗記した覚えがないのですが、ネットで検索してみたらこんなのがありました。

benesse.jp

日本語の元素名は、漢字カタカナ入り混じってとにかくもう無秩序状態なので仕方がないような気もしますが、「水兵リーベ僕の船、七曲がりシップス*2、クラークか」にせよ、「リッチな母ちゃん、ルビーせしめてフランスへ」にせよ、日本の覚え方はなんとなく姑息(?)な感じもします。

ところで中国語の話者が理解できないというか、ほとんど「許せない」のは、中国語の“鋅(xīn)”が日本語では「亜鉛」であることだそうです。私など「そういうものだ」と思って覚えちゃっていたうえに、なんとなく鉛と亜鉛を混同して認識していましたけど、よく考えたら鉛はとても有害な物質であるのに対して、亜鉛はサプリなんかに入っている必須ミネラルで、ぜんぜん違うものですよね。

気になってこれも調べてみたら、亜鉛という名称は日本人が命名したということでした。江戸時代中期、大坂(大阪)の医師・寺島良安が編纂した『和漢三才図会』にはじめて「亜鉛」という記述が登場するのだそうです。

中国においては,鉛であってもその性質が猛々しいから倭鉛と称していたが,この書には亜鉛(止多牟*3蕃語ナリ)とあり,いまだ何物たるかを知らず,はなはだ鉛に類するが故に亜鉛と称す,とある.
「亜鉛」研究の歴史と展開

亜鉛*4。これはどんなものかまだよくわからない。甚だ鉛に類似している。それで亜鉛と称する。
亜鉛と真鍮:化学における教養教育の一試行

私もこれまで、亜鉛という名称は中国語から入ってきたのだと思いこんでいました。中国語の“亜”は「二番目の」とか「〜に次ぐ」みたいな意味です。たとえば優勝を“冠軍”、準優勝を“亞軍”と言ったりします。日本語でも「亜種」とか「亜流」みたいに使いますよね。でも鉛(Pb)と亜鉛(Zn)それぞれの性質が分かっている現代においては、この「亜鉛」という名称はかなり奇妙に映ります。中国語話者が理解できないというのもよく分かります。

*1:沃素、弗素とも表記できるのですが、沃や弗が常用漢字ではないためカタカナ表記が多いです。この常用漢字の縛りで漢字仮名交じりにするというの、そろそろやめればいいのにと個人的には思っています。

*2:「名前があるシップス」というのもあるそうです。

*3:トタン

*4:ルビ:とたん

Camblyの履歴ビデオに文字起こしが加わった

オンライン英会話のCambly、何度も挫けそうになりながらもまだ続いています。畢竟、外語学習というのは挫けそうになったり心折れたりすることの連続がデフォルトみたいなものですから、「妖怪あきらめ」(©奈倉有里氏)が出てきてもやすやすとその誘いに乗らないことが肝要と心得ています。

qianchong.hatenablog.com

ところで最近Camblyのデザイン(ブラウザ版のほう)が大きく変わりました。Camblyはレッスンがすべて録画されていて、「履歴」からいつでも見ることができるというのが特徴なのですが、その「履歴」が「進捗状況」というタグに変わり、そのなかに「あなたの進捗」「履歴」「診断テスト」という3つのタグができました。

「あなたの進捗」はこれまでのレッスン回数やレッスン時間のほかに、達成した項目についてアイコンなどで表示されるようになっています。Duolingoの「プロフィール」とそのなかにある「実績」に似ています。「診断テスト」はAIとの会話によって現在の英語力をチェックするというもの。そしていちばんおもしろいと思ったのは「履歴」で見ることができるビデオの横に、自分と講師のすべての発言の文字起こしが表示されるようになったことです。

正直に言って、これまで私はレッスンのビデオを見返すことはほとんどしてきませんでした。なんといっても自分が話している拙い英語を再び聞くのが耐えられないからですが、もうひとつ「レッスンのあの辺りで自分はこんなことを言ったかな」あるいは「講師がこんな表現を使っていたかな」と思い出しても、それをビデオを再生しながら探すのが面倒だったからです。

それが文字起こしが表示されることで、かなり探しやすくなりました。また一覧性のあるひとまとまりの文章で見ることができるので、より文法や語彙の間違いをピックアップしやすいです。これはなかなか良いのではないでしょうか。

映像の音声から文字起こしができるのはすでに当たり前の世界になってはいます。Youtubeのような動画サイトやAdobe Premiere Proの文字起こし機能などで個人的にもじゅうぶんおなじみだったのですが、見たところCamblyのそれはかなり高速で、レッスン後、瞬時に文字起こしが完了しているみたい。おそらくAIを活用しているのでしょうけれど……その進化の度合いがちょっと空恐ろしいです。

