語学教師の同僚と雑談していて「紙の辞書」の話題になりました。最近の学生さんは紙の辞書を使わないですね、などと話していたところで「ああそうか」となにか妙に腑に落ちるというか、カタンと音を立てて何かが組み変わったような気持ちになりました。紙の辞書を使わないどころではなくて、最近の学生さんにとっては紙の辞書という概念自体がすでに意味をなしていないのではないかと。
十年くらい前までなら、紙の辞書 vs.電子辞書みたいな立て分けにまだ意味がありました。「紙」のほうが一覧性がある、いや検索には「電子」が便利だ、持ち運びやすいのは……などと議論なり会話なりが成り立ちました。このブログでも何度かそういう話を書いた覚えがあります。でも2024年の現在に至っては、もはや紙の辞書という言葉自体が死語になってしまったような気がするのです。
いま私が担当している外国人留学生はちょうど50人です。その50人のうち、紙の辞書を使っている人はゼロです。ひょっとしたら自宅には紙の辞書を持っているという人がいる可能性はありますが、少なくとも学校の現場で紙の辞書を引いている人は皆無という時代になりました。かくいう私だって、職場や自宅に紙の辞書はありますが、引く回数からいえば圧倒的に「物書堂」みたいな辞書アプリか、ネット検索です。
語学の教材、とりわけ通訳や翻訳の教材にはできるだけ新しい話題や事物を取り上げたいという仕事の性質上、紙の辞書を引いてもその語彙がヒットしないという背景もあります。辞書アプリやネット辞書も同様で、これはもう中国語で(私の仕事の場合)直接ネットを検索して、その語彙が入った中国語の前後の文章から意味や概念を推測するという、中中辞典的な使い方で「引いている」ことが多くなり、紙の辞書を引くことがますます少なくなりました。
それでも私は、紙の辞書を引くことに、それも特に語学の初中級者が紙の辞書を引くことには簡単に捨て去ってはいけない大切な何かがあるように思う、思いたい……のですが、もう事ここに至ってしまっては、この現状を押し戻すことはまず不可能なのだろうなと感じています。
デジタルネイティブという言葉が登場してからすでにかなりの年月が経ち、この言葉自体も陳腐化のそしりを免れなくなってきました。iPhoneがこの世に登場したのが2007年、ということは、来年度にはもうiPhoneが最初から世の中にあった時代に生きてきた人たちが、大学や専門学校などに入学してくるのです。
私など、小学生の時は新聞委員で、学級新聞をガリ版(謄写版)で刷った記憶があります。ガリ切りもやりましたし、わら半紙のチリを一枚一枚払ったり、缶入りのインクをヘラで取ってローラーで縦横によく伸ばしたりした身体の記憶があります。
中学生の時は吹奏楽部に所属していて、新しい曲に取り組むときはまず全員で自分のパートの「写譜」をするところから始めました。五線紙に手書きで音符を書き写していくのです。コピー機はありましたが、中坊ごときが使うのは贅沢とたしなめられていました。
高校生の時は生徒会の書紀だったのですが、会報を輪転機で刷る技術に磨きをかけていました。手書きの原稿をまずは細長いドラムが回転する製版機にかけ、出来上がった半透明の版を輪転機のハンドルを回しながら貼りつけ、インクの調子を見ながら試し刷りをくりかえしたものです。
大学生の時に使っていた「ワープロ」は画面が1列が8文字の上下2段、つまり16文字しか液晶画面に表示されないものでした。それでどうやってたくさんのページがあるレポートや芝居の戯曲を作っていたのか。記憶が曖昧ですが、フォントを明朝体からゴシック体に変えるときには「フロッピーディスク」を入れ替えていたのもこの頃だったかしら。
就職してからだいぶ経った頃ようやく「パソコン」が登場し(「マイコン」は中学生の頃からありましたが)、「インターネット」というものが職場の話題に登り始めたのは30歳を過ぎたあたりだったと思います。そこからでさえ思い返せばちょっと信じられないくらいの大きな変化が起こり続けていまに至っています。
……と、こうやって書き連ねてきましたけど、なんなんでしょうね、この昔語りは、と自分に自分でツッコミを入れたくなります。
ここまで彼我の接してきた環境が違えば、これはもう共通の概念や認識をもとにコミュニケーションが行えていると信じるほうがおかしいのではないかと。私たちは、こと学習方法、勉強の仕方、知識の広げ方……などなど知的活動の作法については己の経験則を振りかざしがちです。でもなんだか「紙の辞書かネット辞書か」とか「紙の本か電子辞書か」とか「手書きか入力か」とか「AIや機械翻訳を使うか否か」とか、そういう論の立て方じたいが、いまの学生さんたちを前にしては不毛なのかもしれません。
いまさらですか、と呆れられるかもしれませんが、あの「紙の辞書」の話をしている途中で、自分の中ではなにか大きな変化が起こった(起こってしまった)ような気がしています。