電車吃漢

台湾のSNS「Dcard」のYoutubeチャンネル「Dcard Video」で二ヶ月ほど前から始まった新企画『電車吃漢』がおもしろいです。早朝に台北駅のあの巨大なホールから始まる一種の旅番組なのですが、その場でたくさんあるチケット状のカードの中から目隠しをして一枚引き、すぐその場所に電車で移動して現地のおもしろいもの、おいしいものを探すという趣向です。


www.youtube.com

完全に出たとこ勝負、かつ向かうのは台北在住の台湾人自身も「それ、どこ?」みたいな各駅停車しか止まらないローカルな駅ばかり(最初に引くチケットをそういう駅ばかりにしてあるんでしょうね)。これまでに4集公開されていますが、引き当てたのは「歸來(屏東縣屏東市)」、「日南(臺中市大甲區)」、「三民(花蓮縣玉里鎮)」、「東竹(花蓮縣富里鄉)」でした。

つまりは日本のテレビ番組になぞらえていえば、『モヤモヤさまぁ~ず2』と『鶴瓶の家族に乾杯』と『日本列島ダーツの旅』を足して3で割ったような企画です。でもまず「モヤさま」ほど予定調和ではなく、ヒッチハイクしたりインタビューしたりしながら意外な場所に導かれるのがなかなか刺激的です。そして「家族に乾杯」ほど家族にフォーカスはしないものの、気さくでおもしろい台湾の人たちが登場して楽しい。さらに「ダーツの旅」では場所によってはけっこう大掛かりな企画にならざるを得ないところ、基本的にすぐ現地へ行って一泊二日でロケができちゃう台湾の「こぢんまりさ」が企画にとても有利に働いています。

それから「吃漢」の名の通り、Dcardの男性メンバー二人がいろいろと食べ歩いて「食レポ」するそのほとんどが台湾のB級グルメで、これもまたB級グルメ好きとしては魅力的なのです。1集から3集まではDcardのRio氏と大書氏が出演していましたが、4集ではRio氏とLeo氏のコンビになりました。彼らが時に台湾語客家語もくりだして現地の人々の懐にするっと入り込んでいくその話術がすごいなあ、コミュニケーション能力の高さが際立っているなあと思います。いわゆる若者言葉を外国人の私などが真似するとろくなことはありませんが、それでもあんなふうに國語(中国語)を話せたら気持ちいいだろうなと毎回見ながら思います。

あと、現地の人々の側も、白シャツと黒ズボンに黒いネクタイをした二人組の男性*1に、初手からとてもフレンドリーに接しているのが、見ていてなんだかとても和みます。もちろん実際にはいろいろな人がいて、企画の雰囲気に沿わない部分はいろいろと編集もされているのでしょうけど、総じてみなさんすごく優しい。こういう「人情味」みたいなところも、この企画に特別な雰囲気を与えていると思います。

ひとつだけ無粋かもしれないですけど、やっぱり書いておかざるを得ないのは、この企画のタイトルである「電車吃漢」はおそらく吃漢(chīhàn)と癡漢(chīhàn)をかけていて、このセンスはちょっとどうかなという点です。もちろん中国語の“癡漢(痴漢)”はもともと「愚か者」とか「痴れ者」(の男)という意味で*2、それが日本に入ったあと、現代にいたって「見知らぬ女性にみだらなことをする男性」という意味に収斂してきたわけです*3

ご存知の方も多いかと思いますが、台湾の芸能界では日本の「アダルト文化」(?)をギャグとして用いるような「芸風」が一部にあって、その一端についてはこのブログでも書いたことがあります。

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で、「電車吃漢」というこの企画名はDcard Videoのオリジナルではなく、かつて『美食大三通』という番組に同名のコーナーがあって、それが元になっているみたい*4


www.youtube.com

このコーナーも日本でのロケにこのタイトルを使っていて、つまりは日本では電車における痴漢が多いというのが前提の知識としてあって、それで日本の電車で“chīhàn”をするというのがキャッチーな一種のギャグになっているのだと推察します。う〜ん、でも、日本人としてはいろいろと情けなくて、やっぱり私はこのセンスにはちょっと頷きがたいのです。

*1:これは『ブルース・ブラザーズ』とか『メン・イン・ブラック』とかへのオマージュなのかしら。

*2:西遊記』や『金瓶梅』などにも例があるそう。

*3:このような研究もあります。

*4:たぶん。もっと以前の例をご存知でしたら、ぜひご教示ください。

効率のよい語学学習?

通勤途中の書店で偶然見つけた、奈倉有里氏の『ことばの白地図を歩く』を読んでいたら、「妖怪あきらめ」という「語学学習にひそむ強敵」が出てきました。

でたぞ、語学学習にひそむ強敵、妖怪あきらめ。こいつのやっかいなところは、意外にも「なんのために」という目的意識や、「なるべく効率よく」という効率主義と相性が良く、教科書と仲良しなところだ。


ことばの白地図を歩く

なるほど、語学をやるならまずは目的をはっきりと定めて、その目的にいたる効率のよい教科書を使うというのは当たり前のような気もします。でも奈倉氏は、そういう目的意識や効率主義ーー私たちが語学をやるならそれは自明でしょと思っているものーーが逆に語学をあきらめてしまう危険性を誘発しているのではないかとおっしゃっているわけです。

実際にこの本では「あえて効率の悪い学習法をやってみる」ことをおすすめしたりしています。もっと自分の興味のおもむくままに学んでもいいのではないかと。これは私、とてもわかる気がします。なにかの言語を学ぼうと思った最初の最初って、目の前に広がる未知の世界にとてもワクワクしますよね。文字の形ひとつ、言葉の発音ひとつがどれも新鮮で。自分なりに奈倉氏のおすすめを解釈すれば、あのワクワク感をいつまでも持ち続ちながら学び続けることができたらいいのに……ということなんじゃないかと思います。

たとえば奈倉氏は、「まだぜんぜん読めないはずの難しい本を入手して、ノートに書き写す」とか、「聞き取れなさそうな音声を探して、無理に真似して発音してみる」などといった「学習法」を紹介しています。

教科書や文法書の学習法が近道なら、こうした効率の悪そうな学習法というのは、つまりはちょっとした道草や遠回りである。道草ばかり食っていてはなかなか目的地にたどりつけないけれど、道草には道草の味がある。そして妖怪あきらめは、道草を楽しむ人が大きらいだ。効率がいいと思ってやっているのに結果が出なければがっかりしてしまうし、そうなるとあきらめにつながりやすい。でも効率が悪いとわかっていてやるならすぐに結果がでなくても当然なのでがっかりする必要がない。

道草には道草の味がある。いいですねえ。当今はとかく「コスパ」とか「タイパ」という言葉がもてはやされていて、語学はとりわけそうした言葉がとびかう世界です(とくに英語は)。私も語学教育業界の末席に連なっていて、かつ自らも語学の学習者であり、気がつけばどうやって効率よく学べばいいのかをあれこれ試しています。

先日もとある作家さんが「スジの悪い努力」をやめようという文章を書かれていて、そこでは「自分の適性やキャリアの方向と努力の内容が一致している」か、その「努力が効率的に自分の技量や知識の向上につながっている」かを問えとおっしゃっていました。私は読みながら、そうだよなあ、それに比べていまの自分の努力は……となにかに追い立てられるような焦燥感を覚えていたのでした。

でもあとから少し冷静になって、自分が語学に求めていたのは本当にそんな効率だったのかと思い直しました。語学ってそもそも、ある意味で辛気臭くかつ泥臭い作業と、心折れる体験の連続であり、それが苦にならずに楽しめることこそが語学を長続きさせる大切なポイントであると分かっていたはずなのですから。

それからなぜか語学は「あとから『じわっ』としみてくる」ようなところがあって、あとから振り返ってみると非効率だったかもしれないと思えるようなやりかたで学んだことが意外に身についている、というようなことがあるんですよね。効率的かどうかの判断につねに汲々としているよりは、自分が楽しめているかどうかを判断するほうがいいんじゃないかと思いました。

青空文庫+物書堂

辞書アプリ「物書堂(ものかきどう)」さんが、毎春恒例の「新学期・新生活応援セール」を実施されています。macOSのユーザ限定ではありますが、さまざまな辞書が普段よりもかなりお安く購入できるので、日本語を学ばれている留学生のみなさんにもぜひおすすめしたいです。

www.monokakido.jp

最近の学生さんはスマートフォンだけですべての課題をこなしてしまうので(なんとプレゼンのスライド資料までスマホで作っちゃう!)、パソコンやタブレットさえ持たないという方も多いです。でももしAppleのパソコンやタブレットをお使いなら、ぜひ「辞書by物書堂」をブラウザの後ろに置いて、調べたい単語をその場でさくさく引いてほしいです。

たとえば青空文庫に入っているさまざまな日本文学を読みながら、単語の上でダブルクリックすればその単語が選択されます。そこで「⌘+C」でコピーすれば、後ろに置いてある「辞書by物書堂」にその言葉が出てきます。これは「クリップボード検索」で、メニューの「その他」 から「設定」にある「クリップボード検索」機能をオンにすることで使えます。

私自身は中国語や英語を学んでいるので、同じような形で「辞書by物書堂」に中国語や英語の辞書も入れて、文章を読むときに使っています。

「辞書by物書堂」はもちろんスマホでも使えるのですが、画面に限りがあるので少なくともiPhoneではパソコンやタブレットを使った上掲のようなマルチ画面にしてさくさく読むのは難しいです。いちいち文章の画面と「辞書by物書堂」の画面を切り替えなきゃならないですし。もっともこれは老眼の私が小さな画面を見るのが苦手だからで、老眼ではなくスマホ操作の熟達度も私とは比較にならないほど高い留学生のみなさんはほとんど気にならないかもしれませんが。

実のところ私は、一覧性にすぐれた紙の辞書を引いてその言語全体の「大局観」みたいなものをつかむのも大切なのではないかと考えている人間です。でも、辞書を引く手間が飛躍的に省けて、かつ複数の辞書が串刺し検索でき、iPhoneMac同士もリアルタイムで連携できる(例えばiPhoneで言葉を引いたら、それがMacbookの画面上でも表示されます)「辞書by物書堂」の便利さにはちょっと、もう、抗えません……。

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もしトラ

ワシントン・ポスト』の電子版に、日本の流行語「もしトラ」が紹介されていました。政治的・経済的にはまだしも、外交的にはけっこうなところまで、軍事的にはほぼアメリカの属国、といって悪ければ「51番めの州」ないしは「コモンウェルス自治領)」と化している本邦ですから*1、政財界を中心にアメリカ大統領選の行方を戦々恐々として見守っている、というのがニュースソースになるのでしょう。

The term has inspired spinoffs as Trump has become the presumptive GOP nominee, each term snowballing in intensity as the Japanese public has become increasingly resigned to a Biden-Trump rematch. “Moshi-tora” (what if Trump) became “hobo-tora” (pretty much Trump), then “maji-tora” (it will seriously be Trump), “kaku-tora” (confirmed Trump) and “mou-tora” (already Trump).

www.washingtonpost.com

「もしトラ」のみならず「ほぼトラ」、「マジトラ」、「確トラ」そして「もうトラ」まで紹介されているのがおもしろいですし、その英訳がまた興味深いです。なるほど“it will seriously be”で「マジにそうなるかも(なったらヤバいなあ)」というニュアンスっぽく読めるのかしら。こんど母語話者に聞いてみたいです。

日本でこれだけ「◯◯トラ」が取りざたされているのですから、ひょっとしたらと思って中国語のニュースサイトを探してみたら、果たして『ワシントン・ポスト』紙が「もしトラ」を取り上げたことを紹介した共同通信の記事を翻訳する形の『共同网』記事がありました。

美国总统大选在日本催生出了略带焦虑意味的流行语——“如果特”。《华盛顿邮报》网络版6日刊文称,奉行“美国优先”主义的前总统特朗普再次上台的可能性受到全球关注,“如果特”一词充分体现了日本人对特朗普重新掌权的不安。文章还介绍称,除“如果特朗普再次成为总统”的缩略语“如果特”外,还有代表当选可能性很大的“几乎特”,以及“当真特”、“确定特”等。

china.kyodonews.net

“特朗普*2”が「トランプ」なんですけど、「トラ」だから中国語も略して“特”と。“如果(もし)特”、“几乎(ほぼ)特”、“当真(マジ)特”、“确定(確)特”……「もうトラ」はこの記事にないんですけど、さしづめ“已经特”かなあ。“当真”は「真に受ける」というニュアンスがあるので、「マジ !?」という感じにつながって上手な訳だなあと思いました。

*1:こう書くと日本の方に叱られるかもしれませんが、少なくとも中国やロシアの指導層はそれくらいの認識だと私は思います。

*2:台湾では“川普”の表記が主だと思います。

すべてをゆるそう

自分の心と身体がそれまでとは違う状態に入ったのだなと如実に感じられるようになったのはここ5、6年のことでしょうか。現実の厳しさに比べてやや軽薄な感じがする言葉ですけど、まさに「老いのリアル」みたいなものがひしひしと迫ってくるのを、なかば驚きながら受け止めつつ、それでも往生際悪くあれこれ抗うことを試してきた……そんな感じがします。

そうやっていろいろと試しているうちに、自分と自分を取り巻く人々や社会との関係、というより自分の側からの周囲の人々や社会への捉え方がずいぶん変わったように思います。平均寿命を持ち出すまでもなく、自分がこの世の中にいられるのはおそらくあと20年もありません。それどころか、とりあえず健康で、自分の望むことが自分でひととおりできるという状態を想定するなら、あと10数年あれば「めっけもの」といったところでしょう。

10数年前といえばあなた、つい最近のことですよ。となれば10数年後もすぐに訪れてしまうわけで。そういう時間のスパンの捉え方が、人間関係や社会とのつながりに対する認識に影響を与えているのは明らかです。ありていに申し上げて、もうあれこれの七面倒くさいことにかかずらっているヒマはないんだと。“bucket list”に従って、やりたいことを率先してやり、やりたくないことは極力避けてやらないのです。

eow.alc.co.jp

そう考えて、ここ数年の間に私はさまざまなものから「降りる」選択をしてきました。ネットのSNSからアカウントを削除し、リアルなコミュニティのつきあいから退き、ルーティンに組み込んでいたあれやこれやを意識的に減らしました。いくつかの趣味ーーこれはむしろ「やりたいこと」なのですがーーも体力や気力を考えてお休みしています。

qianchong.hatenablog.com

一抹の寂しさは残りますけど、そういうある種のあきらめも必要なのだ……と自分に言い聞かせていたら、「おりる」を書名に掲げたこの本に出会いました。飯田朔氏の『「おりる」思想』です。この本では、私たちの社会がやたらに「戦え」「サヴァイブしろ」「生き残れ」と迫ってくることへの違和感を「おりる」という言葉で相対化しようという試みが論じられています。


「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから

基本的には、飯田氏が師事された加藤典洋氏にならって映画や小説から同時代の問題を読み解こうとする手法で、文芸評論という側面があり、その意味では同じようなテーマを論じたニート論やひきこもり論、あるいはマインドフルネス方面の書籍とはかなり違う読書感です。でも私はこの本で提示されている「サヴァイヴ」でも「戦って生き残る」でもなく、「一度死んで、生き直す」という自己肯定に興味を持ちました。

「◯◯しないと、将来大変なことになる」という恐怖感ないしは自己暗示から離れて、「もう『大変なこと』は起きてしまったあとなのだ」という諦観を抱きつつ生きていくというのは、傾聴すべきアイデアだと思いました。これは中国語の“躺平(寝そべり)”や、あるいは英語の“Quiet Quitting(静かな退職)”とも通底するマインドなのかもしれません。

思い返せば、私は若い頃に語学業界の末席に連なってからというもの、つねにキリキリと競っていたような気がします。そういう姿勢がそれなりに奏功したこともあったとは思いますし、それを悔いてもいないけれど、自分の凡庸さをじゅうぶんに理解したいまに至ってみれば、あそこまで競わなくてもよかった、あるいはもっと違う心の持ちようがあったのではないかとも感じているのです。

しかし、そういった思考と実践が若いときにはできないというのがまた、凡庸なる者の凡庸たる由縁でして。だから飯田氏のようなお若い方(1989年のお生まれだそうです)が模索するこうした生き方に惹かれるのかしら。……と、突然ですけど、ピーター・シェーファーの有名な戯曲(映画にもなりました)『アマデウス』の幕切れで、老境にいたったサリエリが言うこの台詞を思い出しました。

Mediocrities everywhere - now and to come - I absolve you all. Amen!


凡庸なる全ての人々よーー今いる者も、やがて生まれくる者もーー私はお前たち全てを赦そう。アーメン!(翻訳:江守徹

私は大学生の時にこのお芝居を初めて見て、戯曲も読んだときに、この「赦し」を、老いてようやく自らの凡庸さを抱きしめることができるようになったサリエリの、自己救済の言葉として受け止めました。つまりサリエリは自分で自分を「赦す」ことができるようになったのだと。

その解釈はいまでもあまり変わりませんが、ただ、そこにはかつて感じていたような悲劇性はほとんどなく、むしろ福音とも呼べるようなニュアンスで満たされているような気がするのです。“absolve”はキリスト教的な原罪への赦しという意味があり、その原義はラテン語の“absolvere(解放する・無罪とする)”だそうですし。

「年をとるといろいろ楽になる」というのはホントだなと思います。もっとも「一度死んで、生き直す」のが、そして自分の「すべてをゆるす」のがもっと若いときにできていればそれに越したことはないわけですけど。

マウントフルな人生

「マウントおじさん」という言葉があります。あるいは「マウンティングおじさん」とも言うでしょうか。自分が他人よりも優れていることを見せつけようとする男性のことを指し、とくに、自分の経験や知識や能力などを誇示して、相手を見下ろそうとする行動をとる人がそうカテゴライズされます。

マウンティング(mounting)とはもともと動物行動学の用語だそうで、手元の国語辞書には「サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする」とありました。ここから比喩的に「人間関係の中で、自分の優位性を誇示すること」をも表すようになったわけですね。さらには「マウントを取る」などという言い方もよくされるのはご承知のとおりです。

こうした使い方はいわゆる「和製英語」に属するものだそうですから、英語でこの意味を表そうとしてそのまま“mount”や“mounting”を使うと奇妙な印象を与えそうです。いっぽうで英語の比較的新しい言葉には“mansplaining”があります。“man(男性)”+“explain(説明する)”からの造語で、これも国語辞書によれば(すでにこの言葉が載っています)「男性が女性や年少者に対して、見下した態度で説明する行為」です。

きょうび性別を云々するのはあまり意味がないのかもしれませんが、いずれにしても主に男性がこういうことをやらかすんですね。しかもそこでは「おじさん」、つまり中高年の男性が強くイメージされています。私がまさしくその中高年男性なので、気をつけなきゃいけないなあと思っています。

語学業界というのはこの「マウント」がとても行われやすい環境のようでして、以前このブログにも書いたことがある「威張り系」や「昔取った杵柄系」の方々も、マウントおじさんの一亜種と申し上げてよいでしょう。先日も、とある語学学校の公開講座で話しておりましたところ、講座の内容とはほとんど関係のないところで「◯◯は✕✕ですよね」、「他にも△△という言い方がありますよね」としきりにご自分の知識を披露してマウントを取ってこられようとする中高年男性に遭遇しました。

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通訳者をしていたころも、シンポジウムなどの質疑応答の時間になるときまって「質疑」ではなく「マウント」あるいはご自分の考えを延々と開陳され(その結果、質疑応答の時間を大幅に消費してしまう)る御仁が出没して、会場の方々はもちろん、通訳者一同も鼻白む……というようなことがよくありました。

なぜ人はマウントを取ろうとするのか。その機微に深く切り込んだ『人生が整うマウンティング大全』を読みました。著者のお名前がマウンティングポリス氏なら、この本が書かれた目的も「『マウンティング地獄』から脱出し、「マウントフルネス」を謳歌するためのノウハウを余すことなくお伝え」することだそうです。


人生が整うマウンティング大全

お読みになればわかると思いますが、全篇これマウントの分析に貫かれている同書は、つまり一種のパロディです。ただ著者のマウンティングポリス氏は徹頭徹尾、マウントという行動を分析しつくすという姿勢から少しもブレることがありません。「(笑)」や「なんちゃって」などで自己ウケなりネタばらしなども行われず、巻末の「おわりに」にいたるまでパロディや諧謔であることを一切明かしません。

そういうマウントネタの数々を最初は爆笑しながら読んでいたのですが、ほどなくときどき冷や汗が流れるようになり、ページによってはかなり悶え苦しむ羽目に陥りました。そう、この本にはまるで自分のことを指摘されているのではないかと思えるネタが多いのです。そう言われてよく考えてみれば、私のこのブログのあの文章もこの文章も、ほとんどマウントではないかと。

そもそもが私的な日記を堂々と公開しちゃうブログというものは(SNS全般がそういうものですが)、その成り立ちからしてかなり「倒錯」した代物なんですよね(はてなブログも、もとは「はてなダイアリー」でした)。きょうのこの文章だって、こんな本を読んでいるオレって面白いだろというマウントである可能性は高い、あ、そういえば上段で書いた「通訳者をしていたころ」というのもマウントかも、英語の“mansplaining”を解説しているくだりも、昨日のYチェアの文章も、その前の『日の名残り』も……そう考えはじめると、もはやネット上では何も書けなくなってしまいまいそうです。

マウンティングポリス氏に指摘されるまでもなく、自分もすでにしてマウントフルな人生を送っているのでありました。

台湾は三分の一が……

『天下雜誌』のポッドキャストを聞いていたら、艾爾科技(L Labs)CEOの林宜敬氏がこんなことをおっしゃっていました。

我一直認為說台灣的文化基本上是三分之一中華文化、三分之一日本文化、三分之一的美國文化。只是我們台灣人自己可能不覺得,但是像我這樣經常在國外這樣到處跑的,我就會很深的感受,其實台灣就是這三種文化的融合。


私はつねづね、台湾の文化は基本的に三分の一が中国文化、三分の一が日本文化、三分の一がアメリカ文化だと考えています。台湾人自身は気づいていないかもしれませんが、海外へよく行く私のような人間にとっては、台湾は実は三つの文化が融合した国なのだとしみじみ感じられるのです。



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私は華人ではありませんので、国家や政体についてどうこう、ましてやどうあるべきかということには踏み込みません。ただ、林氏がおっしゃっていることはとてもよくわかる気がしました。私自身、仕事や旅行などでつねづね似たようなことを感じていたからです。

もちろんこれは基本的には台湾の都会の、それもいわゆる“知識分子(インテリ)”と呼ばれるような人たちを取り巻く文化や環境については、というただし書きがつきます。それにひとくちに文化といっても、中国も日本もアメリカも多様ですから、これは林氏のフィールドであるビジネスにおける文化や環境について、とさらに範囲を限定すべきかもしれません。

ただ、先日ご紹介した台湾発の大学生限定SNS“Dcard(狄卡)”のYoutubeチャンネル“Dcard Video”に登場するお若い方々の発言や振る舞いなどを見ていても、また自分の職場で出会う台湾人留学生に接していても、同じような感覚を抱くことがあります。それで林氏の発言を聞き、あらためて自分の感覚を再確認したというわけです。

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台湾の長く複雑な歴史を雑駁にまとめて語ることはしたくありませんが、少なくとも近代以降の歩みとしては半世紀にわたる日本統治時代、その後の国民党政府時代、さらに1970年代における国連からの「追放」にともなう日米との断交……と、ここまででもかなり特殊な歴史がありました。

その後台湾が「国際的な孤児」となりながらも懸命に独自の模索を続け、アジアで最も民主的な国となった*1ことはご承知のとおりです。そんな台湾が経てきた歴史ならではの「三つの文化の融合」という自己認識には、それなりに説得力があります。

もっとも日本人の私としては、そんな台湾に日本文化が三分の一も寄与していると言われるのは、植民地統治の歴史も踏まえればかなり忸怩たる思いがありますし、むしろ日本があちらの文化なりビジネスのやり方なりに学ぶところも多いのではないかと思うことがありますが。

林氏は、だから台湾人はビジネスにおいて、日本人の考え方もアメリカ人の考え方もよく分かっている、それが我々のアドバンテージだとおっしゃりたいのでしょう。ここから私たちがくみ取るべきは、では日本人は台湾人の考え方やアメリカ人の考え方、さらに加えていえば華人といってもこれまた異なる中国人*2の考え方をも理解する努力をしているだろうか、ということになろうかと思います。

*1:イギリス『Economist』誌の調査部門Economist Intelligence Unit(EIU)による最新の民主主義指数(Democracy Index)で台湾は10位になっています(日本は16位、アメリカは29位)。

*2:「中国人」とはそもどんなカテゴリーなのかを語りだすとキリがないので、ここでは雑駁さを承知で中華人民共和国の人々、なかんずくその政府やビジネスパーソンと限定しておきます。「日本人」や「アメリカ人」についても同様です。

FOMO

台湾発のSNSで、基本的には大学生専用のプラットフォームとして人気のある「Dcard」(日本でも「Dtto」という名前でサービスが提供されています)。そのDcardのYoutubeチャンネル「Dcard Video」*1の動画で「FOMO」という言葉を知りました(14:00〜)。


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FOMOは“fear of missing out(取り残されることへの恐れ)”の略で、ウィキペディアにはこんな解説が載っていました。

「自分が居ない間に他人が有益な体験をしているかもしれない」、と言う不安に襲われることを指す言葉である。 また、「自分が知らない間に何か楽しいことがあったのではないか」、「大きなニュースを見逃しているのではないか」と気になって落ち着かない状態も指すことから、 「見逃しの恐怖」とも言う。社会的関係がもたらすこの不安は、「他人がやっている事と絶え間なくつながっていたい欲求」と言う点で特徴づけられる。
FOMO - Wikipedia

もう20年以上も前からある言葉らしいので、いまさらながらに知って己の不明を恥じているところです。これはまさにSNSに耽溺していた頃の私をそのまま表しているような言葉だと思いました。ここ数年の間に私はSNSのような「常につながる」状態の仕組みから降り続けて今に至っていますが、それはそのままFOMOを乗り越えるための努力だったと言えるのかもしれません。

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FOMOの対義語で「JOMO(joy of missing out)」という言葉もあるそうです。ネットを検索してみると、ものすごくたくさんの方がFOMOあるいはJOMOについて論じています。私はこうした言葉をまったく知らずにいて、SNSから降りるのにかなりのエネルギーを使いましたが、ここまできちんと言語化された概念をもっとはやく知っていたら……と思ったのでした。

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*1:ちなみにこのチャンネルの動画で繰り広げられている、台湾のお若い方々の華語はとても聴きごたえがあります。

三寶

中国語圏で“三寶(三宝)”という言葉が頭についているB級グルメのメニューがあります。三寶飯とか三寶牛肉麵とか、三種類の具材を盛り合わせてご飯や麺の上にのせました的なもので、三種類が一度に味わえるのでとても豪華で(しかしそこはB級グルメなので、お財布にやさしく)幸せな気分になれます。

街で見かける三寶飯は香港式の焼き物を盛り合わせたものが多いようで、たいていは鶏肉(油雞)、豚肉(叉燒)、鴨肉というかアヒル肉(燒鴨)の三種類がのっています。鶏肉が鹽水雞だったり、いずれかのかわりにソーセージ(臘腸)が入っていたりなどバリエーションもあるでしょうか。店頭のショーウインドウに吊るされた褐色に輝く肉たちが大きな包丁でばんばん切られてご飯にのっけられて……うおお、あと私はそこに煮卵(滷蛋)も加えたい。

三寶、つまり「三つの宝」というのはもともと仏教用語で、仏教徒が崇拝すべき三つの要素、仏(ブッダ)と法(ダルマ)と僧(サンガ)のことなんだそうです。敬虔な仏教徒ほど素食者、つまり肉を食べないベジタリアンであるというのに、あえてのこのネーミングもいい根性をしていますが、まあこれは「三大◯◯」と同義で、要するにいちばんおいしいところを三種類ということなのでしょう。

台北に戻ってきて、台北駅近くの民泊へいったん落ち着いたあと、近くの食堂へ牛肉麺を食べに行きました。ここにはお店イチオシの“三寶牛肉麵”があって、牛肉・牛筋・牛肚(ハチノス)がどっさり乘っています。好きなだけ取っていい高菜漬けも乗せて食べると至福の味です。ここの牛肉麺は、手打ちのうどんみたいなちょっと不規則な形の麺で、これがまたスープによくからんでおいしいんです。特に私はハチノスが大好きで、イタリア料理のトリッパもすばらしいですけど、台湾の滷味や三寶牛肉麵で食べるコレも、それにまさるとも劣らぬ口福です。


maps.app.goo.gl

三宝は仏教だけでなく、日本の神道にも登場します。神様への供え物をのせる台が「三宝(または三方)」と呼ばれるんです。お正月の鏡餅をのせる台としてもおなじみです。私は子供の頃、母親の影響でとある新興宗教の価値観の中で育ち、この宗教は神道系の儀式をベースにしていたので暮らしの中に三宝の存在が当たり前にありました。私自身は大学生の時に自力で洗脳を解いたので、それからは縁のない世界ですが、それでもいまだに「三宝」という文字を見聞きするたびにちょっと複雑な気持ちになります。

item.rakuten.co.jp

あと台湾で“三寶”にはもうひとつ別の意味があります。交通ルールを守らない人々を指す言葉です。もともと「女性・お年寄りの女性と男性」の交通事故が多かったというところから来ているそうで、そののち例えば「酒駕、屁孩、老人」つまり酒に酔っている人、年端のいかない子供(というより行動が幼児的みたいな含意)、お年寄りのように、交通の妨げになる人々という意味合いで使われます。つまり交通事故に遭いやすい「交通弱者」というよりは、交通ルールを守らない、あるいは交通ルールをよく理解していない「邪魔者」みたいな語感ですよね、たぶん。

三寶という仏教用語を用いて、対象を持ち上げるように見せかけながらその実貶めているという一種の言葉遊びみたいなものなんですが、だいたい言葉のもともとの発祥からしミソジニーの気が濃厚ですし、現代の感覚からすればもはや差別用語ですので、我たち外国人は使わないほうが無難だと思います。

中熱拿

久しぶりに台北へやってきて、たまたま利用したコーヒースタンドで、常連さんとおぼしき男性がお店に入ってくるなりひとこと“中熱拿”と言っていました。Mサイズのホットのカフェラテ。直前に私も偶然同じものを注文して飲んでいたのですが、私は“熱拿鐵中杯(ホットのカフェラテをMサイズで)”と注文していました。

ネットでダブルクォーテーションマーク(“”)を使ってフレーズ検索してみると、“中熱拿”のようにまずカップのサイズ、それからホットかアイスの別、最後に飲み物の種類の順番で言葉が紡がれることが圧倒的に多いみたいです。つまり“熱中拿”とか“熱拿中”とか“拿熱中”とか“拿中熱”とはまず言わないんですね。

カップのサイズを“中”と略さず“中杯”と言うなら“中杯熱拿”でも“熱拿中杯”でも、さらにラテを“拿”と略さず“拿鐵”と言うなら“中杯熱拿鐵”でも“拿鐵熱中杯”でも“熱中杯拿鐵”でも“熱拿鐵中杯”でも(私はこれでした)でもいいみたいですけど、“中(中杯)”と“熱(熱的)”と“拿(拿鐵)”でシンプルな言い方に徹するとまず“中熱拿”が母語話者的に自然な順番なのかしら。おもしろいです。

そういえば私は“熱拿鐵中杯”と注文してから店員さんにもう一度“中杯還是大杯?(Mサイズ、それともLサイズ?)”と聞き返されました。もちろん私の発音が悪かったからでしょうけど、ひょっとすると母語話者的には(というかコーヒーショップの店員さん的には)まずカップのサイズが最初に来るのが認識しやすい……てなことがあるのかもしれません。

私は日本語で注文する時にも「ホットのカフェラテをMサイズで」と言っています。だから中国語もその順番で言っているだけなのですが、ネイティブの感覚とは違うのかもしれないと思った次第です。次は“中熱拿”と言ってみよう。外国人がネイティブのマネをするのはちょっと「イタい」ところがあるので、そう言ったあと「は?」などと聞き返されたりしたらすごく恥ずかしいですけど。